真夜中の訪問者
乾いた足音は近付くにつれ、速度を落としていく。
タタン、タタンと鳴るその音は、四足の獣のものだ。
真夜中、深い森、獣。ここまでに生き物を見かけなかったこの地に現れる獣は、恐らくは「敵」。
ヴァルタルがすぐさま立ち上がって、美羽をかばうようにして前へ出る。手には細い棒が握られているが、酷使されたせいか、当初よりも随分曲がってしまったようだ。
「またジューニンマの一人とかだと、ちっと困るな」
ウーナを起こしてくれ。そう言われて、美羽は急いで眠っている三人を起こしていった。よく眠れるもんだという思いを、いやいや、こんな場所で眠れる人こそ強いのだと気が付いて打ち消していく。
「どうした、ミハネ」
「何か来てるの。ブランデリン、レレメンドさんも起きて!」
「来たぞ!」
ヴァルタルの緊迫した叫びに、全員が立ち上がる。
暗闇の向こうに浮かび上がる白い影。みるみる近づいて来て、誰かの唾を飲み込む音が響いた。
大きい。
獣は足を地面につけているのに、美羽よりも大きい。グレーのふさふさの毛に覆われたその姿は、まるで狼のよう。瞳は金色に輝き、距離が詰まって赤みを帯びていく。
無言のままウーナ王子が前に出て、その隣でヴァルタルが低く構える。
二人を見守る美羽の前に、ふっと黒い影が躍り出た。
「ブランデリンさん」
騎士からは何の言葉もない。けれどまるで、美羽を守るために立ちはだかっているかのようで、こいつは心ときめくシチュエーションでえらいこっちゃと、マネージャーの体はカッカと熱くなっていく。
「止まれ!」
ヴァルタルが叫び、手元に光を集めていく。
王子も手を広げて前に出し、迎撃の体勢を整えている。
巨大な狼。その正体は一体!
アイキャッチの音楽が美羽の脳内で流れたその瞬間、狼の姿はぼうっと霞んだ。
みるみる人に姿を変えていく。
長い長いねずみ色の髪をなびかせたひょろっと背の高い男。長いローブを身にまとっていて、それをひらひらと揺らしながら、何故か、地面にふんわりゆったり、倒れていく。
「なんだ?」
ズザアッと倒れた男は、ぜえぜえと胸を上下させたまま動かない。指を時折ピクピクさせるくらいで、顔は地面に向けたままだ。今にも窒息しそうな真下を向いたその姿勢に、見ている美羽の方が息が詰まっていく。
「敵じゃないの?」
「どうだろうな」
ヴァルタルがそばによって、男の体をツンツンとつつく。棒の先でつつかれる様はなんだか道端に落ちている犬の糞のような扱いで、えもいわれぬ哀れさが漂う。
「魔王の手先には見えねえけど」
「油断はしない方がいい」
王子は容赦なく、小さな炎の弾を作って背中に投げつけている。
「ビャーッ!」
悲鳴が上がり、男の体がひっくり返った。
「やめ……、ろって……」
ぜえぜえはあはあ、息も絶えだえに男が呟く。
「なんだお前は? 敵じゃあないのか?」
「わた……り……でだ……」
「はあ?」
長い耳を男の口に突っ込みながら、ヴァルタルは聞き返している。汚い。長い耳の先端部分には触覚はないのか、それとも偽エルフ流の挑発行為だったりするのか。真実はわからないが、とにかく男はむせている。
「ごほっ、うぼっ!」
「聞こえねえなあ」
嬉しそうに嫌がらせを重ねるヴァルタルを止めて、美羽は男の体を起こし、水を渡すことにした。
姿形は完全に人間のものだし、この様子ならとどめはいつでも刺せる。土気色の顔を見ていたらなんだか哀れな気すらしていた。
水を渡されるとあからさまにほっとした表情を浮かべて、男は長い時間をかけて呼吸を整えていった。ぜえぜえが、ようやくふうふうに改善されて、ようやくハッキリ見えた顔には明らかに知性のきらめきが浮かんでいるような、そうでもないような。
長いねずみ色の髪は、四つにわけられてゆるく結ばれている。変な髪型だが、目つきは鋭い。意地悪そうに吊り上がった眉毛と目、少しばかり長い鼻に、唇はカラカラで、ギブミー! ギブミーウォーター! と叫び出しそうな乾き具合だ。
パッと見三十才前後に見える男は、長い長い時間をかけてやっと回復すると、意外過ぎる自己紹介を始めた。
「なんてことをしてくれるんだ、まったく……。異世界の者たちは人として当然の常識すら持ち合わせていないとみえる」
「あなたは誰なんですか? もしかして、リッシモ国の人?」
「そうだ。弟子が捕えられたと聞いて、慌てて駆けつけた」
男の息はまだ荒い。切れ切れになった台詞から浮かび上がった謎の新キャラの正体に、美羽は思いっきり眉間に皺を寄せた。
「弟子って」
「私の名は、リーリエンデ・リュウルルー。ユーリが捕えられたと聞いて、居てもたってもいられずに君たちを追いかけてきたのだ」
ユーリの師匠でもあり、自分たちをこの世界へ勝手に召喚した主であるリーリエンデの登場で、キャンプは一時中断されていた。それどころか二つ目の魔法の天幕が登場して今、美羽たちは暖かい部屋の中でほっと安堵の息を漏らしている。不安な野宿は一気に解消。やったねボタンがあったら一万回は押すところだ。
奥山家から取り出した麦茶ボトルやその他もろもろをどうしてくれようか、いやでも、あれがなければもっと悲惨な状態だったわけで……、とモヤモヤしつつ、意地悪そうな顔の召喚術師を全員で囲んでいた。
「ユーリはどうなったんだ。生きているのか?」
「多分。敵の名前はベリベリアといって、魔法が効かない上に抜け目のない奴だったんです」
「魔法が効かないだと……」
まずは現状を説明しろと居丈高な態度だったお師匠様の顔色は、早速真っ青になっている。
「俺とウーナの攻撃は効かなかったんだ。明日までに森の東の端に辿り着かなきゃ、ユーリの命は多分ないだろう」
ヴァルタルにこう言われ、師匠は最早泣き出す寸前まで表情をぐにゃんぐにゃんに歪ませている。
顔立ちの割に気が弱く、ついでに体力もないらしい。
勢いが良かったのは最初だけで、散々あうあう言った挙句、立ち上がったと思ったらめまいでもしたのか、フラフラと後ろに倒れていってしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
「君、おい、ヴァルタルエルガルセルレルエル。私は君よりもずっと年長の人間だ。言葉遣いに気をつけたまえよ」
体を支えてもらった上に、丁寧に座らせてもらっておいて出てくるのはそんな台詞なのかい。美羽はそう思い、多分ウーナ王子とブランデリンも似たようなことを考えたんだろう、表情が渋い。
「はあ、腰が痛む……。必死で走って来たんだ。ここまで、長い長い道のりをたったの一日で駆け抜けてきたから、体が痛くてたまらない」
「わかったよ、しょうがねえ奴だな」
「言葉に気をつけたまえよ、ヴァルタルエルガルセルレルエル」
「ヴァルタルでいいよ」
ベッドにうつぶせで寝かせ、腰を揉んでいるヴァルタルはなんていい奴なんだろう。偉そうな口だけ師匠とは印象が雲泥の差だ。
とりあえず、お城に住んでいる人が来てくれたのは良かった。魔法のカバンの補給が回復したし、魔法の天幕の安心感はこれ以上ない福音となって美羽たちを包んでいる。
しかし、リーリエンデのつかみどころのなさには少し、辟易させられていた。
狼に変身できるらしいが、全力で走り過ぎて返事すら出来ないまま倒れ込んでいるし。横柄な態度をとったかと思えば、魔法が効かない敵の存在に震えている。腰が痛いなんて弱音をはきつつ、年長者は敬え。
リーリエンデという響きからてっきり女性なんじゃないかと思っていたのに。美羽はチラリと視線を向けて、またブルドッグのような表情を作った。
「ああー、うん、そこだよ、そこ……」
うっとりうとうと、師匠は目を閉じて一人、夢の中へ――。
「この人ホントにリーリエンデなのかな?」
騙りなんじゃないの? と首を傾げる美羽に、ウーナ王子が応じる。
「あの水晶玉で、エステリア女王に確認できないのか」
「そっか」
巨大ビー玉サイズの水晶玉の存在をすっかり忘れていたと、カバンを探る。
「ああ、でももう真夜中だよ。エステリア様、もう寝てるんじゃないかな」
「そうかもしれないが、非常事態だ。女性同士なら問題ないだろう。我々の安否に関わることなのだから、確認した方がいい」
それまでおちおち眠れないからな、とウーナは唸る。
水晶玉を手のひらに乗せて、美羽は悩んでいた。これまで受信専用で二回使っただけのそれを、送信モードにするには何をどうしたらいいのかよくわからない。
「エステリア様……」
ガラス玉に向かって話しかける自分の姿はイケメンたちの瞳にどう映っているだろう。間抜けなんじゃないか。そんな羞恥心が美羽を襲う。
「エステリア様ー」
「ミハネ様! ご無事でいらっしゃいましたか」
小さな水晶の中に、フリルでヒラヒラの上着を羽織ったエステリアが映っている。
「ああ、良かった! すみません、起こしちゃって」
「いいえ、心配していたのです。ミハネ様たちがご無事かどうか。それにリーリエンデがそちらへ向かうと飛び出してしまったのです」
「来ましたよ、自称リーリエンデさんなら」
通信可能な時間は短い。やってきたお師匠様の特徴をかいつまんで伝えると、間違いありませんとエステリアは微笑んだ。念のために水晶を寝顔の前にかざして、面通しも済ませておく。
「ユーリが心配でたまらなかったようです。リーリエンデは大変な知識の持ち主。少し気難しいところもありますが、ミハネ様たちの力になるはずです」
気難しいところがありそうなのは、既にわかっていた。でもこうして改めて気難しいですよ、なんてダメ押しされると少し気が滅入る。
「リーリエンデさんって」
言いかけたところで通信は切れてしまった。いつどうやってどのようにパワーが蓄積されているのか謎な水晶玉が、次に使えるのはいつなのだろう。
一日一回、せいぜい五分程度しかもたないようだけれど、とりあえず師匠の本人証明は出来たのでよしとすべきか。
「私たちも休もうか」
美羽が振り返ると、レレメンドだけは既にベッドの中だった。マイペース過ぎる祭司様に思わず憧れてしまう。
自分もそっとベッドに横たわって、美羽は目を閉じた。
この暖かさと安心感は何にも代えがたい貴重なもので、リーリエンデが来てくれて本当に良かったと思う。挨拶もそこそこに筋肉痛を訴えた挙句眠ってしまった辺りは、大人としてどうなんだとしか思えないが。
眠らなきゃ。
明日のうちに助けに行かなければ、ユーリが死んでしまうかもしれない。
でも、眠りすぎないようにしなくては。
みんな疲れている。うっかりぐうぐう寝こけてしまっては、東の端に辿り着けないかもしれない。
めざまし時計を取り出せばいい。こんな素敵な思い付きに、美羽は微笑む。アラームがちゃんと鳴るよう仕掛けておけば、安心して眠れるだろう。
魔法のカバンを引き寄せて、中を探る。
確か使っていない、商店街のくじ引きの残念賞でもらったシブいデザインの時計があったはずだ。
シルバーの板状の時計を〇時に合わせて、アラームは六時に合わせておく。今が何時なのか、六時間も寝ちゃっていいのか、少し悩んだ。けれど、疲れ果てた体は休めなくてはいけない。自分だけではなくて、他の面々たちもそうだ。六時間以上惰眠を貪ることにはならないんだから、よしとしよう。
自分に言い聞かせて、再びベッドにばふんと倒れ込む。
目を閉じれば、瞼の裏には可愛い少年の笑顔が浮かんだ。
明日の朝支度をしたら、確認していこう。
ウーナ王子に補助魔法が使えるかどうか。ブランデリンが戦えるかどうか。ついでに、リーリエンデにも便利な裏技を持っていないか。
明日が本当の、「初めての中ボス戦」になる。
お話の中の勇者や冒険者たちも、こんな風に緊張して眠れなかったんだろうか?
自分が作ったもの、大好きで何度も読んだり遊んだ話のキャラクターたちに思いを馳せて、美羽は小さく微笑んだ。
異世界召喚、やっぱり、いいかも。
悪い方の「もしも」のことは忘れよう。
世界を救う勇者になれる体験なんて、自分のリアルでは絶対に出来ないんだから。
目を開けたら壮大な夢でした、みたいな展開がありませんように。
そう祈りながら、美羽は眠った。