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戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
桶狭間の戦いの勝因とは何か? 「桶狭間の戦いまでの信長軍団の姿と勝因」
3/22

私の考える勝因  信長と兵士たち1

「私の考える桶狭間の戦いの勝因」



「私の考える勝因は、信長の軍隊の強さです」


一般的な定説では、兵農分離の兵だったから強かったと言われます。

これは、全項目で、述べた数々の勝因の中でも、一般的に一番注目されている物です。

確かに結果的に織田軍が勝ちます。

勝った織田軍を見てみると、兵農分離の兵、専門軍人だったのです。

単純に専門軍人だったから、勝ったと言ってしまうのは、短絡的である気がします。

今川軍の本隊にも多数の専門軍人が居たでしょうし、武田家、北条家、でも専門軍人の部隊が、有ったと考えるのが普通です。

織田軍の桶狭間山に突撃した、2000人の兵が、専門軍人だと考えても、今川家、北条家、武田家などと比べても、2000人という専門軍人の数が特化して、多い数とは、思えないのです。

たとえ、専門軍人であっても、圧倒的に強いとは言えないという事です。

人で有るのですから、槍を持って向かえばそこに大差は無いと考えます。

百姓一揆は、農民ですし、打ち取られた専門軍人部隊も有ります。

徳川を二度破った、真田家で活躍した、足軽、足軽大将は、みな農民でした。

重複しますが、勝った織田軍をみて、専門軍人の部隊で有ったので、それが勝因だと言ってしまうには、短絡的であると言いたいのです。

 

 

桶狭間山の義元本陣を崩し、義元を打ち取り、今川軍を撤退させることが出来たのは、義元本陣の兵より信長の連れていた兵が強かった事が勝因であると考えます。


信長軍の強さとは何か?

「それは、信長軍の士気の高さ、であると考えます」


 士気の高さとは何か?

「信長と共に戦う実戦経験のある若者たち、であったからと考えます」


言い換えると、

「信長と共に戦う実戦経験のある若者たちで有ったので、とても士気が高かった」

これが私の考える桶狭間の戦いの勝因です。


何故私が先ほど、兵農分離の兵だったから強かったと、単純に言うのは、短絡的かと言ったのは、兵農分離の兵だから、専門軍人だから、桶狭間の戦いで、今川軍に勝ったと言うよりも、

「信長と共に戦う実戦経験のある若者たちで有ったので、とても士気が高かった」と言う方が適切だと思ったからです。

逆に言うと、金で雇われただけの、実戦経験のないオジさん達でも、兵農分離の兵と言えてしまうのですが、これでは、勝てなかったと思うのです。

 


冒頭でも述べましたが、織田軍は正面攻撃で勝利したと思うのです。

私が、その勝因として考える、

「信長と共に戦う実戦経験のある若者たちで有ったので、とても士気が高かった」

を、私の考えでは、有りますが、一つずつ説明して行きたいと思います。

「若者たちについて。」

「信長と共に戦う(仲間意識)」

「実戦経験」

この3つは、相関しあう物と考えますので、説明が前後する部分も有りますが、私の考える、信長の軍隊のイメージが伝われば良いなと思います。

お付き合い頂ければ嬉しく思います。

 

 

「信長の連れていた兵がどのような者達であったのか?」


桶狭間の戦い全体では、織田軍の、家老衆の部隊も居ます。

ですが、ここでは、桶狭間山に正面攻撃を仕掛けて、義元を打ち取った、信長の連れていた兵について書かせて頂きます。


信長公記には、戦いの記述の各所に、若武者たち若者たちと、出てきます。

総大将の信長は、27歳です。有名な人物では、丹羽長秀26歳、池田恒興25歳、前田利家23歳、木下藤吉郎24歳。

信長が連れていた精鋭は、十代後半から、二十代の若者たちだと思うのです。


この若者たちが強いと思う理由を、

1 信長の元に集まる若者の動機。(自主性)。

2 若者の何も考えず、突っ走る無鉄砲さと、がむしゃらな情熱、

3 信長や、司令官と一兵卒のやる気の共有化、規律で縛った軍隊というより、皆仲間という意識。

 という事で書いて行きます。



この戦いの3年前には、

「兄の信広が敵対したり、信長が窮地の時助けるものは稀であった。だが清州城かに屈強の侍、七・八百人肩を並べていたので戦いになっても一度も不覚を取ったことは無かった」と信長公記にあります。

この侍たちは、主に志願兵で有ったと私は考えます。

志願兵については、推測では、有りますが、信長軍の生い立ちを考えると、徴収兵というよりも志願兵の確立が高いと思います。

(軍の生い立ちについては、後に書かせて頂きます。)

若者にしてみたら、カッコいいからというだけで、十分な動機になると思います。

家督を継ぐ前の信長の話ですが、信長公記に、「お付の物には皆、朱色の武具を付けるように命じていた」とあります。

やはり畑仕事よりも、兵隊さんの方がカッコよく見えるのは、若者ならではと考えます。

少年なら、強い物への憧れは有るでしょう!

それに、殿様の取り巻きですから華やかに見えます、女性にもモテたかもしれません。

目立ちたい元気な若者が、(ヤンキーっぽい荒くれ者?)が、集まる要素は、十分に有ります。

逆に言うと、戦いたくないと言う人は、集まらないので、士気が低下する要素が少ないと感じます。

織田軍全体では、家老の家臣団も有ったと思いますが、この清州城下の若者たちは、信長の命令で動く兵です。

一兵卒にしてみたら、自分の仕えている人が仕えている人、顔も知らない大将の命令で動くより、士気の高さが有ると思うのです。

信長の命令でと書きましたが、信長の為に戦っているという感覚よりも、信長と共に戦っていると言う方が正しい気がします。



「そこで、若者特有の性質(無鉄砲)について触れたいと思います。」

この若者たちの感情としては、目立ちたい!強い所を見せたい!、格好つけたい!ビビるわけ無いだろ!といった感じだと思うのです。

歳を重ねて経験を積むと、目立ったからと言って、腕っぷしが強いからと言って、その人の価値とは関係ないと判るのですが、若いうちは、目立つと言うだけで、突っ走れるものです。

現代でも若者は、車のスピードをやたら出したり、バイクで暴走したり、喧嘩も強い方がカッコいいとか、ビールを何杯飲んだとか、これは、若者特有の性質です。

単純な例で申し訳ないのですが、若者はあまり考えずに無鉄砲だと言いたいのです。

あとは、独身者も数多く居たことと思います。これは、無鉄砲になれる大きな要因です。



若者特有の無鉄砲について書きましたが、

「がむしゃら」についても書きたいと思います。

 この、がむしゃらも若者特有の性質だと考えます。

 信長直属の若者たちですから、戦に成れば共に戦います。

 ですが、この者たちが、

「尾張の国を守るために、自分の土地を守るために、家族を守るために、という明確な意識では、無かったように私は、思うのです」

 例えるなら、高校や大学の部活動、高校球児の様な感じでしょうか。

 野球で、家族を養う、プロになる、と考えている若者は、極々一部です。

 地方予選で1回戦敗退の高校でも、毎日がむしゃらに、汗を流します。

この、がむしゃらが、カッコいいからという意識すら持っていません。

 何故がむしゃらなのか?

 それは、若いからとしか答えようがないと思います。

 

無鉄砲でがむしゃらな若者たちが、何故強いか?

綿密に練られた作戦や、駆け引きという意味では、解りませんが、一丸となって目の前の敵陣に突撃して、敵を蹴散らすという戦い方においては、強いと考えます。

それは、リスキーだからです。色々省みない、時には、自分の命すら省みない無鉄砲さと、若者特有の、がむしゃらであると思うのです。



そしてもう一つこの軍隊が強い要因は、

「高いモチベーションの共有化(仲間意識)です。」

高いやる気が皆同じという意味ですが、これは、皆同列であることが言えると思います。

もちろん、年齢の年上、年下は、有ると思いますが、身分の区別は有りません。

黒袰衆、赤袰衆、と信長直属の指揮官は、いますが、その指揮官のもとについて、皆同列で有ったと思うのです。

よく下っ端の表現として、三下と言いますが、これに当てはめると、二下までです。二つ上は信長なのです。

指揮官の下、と書きましたが、この指揮官は、まとめ役の様な物であったと思うのです。

指揮官というと、現代軍隊の様に上下関係、命令絶対、のイメージや、が有りますが、

私は、この袰衆は、例えるならクラブ活動の部長の様な存在で有ったと思います。

兵隊に士官したいと言う者が居た時、その者は、知り合いの既に仕官している知り合いを頼ります。頼まれた者は、

「仕官したいなら、信長に会えるように、俺の面倒を見てくれている袰衆の○○さんに頼んでみるよ」

例えると、部活に入りたいなら、顧問の先生に会えるように部長に頼んでみるよ。

と言った感じでだと思うのです。

部員は、部長に絶対服従ではありません。一部員であっても先生に意見もできます。嫌だったら辞めればいいのです。

少し軽い例かもしれませんが、感覚としては、似た感じだと考えます。

江戸時代の、侍の上下関係で捉えている方からすると、違和感があると思いますが、当時は、家臣が、仕官先を選ぶ時代でした。

この自主性、自分がやりたくてやっている、これ以上にやる気の高い状況は有りません。

後、大事なのは、この戦い位までは、信長は、仕官する者、一人一人に在っていた可能性は高いと思うのです。

信長は、細かいところまで指示を出します。それは、細部まで自分の目を届かせたいという事なのですが、そんな信長が、

「一人ずつ会の面倒だから、袰衆に自由に自分の好きな人雇っていいよ!戦いに成ったら呼んでくれれば」

では、無かったと私は、思います。

信長は、一人ずつ会って、面接とまではいきませんが、お前は、字が書けるのかとか、腕っぷしが強そうだなとか、自分の兵がどんな人たちだったのか把握していたと思うのです。

逸話では、この侍たちの婚礼が有ると、自分の弟を使いに出して媒酌人をさせたと言われています。

(一人一人全員に会っていたと思うと、極端な書き方をしましたが、100%でないにしろ、大体全員に会っていた。

面接をしていたという事は無いにしても、初対面の時は、仲間が信長に紹介したり、言葉を交わしていたのではないかと思うのです。)

私が何を言いたいかと言いますと、会って話したことが有ると無いとでは、やる気が違ってくると思うのです。

信長と信長の精鋭は、近い存在で有ったと思うのです。


800人も居ますから、皆が信長と友達とまではいきませんが、同じ場所に居合わせたら、普通に話が出来る大将といった感じでしょうか。

これも、信長という人物に対して、近寄りがたい厳しいイメージを持っている方からすると、意外かもしれませんが、

私は、信長と若者達とは、距離が近く、仲間意識を共有していたと考えます。

信長の仲間意識、砕けた言い方をしますと、信長は、仲間思いであったと思うのです。





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