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――あと少しだけ、あと少しだけでいいんだ。
慣れた感覚。
体を蝕む闇を撫ぜて、押さえ込む。
あと少しでいいから、あの人に謝罪の想いを伝えたいんだ。
あと少しでいいから、あいつがこれからも生きられるように手伝いたいんだ。
きっとあの人は優しいあのお兄さんと結婚して、もしかしたら子供を授かるかも。そしたら私なんて忘れて、親子三人、幸せに暮らすんだろう。あの人は得意なピアノを弾いて、その子どもに聞かせてあげるんだろうな。それをあのお兄さんが優しく見守っていて、そんな理想的な家庭が出来るはずなんだ。
きっとあいつはあの意地っ張りな女の子と仲良くなって、悩みながらも笑って泣いて生きていくんだろう。昔を思い出して懐かしいと思ったり、これからはあんなことをしたいなんて希望を持ったり、そうやって毎日毎日を生きていくはずなんだ。そしてふいに楽しいなんて思って笑うはずなんだ。
“そのしあわせに、あなたはいないの”
昔言われたその言葉がふと頭をよぎる。幼い少女に見破られたそれに、私は笑ってごまかしたんだっけ。
思えばあの子にも不誠実なことをしたな、なんて小さく苦笑した。
――ああ、そうだよ、その幸せの中に私はいない。
私は不良品。欠落品。何度も何度も生きて死んで、分かっていた。決して長くは生きられない。「神様」曰くそんな存在なんだと。思わず左目の下に手が行く。あいつ等ほんと嫌い。何が印だよ、お前これただの泣きぼくろじゃねーか。やけに人間じみた面々を思い出して思わず苦い顔。
まあだから、その明るい未来に私はいられないんだよ。たった一瞬、そこでだけ生きる私は、君たちの未来にはいけないよ。
もう諦めたんだ。その先の未来を期待するよりも、今を大事にしたいって思ったんだよ。……なんてね。ここだけの話、後悔はしてばかりだけどさ。
「おにーさん、おはよう!」
無邪気に笑うこどもに、思わず笑う。
「うん、おはよう。髪ゴム、新しいやつ? 可愛いね」
きょとりと目を丸めて、口をとがらせて、私が指差した先に小さな手をやって、そうして漸く思い出したように笑った。
「うん、そうなの! 昨日ね、お母さんに買ってもらったのー!」
「そっか、すごい似合うね」
「ほんとう!?」
「うん、ほんとう」
世界で一番似合うよ、なんて小さい体を持ち上げて、くるくる回ればきゃらきゃら笑う。
かわいいなあ。そっと地面に下ろしてやれば、もう一回、なんてせがむ。目を会わせる様に膝をついて、だめーなんて意地悪を言ってみれば、ぷくりと丸いほっぺが膨れる。
いじわる! うん、おにいさんはいじわるなんです。
慣れたやり取りに笑う。平和だなぁとガラにもなく思って。本当は戦闘狂だったんだけど、なんていってみても今の知り合いじゃ誰も信じないだろうな。
昔は本当に情けない事に、人間不信になんてなったりしてさ。ごっこあそびに専念したりしたもんだ。まあそれ現実の話なんだけど。
昔の私は疲れ果てて、なにも信じようとしなかった。自分の感情すら信じず、のらりくらりと麻痺したような感覚の中を過ごしていた。
そうだね、多少は恥ずかしいとは思うよ。
それでも、休んだっていいんじゃないかななんて思ってるんだ。だって他の奴らは毎回毎回リセットしてるのに私はずっと生きっぱなしだよ? 記憶整理に休んだっていいだろ? そりゃまあ、もったいない事はしたけどね。でも、そう、今は楽しいから良いかなぁ。
「おにーちゃん?」
「んー?」
「好きだよ! わたし、おにーちゃんのお嫁さんになる!」
「……」
まじか。告白された。
十歳くらい年下のはずなんだけど。
「ねえ、おにーちゃんは? みきのこと嫌い?」
なにこの子、大きい黒目をうるうるさせるなんて卑怯な技何処で覚えたんだろう。
まったく、百戦錬磨のこのユキトお兄さんには効きませんよ。
「もちろん、だいす」
「ユキト!!! 何をしているんだ!?」
やべ、バレた。遠くから走ってくる金髪を見つけて思わず立ち上がった。
「うぐっ苦しい、レイア!!」
「黙れロリコン!」
「いやふつうに子供が好きなだけ……いたた、痛いよ」
がくがくがく
胸倉を掴まれて前後にふられる。ほんとこいつそろそろ手加減とか覚えたほうがいいと思う……!
「おにーちゃんをいじめないで! おじさん!」
「おっ……!?」
ぴたりと体が止まる。それでも胸倉はつかんだままなんですね、わかります。茫然とみきちゃんを見る姿に思わず笑う。
おじさん。おじさんだって、うっわかわいそ!
「やーい男だと思われてやんのーあはは」
「五月蠅い! い、いいか、僕は男じゃない」
「バカ! ばかーっおにーちゃんを放してよーっ」
「う……っ」
まったくこどもには弱いんだからなあ。半泣きでレイアをたたくみきちゃんにおろおろするレイア。かっわいーの。バカかわいー。子供は宝だよ、なんて前に言った言葉でも思い出しているんだろうか。可愛い奴。
やがて大きい方まで泣きそうになって、二人の間に入って。
二人の手を繋いで、宥めた。
――ねえ、これも幸せだって思ってるんだ。
記憶の中の幼い少女に答える。
この、平穏な日常が。
「なんで……」
色と色が混ざり合うぼやけた世界。
やけに目につく金色に、重たい腕を震えながら伸ばす。
咳き込み吐き出す血を耐えて、ああ、お前に頼みたいことがあるんだとしゃがれた声を絞り出す。
「――」
現世の、忘れ物。
ついこの間、出来たばかりなんだ。
私の、大切な母への私の謝罪。
私は貴方の幸せの結晶にはなれなかったから。
貴方はきっと私が貴方を恨んでいるだなんて思っているんだろうな。だから自分は幸せになんてなる資格がないなんて思っているんだろうな。
そんなことはないって、幸せになってくれって、そう言いたかったんだけど。
さすがに、余命数日の息子が帰って来たら貴方は余計に悲しんでしまうから。
なあ、レイア。
お前に、最期の頼みがあるんだ。
震える手で私の腕をつかむ。それじゃどっちが震えてんだか分かんないね、なんて笑って。
あの人に、私は貴方の息子で幸せだったって伝えてくれないか。
言わなくていいから、渡してさえくれればいいから。
なあ、頼むよ。
血族に執着なんてないんだけど、家族にはやっぱり情がうつるもんなんだよ。
あの不器用な、母親になりきれないあの人を、それでも母だと思っていたんだよ。
それから、ああ、お前にも、会えてよかったって、伝えなくちゃ――
口を開けば、ああもう時間切れかぁ。ごぽりと、そこから血が溢れ出る。
茫然とした君の顔が、最期。
さよならだね。
お前の困惑したような声が、小さくなっていく。
ああ、またお前に会うんだろうか。
そしたらまた、私はお前に恋とかするのだろうか。
ねえ、たった一つだけ。馬鹿みたいな夢を想像してもいいかな。
絶対に口に出したりしないから、君を苦しめたりなんかしないから。
思うだけでいいから。
ここだけの話。
本当はね、子供って、特に好きなわけじゃないんだよ。
ただ、お前がいて、幼い子供がいて。
それを見てると、まるで家族みたいだなんて勝手な妄想に浸って笑ってた。
つまり、うん、言いたいことわかる?
お前の子供が欲しかったな、なんて女々しいことを思ってたって、それだけ。
あーあ、昔はただ会えればそれで良かったのに。
欲張りになったものだよね。
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断つ。