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戦国史に想う  連載エッセイ  作者: 酒井 知徳
織田信長の人物像・性格・人柄についての見解
15/22

信長は自ら第六天魔王と名乗って無いと考える通説

この論説は、訂正させて頂きます。

今回、2016年10月29日、「第六天魔王信長・論争に終止符を!」と題しまして、新たな論説を投稿させて頂きました。

そちらを、私の考える本命説とさせて頂きます。

ご覧頂ければ嬉しく思います。



「天台座主である僧侶信玄」(実際にあった信憑性が低い説)

  

 信玄が、天台座主沙門信玄と名乗る事は無いとするものです。

 否定説の出所は、フロイス書簡の日本語訳の、注釈です。

 

「天台座主沙門信玄」

 その注釈には、こう有ります。

 信玄は、八宗兼学にして各宗に関係を有せり。特に天台宗にては、山門門跡曼珠院、覺知かくち親王が天台座主となれる後に其執成そのとりなしにて極官即ち大僧正となるの勅許を得たりしなり。されば信玄は其書状にも大僧正信玄、若しくは天台沙門信玄、と自署せり。フロイスの書翰にある如く天台座主となりしことはなし。天台座主は、門跡寺に入りしものにあらざればおぎなう・ホせらる(る)事なき筈にてはなはだ重き地位なれば信玄などの俗人がなり得べきものにあらざるなり。

 

 この注釈を私なりに解説させて頂きます。

 山門門跡曼株院とは、山門曼殊院(まんしゅいん)門跡もんぜき(もんせき)、の事と思う。

 覺知かくち親王とは、覚恕かくじょ親王の事で有ると思う。

(当時の法親王の中に、覺知法親王という名が無い)

 ウィキペディアには、信玄が、尽力して得ようとした僧官は、大僧正では無く権僧正ごんのそうじょう(最上僧官の中の三番目)とあり、その時期も比叡山焼き討ち後に、覚恕法親王を保護した後とされている。

 私としては、注釈とウィキペディアとどちらが正しいかは、不明です。

 

 ・余談ですが、門跡もんぜき寺院とは、皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院ことです。宗派に限らず、多数存在するようですが、天台五門跡など有名らしいです。

 天台座主は、天皇の血縁者や、位の高い貴族が就きます。ですので、いつも決まった門跡寺院から出るわけではなく、その天皇の血縁者が継いだ門跡寺院から出るという事になります。

 ちなみに、天台座主は、比叡山にいつも居たわけでは無く、京都のそれらの門跡寺院に普段はいて、行事の時に赴いたそうです。

 

 次の文は注釈を、今風に書いてみました。

 同じ内容ですので、ここは、とばして頂いて構いません。

 

 信玄は、八宗兼学で各宗派に関係を持っていました。特に天台宗は、山門曼殊院の覚恕親王が天台座主になった後に、執り成しにより(計らいにより・良いようにする)にて、僧官の最高位、大僧正となるための、天皇(法親王)の命令により許しを得ました。

 したがって信玄は其の書状に、大僧正信玄、もしくは天台沙門信玄と署名したはずである。フロイスの書簡に在るように、信玄が、天台座主になる事はない(書くことは無い)

 天台座主は、門跡寺に入れるような皇族でなければ、補せらるる(任せられる)事は、無いはずである。甚だ(非常に)重き地位なので、信玄のような一般人がなれるものではありません。

 

 

 この注釈では、言いたいことは、はっきりしています。

 

 大僧正信玄。もしくは、天台沙門信玄であれば頷けるが、天台座主沙門信玄は、名乗るはずが無いと解釈されています。

 

 

「私なりに補足させて頂きます。」

 

「天台座主沙門信玄」の解釈を、「天台座主(天台宗のトップ)沙門(僧侶)信玄」と、しています。

 ポイントは、沙門です。

 沙門とは、出家して修行する人・修行僧・という意味です。

 

 ポイントは、同じなのですが、先ほどの信憑性が有るとする説では、「天台座主の下で修業する僧侶、信玄」となって居ました。

 ですが、この説では、沙門を単に「僧侶、修行者」としています。

 天台座主は、天台宗のトップではあるが、出家して修行する一人の僧侶です。

 ですので、「天台宗で一番偉い僧侶の信玄」と解釈できるのです。


 信玄が天台座主を名乗っていると仮定して、私の補足をもう一つ足します。

私は、その根拠を、この一節の冒頭の部分にあると考えます。


「信玄が、遠江及び三河の国に侵入せし前面白き事起こりたり。

即ち信長に一書を贈りし時、其名そのなを揚げんとの慢心より封筒の上に次の如く認めたり。天台座主沙門信玄・・・・・」

 ここに、名を上げようとの慢心により書いたとあります。

 

 先の信憑性のあるとする肯定説では「天台座主の下で修業する僧侶、信玄」という解釈でした。これが、名を上げようと慢心により名乗る物でしょうか?むしろ謙虚であると思います。

 謙虚で有るからこそ、信憑性があると考えられるのです。

しかし、実際は、「名を上げようと慢心により」となっています。

 そこに続く名乗りとしては、「天台宗で一番偉い僧侶、信玄」の方が説得力を感じます。


 その名を上げんと、慢心により書いたと考えて一文を解釈すると、

「天台座主沙門信玄。(天台座主である僧侶、信玄)其の意味は、天台宗の最高の家柄であり教師(指導者)信玄ということである」、となります。

 

 砕けた言い方をしますと、

「名を上げようと慢心により、信玄は、天台宗の修行者の中で一番偉い、天台座主であると言った」

 

 しかし実際は、信玄が天台座主ではないので、天台座主と名乗るはずはない。

そして、信長が第六天魔王と名乗ったと言う記述が他の文書にありません。

 

 この様な事から、フロイスの書簡のこの一節は、事実と考えるには、信憑性が低いと考えます。

 したがって「信長は自ら、第六天魔王と名乗っていない」という解釈です。


(補足)

 天台座主でない信玄が、天台座主を名乗るはずはない。

 しかし、書いてあるのですから、実際に、名を上げようと傲慢に、天台座主と名乗った可能性はあります。

 あくまで、フロイスの書簡の信憑性が低いとする説の根拠として紹介しました。



「まとめ」

 

 信長が実際に自ら「第六天魔王信長」と名乗ったのか?

 これは、フロイスの書簡の記述が真実か? にすべてが掛かっています。

 その信憑性の争点になっている、「天台座主沙門信玄」も両論に私の補足を交えて比較してみました。

 一般に知られる両論を比較した物が、あまり無い気がしたので今回、挑戦してみました。

 一般的には、信長は、自ら名乗ったとする、書いてあるのだから正しいという論説と、他の文書には登場しないので、怪しいという論説が、中に浮いた状態ではないでしょうか?

 どちらかというと、書いてあるのだから正しい、という素直な見方が主流かなとも思います。

 ネットでも信長は、仏門の敵という意味で答えた。改革者という意味で答えた。嫌味で答えた。勢いで答えた。張り合って答えた。

 自ら名乗ってしまったので、魔王と言われても仕方がない。

 気に入って使っていた。などの意見も見かけたことがあります。

 何故?信長が魔王と答えたのか、その理由も色々な憶測があるようです。

 

 

 しかし、私の考えは、信長は、「第六天魔王」と名乗っていないと考えています。

 次に私の論説を書きたいと思います。





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