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戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
織田信長の人物像・性格・人柄についての見解
19/22

第六天魔王信長・論争に終止符を! 1

「第六天魔王信長・論争に終止符を!」

 

 第六天魔王信長論争とは、信長が自ら第六天魔王を名乗ったのか、名乗っていないのかという事についてです。

 一般的には、フロイスの書簡に書いてあるのだから信長は自ら自称したとされています。

 しかし、否定的な考え方として、信玄の天台座主沙門信玄という名乗りに信憑性が無いため、信長の第六天魔王という名乗りも信憑性が無いと考えるものもあります。

 そして私は前回は、信長が第六天魔王と名乗ったと書かれているのは、フロイスの記載ミスである。と、いう私論を書かせて頂きました。

 今回この私論を訂正させて頂きます。

 それは、最後まで書いた時、あれ?・・・問題の一節・・・これって意外な盲点が在る事に気が付いたのです。

 この盲点を、根拠としまして、私は、「信長は第六天魔王と自称していない」という見解です。


 タイトルを、「第六天魔王信長論争に終止符を!」とさせて頂きました。

 今回は、ウィキペディアの武田信玄、織田信長、この一節の記事の改正を試みる覚悟です。そして、世間の認識も変えられたらと考えています。

(ウィキペヂアの記事には間違いも存在しますが、世間の認識に影響を与えている事も事実であると思うのです。これを改正したい)

 

 最後まで読んで頂けましたら、「確かに、これは改正が必要だ」とか「やっぱ、この推論は違うなぁ」などと考えながら楽しんで頂けたら嬉しく思います。


 今回だけでわかる内容にしたいので、前回と内容が被る部分が有ります事、申し訳なく思います。



 問題の一節

「なぜ、第六天魔王信長という代名詞がついたのか?」

 

 そもそも、この代名詞の出所は、どこか?

 イエズス会宣教師のルイス・フロイスが記した書簡にのみ(・・)に、登場します。

 

 その一節を紹介します。

 信玄が遠江及び三河の国に侵入せし前面白き事起こりたり。

 即ち信長に一書を贈りし時其名を揚げんとの慢心より封筒の上に次の如く認めたり。

 テンダイノザス・シャモン・シンゲン其、意(其の意味)は、天台宗の教の最高の家及び教師信玄といふことなり。

 信長はこれタイしてドイロクテンノ・マウォ・ノブナガ、其意(其の意味)は悪魔の王にして諸宗の敵なる信長といふことにしてダイバが釈迦に對し其宗旨その・ソウ・むね(その、本家の教えの、そのものの主とする、大事な点)の弘布を妨げしが如く、信長は今日まで日本の諸々の偶像の尊敬及び崇拝を妨害せるが故なり。 

 

 この一節が、第六天魔王信長という代名詞の元に成る記事です。



「ウィキペディアの記事と一般的な認識の紹介」

 これから、第六天魔王信長について、ウィキペディアの記事と、一般的な認識を、紹介させて頂きます。

しかし、ただ読みますと、何の変哲もない一般常識です。

 わたしは、ここに意外な盲点があり、それは、ウィキペディアの記事を改正するに値するのではないか?と考えています。

 この盲点とは何かを、推理しながら読んで頂けたら、楽しんで頂けるかな?と思います。



「織田信長。ウィキペディアにて」

「信長現在の評価の中の一節」

・・・また「フロイス日本史」の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」「注釈3」という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ・・・・現在では、この設定を利用したフィクション作品が多数生まれている。


●私の注目するポイントは、

フロイスの日本史には、「(信長が」自ら手紙に第六天魔王と記した」と書かれている。と、紹介されている点です。


「注釈3」には、この様にあります。

「日本耶蘇会年報」(やそ会)より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(天正元年3月19日)付けでイエズス会に送って書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。

この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後ほどなく没している。

 

 ●私の注目するポイントは、

 フロイスの書簡には、信長は返書に「第六天魔王」と署名したと書かれている。

 と、紹介されている点です。

 


 それでは、武田信玄では、どのように書かれているか紹介させて頂きます。

 


「武田信玄。ウィキペディア」

「信玄逸話の中の一節」

 フロイスは、書簡(日本耶蘇会年報の所収)にいくつか信玄のことについて記している。

信玄が遠江とおとうみ三河に進攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめせんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名しており、「信長はこれに対してドイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、と応酬せり」というやりとりがあったという。

 このフロイス書簡の日付は1573年4月20日(日本暦の元亀四年3月29日)だが、この後すぐ信玄は没している。

 フロイスはこの署名を「其意は天台宗の教の最高の家および教師信玄といふことなり」と訳し、信玄が増長して天台座主を名乗ったものと解しているが、歴代の天台座主に信玄の名はない。「天台座主沙門信玄」は「天台座主・覚恕法親王の下での修行者・信玄」と信玄が自らの敬虔けいけん(深く敬って態度をつつしむさま。特に神仏につつしんでつかえるさま)な姿勢を示したもので、これに対して信長は「仏道修行を妨げる魔・信長」と皮肉で返したと読むこともできる。

  

 ●私の注目するポイントは、

 フロイスは、書簡には、信長は、これに対して第六天魔王信長と応酬せり」というやりとりがあったと、書かれている。

と、紹介されている点です。

 応酬の意味は、「やりとりすること」「やり返すこと」です。 


「世間一般の認識」

 この一節を世間一般の方がどのように認識しているのかを紹介するにあたって、ネットの質問回答サイトなどのやり取りを、私なりにまとめて、紹介させてい頂きます。


「織田信長は、なぜ第六天魔王と呼ばれるのですか?」

 

 呼ばれていたのではなく自称である。

 フロイスの書簡にて、信玄の書状に対して、第六天魔王信長と自称して返した。

 信長は、気に入って自称した。皮肉で返した。あえて確信犯的に使った。

 自称したのだから、言われても仕方ない。

 ほぼ全てがこの回答だと思います。

 

●私の注目するポイントは、

 フロイスの書簡にて、第六天魔王と自称して返したと書かれているためである。

と、いう認識であるという点です。


 

 ここまで、ウィキペディアの記事、世間一般の認識を紹介させていただきました。

 如何でしたでしょうか?

 なんの変哲もない一般常識ですが、なにか気が付かれたでしょうか?

 それでは、次に私の見解を書かせて頂きます。


 

 


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