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戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
桶狭間の戦いの勝因とは何か? 「桶狭間の戦いまでの信長軍団の姿と勝因」
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信長軍団の実践経験と戦い方から見える、信長と軍勢の姿1

「信長軍団の実戦経験と戦い方から見える信長と軍勢の姿」

 


私は、この800人が強いと考えます。

桶狭間の勝因にも繋がるのですが、

それは、実戦経験です。

桶狭間の戦いまでの、信長軍の行動を一覧するとこのようなものです。



信長の年齢。

19歳 赤塚の戦い

19歳 海津の戦い

19歳 清州の焼き討ち

20歳 斎藤道三との会見

21歳 村木砦の攻城戦

21歳 中市場の戦い

23歳 守山城包囲

23歳 および河原の戦い

23歳 岩倉領の焼き討ち

23歳 たん原野の戦い

23歳 信広の謀反

23歳 稲生の戦い

25歳 浮野の戦い

26歳 岩倉城の攻城戦


ほぼ全軍で、雌雄を決し戦ったと考えられるもの、5回

赤塚の戦い・海津の戦い・村木砦の攻城戦・稲生の戦い・浮野の戦い


全軍で無いと思われるものと、全軍でも小規模な戦い、4回

中市場の戦い・および河原の戦い・たん原野の戦い・岩倉城の攻城戦


焼き討ち、2回

清州の焼き討ち・岩倉領の焼き討ち


パレード・包囲のみ、出撃のみ、3回

斎藤道三と会見・守山城の包囲・信広の謀反


 それと、もう一点、戦い方です。

 信長軍が、桶狭間の戦いまでに、どんな戦い方をしているのかです。

 

 

 それでは、桶狭間の戦いまでに、

信長とその軍勢800名が、どんな戦いを経験したのか?

そして、どんな戦い方をしたのか?

私の見解を書いて行きたいと思います。


「注」

●印は、信長公記を元に記載した説明です。

ご存じの方や、読むのが大変だと感じられる方は、とばして頂いてもかまいませんが、兵数や、討死の数を主に見て頂ければ、私の見解が解りやすいかなと思います。

★印は、その戦いについて、私の見解を書かせて頂きました。

 

 ●「説明」

信長19歳。

 赤塚の戦い。

 山口教吉・兵、1500

 織田信長・兵、800

鳴海城主、山口教継のりつぐが、今川に寝返った事に対応して、信長が仕掛けた戦いです。

教継の子、教吉のりよし20歳、が軍勢1500ほどを連れて、出陣してきます。

鳴海城より、十伍・六町(1・7キロ)北の赤塚の郷に先発隊を出陣させます。

赤塚の郷よし、十五町(1・6キロ)ほど、西の三の山に居た信長は、それを見て、ただちに軍勢を赤塚に出撃させます。

敵味方の距離五~六間と迫った時、優れた射手たちが互いに矢を放った。

矢戦の後、の刻よりうまの刻(およそ、午前10時から正午ごろ)まで乱戦、打ち合っては退き、また負けじ劣らじと攻めかかり、打ち合った。

入り乱れ、花火を散らしての戦いは、四~伍間(約7~9メートル)を隔てて向かい合い、数時間つづいた。

敵味方の距離があまりに近かったので、双方とも、打ち取った敵の首を取ることもできなかった。

敵味方とも、顔見知りの間柄なので、互いに気を抜くことは無かった。

馬を下りて戦ったので、馬どもはみな敵陣へ駈け込んでしまったが、戦いが終わってから、少しの間違いもなく返し合った。生け捕りにした兵も交換した。

信長方で、討死した者は、30人に及んだ。


★「見解」

山口教吉勢1500に対して信長が、800で攻めた合戦です。

顔見知りで、馬を間違いなく返し合う間柄ですので、信長は、鳴海の軍勢が、どの程度居るのか、ある程度把握していたと考えてよいと思います。

私の注目する点は、

信長軍が、鳴海まで戦いに赴いている点です。

守るのであれば、仕方なくという事も考えられますが、攻めに行っているのですから、やる気が有ると思うのです。

それと、三の山から赤塚の敵を見るや、迷うことなく出陣している点と、倍近い兵力差で引き分けている点です。

その点から、私は信長軍の士気が高くて強かったと考えます。


 ●「説明」

信長19歳

海津の戦い    現在の萱津かやづ

清州当主の、織田信友の重心、坂井大善が、信長方の松葉城、深田城を襲撃して占拠した。

それに対して信長は、那古野城から兵を連れ、守山城主、信光(37歳)の軍と合流。

三方面へ部隊を分けて攻めさせた。

1、海津(萱津)(清州方面)・2、松葉口(松葉城方面)・3、三本木口(深田城方面)

信長は、信光と、一緒に海津口へ攻め寄せた。

1、海津では、数時間花火を散らして戦った。

敵方の家老の、坂井カン介、は、中条家忠と、柴田勝家(31歳)が、一緒に打ち取った。その他、名前の記載の有る者7名、以下歴々50騎ほど打ち取った。

2、松葉口では、数時間の矢戦で、敵方が、負傷者が多く出て、無人になって引き上げようとするところ、名前の記載のある3名を打ち取った。

3、三本木口では、敵方を即時に攻め崩し、名前の記載の有る者2名、その他、屈強の武士30人余りを打ち取った。

そして松葉城、深田城に、信長の軍勢が攻め寄せると、敵は降参して清州へ撤退した。

村井重頼覚書によると、前田利家(15歳)は、この戦いが初陣で、首級一つを挙げたとの事。


 ★「見解」

地理的には、

那古野城の北東に深田、南西に松葉、北西に海津、更に北西に清州城と言った感じだと考えます。

(那古野城から、清州城を直線で捉えた時に、(間に海津)(右に深田)(左に松葉)

 

深田城と松葉城が占拠された、次の日には、信長は、軍勢を出して、その三方を攻めます。

次の日ですので、即時決断であると考えます。

信長とその軍勢には、籠城や、様子見などは、発想に無いという、空気があったと思うのです。

 籠城や、様子見ではなく、「取られたら取り返す!」

これが、信長とその軍勢の姿であると思うのです。

 血気盛んな若者達の発想としては、とても自然なものではないかと私は感じます。


そして、三方全てで勝って居ます。

 私は、信長の軍勢は、士気が高くて強かったと考えます。

 信長、信光、連合軍の方が、清州勢より兵が多かったのでは?という推測も出来るのですが、私は、同数、もしくは信長軍の方が少数であったのではないかと考えます。

 清州方は、信長の戦いを仕掛けられて追い詰められていたわけでは、有りません。

 勝てると思って進攻してきたと考えると、信長方より兵が少ないと言うのは、考えにくいと思います。

 赤塚の戦い、山口軍1500。

稲生の戦い、信行軍1000、林軍800。

 浮野の戦い、岩倉勢3000。

 那古野城の留守番、斎藤勢、1000。

 から、推測するに、

 清州の軍勢2000、VS、信長軍800、信光軍800。

 と言った感じと考えます。

 清州方からすると、占領した次の日に取り返されてしまうという間抜けな話なのですが、初めからそれが予想出来たら、深田、松葉を占領しないと思うのです。

 信長勢の方が少ないと考えるのですが、同数とします。

 敵が三方に居るのに対して信長は、軍勢を三方に分けています。

 これは、自信のある、元気の良い軍の戦い方です。

 そこに、策は有りません。

 兵の総数が同じで、敵が分散しているのであれば、全軍で、各個撃破していく方が、確実です。

 三方向で勝って居るところから、信長軍は、士気が高くて勢いがあって強かったと思うのです。


 ●「説明」

 信長19歳

 清州城下の焼き討ち

 清州城内に居た尾張の守護の家臣の簗田やなだ弥次右衛門の手引きで、軍勢を清州へ攻め込ませ、町を焼き払い、城をはだか城にしてしまった。

 信長自身も出馬したが、城は堅固で、さらに尾張の守護が城内にいることもあって、遂に軍勢を撤収させた。


 ●「説明」

信長20歳の時。

斎藤道三との会見。

信長が、派手な格好で馬に乗り。

お供の衆を七~八百人ほど、ずらっと並べ、三軒半の朱槍500本、弓・鉄砲五百丁を持たせ、元気な足軽を行列の前に走らせた。

生まれて初めて髪を折り曲げ(おりわげ)に結い、いつ染めておいたか知る人も居ない褐色の長袴をはき、これも人に知らず拵えておいた小刀をさした。

この身支度を家中の人々は見て、「さては、近頃の阿呆ぶりは、わざと装っていたのだな」と肝をつぶし、誰もが次第に事情を了解した。

信長は御堂へするすると出た。縁の上り口に春日丹後・堀田道空が出迎えて、「お早くおいでなさいませ」と言ったが、信長は知らん顔、、諸侍が居並ぶ前をすいすいと通り抜け、縁の柱に寄りかかった。

しばらくして、屏風をおしのけて道三が出てきた。それでも、知らん顔していたので、堀田道空が近づき「こちらが山城守殿でございます」と言うと、「お出になったか」と言って屋敷の中に入り、道三に挨拶をして、そのまま座敷に坐った(すわった)

道三が帰るのを、信長は二十町ほど見送った。

 

 ★「見解」

この会見から見える、信長の人となりにについて、見解を書かせて頂きます。

姑殿と会うのに、正装を用意しておくあたり、信長の気づかいが伺えます。

失礼があってはいけないと言った感じでしょうか。

ですが、素直に部屋に入りません。

道三が、既に待っていたのか?他の部屋から出て来たのか?にしても、

道三が来ても知らん顔。

ですが、初めて彼女のお父さんに会うときは、誰でもいささか緊張するものです。

愛想のない人だったら困るなとか、漠然とした不安。

それに信長は、まだ若いので、あまりへりくだるのも格好悪いなとか、思ったかもしれません。

一見、無視したように、書かれているので、俺様的に解釈されることが多いですが、皆が初めて見るような正装を用意しているくらいです。

わざと失礼にしたというより、どうしていいかわからない、若者の姿に感じます。

そして、2・2キロほど見送ります。これも、年長者に対する礼儀の表れと捉えます。

このエピソードは、信長の人間味が感じられて、面白いなと思います。


余談では、ありますが、信長の少年時代は、元気で素直な子では無かったかなと私は、考えて居ます。

読み書きは、出来るので、礼儀作法も学んでいるはずです。

思春期に、爆発するのですが、基本的には真面目な性格のように感じます。

信長に敵対する勢力は、働き盛りの15歳ほど年上、林秀貞も35歳から40歳位と考えられる。(林の三男の勝吉が山内一豊と旧知の間柄から推測)

信長が爆発していても、大人は、少年の時の素直な信長のイメージを持っていますので、土地の長老たちは、大目に見られていたのでは無いかと私は思うのです。




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