表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
織田信長の人物像・性格・人柄についての見解
17/22

私の論説2

この論説は、訂正させて頂きます。

今回、2016年10月29日、「第六天魔王信長・論争に終止符を!」と題しまして、新たな論説を投稿させて頂きました。

そちらを、私の考える本命説とさせて頂きます。

ご覧頂ければ嬉しく思います。



 まず初めに、信玄と信長がどのように自身の名を書いているのか紹介します。

以下の三つは、互いに直接当てたものです。

 三方ヶ原の戦いが、十二月二十二日ですので、その前後のやり取りです。


 

(信長から信玄へ、家康との和睦をすすめる書状)

 極月朔日 織田上総守信長

  法性院殿  人々御中


(信玄から信長へ、家康との和睦を断る書状)

 極月二十三日 大僧正信玄

  織田上総守殿


(信玄から信長へ、平手(長政)の首を送り和議を絶って断交する書状)


(信長から信玄へ、十五カ条を書いて和議の継続を求める書状)


(信玄から信長へ、二度目の断交の書状)

 正月十七日 大僧正信玄

  織田上総守どのへ


 信玄と信長の直接のやり取りには、以上の様な署名があります。

 フロイスの記述では、二人の名乗りは三方ケ原の前と有りましたが、ここには登場しません。そして、それを連想させるやり取りも有りません。

 信玄は、仏門を保護するとも言っていませんし、信長は、和議の継続を求めています。第六天魔王と皮肉で返した事実は、内容から考えて無いと言えます。

 フロイスの書簡との共通点も有りません。


 次に紹介するものは、互いが将軍に宛てた書状です


(公方(義昭)から信玄へ、信長、家康との和睦の仲裁の書状)


(信玄から公方(義昭)への、御返書)

 正月七日 大僧正法性院 徳栄軒

  上野中務大輔殿


(信長から公方(義昭)への、書状)

 天正元癸酉みずのととり正月二十七日 右大臣信長

  上野中務大輔殿


 上野中務大輔とは、将軍義昭の臣、上野清信との事です。

 この二通はで、互いの行いを痛烈に批判しています。

 そして、フロイスの一連の記述との共通点が多数存在するのです。


 まず、内容に入る前に全体の共通点です。

 初めに信玄が信長の行いを先に批判している点、それに対して、信長が言い返している点です。

 これは、フロイスの信玄の名乗りに信長が返したと言う記述と共通します。



 フロイスの書簡との共通項目


(信長の書状)

 嫡子太郎を理由もないのに牢に入れて、鴆毒ちんどくで殺したことは、無法この上ない。父を追放し息子を殺し、そのほか親類の多くの者を討死させたこと。

(フロイスの書簡)

 信玄は、父親を追放し、長子を牢に入れ苦しめ、少しして死亡した。


(信長の書状)

 そこでは、信玄は剃髪染衣して、仏門に入った姿なのに、他国を侵略しようと貧欲になり、民を害し・・・・売僧(堕落僧)の如く。

(フロイスの書簡)

 信玄は、剃髪して坊主になった。常に坊主の服と袈裟をつけていた。この目的は、隣国を奪う事にある。


(信長の書簡)

 年来の眷属(一族郎党)に一戦をすすめておいて、傷ついた侍、輩を一所に押しこめて焼き殺すにいたっては、大悪行の最たるものである。

(フロイスの書簡)

 信玄は、小なる缺點けつてん(欠点)といえど(言えど)も、ゆる(許す)すことなく直ちにこれを殺さしむ。



(信玄の書状)

 そこでは、京の市中郊外を徘徊して、収益多くして労役を課し、残党の財宝を略奪した。信長は、上洛して寺社仏閣を灰烬に帰すことをした。

(フロイスの書簡)

 信長は、望んで都に来てこれを焼却破壊することをした。

 

(信玄の書状)

 四海の混乱を鎮め、大嶺たいれい(比叡山延暦寺)の諸伽藍(がらん)、七社の零藍れいらん(大津市の日吉大社・七社権現か?)の県立を実現いたし・・・

(フロイスの書簡)

 信玄の、目的または口實こうじつは、都に来て、信長が焼いた比叡山を再興することにある。


(信玄の書簡)

 信長・家康の輩が、神社・仏閣・諸寺を横領、侵入し、民を迫害して自分の利益だけに走り、ほしいままに暴威をふるっている。

(フロイスの書簡)

 信長は、常に日本の偶像を嘲罵ちょうばし・・・・諸国の支配にあたるや、ほとんど一切の僧院の収入を奪いて、これを兵士にあた



「類似点について私の見解」

 日本語訳で、2ページほどの中にこれだけ共通点が有ります。

 驚くべきは、信長とフロイスの書簡の類似です。

「長子を牢に入れ」とあります。

「息子を殺し」では無く、長男と書いています。そして牢に入れとあります。

「信玄は剃髪して坊主になった。常に坊主の服と袈裟をつけていた」

 これも、「剃髪して」「袈裟を付けている」と書かれています。

 これらの表現は、原文を見て書いたという可能性がかなり高いと思うのです。

 逆に、原文がそこに無いと省いてしまいそうな物であると思うのです。

 ここで言えることは、フロイスは、信長の書状を見た可能性が高いという事になります。


 信玄の書状とフロイスの書簡に関しましては、同じ事が書いてあるのですが、これは、表現が少し違います。

 フロイスが誰かに聞いた。もしくは覚えて書いたとも考えられます。

 しかし、内容を聞たり覚えて書いたと言うには、詳しく書かれています。もしかしたら、文書が漢文のものであったので、内容は同じだが表現まで同じにはならなかったのか?とも考えられます。


 ★以上の類似点をもって、フロイスが甲陽軍鑑に書かれている、信玄と信長のやり取りを元に書いてと考えています。

 そして、二つの資料の類似点は、甲陽軍鑑の信憑性を裏付ける物であると考えます。

 この信憑性の裏付けの方が、歴史学として、価値があるのではないか?と述べたのは、戦国史しでも有名な、信長と信玄が、実際にこのような喧嘩をしていた可能性が高いと思うと、本当に面白いなと思います。


 ここまで、お付き合い頂きまてありがとうございます。

 フロイスの、第六点魔王の記述が、甲陽軍鑑にある手紙のやり取りが元になっているという論説が一般に無いと思いましたので、今回比較して紹介させて頂きました。

 楽しんで頂けたら嬉しく思います。

 

 それでは、次にフロイスが書こうとした主旨について比較して、私の推論を述べさせていただきます。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ