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戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
桶狭間の戦いの勝因とは何か? 「桶狭間の戦いまでの信長軍団の姿と勝因」
4/22

私の考える勝因  信長と兵士たち2

信長の仲間意識(仲間思い)という事についてですが、


信長の好きだった、小唄です。

「死のふは一定、忍び草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの」

 この歌の解釈として一般的には、

「死は必ず訪れる。死後、私を思い出して貰うために何をしようか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう」

 信長の歌という解釈では、

「死は必ず訪れる定め(運命・宿命)。死後も語り継いでもらうために、自分の生きた証に、どんな功績を残そうか、きっとその功績・生き様を語り継いでくれるだろう」

これは、信長の志し、覚悟として解釈されていて、私も好きですしそういう意味合いもあったと思うのですが、私の解釈は、少し違います。


「死のふは一定」=死という定め。人は、必ず死ぬ。(この言葉の裏には、人はいつか必ず死ぬのだ、悔しい、悲しいが、仕方がない。という意味合いが有るように思います)

「忍び草には何をしよぞ」=故人を偲び追悼する気持ちを粗品にかえて、には何をしよう。(弔いに何をしよう)

「一定かたりおこすよの」=必ず語り起こす。語り起こす事は決まっている。(絶対に忘れない)


「悔しい事だが人は死ぬものだ、あいつらの弔いに何をしてやろうか、必ず思い出を語ってやろう」


要約しますと、

「死んでいった者達、お前たちの事は、絶対に忘れない」

 これが、信長がこの歌に込めた思いだったように思います

 

私は、この歌に仲間たちへの思いが詰まっているように感じます。

 それは、信長の家臣たちへの仲間意識、仲間思い、に他ならないと思うのです。

 家臣たちからすると、死んだ奴の事を少しも思い出してくれない大将では、命を賭ける価値が有りません。

 信長公記に、「合戦が終わって、陣に帰った信長は、部下の働きや、傷ついた者・死んだ者の事を、色々と話して、涙を流した」とあります。

 家臣もそんな信長の姿を見ているからこそ、命が賭けられるのだと思います。

 この「忍び草」といわれる小唄には、そんな信長の仲間への思いが有ると私は、思うのです。



 信長公記の中で「若者ならでは」と私が思う話を2つ紹介したいと思います。


信長20歳の時。

斎藤道三との会見。

「その時の信長の出で立ちは、髪は茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立て、湯帷子を袖脱ぎにし、飾り付の太刀・脇差二つとも長い柄を藁縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰の周りには猿回しのように火打ち袋、瓢箪七つ八つほどをぶらさげ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはいた。」

「お供の衆を七~八百人ほど、ずらっと並べ、三軒半の朱槍500本、弓・鉄砲五百丁を持たせ、元気な足軽を行列の前に走らせた。」


 このエピソードは、とても有名で、信長のドラマでは、必ずと言って良いほど描かれる場面です。

一般的には、信長のファッションから、奇抜性、独創性、単に信長のうつけ振りを現すもの、として書かれている物が、ほぼ全てと言って良いのではないでしょうか?

実際にそういう捉え方をされている方は多いように思います。


ですが私は、この一節は、とても重要で、当時の信長軍団のイメージをとても良く表している資料であると考えます。

まず、信長のファッションです。

 確かに、奇抜なファッションですが、現在で言うなら高校卒業したての若者です。

 40歳、50歳になってこの格好であったなら、奇抜性、独創性、うつけ、であると思うのですが、20歳前の若者です。

 そこまで、変わった思考の持ち主という事にはならないと感じます。

 確かに、当時は、折り目正しいことが良いことで有ると言われていたので、信長は、うつけと呼ばれていた、とあります。

 これは、大人たちの意見ではないでしょうか?

 大人たちから見たら(理解できないもの)、何だあの格好は?馬鹿者ではないか?

 という意見が有って当然です。

 現在でも普通に有りそうな話です。髪の毛を金髪にしたら、怒られた。車のマフラーを変えたら、怒られた。アニメキャラクターのイタ車なんてのは、良い例かもしれませんね。

 少し前の時代だと高校生のファッションも、短ラン、長ラン、ボンタンズボン、ラッパズボン、ハイネック、ギャル男などがありました。

 女子でも、ソバージュ金髪、紫の口紅、引きずるロングスカート、超ミニ、ルーズソックス、厚底ブーツ、ギャル、ヤマンバ、などでしょうか。


ここで、重要なポイントは、お供の者・7・8百人は、どう思って居たのかです。

 俺たちの大将は、変な格好をして、大ばか者だなと思って居た、という事は決して無いと思うのです。

 「格好いいぜ!憧れる!」という者も居れば、「大将は、派手な格好が好きなんだな」程度の感じではないでしょうか?

 同世代の若者が集まると起こる現象に、目立った方が格好いいという事が有ります。

 現代の中学校、高校、でもクラスに1人や2人くらいは、必ず奇抜なファッションで、眼立つ子が居るものです。

 信長の奇抜なファッションをこのような、視点から見ると、いけない格好ではなく、若者たちの中の流行であって、格好良いだろと言った感じだと思います。

それは、信長が同世代の若者達の中に居た(囲まれていた)裏付けになると考えるのです。


お供の衆について実際はどうだったのか?。

ドラマでは、派手な信長が、馬にまたがり、その周りをいかにも足軽と言った感じの地味な兵士が行進していきます。

ドラマですから、信長を強調する演出ではあると思うのですが、実際は、結構派手な行列だったのではないかと思うのです

その理由として考えるのは、やはり信長のファッションです。

 

 信長は、確かにかなり派手です。

 こんなに派手なのは、周りに派手な仲間が、多かった裏付けであると思うのです。

 自分が大将なのですから、派手で元気のいい若者の集団に居たら、自分が一番目立たないと、格好がつきません。

 そして、派手の中にバカっぽさがあります。

 このバカっぽさは、若者の集団の中から生まれてくる物に感じるのです。

虎皮の袴をはいて、眼立っている奴が居たら、だったら、俺は、豹皮も加えて四色にそめてやる。どうだ!とか。

 瓢箪3つもぶら下げている奴が居たら、俺は、7つだ!とか。

 バカっぽいですが、これが若者です。

 最近の学生は皆、折り目正しく見えるのですが、昔は、下駄の底が高い方が格好良いとか、ラッパズボンのすそが、広い方が良いとか、ボンタンの幅が広い方が良いとか、人よりも高く広くと言った感じです。

バカっぽいですが、これが若者の価値観です。

 その下駄やズボン、歩きづらいだろ。というのと、ひょうたん7つ8つって歩きづらいだろと同じ感じかして面白いなと思います。

 信長が、一人で独創的に派手だった、と考えるよりも、信長も含めた派手な若者達の中で培われた価値観によって、信長も派手であったと考える方が自然であると感じます。


この様に、考えますと、お供の者達は、ドラマで書かれるような、如何にも足軽と言った感じの地味な行列ではなく、思い思いにオシャレをしている若者達であったと思うのです。

 思春期の若者達であるので、当然と言えば当然の話なのですが。

 

 そして、この7・8百人の者たちが信長と共に尾張統一を果たしていくのですが。

 何故、尾張統一をする力が有ったのか?

 それも、やはり信長の派手な格好から読み解けると考えます。

 

元気が良い若者は、派手。おとなしい若者は、地味。です。

実際に戦場での槍働きには、どちらも働きに差は、有りませんが、集団全体のテンションには、元気の良い若者たちが影響すると考えるからです。

派手な若者に、派手な若者が集まって居ても違和感を感じませんが、

地味な若者に、派手な若者が集まって居ると違和感を感じます。裏で金でも貰っているんじゃないのかと思ってしまします。

要するに、派手な信長の元には活気ある若者たちが集まりやすかったと考えるのです。

行動的ですし、テンションも高い。戦いになっても、やってやろうじゃないかという空気が出来上がります。

これが、斎藤道三との会見の一節から、見えてくる信長軍団のイメージです。



26歳の時、京都へ80人程をお供に出かけます。

「信長は、このたびの上洛こそ晴れ舞台と意気ごんで、装いを凝らし、金銀飾りの大刀を誇らかに差した。お供の衆も皆金銀飾りの刀であった。」

私は、この一説に若者らしさを感じます。

京の町へ出かけるという事で、皆オシャレして行ったのでしょう。

そして、その時、美濃の国から、信長の命を狙う30人程が京へやってくるわけですが、美濃衆と旅路で偶然一緒になった丹羽兵蔵の知らせで、信長は情報を得ます。そして小川表でその美濃衆に会うと、

「お前たちは、この上総介を打つために上洛したと聞いたぞ!未熟者の分際で俺を付け狙うとは、かまきりが鎌を振り上げて馬車に立ち向かうようなものだ!出来るものか!それとも、ここでやってみるか!」

 信長は、タンカを切っています。

 これに対して、京の町衆は二通り評した。

「一城の主の言葉には、似つかわしくない」と言う者もいた。また

「若い人にはふさわしい」と言う者もいた。

私は、この信長のタンカが、信長の精鋭たちのイメージだと考えます。

 確かに信長個人の感情でも有ったと思うのですが、供の者達も見ているのです。

 格好いい所を見せようと言う気持ちも有ったのではないでしょうか。

 このタンカの格好良さは、若者特有の格好良さです。



色々と若者と性質について書きましたが、

こんな、若者たちの集団にいたら、

「織田家への忠誠とか良くわからないけど、信長殿と共に戦うぜ!戦に成ったらガンガンいく!それがカッコいいんだよ!」

と言う価値観だったと思うのです。

若者は、あまり考えずに無鉄砲です。この無鉄砲さが勝因の大きな要素だと考えます


1 信長の元に集まる若者の自主性。

2 若者の何も考えず、突っ走る無鉄砲さと、がむしゃらな情熱、

3 信長や、司令官と一兵卒のやる気の共有化、規律で縛った軍隊というより、皆仲間という意識。


これが、私の考える、信長の連れていた、精鋭のイメージです。

信長の年齢、置かれた状況、そこに集う若者達、それらの要素が相関仕合って、当時の信長軍が出来ていると考えます。


思いつくままに書かせて頂きましたので、読みづらい点、申し訳ありません。

信長と兵士について全体のイメージが伝われば幸いです。




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