相互理解と、乙女心と、お約束の引き
ブランデリンの額から流れ落ちていく一滴の汗を、美羽はじっと見つめていた。
前髪の下からつつーっと落ちてきた汗は、眉毛の横を通り、目に入りそうで入らないギリギリのラインを通り抜けていく。ゆっくり、ゆっくり。騎士がごくりと唾をのむと、揺れて汗は一気にすべり落ち、最後の粘りを見せてやるとばかりに顎にぶら下がった。
しょっぱそうな汗のしずくが揺れる。口を小さく開いて、閉じて。ブランデリンは覚悟が決まらないのか、乾いた唇を何度も微かに動かして、唸るような声を小さく漏らしている。
「私は……」
苦しげな囁き。美羽の隣では限界がきたのか、ユーリがかっくんと肩にもたれかかってきた。可愛いので、不問に処す。それにまだチビッコだし。ユーリを受け止めたまま、美羽は待った。次の言葉はなんだろうと。
最強の剣の使い手である騎士。戦いの要として、魔王を倒すべく呼ばれた勇者。勇者という単語は幅広く「戦える者」をさすのだろうが、それでもやっぱり、戦いの花形は剣を持った戦士、剣士、騎士の類。これが斧やハンマーだと一気に蛮族感が増しちゃうよね、と美羽は勝手に考えている。
その花形の活躍はいまだに見られないままでいる。ここまでの道中、あっさりさっさと倒してきたけれど、相当な数の魔獣が一行の前に立ちふさがってきた。そのすべてを倒したのは、ウーナとヴァルタルの「二人は最高」コンビだ。
ブランデリンの腰には長剣が提げられていて、美羽としてはそれがシャキーンと音を立てて抜かれる様が早く見たい。見たくてしょうがない。
それなのに。
「私は……、病に、侵されているのです……」
ウーナ王子、ヴァルタル、そして美羽の三人がじっと見つめる中でようやく吐き出された「答え」。その意外過ぎる言葉に、誰もがしばらく声を出せなかった。
レレメンドは祈っているのか眠っているのか、とにかく目を閉じたまま動かないけれど、最早誰も突っ込まない。
「病だと?」
ウーナ王子は眉をキリリっとあげて、青い瞳で騎士を射抜く。
ブランデリンは体を小さく小さく縮めて一言、「はい」とだけしか答えない。
「病で体が動かないのか?」
「……そういう、ことに、なります。それに、私は、……弟の結婚式に、どうしても出なければなりません。この世界で、果てる訳には、いかないのです……!」
さっきよりもずっと大量の汗をかきながら、ブランデリンはテーブルの上に置かれたカップに向かって答えていく。
ヴァルタルはどうやら泣き上戸だったらしく、騎士の戦えない理由を勝手に胸の中で膨らませたのだろう、涙をポロポロ落とし、腕でごしごしと顔を擦っている。
「召喚術師が間違えて呼んでしまったということか?」
ウーナ王子はため息をついて、ユーリへ視線へ移すと改めてまた二つ目のため息を吐き出した。
「疲れているのも当然か。寝かせてやろう」
「俺がやるよ」
気のいいエルフが立ち上がり、ユーリをベッドへと運んでいく。丁寧に布団までかけているあたり、お母さんのような優しさも持ち合わせているようだ。むにゃむにゃまどろむユーリの背中を何回かぽんぽん叩いて、しっかり寝付いたと確認をしてからヴァルタルはうん、と大きく頷いている。
「で、病気ってことは、戦うと良くないのか? ブランデリン」
そして、顔色の悪い騎士のすぐ隣にやってきて、なれなれしく肩を抱いて揺すった。
返事が特にないのを「深刻な肯定」として受け取ったのか、苦しげに顔をしかめて今度は背中をバンバン叩いている。
「わかった。わかったよ。戦いは俺達に任せておけ。俺は明日からちゃんと心を入れ替えて、ウーナと力を合わせていくようにする。張りあうんじゃなくて、協力するから。大体、ユーリとミハネも戦えないんだから、俺が突っ走るのが一番良くないよな。本当に、これまで済まなかった。俺は、自分勝手で愚かなガニーバだったんだ……」
そこまで反省しなくとも、と言いたくなる程小さく蹲って、ヴァルタルはもはや床と一つになる寸前だ。
「ヴァルタルさんは悪くありません。私が、ちゃんと話しておけば済む話で」
「結局、ミハネの言う通りだったというわけだ」
ブランデリンがエルフを立たせ、ウーナ王子が呟く。
三人は何故か並んでまっすぐに立つと、美羽に向けて揃って頭を下げた。
「ちょっと、そんなことしないで」
「いや、ミハネはお互いを理解すべきだと何度も言ってくれた。それなのに、我々は勝手だったのだ。知られたくないことを伏せ、互いを認めようとしなかった。こんな愚かな救世主では、救えるものも救えない」
代表して話す麗しの殿下の言葉に、二人はいちいち頷いている。
「仲良くしてもらえるのは嬉しいよ」
「後はあいつだけだな。ちょっと、怖いんだけどよ……」
ヴァルタルが顎で指示したのはもちろん、レレメンドだ。彼だけは別世界、見えないガラスの壁の中にでもいるかのように、静寂を身にまとって知らん顔を決め込んでいる。
「とにかく今日はもう休もうか」
「そうだな、そうだな! 明日からはもっと、仲間らしく一緒に歩いていくんだから」
偽エルフの号令のもと、勇者たちは散っていく。それぞれ寝床に入って、明日からの旅に備えて休む為に。
美羽は一人、音を立てないように忍び足で天幕を出て、やれやれと息を吐き出していた。夜の森の中は完璧に真っ暗で、何一つ見えるものがない。見上げても見渡しても黒一色で、エステリアと通信できればと思って出てきたものの、この光景は少し恐ろしすぎた。
慌てて戻って、そっと中央のテーブルについて座る。
妄想ノートを取り出して、開く。
さっきの熱いぶつかり合いでわかった情報を書いて、それぞれのページを充実させていく。
ウーナ王子は、マッチョ至上主義の王家とは縁が切れている。
ブランデリンには持病があって戦えず、死を恐れているらしい。
ヴァルタルは情に厚くて、感情移入しやすく、とてつもなくなれなれしい。
そしてとにかく、レレメンドのページが埋まらない。彼もいつか「真の仲間」になる日が来るのかどうか、美羽にはわからなかった。
そして思い出すのは、祖父の顔だ。特にカッコいいわけでも、リッチなわけでもない、でも優しい祖父のいる小さな縁側付きの庭。今度あそこに行ったら、異世界に行って魔王を倒した話をしてあげようと美羽は思う。「とうとう現実との区別がつかなくなったのかな?」と言われそうな気もするが、なんといってもファンタジー世界への憧れを植え付けたのはママじいじなのだから。一度くらいは聴いてもらいたいし、聞かせたい。呆れながらもニコニコ笑って、ちゃんと最後まで付き合ってくれるだろう。
ノートを閉じて、立ち上がる。明日の為に寝よう、そうしようと一人美羽が頷くと、突然目の前に黒い影が現れた。
「ひゃあっ!」
あまりにもいきなりで声をあげてしまったが、そこに現れたのはレレメンドだった。
「ごめん、いきなりだったから、ビックリしちゃった」
浅黒い肌に、ウェービィな長い髪。彫りの深いくっきりはっきりとした目鼻立ち。凛々しく太い眉毛はいかにも意思が強そうだ。
目の前で見たのは初めてで、あら結構品のある顔立ちですね、と美羽は思う。
突然立ちはだかった邪神の祭司は、適当に布をグルグル巻いた風の服の胸元から何かを取り出している。小さな丸い、貝殻のような白いものの中に指を突っ込んで、それを美羽の顔にぐいっと押し付けてきた。
「何、何?」
祭司はやっぱり答えない。ペタペタとしたそれは触れればヒヤリと、爽やかな香りを放っている。それを美羽の鼻から眉間にかけて塗りつけると、レレメンドは無言のまま自分のベッドへ戻っていってしまった。
何を塗りつけられたのか。鏡があればわかるのに、と美羽は首を傾げている。でも、鏡なんかあったかどうか?
はたと思いついて、美羽はそっとブランデリンのベッドに近づいた。脇に置かれた兜を持ち上げてみると、かなり重い。こんなものを頭に乗せて、よく動ける。そう感心しつつ、部屋の真ん中の明りのそばへと近づいていく。
結論、兜は鏡の代わりにはならない。びろーんと広がった自分の間抜けな顔を見つめながら、美羽はこんなあまり役に立たない豆知識を一つ増やした。
けれど、顔の真ん中付近に妙な色が付いている様子はない。もしかしたら紫や緑、はたまた青いラインでも引かれて、邪神に仕える巫女のメイクでも施されたのではと心配していたのだが、杞憂に終わったようだ。
「よー、おはようミハネ、おっ? いやあ、良かったな!」
翌朝、美羽が最初に聞いたのはヴァルタルのこんなセリフだった。ピカピカの笑顔を浮かべ、耳をぴょこぴょこ揺らしながら、美羽の肩をバンバンと叩いてくるのは何故なのか。
「何が良かったの?」
「顔だよ。鞭がぶつかって、あとがクッキリついていたから……。ちゃんと治るか心配してたんだよ」
「あとがついてたの」
「そうだぜ。顔のど真ん中に、おおきなバツがクッキリな!」
なんですと、とさすがの美羽も焦る。
まだ花の十六才、これまでに彼氏がいたことのない可憐な花が、これから先素敵な誰かと恋して、愛し合い、真っ白いウエディングドレスに身を包んで両親への手紙を涙ふきふき読まねばらない、輝かしい未来が待っているはずの女子高校生の顔に大きなバツがついているだなんて!
「うえーっ、うぇええーっ!」
「落ち着いて下さい、ミハネ様! バツは綺麗さっぱりなくなってますから」
ユーリは慌ててごそごそとカバンを漁り、手鏡を取り出して美羽に渡す。
「ホントだ」
美羽の顔には小さな目ヤニがついているくらいで、赤みや腫れの類はない。
「もしかして、あれって薬だったの?」
レレメンドは朝の冥想中らしく、いつも通りまったく動かない。
「ありがとレレぴょん!」
こんな風に呼びかけてみても、反応はゼロ。徹底したその態度に、むしろあっぱれなヤツかもと美羽の評価は上がっていく。
朝ご飯の時間は、心なしか和気藹々。しているように、美羽は思った。
ウーナ王子の隣でヴァルタルは嬉しそう。二人が仲良くなったとユーリは微笑み、レレメンドはいつも通りの超空間で過ごしていて、ブランデリンは蚊帳の外。
「ブランデリンさん、具合どう?」
ぼっち力を増してしまった騎士の隣に座って、美羽はつとめて明るく話しかけた。パンをちぎっている手を止めずに、ブランデリンはぼそぼそと「大丈夫です」と答えてくる。
「薬とか、必要だったりする? それがなくて不安だとか」
「いえ、薬なんて。ありません。……治りませんから」
しょぼぼんしょぼぼん、暗いオーラが滲み出て天幕に広がっていく。
この健康そうな大きな体のどこが悪いというのか。医者の心得のない美羽には、どうにも判断のしようがない。
ちらりと振り返ってみても、レレメンドは一人、無言のまま咀嚼を続けている。祭司の様子を見ていてわかったのは、とにかくよく噛んで食べているということだけだ。多分、顎の力は強く、虫歯はないだろう。
すっかり暗いムードになった朝食を終えて、魔法の天幕を片付ける。
「さあて、急ぐとするか!」
ことさらに大声で宣言したのは、人のいい偽エルフことヴァルタルだった。
「早いとこ倒して戻ればいいんだよな。なあブランデリン、心配するな。俺とウーナがどんなヤツだって倒してやるから」
王子の肩を叩きながら、ヴァルタルは笑う。
いいムード、超いいムードこれを待ってた! と目頭を熱くする美羽だったが、次の瞬間、心をひやりと撫でていく冷たい声が響いた。
「ウッフフフン……。そう、うまくいくかしらね……?」
けだるく甘く、そして、重々しく。
朝日の射さない暗い森に、奇妙な姿の「敵」が浮かび上がっていった。