決意、戦い、隠し玉、ビックリ、うっとり、煙
まずは足を一歩前へ。
そう思ったのに、右足が重たくて動かなかった。まるで根が張ってしまったかのように動かなくて、どちらの足もピクリともしなくて、美羽はほんの少しだけ笑った。
ニヤリと口の端に笑みを浮かべたまま、まっすぐ前を見つめる。斜めに傾いたベリベリアの姿は滑稽で、でも、明らかに怒りのオーラに包まれている。
その少し手前には三人の勇者たち。ベリベリアが、美羽がどうするつもりなのか見極めようと、視線を交互に向けて考えているようだった。
後ろには頼りにしていいのかわからない、あんまり期待できない二人。レレメンドが動いてとんでもない技を披露するなんて展開があればドラマティックで感激できるだろうけれど、その可能性はとてつもなく低そうだった。助けてはくれるけれど、積極的に動かない謎の祭司。その隣には、体力不足で馬鹿の可能性がかなり高いであろう魔術師。うん、やっぱり駄目だ。人の命を、ユーリの未来を守るために、もっともっと確実なやり方を探りたい。
美羽はまっすぐにベリベリアを見つめた。うっふんうっふん笑いながら揺れている。彼女の狙いは自分で、女の子を家に並べて楽しみたいという。
まずは、自分が身代りになるというべきだ、と美羽の頭で既に結論が出ていた。
前にいる三人の勇者たちは、自分を助けるために動いてくれるだろうと思える。信じられる。自分で言うのは正直とてつもなく恥ずかしいけれど、ウーナ王子はあんな情熱的に、うん、ええ、そうなんですよ。だってねえ、ほら……であり、頑張ってくれるはずだ。ヴァルタルの友情パワーにも期待はできる。彼は自分の周囲の人間のために、なんの計算もなく動いてくれる人間だと思える。ブランデリンは今日、本気を出して戦っている。彼だって、やってくれる。そう、信じられる。
美羽がこんな風に必死で自分を説得している間、心の中のミハネ国の民は大騒ぎだった。
いやいや、いけません王様。もし失敗したらどうするんですか。あなたがいなければ、勇者たちだってまたまとまりを失ってこの世界がどうなるかわかりませんよ、とミハネ国のお髭の大臣が言う。いやいや、大臣わかっておりませんな。彼らなら大丈夫です。小さくとも友情が芽生え、王に対しては確実に好意を抱いております。魔王を倒す実力を持った彼らを信じるべきです! これは、ミハネ国騎士団の若き騎士レオナーリが拳を振って叫んだ台詞だ。
ユーリはぐったりとしている。さっきほんの少し目を開け、口を開いて、それっきりだ。何か食べたのか、あのウネウネの拘束が解かれた時間はあったのか。もしもなかったのなら、トイレはどうしたのか。美羽の心は震える。ほんの三日間だけの付き合いで、ユーリについては「真面目で一生懸命」くらいしかわからない。あと、顔が超可愛いことくらいしか知らない。
でも、それで充分。自分よりも幼い少年に「自分のことはいいから」と叫ばせて、はいそうですか、なんて言えるわけがない。そんな主人公もたまにはいるけれど、最終的には「やれやれ手のかかる坊ちゃんだぜ」とかなんとかぶつくさ言いながら助けるべきであり、どう考えたって良心が許さなかった。
「今行くから、だから、先にユーリを離して!」
腹の底から声を出して叫ぶと、今度はすんなりと足が出た。
一歩前へ進んだ美羽を見てベリベリアはにたーっと笑い、しかし、首をぶんぶんと横に振っている。
「駄目ですわ」
「なんでよ。あんた、地面から変なニョロニョロ出せるんでしょ?」
「……いーえ、駄目なんですの! まずは後ろにいる二匹のオスからちょっと離れてもらいましょうか? おかしな真似をされたら、困りますわのね!」
美羽は軽く顔をしかめたものの、すぐに「わかった」と答えた。
リーリエンデはいかにも使えなさそうだとわかっても、レレメンドについては謎が多すぎる。今日はブランデリンに開始早々腕を切り落とされているのだから、ベリベリアが警戒するのは当然だ。
一歩進むと、ウーナ王子が美羽に向かって歩き出し。
もう一歩進んだところで、それをヴァルタルが留める。
更に一歩進むと、三人の勇者が集まって相談を始めていた。
ゆっくり進む間に、美羽の脳内王国会議も激しさを増していく。
危ない、今なら引き返せると叫ぶ大臣派と、勇者たちを信じるべきだと説く騎士団派。喧々諤々、会議室の空気は熱くなる一方で、結論はさっぱり出ないまま。
そして、黙ったままじっと席について目を閉じ続けていた「雪山に住まう賢者」ジェニシアがとうとう口を開いた。
「見よ」
その一言で、すべての参加者たちの視線がひとところに集まっていく。
「あの敵が何故、リーリエンデとレレメンドから離れろと言ったのか? もしかしたら、あの妙な根のようなものを出せる範囲には、限りがあるのではないか?」
ざく、と足が地面を捉える音が響く。地球の、日本製の登山用スニーカーはすっかり黒ずんで汚れているものの、靴擦れの類はできていない。
確かに、最初にベリベリアと遭遇した時はもっと近い位置にいた。すぐ目の前に突然現れて、それで随分驚かされたのだった。
そういえば、彼女は自由に現れたり、消えたりもできる。逃げられたら大変だ。今日助けられなかったら、ユーリが危ない。倒したいけれど、優先すべきは救出。
ぶら下がるユーリに目をやり、一歩前へ。
「だいぶ離れたけど!」
「あとちょっと進んで頂きましょうですわあ!」
やっぱり有効範囲内にはまだ入っていないのかもしれない。
視線をズラして、三人の勇者たちへ。三人は相談を終えたのか、美羽に向かって力強く頷いてくる。何かいい作戦でもたてられたのか。浮かびそうになる笑顔を抑えて、美羽は思いっきり苦々しい表情を作った。気取られてはならない。自分たちは「人質を取られて不利な立場で、敵の言う通りに動かなければならない」悲愴感を出していなければならない。
「まあ、まあ、ミハネ! いけませんのそんなお顔をしては。アタクシのお部屋に並べられるのは、愛らしいお顔のガーリーだけですので! 顔に皺の寄った子は修正してやるのですけれどよろしくって?」
「修正していいか悪いか、私が選んでいいの?」
「うっふんふふふん! うっふですわね、うっふふん。それはもうアタクシのフリーであり、リバティでございますので。確かにミハネ本人が……うっふふふ、うーっふふふふ」
こんなトークがツボに入ってしまったのか、傾いた体をますますのけぞらせてベリベリアは笑った。笑った反動なのか、ユーリを掴んだ根も揺れている。ブラブラ揺らされて気分が悪いのか、少年の顔は小さく歪んだ。
そしてその瞬間。
口を閉じたまま、ウーナ王子がすばやく手を振ったのを、美羽は渋い表情を保ったまま見つめていた。使ったのは風を操る魔術。ごう、と音がしたと同時に、ブランデリンとヴァルタルの体が吹っ飛んでいく。騎士の体はまっすぐ上に向かって生い茂る枝葉の先に。偽エルフは真横に、木々の向こうの暗がりへ消えていく。
「なんですの?」
笑いをようやくこらえたベリベリアを襲ったのは、騎士の鋭い剣だった。
「うおおお!」
木の上まで飛び上がって、枝をバキバキと折りつつ落ちてきたブランデリンは剣を振りおろし、ユーリを掴んでいた根を見事に斬った。
「ギャマアアアー!」
「ユーリ!」
まだ根にグルグル巻きにされて、意識が朦朧とした状態なのに。体は横向きになってしまって、あのまま落ちては頭を打つかもしれない。背後からはリーリエンデの悲鳴が聞こえてきて、やっぱりあのアホ師匠は使えないことが確定していく。
美羽は足をすくませながら、目を閉じるべきか開けたままにしておくべきなのかわからず、動けずにいた。真っ青な顔の少年が落ちていく様子は、まるでスローモーションのようにゆっくりと目に映っている。
王子の魔法でなんとか。いや、魔法は駄目だ。ベリベリアのそばではかき消されて無効になってしまう。思わず振り返って、リーリエンデに向けて叫ぶ。そのはずが、自分の声が聞こえない。でも確かに叫んだようで、師匠は悲しげな顔を両手で隠してイヤイヤしていた。その隣にはレレメンドが立っていて、そっと手を伸ばしてリーリエンデの肩を掴もうとしている。
再び、美羽は振り返る。狼になる魔法もベリベリアのそばへ行けば解けてしまうのだろうか。だったらリーリエンデに頼るのは無理だと諦めつつ、急いで振り返る。
すると、あまりにも意外な光景がそこに広がっていた。
「なにそれ……」
最後の希望は一人、残っていた。ヴァルタルだ。彼ならやってくれるかもしれない。リーリエンデへの深い諦めの中にふっと差してきた光に希望を託して、美羽は振り返る。
そこには希望通りの光景が広がっていたのだが、ちょっと意外過ぎて美羽は思わず尻餅をついていた。
ユーリは地面に叩き付けられることなく、ヴァルタルに抱きかかえられている。
問題はユーリではなく、ヴァルタルの姿だった。上半身裸で細マッチョの「いやーたまんないわーもう食べちゃいたい。いいえ、むしろ私を食べて!」と中年女性がよだれをたらしそうな引き締まったセクシーな体。はおいといて、その背中から大きな白い翼が生えて、空まで飛んでいる。
狂ったように雄叫びをあげ、ベリベリアは地中から新たな根を生やしてヴァルタルを追っていた。それを軽やかにかわし、木々の間をすり抜け、暗い緑色の葉を撒き散らしながら偽エルフ改め翼エルフはどこまでも華麗に舞っている。
「羽根が生えたニンゲンなんて、聞いたり見たりした覚えがないですのですのですが!」
完全に上空に意識を取られたベリベリアの背後にふっと、影が差す。
「終わりだ」
根を切った後自らも地面に落ちて、しばらくゴロゴロ転がって痛みに耐えていたはずの騎士がそこに立っていた。
無駄なおしゃべりを一切許さず。
その剣は容赦なく、この世界の誰よりも速く振り下ろされる。
「嘘ですわ……。そんな、バカな。十認魔の……アタクシが……? ニンゲンの、小汚い、こんなマヌケなオスどもに……」
背後に立つ騎士を振り返りながら、ベリベリアの最後のトークタイムが始まっていた。乾いた木の皮のような肌にはヒビが入ってみるみる広がっていき、全身をまるでメロンのような模様で彩っていく。
ピシピシと音を立てる体にぶるっと震え、悲しげに赤い瞳を輝かせると、ベリベリアの視線は美羽に向けられた。
「汚いんじゃござあませんの? 羽根なんて、羽根なんて、……ちょっと、ズルいと思うんでございますけれどもねえミハネ」
それについては、完全に美羽も同じ気持ちだ。ヴァルタルの背中に生えた翼は真っ白で、まるで天使のような神々しさに満ちている。バッサバッサとこれ見よがしに羽ばたきの音を立てて、翼エルフは美羽の隣に下りたつと、真っ白い歯を輝かせてニッコリと笑って見せてきたりもしてもう鼻血のスタンバイは完全にオーケーだ。
「アンタも、何いきなり張り切って……、許せませんのね、この、でくの……う……」
それは、ブランデリンに向けられた言葉なんだろう。でも、ベリベリアは振り返ることが既に出来ないようだった。背中から斜めに切られて、今は体が前に倒れてしまっている。地面から生えるようにして立っているベリベリアの体はもう、ポッキリと折れる寸前だ。
めりめりと音を鳴らしながら、ゆっくり、ゆっくり、前へ倒れていく。
「感謝する、十認魔のベリベリア。私に再び、戦う機会をくれた」
ズッギューン! とくるのは、本来ならベリベリアのはずなのだろう。彼女が「小汚くて臭いニンゲンのオス」の言葉に心を揺さぶられているかはわからない。もう顔が見えないほどに体が倒れているし、何の言葉もないからだ。
そこで代わりにといってはなんだけど、と何故か言い訳をしつつ、カッコいいブランデリンの姿に美羽のハートはときめきマックス。両手で剣を構えた姿がキマっているし、キリっとした太い眉毛が凛々しくて、鋭い眼光の中には騎士の精神というかなんというか。戦う男の勇ましさがぎゅっとつまって濃縮還元されていた。その目の中に浮かんでいる光を宝石にして、小さな穴を開けてビーズにできるのなら、私だって手芸を趣味にしてもいい。美羽はそんな風に考えて、鼻血はみんなに心配をかけるしダメージがあるからと抑え、かわりによだれをたらりーんと垂らしていた。
敵への敬意を示すと、返事を待たずにブランデリンは剣を振りおろして、初めて「ちゃんと手強かった」中ボスにとどめを刺した。
不気味な姿のベリベリアは地面に大きな音を立てて倒れ、体からパラパラと表皮のかけらをばらまいていく。
空中にホコリや塵が舞いあがって森の空気は白く染まったものの、やがてすべてがゆっくり落ちていって、「碧の海」には静寂が取り戻されていった。
「すごい。すごいすごい! みんなすごい!」
すべてが終わって、改めて美羽は混乱の中にいた。
ブランデリンを褒めたいし、ウーナ王子の熱い視線にどう答えたらいいかわからないし、ヴァルタルにはそういえばそうだった。翼があったんだった。
「ブランデリンさんカッコよかった!」
騎士のゴツい鎧の胸をぺちぺちと叩き、視線はまず、上半身裸の翼エルフへ。やん、恥ずかしい。でも褒めちゃう。
「ヴァルタル、翼が生えてるの?」
「まあな!」
ニカっと笑顔を浮かべ、ヴァルタルはハッハッハ、と明るく笑っている。まさか「まあな」で済ませるとは。突っ込みたいが、でも、本当に一番に優先しなければならないのは別なことだと気が付いて、美羽は慌ててリーリエンデのそばに駆け寄った。
役立たずの師匠の腕の中にはユーリがいるが、ぐったりとしたまま、目を閉じたままだ。顔色も冴えない。美羽はユーリの手を取り、強く握って呼びかける。
「ユーリ、ユーリ、もう大丈夫だよ」
「うう、ありがとうございます。勇者様たち! ユーリを、我が弟子ユーリを助けて頂いて! 無事で良かった!」
ペコペコしつつ、リーリエンデは弟子をぎゅうぎゅうと抱きしめている。
やがてユーリは苦しそうに顔を歪めると、小さく唸って、ゆっくりと目を開けた。
「ユーリ!」
「ミハネ様……」
無事だった。意識が、取り戻された。やったね万歳、やっぱり正義は勝つんだもんね! 美羽の心に春が来て、民たちも喜び舞い踊り、早速パーティの準備を始めている。万国旗を張り巡らせ、お皿を何十枚も用意して山積みにして、キャッキャキャッキャと大騒ぎ。
するのは、まだ、早かった。
「コキタナイ……ニンゲンのオスドモ……ニ……、ワザワイアレ……!」
滅びたと思っていたのに。
やっぱりそれなりに根性があるから、魔王様に実力を認められているからこそ中ボスだったということなのか。
ベリベリアの放った漆黒の矢はまっすぐに、勇者御一行様に向けて飛ぶ。
ブランデリンがウーナ王子を庇ってかわし、ヴァルタルが美羽を抱きかかえるようにしてよける。
そして矢の行き着いた先は、可愛い弟子を力いっぱい抱きしめたリーリエンデ。
地面に伏せてよけようとしたが、遅かった。
弟子を庇うように抱きしめた師匠の背中を矢が射抜き、小さな悲鳴があがったと同時、リーリエンデの姿はまっ黒い煙になって暗い森の中に溶けて、消えた。