私の論説2
この論説は、訂正させて頂きます。
今回、2016年10月29日、「第六天魔王信長・論争に終止符を!」と題しまして、新たな論説を投稿させて頂きました。
そちらを、私の考える本命説とさせて頂きます。
ご覧頂ければ嬉しく思います。
まず初めに、信玄と信長がどのように自身の名を書いているのか紹介します。
以下の三つは、互いに直接当てたものです。
三方ヶ原の戦いが、十二月二十二日ですので、その前後のやり取りです。
(信長から信玄へ、家康との和睦をすすめる書状)
極月朔日 織田上総守信長
法性院殿 人々御中
(信玄から信長へ、家康との和睦を断る書状)
極月二十三日 大僧正信玄
織田上総守殿
(信玄から信長へ、平手(長政)の首を送り和議を絶って断交する書状)
(信長から信玄へ、十五カ条を書いて和議の継続を求める書状)
(信玄から信長へ、二度目の断交の書状)
正月十七日 大僧正信玄
織田上総守どのへ
信玄と信長の直接のやり取りには、以上の様な署名があります。
フロイスの記述では、二人の名乗りは三方ケ原の前と有りましたが、ここには登場しません。そして、それを連想させるやり取りも有りません。
信玄は、仏門を保護するとも言っていませんし、信長は、和議の継続を求めています。第六天魔王と皮肉で返した事実は、内容から考えて無いと言えます。
フロイスの書簡との共通点も有りません。
次に紹介するものは、互いが将軍に宛てた書状です
(公方(義昭)から信玄へ、信長、家康との和睦の仲裁の書状)
(信玄から公方(義昭)への、御返書)
正月七日 大僧正法性院 徳栄軒
上野中務大輔殿
(信長から公方(義昭)への、書状)
天正元癸酉正月二十七日 右大臣信長
上野中務大輔殿
上野中務大輔とは、将軍義昭の臣、上野清信との事です。
この二通はで、互いの行いを痛烈に批判しています。
そして、フロイスの一連の記述との共通点が多数存在するのです。
まず、内容に入る前に全体の共通点です。
初めに信玄が信長の行いを先に批判している点、それに対して、信長が言い返している点です。
これは、フロイスの信玄の名乗りに信長が返したと言う記述と共通します。
フロイスの書簡との共通項目
(信長の書状)
嫡子太郎を理由もないのに牢に入れて、鴆毒で殺したことは、無法この上ない。父を追放し息子を殺し、そのほか親類の多くの者を討死させたこと。
(フロイスの書簡)
信玄は、父親を追放し、長子を牢に入れ苦しめ、少しして死亡した。
(信長の書状)
そこでは、信玄は剃髪染衣して、仏門に入った姿なのに、他国を侵略しようと貧欲になり、民を害し・・・・売僧(堕落僧)の如く。
(フロイスの書簡)
信玄は、剃髪して坊主になった。常に坊主の服と袈裟をつけていた。この目的は、隣国を奪う事にある。
(信長の書簡)
年来の眷属(一族郎党)に一戦をすすめておいて、傷ついた侍、輩を一所に押しこめて焼き殺すにいたっては、大悪行の最たるものである。
(フロイスの書簡)
信玄は、小なる缺點(欠点)と雖(言えど)も、宥(許す)すことなく直ちに之を殺さしむ。
(信玄の書状)
そこでは、京の市中郊外を徘徊して、収益多くして労役を課し、残党の財宝を略奪した。信長は、上洛して寺社仏閣を灰烬に帰すことをした。
(フロイスの書簡)
信長は、望んで都に来て之を焼却破壊することをした。
(信玄の書状)
四海の混乱を鎮め、大嶺(比叡山延暦寺)の諸伽藍、七社の零藍(大津市の日吉大社・七社権現か?)の県立を実現いたし・・・
(フロイスの書簡)
信玄の、目的または口實は、都に来て、信長が焼いた比叡山を再興することにある。
(信玄の書簡)
信長・家康の輩が、神社・仏閣・諸寺を横領、侵入し、民を迫害して自分の利益だけに走り、ほしいままに暴威をふるっている。
(フロイスの書簡)
信長は、常に日本の偶像を嘲罵し・・・・諸国の支配に當や、殆ど一切の僧院の収入を奪いて、之を兵士に與へ
「類似点について私の見解」
日本語訳で、2ページほどの中にこれだけ共通点が有ります。
驚くべきは、信長とフロイスの書簡の類似です。
「長子を牢に入れ」とあります。
「息子を殺し」では無く、長男と書いています。そして牢に入れとあります。
「信玄は剃髪して坊主になった。常に坊主の服と袈裟をつけていた」
これも、「剃髪して」「袈裟を付けている」と書かれています。
これらの表現は、原文を見て書いたという可能性がかなり高いと思うのです。
逆に、原文がそこに無いと省いてしまいそうな物であると思うのです。
ここで言えることは、フロイスは、信長の書状を見た可能性が高いという事になります。
信玄の書状とフロイスの書簡に関しましては、同じ事が書いてあるのですが、これは、表現が少し違います。
フロイスが誰かに聞いた。もしくは覚えて書いたとも考えられます。
しかし、内容を聞たり覚えて書いたと言うには、詳しく書かれています。もしかしたら、文書が漢文のものであったので、内容は同じだが表現まで同じにはならなかったのか?とも考えられます。
★以上の類似点をもって、フロイスが甲陽軍鑑に書かれている、信玄と信長のやり取りを元に書いてと考えています。
そして、二つの資料の類似点は、甲陽軍鑑の信憑性を裏付ける物であると考えます。
この信憑性の裏付けの方が、歴史学として、価値があるのではないか?と述べたのは、戦国史しでも有名な、信長と信玄が、実際にこのような喧嘩をしていた可能性が高いと思うと、本当に面白いなと思います。
ここまで、お付き合い頂きまてありがとうございます。
フロイスの、第六点魔王の記述が、甲陽軍鑑にある手紙のやり取りが元になっているという論説が一般に無いと思いましたので、今回比較して紹介させて頂きました。
楽しんで頂けたら嬉しく思います。
それでは、次にフロイスが書こうとした主旨について比較して、私の推論を述べさせていただきます。




