信長軍団の実践経験と戦い方から見える、信長と軍勢の姿2
●「説明」
信長21歳の時。
村木砦の戦い
今川の城を信長と信光が攻めた戦いです。
北は、天然の要害、守備兵なし
東は、大手、水野信元の攻め口
西は、搦め手、信光の攻め口
南は、向こう側がはっきり見えないほど大きな空堀を甕の形に掘り下げ、堅固構えである。
信長は、南側の攻めにくい所を引き受けて、兵を配置した。
若武者たちは我劣らじと堀を登り、突き落とされてはまた這い上がる。負傷者・死者の数もわからぬほどであった。
信長自身が采配を振るっているものだから、兵たちは我も我もと攻め登り、塀にに取り付き、突き崩し、また突き崩した。
本陣に帰ってからの記述に、
信長のお小姓衆の歴々も数知れず負傷・討死にし、目も当てられぬ有様だった。
信長は、あいつも死んだか、あいつも死んだかと、部下達の働きや負傷者・死者のこと、あれこれとなく言って、涙を流したのであった。
★「見解」
村木城というのは、今川が知多半島に築いた砦です。
鳴海城の東南の桶狭間から、さらに東南の地域です。
今川勢は、岡崎から軍勢をだして、西の鴫原の城を占拠、更に西の村木とう所に堅固な城を築いて、南の小川の水野忠政の城を目標にした。
村木城の西の寺本の城も、今川に人質を出して味方し、尾張から小川城の道路を遮断した。
小川城の水野忠政から見ると、北側に、東から西に並んで、今川方の、(鴫原城、村木砦、寺本城)があり、その北の(鳴海城、大高城、沓懸城)は、今川方か中立という状況でした。
南で、織田方の水野忠政は、孤立状態であったのです。
小川城攻略の拠点である、村木砦を信長が攻めたのがこの戦いです。
陸路は、敵地で進軍できないので、熱田から船を出し、海を渡って南知多に上陸します。
水野が、信長に救援を求めたのか?
信長が、今川の進行に黙って居られなかったのか?
にしても、よくこの状況で、村木砦を攻めに行ったと思うのです。
孤立状態も良い所ですから、負けたら無事に帰れるかもわからない状況です。
筆頭家老の林兄弟が、不服を言って、帰ってしまうのもうなずけます。
この不服は、「行きたくない」と言ったのでは?と私は思ってしまします。
信長の心境としては、
「この状況で、我らを頼りにするとは、あっぱれ!助けないわけにはいかない」
「今川の奴、調子に乗りやがって、黙って見過ごすわけにはいかない」
と言った感じではないでしょうか?
信長の気持ちの強さ、軍団の士気の高さを感じるのです。
そして、戦い方。
突き落とされては、登り。また突き落とされては、登る。力押しです。
ですが、そこには、一般に言われるような、「厳しい、自分の大志のためだったら、兵はいくら死んでもいい」的な、ものはありません。
やはり、信長が、仲間の事を思い涙する部分が、信長の仲間意識の表れと捉えます。
●「説明」
信長21歳
中市場の合戦
七月十二日守護の若君(岩龍丸・斯波義銀)と、屈強な若侍が全員川漁に出かけている隙に、守護の斯波義統が、織田信友と家臣の坂井大善に奇襲され討ち取られてしまいます。
岩龍丸は、信長を頼り那古野に来ます。
七月十八日、柴田勝家が清州へ出陣した。
清州勢は山王口で応戦したが追いまくられ、乞食村(安食村・あじきむら)で支えようとしたが支えきれない。次いで願願寺前で防いだが、遂に町口の大堀の中へ追い込まれた。
二~三間(約4~6メートル)を隔てて戦ったが、柴田勢の槍は長く、清州勢の槍は短い。次第に突き立てられたが、しかし敵は一歩も引かず、織田三位・川尻左馬丞・以下歴々三十人ほどが討死した。
守護の家来、由宇喜一は、まだ若く十七~八歳だったが、湯帷子姿のまま突き進み、織田三位の首を取った。
信長の賞賛はひとかたならぬものであった。
斯波義統が、信友に反逆を企てたことが、発端ではあるが、守護の義統を討ち取って、七日というのに、関係者は、各々討死してしまった。
★「見解」
この戦いは、清州勢との戦いです。
この記述を、見ますと、30人討ち取ったと書いてあるので、小規模な戦いとも考えられますが、清州の中心人物とされる、織田三位・川尻左馬丞を討ち取っているあたり、それなりに規模が大きかったと思います。
ここでは、三軒半の槍が実戦で使われた記述があります。
戦況左右したような記載です。
確かに効果が有った事は事実と思います。
しかし戦況を変える絶大な効果とまでは、言えないと思います。
一年前にも戦っているので、それ程効果が絶大で有るなら、清州勢も長い槍を用意する時間は十分にあったと考えるのです。
しかし、長い方が良いに決まっているわけですから、効果は有ったと思います。
●「説明」
信長22歳
清州城を乗っ取る
四月十九日織田信光が織田信友を騙して清州城を乗っ取ります。
清州を信長に渡して、信光は那古野を貰います。
●「説明」
信長23歳
守山城包囲 前年12月~3月の間?
守山の城は、織田信次の家老が采配して守っていた。
信行方からは、柴田勝家・津々木蔵人を大将として、木が先口に軍勢を配備した。
信長方からは、飯尾定宗・その子尚清、その他の諸勢を派遣して、しっかりと包囲し、守山城を封鎖さいておいた。
信時を城主とすることで、一見落着します。
●「説明」
信長23歳の時
および河原の戦い(仮名)弘冶2年4月20日
斎藤道三が、長男の義龍に敵対した戦いに、信長が、援軍に駆け付けた戦い。
信長は、木曽川を渡り大良の戸島東蔵坊の砦に進出して陣を構えた。
(現在の羽島市の大浦であると言われています)
道三を打ち取った義龍は、信長の陣所がある大良方面へ軍勢を出した。
信長も大浦から、三十町(3・3キロ)ばかり出撃し、および河原で敵と遭遇した。足軽合戦となって、山口取手介が討死、土方彦三郎が討死、森可成は、千石又一と渡り合い、馬上で切り合って、可成が膝近くを切られて引き下がった。
道三の討死の報告を聞いた信長勢は、大良の本陣まで引きます。
本国尾張に撤退しようとするのですが、大河(木曽川)を隔てているので、兵員・牛馬をすべて後方へ退却させ、「殿は信長が務める」と言って、全軍に川を越えさせた。
信長の乗る船一艘だけ残しておき、他の兵たちが川渡ったとき、義龍方の騎馬武者が何人か川端まで駆けて来た。その時、信長が鉄砲を撃たせたので、敵はそれより近くへは、攻めてこなかった。それで信長も船に乗り、川をこした。
★「見解」
および河原の戦いと、仮に名前を付けさせて頂きましたが、羽島市の西、大浦の北にある、川が有ります。(羽島市にある川)
その川の南に、(大浦の北)、羽島群笠松町北及という土地があるので、その川の南の河原で合戦になったと考えました。
この戦いで、私が注目する点は。
道三の討死の報を聞いて、軍を引きますが、合戦しています。
戦い方は、進軍していき敵を見つけて合戦です。
記載には、戦死者は、名前の記載の有る者2名ですが、実際の戦死者は、もっといたこと思います。
どの程度の合戦規模かわかりませんが、速やかに軍を引いたので、相手も深追いして来なかったのではと思います。
確かに、信長が情報を効率よく使ったとも取れますが、普通かなと思います。
道三との連絡役は居たでしょうし、敵方も声を大にして道三討死を話して来るはずです。敵は成るべく楽に追い返したいわけですから。
もう一点、注目点です。
木曽川の引き際の信長の行動です。
信長は、「殿を自ら引き受けて」全軍を引かせて、最後の一艘に乗って撤退する点です。
信長の仲間たちからしたら、頼もしい大将である事は間違いありません。
いの一番に撤退する大将ではないのですから。
それは、仲間思い、自分の立場、格好つけたい気持ち、だと思います。
あと、私の思う信長像なのですが、現場で指揮したい、人に任せられないというか、失敗できない状況こそ自分で指揮した方がいいという、性格からではないでしょうか。
次に述べるのは、余談で、フィクションのいきですが、
「信長は、道三討死は誤報ではないか?最後まで残って確かめたい、心残りがあった」
「義父殿・・本当に討ち取られてしまったのか・・・」
というのは、どうでしょう?
自分で書いてなんですが、これは無いかな・・・と思いますが・・・。
ですが、義龍からしたら、誤報を流して、援軍を引かして稲葉山城の北に居たであろう道三を討つと言う策も有るのですから。
味方の少ない信長にしたら、道三の後ろ盾は、有り難かったと思います。
それに、自分の妻の父親です。
そんな義父が、窮地の時に自分を頼ってきたのです。
ここ一番で頼りにされた若者の心境としては、相手の気持ちに応えたい。助けたい、ここまで来て助けられなかったのは残念だ、誤報であってほしい。
帰って嫁に無事に助けたぞと言いたかった。
という気持が有ったと考えると面白いなと思います。
●「説明」
信長23歳
岩倉領の焼き討ち 5月?
岩倉の織田信安が、斎藤義龍と示し合わせて、信長に敵対します。
信安勢は、清州の近く信長領の下の郷という村を焼き討ちします。
信長は、腹立たしく思い、ただちに岩倉方面へ軍勢をだして、知行地を焼き払、その日のうちに兵を引き揚げます。
★「見解」
「やられたら、やり返す」と言った感じです。
腹が立ったからやり返した、と信長公記に書いてあるのがなんだか、面白く感じます。
政治交渉とかやらないあたりが、さすが23歳の若者です。
●「説明」
信長23歳
たん原野の戦い(仮名)5月?
織田信安、3000名
織田信長、騎兵八十三、足軽、町人。
清州の隣、三十町隔てた下津の郷の正眼寺は、要害の地に有った。
そこを岩倉勢が、砦に改造する、と風説があった。
そこで信長は、「清州の町人たちを召集し、正眼寺の藪を切り払ってしまおう」と指示して軍勢を出動させた。
町人達が数えてみたら、騎馬の武士は八十三騎ぐらいではなかったかという事である。
岩倉方も軍勢を出し、たん原野に三千ばかりの兵を配置した。その時、信長は諸方を駆け回って町人達を集め、これに竹槍を持たせて後方をなんとか取りつくろい、足軽を出撃して敵をあしらった。そして互いに兵を引いた。
★「見解」
清州から北北東の、岩倉の城までは、およそ7キロ弱。
清州から北の、下津の寺は、およそ中間と思われる。
岩倉勢3000に対して、信長勢の数の記載がありません。
私は、全軍800までは居なくても、500人程度は居たのではないかと考えます。
この数は想像ですが、信長が町人を集めて竹槍を持たせているあたり、相手方の数が圧倒的に多いのは、想像できます。
数だけで言うと、桶狭間と比べられないほど劣勢ですが、
大規模になった記述が無いので、早々に両軍引いたかんじです。
岩倉方は、急な事だったので、心つもりが無かったからではないかと考えます。
ですが、信長は、攻撃を仕掛けています。
こちらが劣性でも、迎え撃つのではなくやはり攻めるのです。
なぜか?
データとして数字だけで見たら理解できないので、そこに皆、信長の奇抜性、独創性、天才、など理由を付けたいのかなと思います。
ですが、私が思うには、やはり元気が良かったと思うのです。