フリーフォールのその後で
命綱なしのフリーフォールはもちろん初体験で、慣れない浮遊感と恐怖と、自分の悲鳴の大きさと、辺りの薄暗さと、既に勇者さんたちが見えなくなってしまった現状に美羽は、――結局動けない。
腕を必死に上へ上へ伸ばしても、掴めるものは何もない。ギャアアアという色気のない悲鳴をあげて、思いっきり背中を打ってバウンド。痛い。ぐるんとひっくりかえって、今度は下向きに落ちていく。
手を伸ばして、もがいて、再び衝撃。痛い。そこまで痛くはない。岩じゃあない。そいつはラッキー。でもまだ落ちる。
体が再びぐるんとまわって、尻、手、膝、後頭部と、順番にどこかをぶつけながら転がり落ちて、落ちて、ぐるぐるとタンブルウィードのように転がって、ようやく美羽の落下は止まった。
「いたたた……」
目に涙を浮かべ、地面に這いつくばりながら唸り声をあげる。美羽のうめき以外は何の音もしない。しかも暗くて何も見えない。どうしてこうなったかはわかっている。あの変態全身タイツの攻撃で地面が割れて落とされたのだ。しかも、美羽が一人だけで。
痛む体をしばらくさすって、美羽は待った。辺りは暗いけれど、真っ黒ではない。街灯のない夜の住宅街のような暗さで、少しずつ目が慣れていくだろうと思ったからだ。
かなり、絶望的な状況な気がする。
足元から手を伸ばしてくる哀しい想像をつま先で踏み潰しながら、美羽は奥歯を噛みしめた。こういう時こそ、平常心が必要なのだ。今こそ、美羽の妄想力が試される時。仲間たちがはぐれ、バラバラになる物語はいくらでもあったし、そんな時に彼らがどうやって窮地を切り抜けたか、思い出して実践していかなければならない。
不気味な二人の全身タイツ、「十一鋭」だという魔物たちとの戦いはどうなっているのか。
ちゃんとまともに戦っているか気がかりだが、それはよしとしよう。美羽は力強く拳を握って、最強の四人だか五人だか、とにかく選ばれし戦士たちの勝利を願った。もしも彼らがやられてしまったら、特にリーリエンデが倒されたら、美羽はこのまま地球へ帰されるはずだ。つまり、自分だけは安全な場所にいる。考えをポジティブな路線に乗せて、美羽は立ち上がった。
「そうはいくもんか」
全員で華麗に魔王を倒して、そして、再会の約束をして、笑顔でそれぞれの世界に帰るんだから。
ほんの少しだけ、暗闇の中が見えるようになっていく。
残念ながら心躍る異世界然としたものは近くになさそうだった。足元は柔らかい土のようで、あの固そうな岩山の中なのになあ、と考えて美羽は首を傾げた。そこはやっぱり、例の「異世界だから」なのだろう。そう納得するしかなく、ひとりぼっちの女子高校生はゆっくりと一歩、足を踏み出した。
落ちた穴の底はだだっ広く、背後は壁だが、前方は左右を含めて何も見えなかった。
さて、どちらへ向かったものだろう。
目印のない世界でどう動くのが適切か? 美羽は考える。行き当たりばったりでは多分、生き残れない。
「魔法のカバン、もらっておけばよかった」
あれさえあれば懐中電灯でもなんでも出せたのに。こう考えつつ、美羽は腰につけたポーチを探っていった。
入っているのは、妄想ノート、ボールペン、ドラゴンストラップが一本、紙コップが二つ、そしてチョコレートが三粒だけ。紙コップは潰れて、ボールペンはクリップが割れて折れてしまっている。
キャンディ型のチョコレートの包装をとって一粒口に放り込み、美羽はぐぬぬと唸った。
使えるアイテムはなさそうだ。
甘い香りのため息を吐いて、ストラップについたドラゴンを指で撫でていく。
これを出した時、殿下喜んでたなあとか、ヴァルタルが怒ってわけわかんなくなってたな、と思い出してちょっと笑って、くすくすと声をあげると、今度は急に心細くなってきて美羽は震えた。
一人ぼっちなのである。
灯りのないだだっ広い暗闇の中で、剣も魔法も使えず、翼も生えていないごくごくノーマルで純真で非力でモテない女子高校生がたった一人でいるのである。しかも、魔王のいる山の隣の、地下に閉じ込められちゃっているのである。
あえて見ないでおこうと思っていた現実が突然牙をむいてきて、美羽は思わず駆け出してしまう。たまたま向いていただけの方向へ、全速力で。
ざっくざっく、土を蹴散らして。柔らかいけれど、ひんやりとしている。そういえば、ウーナ王子のかけてくれた「二人だけがウォーミングの魔法」は解けてしまったのか、急に寒くなってきた気がする。さて、この後美羽はどうなってしまうでしょうか。
一、敵に見つかる。
二、餓える。
三、凍える。
さあ、答えはどーれ?
「ノーセンキューッ!」
立ち止まり、頭を抱えて美羽は叫んだ。
でも、まだ問題はある。
四、乾く。
五、トイレはどうする。
「やだやだ、やめてよ! ポジティブに! ほれ、ポジティブ出てこいや。正々堂々と出てこいや!」
頭をぶんぶんと振りながら、美羽は必死になって考えた。頑張れ美羽。あと少しだ。あと少しで、もう喉のところまで出かかっているよ、いいアイディアが。
ミハネ国の民も全員が城の前に集まって、心配そうに王の苦しむ姿を見守っている。みんなで揃いのミハネ様イラスト入りの旗を握りしめて、ハラハラしながら神に祈っている。
妄想の神よ、どうか、我らの王をお救い下さい――!
祈りは通じた。妄想の神はおっけー、と微笑み、素敵なアイディアを美羽に贈った。
「えーっと、六、新たな力に目覚めるーっ!」
「なかなか結構な案だ」
「ぎゃあああああああ!」
何の前触れもなく背後からした声に、美羽は人生で一番の悲鳴をあげた。
振り返るのが怖い。誰がいるの? また十一とか十二とかのふざけた連中なの。聞き覚えのない、でもちょっとカッコいい声。
そういえば十一鋭の変態たちは美男美女であり、声と口調だけは入れ替わっていて脱力させられてしまったけれど、ああいう美しい造形の敵さんたちとライバルとして何回かぶつかっていくうちに友情的なものが芽生えていくのっていいよね、とまず美羽は考えた。
今後ろにいるのがそういう、人間に近い造形でかつ、美しかった場合。聞こえてきたのは男性の声だったので、後ろに立っているのはグラマラスボディーのとんでもない美女かもしれない。だとしたらちょっぴり、嬉しいかも。
もしも、人生の終わりだったとしても。
終わりか、それとも、始まりか。
美羽は振り返れないまま、全身に力を入れてくうーっと唸った。
なにを言ってるんだ。
非戦闘員だけ分断されてはぐれるなんていう王道的な展開だと思えばなかなかロマンティックではあるけれど、あんまり悲惨な殺され方はしたくない。人質になって、やめて、いいの、私のことは! なんて勇者さんたちに向かって叫べたら胸が熱くなりそうだけど、自分のせいで彼らがボコボコにされる姿なんて見たくない。
逃げなくては。
一瞬で決意を固めて、美羽は一目散に走りだした。見えない明日に向かって。うん、本当に見えない。何も見えない暗がりの中、ひたすら猪突猛進、とにかく遠くへ。敵から離れなくっちゃ、ただその一心で駆けて駆けて、結局十メートル先でスッ転んで地面へ突っ伏す。
頭が真っ白に染まっていく。
足音が近づいてくる。
ヴァルタルがいてくれたら暗闇も怖くないし、あの大きな翼で飛んで逃げてくれただろう。
ブランデリンがいてくれたら、腰から提げたあの大きな剣を構えて戦ってくれただろう。
ウーナがいてくれたら、指先からありとあらゆる魔法を繰り出して守ってくれたはずだ。
せっかく一緒に呼んでもらったのに。最後は一人、こんな暗闇の中でこっそり骸骨にされてしまうなんて。
もしもあの勇者さんたちが美羽抜きで魔王を倒したとしたら? その時は、腐乱死体になってもとの世界に戻されるのか。もしそうなったら、家族がびっくりするどころではすまず、超不可思議な未解決事件として扱われ、いつかテレビで再現ドラマつきであれこれ論じられることになるだろう。
嫌だ嫌だ。美羽は突っ伏したままで震える。
でも、動けない。
頭の中に通り過ぎて行く、勇者さんたちの麗しい姿達。あれ、これ走馬灯じゃん! と美羽は焦る。助けて誰か! 素敵な勇者さんの誰でもいい。でも、リーリエンデは頼りないから、出来ればあいつ以外で!
満点の星空に煌めく一番明るい光が、キラリーンと瞬く。
美羽ちゃん、君に涙は似合わないよ。さあ、笑って。いつもの楽しい妄想を続けようよ!
と言ったかどうかは定かではないが、星は再び美羽の願いを叶えた。
異世界ファンタジー風ファッションの定番であるところのマントの首の部分を掴まれ、体がふんわりと浮く。焦り増し増し! 美羽は身を縮めて構えたが、結局、しゃっきりと立った姿勢になったところで「誰か」の手は離れた。
次の一撃も、ない。禍々しい気配だとか、殺気みたいなものも感じない。
こうなれば、振り返るしかない――。
女は読経、いや違う、度胸だ! と美羽が振り返るとそこには、暗がりの中ではあまりにも目立たない浅黒い肌の、邪神の祭司が立っていた。
「レレメンドさん……じゃん」
「いかにも」
「返事してるし」
こりゃあ罠だ、と美羽は笑った。だって、レレメンドが喋る訳がない。
「騙されないよ! 確かに姿かたちはかなり似せてるけど! レレメンドさんは喋らないしほぼリアクションしないんだからね!」
どやぁ! と美羽は腰に手をあて、胸を張ってキメる。
目の前に立つレレメンドに擬態したであろう何かは、大真面目な顔をしたまま微動だにしない。
かと思いきや、一文字に結んでいた唇を開いてこう答えた。
「九夜八昼の静寂は先程終わった。我が祈りは破壊神ディズ・ア・イアーンに通じ、この試練を乗り越えた私には更なる力が備わるだろう」
美羽は思わず、遠い目をしてしまう。何が何やら、一から十までわからない。
「えっと、キュウヤハッチュウって何?」
「九の夜と八の昼、ディズ・ア・イアーンへの信仰を試す、祭司に課せられた試練の一つだ。九日の間口を開かず、祈りを捧げ続けて神への忠誠を示すのだ」
「喋ったよね、ちょっとだけだけど」
「必要な会話ならば、五回まで話すことが許されている」
本当なのか、嘘なのか。さて、どっちでしょう!
ガランゴローンと鐘が鳴り、ミハネ国の緊急会議の始まりが告げられる。妄想家元の脳内には重臣、忠臣、近所の賢者様が揃って、本日何度目かの会議を早速始めている。急ぎの案件で、結論は「なるはや」で出さなければならず、出席者たちは自分の意見を口々に、大声を張りあげて主張していく。
「ミハネさん! マジッスよその人。ホンモノのレレメンドさんッスよ」
聞き慣れない出席者の声に、やんやんと騒がしかった会議場がしんと静まり返る。
誰だお前は、と目を見開くと、美羽の前に先程まではなかったはずの低木が生えていた。
「もしかして、ベルアロー?」
「はい、大正解~!」
バア、と枝を広げて出てきたのは、森の中で出会った顔だった。もしも、同じ顔の魔物がいないならば、の話だが。
「なんでここにいるの?」
「地割れが出来て、共に飲み込まれたからだ」
「おれっちは家に戻るところだったッスよ。いや、偶然ってあるもんスねえ!」
不安な暗がりが一気に明るくなったような。
そうでもないような。
美羽は悩む。
信じていいのか。信じてはならないのか。
「レレメンドさんは一緒に落ちたの?」
「そうだ。珍妙な姿の魔物が現れて地を裂き、他の者たちとは分断された」
その通り、正解なのだが、せめてレレメンドが普段からちゃんとおしゃべりしてくれているキャラクターだったら……! と美羽は悶えている。いつもと違うところがあって、正体を見破るだとか。話し方に違和感を覚えてやっぱり魔物だったのね! とか。そういうヒントが欲しかったのに、七日間も一緒にいて声を聞いたのはたったの三回。しかも、目を合わせずに、だ。
「なんで疑うんスかー。ホントにレレメンドさんッスよ。おれっちずっと見てたんスからね! どう見てもレレメンドさんッス。間違いないッス」
ただでさえわけがわからない状況なのに、横からガッサガッサと葉っぱを揺らしながら茶々を入れてくるベルアローのおかげで事態はますます混乱している気がして、美羽の顔は今日もブルドックそっくりに歪められている。
「ちょっと黙っててよ。考えてるんだから!」
「や、そうなんスか? じゃあ仕方ありませんからお口にトゥルリエーリしまスけども」
こんなやり取りはなんのその、レレメンドはシリアス極まりない表情で指をいつも通り、奇妙な形に組んでいる。
人差し指をどうやってそのポジションにやるの? という疑問には覚えがある。
「レレメンドさん、は、本物のレレメンドさんなの?」
「我が名はレレメンド・スース・クアラン。すべては、ディズ・ア・イアーンの意思のもとに。破壊の星が巡り来るその時のために」
そうだった。この人、破壊神にお仕えしてるんだった。
心の隙間に風が吹いていく。
お手あげだ。ヒントが無さすぎて、詰んでしまった。
同じ仲間で人類のはずだけれど、世界の滅亡のために生きる悪の司祭レレメンド。そもそも、本物かどうか怪しい。なにせ、敵の総本山のすぐ近くなのだから。
そしてもう一人は、明るくてフレンドリーだけれども、いわゆる「魔物」のベルアローだ。
信じていいのかわからない。
でも、信じなければ一人きりで動けない。
動かないよりは信じた方がマシか。
いつか、勇者さんたちが助けに来てくれるだろうか。
想像の翼が絡めとられて、心が動かない。こんなにも悲しい気分になったのは初めてで、美羽はきゅっと唇を噛むしかない。
「あっ」
忘れていた。魔法の水晶玉のことをすっかりと。エステリアに連絡を取って、せめて状況を伝えられれば。なんとかこの危機を切り抜ける方法が見つかるかもしれない。ユーリが捕まった時にもリーリエンデが駆けつけてきたわけだし――と、カバンを探る。が。
「あれ、嘘? どこいった!」
丸くて小さくってキラキラの、素敵なお姫様と話せる秘密の最終兵器はカバンから零れ落ちてしまったようだ。そりゃそうだ、あんなにゴロゴロ転がったんだから!
「あ、もしかしてこれッスか?」
明るい葉っぱがすかさず差し出してきたのは、間違いなく例のブツだ。
「ありがと……」
いいッスよー! とベルアローはひたすらに明るい。葉っぱの中の白い顔はにこにこと微笑んでおり、なんだか信じても、いいかも……。みたいな気分になっていく。
「ごめん、ちょっとエステリア様に連絡するね」
「はいはい!」
ベルアローは明るく、レレメンドはゆっくりと頷き、美羽は複雑な気分で水晶を覗くとエステリアの名を呼んだ。