桶狭間の戦いの勝因について、定説、通説の検証2
6、「別働隊奇襲説」
これは、合戦から50年以内に成立したとされる「松平記」に「上の山よりも百余人程突て下り」と書かれていると言います。これは、桶狭間山の背後の上ノ山を指すと言われます。
義元に一番槍を付けたと言われる、服部小平太の家譜にも「服部小平太上乃山より突懸り」と有るそうです。
私の意見ですが、これは、書かれている以上有ったとする見方で良いと思います。
ですが、この話は、さまざまな憶測を呼ぶものです。
(服部の独断奇襲なのか?独断奇襲なら、佐々隊の先攻も独断の可能性が上がります。信長の命令なのか?信長の命令なら、義元の本陣だと、信長は知っていた可能性が上がります。とすると、佐々隊の先攻も命令の可能性が上がります。)
今回は、織田軍の勝因についてですので、この別働隊の効果についてだけ私の見解を書きます。
この100人余りの別働隊の後方からの攻撃は、確かに効果は有ります。
確かに、裏手から義元の本陣を突いたので有れば、義元が逃げ出す原因になります。ですが、それは、全滅覚悟の先鋒です。
もう少し、イージーに考えて、騒ぎを起こした、小競り合いをした程度だったとして、裏手から攻められていると、義元が逃げ出した可能性も確かに有りますが・・。
今川軍5000人、義元の周りに1000人だとすると、そこまで効果的かというと、無いよりはマシだという程度の物だと私は感じます。
7、「雨」
雨は、信長公記に在るように、今川方に向けて強烈な雨が降ったとゆう物です。
この、雨の説明ですが、テレビや本で紹介されている物は、今川軍は、正面からから、叩き付ける雨で、視界が悪くて戦いづらいという物です。
これは、信長公記の記述をそのまま紹介したものですが、
これ以上の解釈が、一般の物にないので、私の解釈を書いておきます。
信長公記に在るように、楠の木が倒れるくらいの、風に雨です。
私は、今川方の弓矢の効力を低下させたのではないかと思うのです。
今川方からすれば、織田軍が山裾まで来たのを弓矢で迎え撃つと言うのは、上等手段です。
これが、使えないとなると、織田方の勝率は上がります。
勝因として非常に有力ではあります。
ですが、決定打か、否か、というと、兵力差と立地条件からすると、五分五分と言ったところではないかと思います。
8、「分捕りの禁止」
有名な勝因です。
これは、敵の首を取るなというものです。
敵の首を取る暇があったら、次の敵と戦った方が、効率が良いからです。
首を持って戦ったら足かせにもなります。
単純に考えると誰が見ても良いアイデアです。
なので、これは素晴らしいアイデアだとされて、信長は天才じゃないかというものです。
しかし、わたしは、これを勝因とするのは、胆略的だと思うのです。
これを、勝因だと考えると、織田方が首を取らないで、次から次から押し寄せてくるのに、今川方は、討ち取った者の首を取ろうとしていたと考えなければなりません。
目の前から、攻撃を受けているのに、倒れている敵兵の首を取ろうとして、自分が打ち取られてしまったという事になります。
織田勢が、首を取らないで討ち掛かってきたら、今川勢も首を取らないで応戦するはずです。
お互い首を取っている暇など無いのです。
条件は五分と五辺です。
9、「軍備」(三軒半の槍)
有名な勝因です。
私も、これは、確かに!と思うのですが、決定的な勝因となるか検討してみたいと思います。
軍備は、有名な所で言いますと、三間半(約6・3メートル)の槍です。
当時の長槍は、上杉家、謙信時代は、二間半(約4・5メートル)。北条家は、二間半+一尺五寸の穂(約5メートル)と言われています。
ちなみに、豊臣、徳川、上杉景勝、共に三間槍(約5・4メートル)だそうです。
織田家でも三間半~三間みたいなので、長槍は三間位に落ち着くのかもしれません。これは、鉄砲の普及により、使いやすい長さになったと言われています。
当時の長槍と織田軍の長槍は、1・3m~1・8m、長いです。
この違いは、確かに効果的だと考えます。
織田軍の攻撃は届くのに、今川軍の攻撃は届かないのですから。
これについては、今川軍の広い高台からの弓矢の攻撃、乱戦になって、この槍の射程を保って戦えるのか?
などのご指摘もあるかと思うのですが、それでも私は、この距離を有効と考えます。
1対1では、効果は薄いですが、10人対10人なら隊をなして、攻撃すれば、槍の長さを有効に使えると思うのです。
ですが、勝因の決定打となりえるか?
信長が三間半の槍にしたのは、10年前です。
絶大な効果が有るのであれば、各地の武将がこぞって鉄砲を購入したように槍も普及していて良いのでは?と思います。
短いより長い方が都合がいい位のものでは無かったかと考えます。
10、「軍隊」(兵農分離の先駆け)
有名な勝因です。
一般に言われている所ですと、兵農分離の先駆けです。
信長は、農家の二男三男を金で雇って、軍事専門の部隊を持っていたという物です。
確かに、訓練している兵で有れば、長槍を有効的に使えたと思います。
私は、これも有効な勝因だと思うのですが、
今川軍も、武田信玄、北条氏康、と肩を並べる今川義元、本隊の兵です。
義元の旗本衆は、兵農分離された精鋭である事には、変わらないと思うのです。
11、「今川軍が、凄く弱かった」
余談です。
これは、定説でも通説でもありません。ここまで書いてきて、私が思った事です。
ここまで書いてきた説は、今川軍が弱かったとすると、すべて勝因の決定打になりえるものです。
今川軍が凄く弱ければ、雨が降っただけで勝てますし、兵力や高台のハンデが有っても勝てます。100人で後ろから攻めても本陣総崩れも有ります。
これを言ったらお終いよ!という物ですが、この可能性も有るのです。
ですが、今回は、定説道理、三国を支配する東海一の弓取り、まともおに戦ったら、織田軍なんて、一溜りもない、今川義元という事で書かせて頂きます。
12、「武田信玄の策略」
余談です。
これは、定説や通説として検証する事ではないと、私は思って居たのですが、友人と話していて信玄の策略だと言われまして、調べてみると、意外に出回っている説なのだなと思いました。
この説の根拠は、
葛山信貞が、6000の兵を連れて笠寺砦に入って動かなかったというものです。
私は無いと考えます。
在り得ない根拠を簡単に説明すると、
葛山信貞という武将は、この時は存在しなかったという事。
武田信玄の駿河進攻が8年後である事。
その他、ネット上に、明確に否定されている物が有りますが、私も同意見です。
興味のある方は、調べてみてください。
「最後に、一般的な勝因の検証のまとめ」
一般的には、前文で挙げたような勝因が、少しずつ効果を上げて、総合的に勝ったようなイメージです。
そこから、信長の勝利は、革命的だとか、知将だとか、天才だとか、強運の持ち主だとか、言われると思うのです。
それは、長篠の戦いや、鉄甲船、兵農分離、楽市楽座、天下布武、
これから天下統一まで王手という所まで行く信長を知っていればこそのの、イメージからくるもので有る気がします。
勝因として考えると、という事で書かせて頂きましたので、私の検証が、否定的になっていますが、効果が無かったとは考えていません。
もちろん、一つ一つが勝利の一つの要素であることは事実です。
織田軍の損害を減らすのには、十分効果的であったという捉え方です。
ですが、勝因と言うのは、一番比重の大きい要素です。
私は、これらの要素が無くても、織田軍が勝っていたと考えます。
それは、織田軍の兵の質です。
前文の兵農分離については、一般的紹介される、金で雇った専門軍人であったから、強かったという事に対しての見解を書かせて頂きました。
ですが私は、この説明とは、違う見解を持っていますので次に述べたいと思います。