信長軍団の実践経験と戦い方から見える、信長と軍勢の姿3
●「説明」
信長23歳?
織田信広、謀反 (弘冶2年6月7月?)
信長の腹違いの兄、信広は謀反を決意し、美濃の斎藤義龍と申し合わせた。
「敵が攻め寄せると、いつでも信長は、軽々しく出陣する。そのような時、信弘が出陣すると清州の町中を通る。すると、城の留守番に置かれている佐脇籐左衛門が必ず出てきて接待をするので、次の機会にも必ずいつものように出てくるだろう」
その隙に佐脇を殺害して、城を乗っ取り、合図をするので、美濃勢は川を渡り近くまで攻め込むがよい。
信広も軍勢を出し、味方のふりをして、合戦になったら、信長勢を背後から攻めようと、協議し盟約していた。
信広が敵対行為を開始し、信長と戦い始めてから既に久しい。信長が苦労している時、助けるものは稀であった。このように、信長はただ一人集中攻撃を受ける立場になったけれども、たびたび手柄を立てた屈強の侍衆が七~八百人も肩を並べていたので、合戦に臨んでも一度も不覚をとったことがなかった。
★「見解」
この戦いがいつなのか信長公記には、記載が有りませんが、一般では、弘冶2年とされています。
信長は、ただ一人集中攻撃を受ける立場とあるので、弘冶2年で良いかもしれません。
6月7月頃でしょうか?
だとすると、稲生の戦いの前ですので、最大の苦境です。
清州と熱田以外全てが敵と言って良い状況です。
信広が多数の郡の統治者という記載がないので、小郡の統治者で、一武将であったかも知れません。
唯一の救いは、信広と信行の連携が見られない点です。
信広から見ると連携すると、手柄は信行の物になってしまい、今と変わらない状況です。
連携せずに、信広自身で清州を取りたかったと考えます。
信行よりも早く。
しかし、城に入れて貰えず。謀反がばれたと知った時点で速やかに軍勢を引いていますので、信長軍より少数であったと考えられます。
作戦失敗は、斎藤勢がやる気がなさそうだと、報告から、家中に謀反が有るのだなと信長が感づいたとされています。
これは、信長の情報戦勝ちとも捉えられますが、信広が敵対して久しいとあります。
時期にもよりますが、弘冶二年のこの時期だとすると、周りは総て敵なのですから、城を警備して誰も入れるなという、信長の命令は、情報戦以前の問題に感じます。
●「説明」
信長23歳の時。
稲生の戦い。8月24日
信行軍。柴田勝家・1000。林美作守(道具・みちとも)・700。
信長軍。700弱。
弟、信行との戦いです。
信長の一番、林秀貞、その弟、林美作守、柴田勝家、が三人で信行を盛り立てようと、信長に敵対しました。
「那古野城から見た、信行方の勢力図」。
那古野城は、林秀貞。
東南東の末森は、信行。
北の大脇の城
南西の米野の城
さらに南西の荒子の城
それから、信行は、篠木三郷を力ずくで奪い取ります。
篠木とは、清州と守山の間の守山方面、那古野から見ると北東。
信長は、清州の東南東、清州の北の名塚という所に砦を築いて佐久間盛重を守備に就かせた。
名塚の砦は、那古野より3キロほど北の、現在の庄内緑池公園のあたりでないかと思われる。
名塚の砦を攻略するため?柴田、林が、兵をだし出動してきます。
二十四日、信長も兵をだし、川を渡った所に布陣します。
柴田は、稲生の村はずれの街道を西向きに攻めてくる。
林美作守は、田園地帯(以前名前がでた、深田?)から、北向きに攻めてくる。
稲生と名塚の距離は、1キロほどと思われる。
(稲生の戦いとして有名だが、現在、名塚とは、庄内川の南の地域である。もしかしたら、名塚の戦いの方が正確かもしれない)
(信長は、稲生の村はずれから六・七段(約六五~七六メートル)下がった東の藪際に軍勢を配置したとあるので、稲生と名塚の間?だが、稲生の村はずれなので、やはり稲生の戦いで良いのかもしれない)
午の刻、東南の柴田勢に向かって過半の兵を攻め掛からせます。
散々にもみ合い、柴田は、山田治部左衛門を打ち取ったが、柴田自身も手傷を負って後方へ引いた。
信長勢は、佐々孫介その他、屈強の者どもが討たれ、兵達は信長の前へ逃げて来た。
信長の周囲には、織田勝左衛門、織田信房、森可成(34歳)、ほかに槍持ちの中間衆四十人ほどがいた。
追って来た敵兵の、土田の大原を、信房と可成が、もみ合って首を取ったところへ、双方から掛かり合い戦います。
この時、信長が大声を上げて怒ったのを見て敵方といえどもさすがに身内の者達であったから、信長の威光に恐れて立ち止まり、遂に逃げ崩れていった。
信房の下人で禅門という者が河辺兵四郎を切り倒し「首をお取りくださいと」と言ったが、「今はその時ではない。いくらでも切り倒しておけ」と言って、先へ先へと駆けて行った。
次に、南に向かって林勢に攻め掛かります。
黒田半平と林美作守が長時間にわたって切り合い、半平が左の手を切り落とされて、互いに息を継いでいるところへ、信長が駆けつけ、林美作守の首を取ります。
柴田、林両勢ともおい崩してから、各々が馬に乗って行き後から後から首を取って来た。
信長軍700弱で、打ち取った首、450以上と有りますので、織田軍の突撃具合がうかがえます。
★「見解」
この戦いで私がポイントだと思う点を述べたいと思います。
まずは、勢力範囲です。
南は、清州城と那古野城の距離は6キロほどですが、2、5キロほど南の庄内川より南は、総て敵方です。
東は、名塚の砦まで2キロほどですので、その東の篠木の三郷は敵側です。
北は、岩倉方ですので、3、5キロより北は敵方です。
清州城孤立状態です。
桶狭間の戦いが、信長の窮地として有名ですが、私は、この時の方が窮地ではないかと思うのです。
唯一の救いは、後に敵対する6・7キロほど北の岩倉勢が、この時は、信行との連携が見られない点です。
それにしても、この状況で、信行方と張り合う所から、信長と軍団の士気の高さがうかがえます。
この士気の高さは、理論的に勝てるとか、策が有るからと言ったものではなく、分別のない若者の元気の良さだと考えます。
戦いの様子についてですが、
柴田勢との戦いについて。
逃げる信長勢を追ってきた柴田勢に、信長が大声で怒ったとあります。
リアルな情景描写で面白いなと思います。
何を言ったかは、想像ですが、
「てめーら!調子に乗りやがって、皆殺しにするぞ!コォラァ!」とか?
「恩を仇で返すとは!この恥知らずが!お前ら自分が何をやってるのか分かってるのか!」とか?
こんな感じではないでしょうか?
上司の命令とはいえ主君に立て付いている自覚が有ったのでしょう、柴田勢が引いて行きます。
それを、信房が首も取らずに追撃します。
状況に応じての戦いの様子がうかがえるエピソードですが、軍団一丸となっての士気の高さを感じます。
そして、信房、可成、幹部も敵ともみ合って戦っています。
林勢との戦いでは、林美作守が疲れていたとはいえ、信長自身が槍を持ち、組み伏せて、首を取っています。
戦いになったら、皆一丸となって戦う様子が良くわかります。
この戦いは、各個撃破という信長の作戦勝ちだと言われています。
そこから、信長は作戦重視の知将であると言う者が居ます。
ですが、そこまで画期的な作戦とは、思えません。むしろ普通です。
半分に分けたのであれば、考えるまでもなく分が悪いと誰でも思う気がします。
各個撃破でも、柴田軍より少数、林軍と同数です。
どちらにも、正面からぶつかっています。
むしろ、その両軍と戦って勝った、(一回戦目・二回戦目、両方勝利)信長軍の強さに注目するべきではないかと思うのです。
●「説明」
信長25歳の時。
浮野の戦い。
岩倉方、織田信賢との戦いのとき。
(織田信賢勢、3000。)
(織田信長勢、2000。織田信清勢1000)ウィキペディア参照
正面から攻めると要害に突き当たるので、七月十二日、信長は、三里北(約12キロ)岩倉の背後へ迂回し、足場のよい方向から浮野という所に軍勢を配備し、足軽に攻撃させた。
岩倉方からは、兵三千ほどが悠々と出撃してきて応戦した。午の刻から信長は、南東へ向かって切りかかり、数刻戦って追い崩した。
その日、信長は清州へ軍勢を収め、翌日首実検をした。
屈強な侍の首数、1250以上も有った。
★「見解」
浮野の場所は、私の推測では、一宮市浅野卯ノ木だと考えます。
信長軍の兵数は、信長公記には有りませんので、ウィキペディアを参照させて頂きました。
信長勢2000というのも、昨年、弟信行を謀殺して、林、柴田勢を吸収していますので、私も妥当な兵数だと思います。
織田信清という人は岩倉の北東の犬山城主です。(守山の北)
信清軍の記述は、信長公記には、無いので、ウィキペディアを参照させて頂きました。
信長軍と信清軍が東西から岩倉を挟み撃ちにした感じでしょうか。
軍勢の規模を見ると、三千対三千ですので、一見、信長軍が突出して強いという印象を受けないと思うのですが。
討ち取った首1250以上というのは、敵勢の半数弱です。
清州へ帰って首実検をしたとありますので、これは、信長勢が打ち取った数です。
2000の兵で、1250以上討ち取ったと考えると、恐るべき強さです。
敵を討ち取るには、槍を交えないといけません。
軍勢の突撃具合が良くわかる戦いだと感じます。
この戦いは、桶狭間の戦いの2年前です。
桶狭間の戦いまで、信長の勢力範囲は、岩倉領が増えるだけです。
この2000名が、桶狭間で活躍する者達であると考えて良いと思います。
●「説明」
信長26歳
岩倉城を攻略
永禄二年三月、信長は岩倉へ攻め寄せた。町に放火して城を裸城にし、四方に堅固な鹿垣を二重三重に立て廻して、交替(こうかん=交代)の兵を配備して包囲した。二~三か月近々と陣を据えて、火矢・鉄砲を撃ち込み、様々に手を替えて攻めた。 岩倉方は守りきれないと判断して、城を明け渡し、将兵は散り散りに退却した。
その後、信長は岩倉の城を破壊し、清州の居城に帰陣した。
★「見解」
昨年の浮野合戦より八か月後、信長が城を落としに出向いた戦いです。
浮野の戦いの続きであり、尾張統一の仕上げの戦いといった位置づけです。
後に犬山勢と戦うのですがこの時は、協力関係です。
以外に知られていないと思うのですが、
ほぼ初の包囲戦(微妙な1回目あり?)です。
長期のものは、これが初です。
翌年の桶狭間でも同じことをしていると私は思うのです。
鳴海・大高に対して、五つの砦を築き、包囲戦をします。
今川義元が、救出に来なければ、二城は、落ちていたと考えます。
桶狭間の戦い以前の信長軍の行動について紹介させていただくと共に、私の見解を書かせて頂きました。
★「余談です」
ここまでの戦いで、信長に敵対したが殺されなかった者達をまとめてみます。
林秀貞・柴田勝家(信行方)・織田信広(兄)・織田信次(叔父)・織田信安(岩倉)
信行も一度は許させましたが、2回目は無かった。
許して、信長にそこまでメリット在ったと思えませんが。
結果的には無用な恨みを買う事が無かったので、許して良かったのですが、信長が負けていたら許されたかどうかわかりません。
信長に敵対して、命を取られたのは、信行だけというのは、信長の人の良さを表しているように感じます。
一言で言うと、人が良いと言う事なのですが、真面目で、律儀で、人に気を誓う、これが、私の信長のイメージです。
こんな信長の性格だから、仲間たちに好かれていたと思うのです。
ですが、全てにおいて良い人なんて居ませんから、
十数年後に林や、佐久間にキレるところを見ますと、信長なりに我慢していたのだなと思われるところも見受けられます。
大抵の場合キレる人は、我慢しているものです。
真面目、律儀、人に気を使うと書きましたが、真面目な人は、面倒臭い部分を併せ持っている気がします。
部下たちに、面倒臭い上司だと思われる事もあったのかな、などと考えると、信長の人間味が感じられて、なんだか楽しいなと思います。