桶狭間の戦いの勝因について、定説、通説の検証1
戦国史に想う
「桶狭間の戦いの勝因」
このエッセイは、桶狭間の戦い全体の紹介ではなく、何故、織田信長が勝ったのかについて私の考えを、書きたいと思います。
戦い全体の説明は、テレビや、本、ウィキペディアで詳しく説明されていますので簡単な説明にさせて頂きます。
ですが、名前くらいは知っている、という方でも、面白く読んで頂ける、興味を持って頂ける、内容にしたいと、考えて居ます。
桶狭間の戦いと言えば、大軍の今川軍を小勢の織田軍が破った有名な戦いです。
ですが何故、小勢の織田軍が勝利できたのかという事については、諸説あるのが現状ではないでしょうか。
一般に言われる定説・通説を検証するとともに、私の考える勝因を書いて行きたいと思います。
歴史の解釈は人の数だけ有るという事で楽しんで頂けたら嬉しく思います。
戦いの経緯について。
一般に言われる、勝因について、私の見解。
私の考える勝因。
その勝因の裏付け。
この順に書かせて頂きます。
桶狭間とは、三河に接する尾張の国境なのですが。
信長の父信秀が死去すると、鳴海の城主、山口教継が今川につきます。
山口は計略を用いて、大高城、沓懸城を乗っ取ります。
今川は、この三城に兵を入れます。
しかし、信長は、それを良しとせず、大高城、鳴海城に対して、丹下砦、善照寺砦、中島砦、鷲津砦、丸根砦、の5つの砦を築き包囲します。
その、包囲から、大高城、鳴海城を助けようと、出張って来たのが今川義元率いる今川軍です。
義元は、桶狭間山に陣を張ります。
信長軍の攻撃により義元の陣は総崩れになり、撤退しようとした義元は討ち取られてしまいます。
今川軍は、大高城、鳴海城の救出叶わず、追い返されます。
今川軍の撤退により織田軍の勝利となります。
この戦いは、今川軍2万5千~4万5千、織田軍3千~5千、と諸説ありますが、今川家大軍に、織田の小勢が勝ったと有名な戦いです。
兵の数を挙げましたが、戦場全体に展開している兵の数です。
その戦場の中で、義元は桶狭間山に、5千の兵を連れて陣を張ったとされています。
その義元の陣へ信長は2千の兵で攻撃を仕掛けて、義元の首を取って勝利したというのが、この戦いです。
今川軍は、2倍以上の兵数の差で高台に布陣しています。
この不利な状況で織田軍は、勝利します。
その勝因として、現在言われている、通説・定説を、いくつか挙げて検証させて頂きたいと思います。
「迂回奇襲説について」
これは、小瀬甫庵の「信長記」が元であると言われています。
昔の大河ドラマでも書かれたように、義元が砦攻略の勝利により、宴会を開いている所を、(この宴会も信長の忍びが、村人を装ってお膳立てしたとか)
信長は、雨の中行軍して、義元本陣を奇襲するものです。
歴史というのは本当の本当は、分からないですし、書いてある以上、可能性としては、迂回奇襲もあり得るのですが、現在では、信長の家臣であった、太田牛一の書いた「信長公記」には、書かれて居ないという理由から、支持されて居ないのが現状だと思います。
現在では、「信長公記」に在るように、正面攻撃説が有力視されていると思います。
私も、正面攻撃であったと考えております。
しかし、この正面攻撃説ですが、2倍以上の兵力差、高台というハンデがあるにもかかわらず、勝ったのです。
では、その勝因について、現在言われていることを、私の見解を交えて、書いていきたいと思います。
1、「今川義元が何処に居るか知っていた」
これは、情報を大事にした信長の知将としてのイメージにつながる物です。
義元一人の首を取れば、我らの勝ちだと、戦いの常識を変えた!などと紹介されたりもします。
ですが、義元がそこに居ると知っていたとして、高台と兵力差のハンデに変わりは無いと私は思います。
2、「鷲巣砦、丸根砦を囮にした」
この2つの砦を、捨て石にして、敵の兵を疲れさせ、疲れている兵を攻撃するもの。
この作戦は、信長の考えていた事であったと私も思います。
根拠としては、今川軍が鷲巣、丸根砦を攻めたという連絡を聞いてから出陣していると、されている所からと、
有名な「敵は、夜通し鷲巣丸根を攻め疲れ切った兵だ!新手の我らが攻めれば一溜りもない!」という信長の言葉です。
可能性としては、義元の本陣の兵が、鷲巣、丸根を攻めて、疲れた兵だった可能性は、あります。
ですが、定説では、沓懸城から出て来たばかりの新手の兵だったとされています。
とすると、信長が勘違いしていたという事になり、高台と兵力差のハンデは、有るという事になります。
3、「一本道」
テレビで紹介されている話の中で、私は、桶狭間の戦いに詳しいと言う方が、一本道こそ勝利の要因だと言う人が居ました。
千差万別の考えがあるんだなぁと思いますし、そこが、面白さなのですが、私は違う考えです。
この、一本道とは、中島砦から桶狭間山までは、深田に囲まれた一本道であったと言うものです。
確かに一本道は、大軍と、小勢の、戦闘兵力の差を1対1に出来ます。
ですが、消耗戦をしますと、数が多い方が勝ちます。
この戦法は、数が多い今川軍の方が有利といえます。
ですが、そもそも、高台で数が多い今川軍が打って出てこないと思うのです。
今川軍からしたら、一本道を来る軍勢を広いところから迎え撃つ方が有利です。
では、一本道と、三軒半の長槍、追い風と雨が、加わったら勝てるのか?
私は、今川方は、打って出てこないと言いましたが、理論的には、一本道に、うって出るメリットはあまりありません。
ですが、人間の感情ですので、わざわざ小勢で、一本道を攻めてくるとは、良い度胸だ!我ら今川方を舐めているのか!と言う者や、手柄を立てたい者が、打って出て来た可能性は十分に有ります。
そして、三軒半の槍、雨風、が、効果を発揮して、織田軍が、打って出て来た今川軍の先発を打ち取ったとします。
それでも、義元は、一本道に突撃の命令を出しつづけるとは、思えません。
やはり、高台と、広い山裾から、一本道を来る織田軍を迎え撃った方が有利です。
4、「戦闘員の数」
今川軍5千といっても、食糧や物資の運搬、砦や道を作る工作員がいますから、実際の戦闘員は、3分の1ほどであったという物です。
織田軍と今川軍の兵力差は、ほとんど無かったとするものです。
この点から言われているのが、勝てない兵力差では、無かったという物です。
これも、私は、決め手に欠けると思うのです。
同じ戦闘員の兵数だとしても、今川は、高台という利点が有ります。
それに、非戦闘員と言えども、軍隊なのです、戦いに成ったら参戦すると思います。
今川軍の軍規にも非戦闘員は、合戦になったら逃げてよいなんて事は無いと思います。士気が落ちますので。
5、「陣形未完成」
これは、今川軍は、運が悪かったとするものです。
今川軍は、桶狭間山に到着したばかりで、陣形を整える前に織田軍が攻撃したという物です。
これについては、確かに陣形は大事かもしれませんが、兵は、着いて居るのです。
織田軍も陣構えはしていません。
同じ陣構えをしていない状況ですが、今川軍は、兵力は多い、高台です。
条件としては、今川軍優位に変わりは、無いと私は、思います。
織田軍が一本道を行軍してくるのを、今川方からは、丸見えだったというのが定説なので、それでも陣形が整わないとなると、指揮系統の混乱でしょうか?
そうなると、今川軍ってどんなに弱いんだろうって事になってしまします。
更に、そうなると、他の説は必要なくなります。
今川義元が、三国を支配に置く大大名だと言うのが前提に有るので、色々な勝因が憶測されるのですから。