妄想家の生まれた日
今日はご用事があるから、おじいちゃんのところに行っててね。
母からこう言われるたび、美羽は心に翼が生えたような浮かれた気分になったものだった。
小学校低学年くらいまでの幼少時代、美羽とその兄は母が不在の時によく祖父のもとに預けられていた。この祖父は母親の父で、子供たちからは「ママじいじ」と呼ばれている。
奥山家から徒歩でわずか十五分くらいの距離に住んでいるママじいじは、妻を早くに亡くして一人暮らし。
母の実家であるその家には小さな庭があって、ママじいじは古めかしい縁側で美羽たちによく本を読んで聞かせてくれた。
美羽の母は一人娘で、つまり美羽と兄はママじいじにとっての唯一の孫で、二人に対してとにかく甘い。あれ買ってといえば二つ返事でオッケーを出し、お菓子だろうがおもちゃだろうがすぐに買ってしまうチョロイじいじだ。
いくらなんでも簡単に買い過ぎ、とある日ママはじいじをきつくシメてしまい、それから許可なく買っていいものは「本」だけになった。
だからママじいじがお迎えの日は必ず、本屋に寄り道をするのがいつもの二人のデートコースだ。
この日も気に入っている絵本の続編を一冊買ってもらって、美羽はとてもご機嫌だった。
「美羽はおりこうさんだなあ。こんなに字がいっぱいあるのに」
「だって、フリューの冒険のつづきが気になるんだもん」
小学二年生の頃、美羽は「フリューと妖精の旅」というシリーズに大ハマリしていた。
お城に仕えることになった兵士見習いの少年が、憧れの騎士様のお供に選ばれ世界を旅していく物語だ。最初に足を踏み入れた「まどろみの森」でフリューは妖精と出会い、特別な力を得る。それを生かして、魔物を倒したり宝を手に入れたり、封印を解いたりまた封じ直したり、たくさんの冒険をしていく。
騎士のアランはとてつもなくかっこよく、フリューは機転が利いて賢い。妖精のアーリーは可愛いし、お城で待っているお姫様については言わずもがな、である。
「ママじいじ、ぎょい、ってなあに?」
「んー。ぎょいっていうのは、わかりましたっていう意味かな」
「へんなの。ぎょいって、誰も言わないよ」
「王様とか、お殿様相手の時に使うんだ。その辺に王様やお殿様はいないから、使う機会はないかもなあ」
美羽のお気に入りのママじいじの縁側は、初夏は特に気持ちよく過ごせる場所だった。小さな庭には花が何種類も植えられていて、今も白や紫、ピンク色が爽やかなグリーンの中にあしらわれている。日差しはポカポカと気持ちよく、母に内緒で買ってもらったオレンジジュースも、他の場所で飲む時よりも美味しく感じられた。
「いいなあ。王様とか、お姫様とか、美羽も会ってみたい」
「それは難しいなあ」
ママじいじは優しい顔で笑い、可愛い孫娘の頭を撫でる。一緒に預かるはずだった兄は友達の家でゲームをする約束をしたとかで、この日は不在だった。
「妖精さんは?」
「ん?」
ママじいじはゆっくりと、遠い空を見上げた。
空には大きな雲がぽっかりと浮かんで、のんびりのんびり流れていく。
「ママじいじは妖精さんとおともだちなんでしょ?」
「よく覚えていたね、美羽」
美羽が初めて「フリューと妖精の旅」を読んだのは、まだ四歳の時だった。その頃は話が難しくて理解ができず、なんとなく妖精の絵が可愛いなと思うだけでしかなかった。
まだこんなに字が多いのはわかんないわよ、と娘から冷たく言い放たれて、祖父は斜めに首を傾げると、美羽にそっとこう耳打ちした。
「ママには内緒なんだけど、じいじは妖精さんと友達なんだ」
輝く薄紫色の羽根を生やし、ピンク色のふんわりとしたドレスに身を包んだ可愛らしい妖精。幼稚園の女児にとっては憧れのスタイルを持ったそれと、じいじが友達とは。
美羽は喜びを隠しきれず、全身をうずうず、ふるふる揺らしながらママじいじを見つめた。
「ママにはないしょなの?」
「ああ。ママだけじゃなくて、誰にも言ったらいけないよ。妖精さんは人に見られるのが嫌いなんだ」
「みはねには、あわせてくれる?」
「いい子にしていたらね」
美羽は大きく頷いて、それから次の日まではとてつもなくお利口さんにして過ごした。
四歳児の日常は刺激と新しい発見に満ちていて、妖精さん発言はあっという間に忘れ去られていく。
そういうものなんだと、祖父は思っていた。あの後美羽はすぐに、変身して悪と戦うアイドル少女たちのアニメに夢中になって、妖精のことはすっかり忘れていたようだった。
あれから四年近く経っているのに、今更思い出したのかと、ママじいじは困った顔で頭をポリポリ掻いている。
小学二年生ともなれば、妖精さんだのサンタさんだのは実在しないことくらいわかっている。美羽もわかっていてあえて、唐突に思い出した「妖精と友達」発言について、嘘だったんでしょと祖父に意地悪を言ってみたくなっただけだ。
「妖精さんはちょっと、今日は留守かな」
「ずっと留守なんでしょ?」
バツが悪そうな祖父に向けて、美羽はふふんと笑ってみせた。オマセな笑顔に、じいじは参ったな、なんて呟いている。
「お姫様は、本当にいるんだよね」
「いるね」
「わたし、お姫様になりたいなあ」
お城に住んで、ドレスを着て、王冠をかぶって、馬車に乗ってパレードをして。
それで、時々その国の代表として外交の場に出るのだ。純和風よりも、洋風がいい。フリルと宝石がついたドレスを着て、大きなバルコニーから民衆に手を振りたい。フリューとアランが跪いている冒険の報告をする相手、ミルラ姫のように。
それは絵本の世界の話なのか。妙なリアリティの混じった孫娘の言葉に、祖父は小さく笑った。
「美羽は可愛いから、大きくなったら美人になるよ。どこかの国の王子様にプロポーズされたらお姫様になれるかもしれないな」
「みはね、かわいい?」
「可愛いよ、とっても。おばあちゃんとよく似てるから、大きくなったらそりゃあ美人になるだろう」
「そういうの、のろけっていうんだよね?」
「本当に、女の子にはかなわないな」
じいじを見事に打ち負かして、美羽はふふんと笑った。うまくやりこめてみせたが、可愛いとほめられたことは純粋に嬉しい。ほっぺを押さえながら体をくねらせ、美羽は上目遣いで再び祖父を見つめる。
「みはねは王子様のお嫁さんになれるかな?」
「お妃選びは厳しいよ。前に読んだ、なんだっけなあ。ボンタとドラゴンの話にも」
「ボンタじゃないよ。ベンダーだよ」
「それだ。それとドラゴンの話に、王子様がお妃を探すシーンがあっただろう」
この言葉に、美羽はにっこりと微笑んだ。
ママじいじにはたくさん本を買ってもらったし、それらすべてを読んでもらった。パパやママは少し面倒そうなのに、ママじいじだけは一緒になってドラゴンだの妖精だのを楽しんでくれる。本を読んだ後は感想を言い合って、最近では意見の交換もしていた。
ドラゴンはどうして人間を襲ったのか? 騎士たちはどうして、王の為になら命をかけられるのか? 妖精は何故、心の清い人間にしか見えないのか?
両親に同じ質問をしても、返ってくるのは適当な「なんでだろうねえ?」だけだ。でも、ママじいじなら一緒になって考えてくれる。返事はとんちんかんなものが多かったけれど、真面目に答えてくれるその姿勢は嬉しくてたまらないもので、美羽にとってママじいじは「特別な」人だった。
「おばあちゃんみたいな美人になったら、お妃さまになれる?」
「美人なだけじゃ駄目だよ」
「あ、頭が良くないとだよね。外国のいい大学出ないと」
「すごく現実的だ」
ママじいじは嬉しそうに笑う。大好きな人が笑って、美羽も嬉しくなる。
ピカピカの可愛い笑顔が愛しくてたまらず、祖父は孫娘の頭を撫でる。
「確かに、外国の大学なら王子様との出会いもありそうだ」
「うん!」
「でも、それよりもっと大切なことがあるよ」
「え?」
お姫様といえば、とりあえずルックスが良くなければ格好がつかない。たまには、顔があんまりよろしくないお姫様が主人公の話もあるけれど。
そこまで考えて、美羽はぱっと右手をあげて答えた。
「わかった! なにがあっても、失われないプライド!」
「うん。うん……、それも大事だなあ」
ママじいじは苦笑いしながら、お茶をずずっと啜る。
「あ、そうか。品性だ。お姫様はみんな上品だもん」
「そうだね。下品なお姫様はちょっと、悲しいな」
小二女児のおませ度に驚きつつ、ママじいじは孫娘に向かって微笑むと、胸をとんとんと拳で叩いてみせた。
「あ、もしかして、やさしさ……?」
「そうだよ。大事なのはハート、心だ。お姫様はやっぱり優しい心の持ち主じゃなきゃ」
「そうか。意地悪なお姫様なんて、みんな好きにならないよね」
絵本だけではない。アニメでも、意地の悪い女の子は嫌われている。そういう子は大抵、周りに優しさを教えられて、反省して心を入れ替えるようになっている。心を入れ替えた後に、やっと幸せが訪れるのだ。
「ねえママじいじ。どうしたら、優しい女の子になれるかなあ?」
縁側で足をブラブラと揺らしながら、美羽は小さく首をかしげた。
愛らしい仕草にちょっとキュンキュンしながら、祖父は優しく微笑みかける。
「相手の気持ちになって考えたらいいんじゃないかな」
「相手の気持ち?」
「そうだよ。もしも嫌なことをされた時、嫌なことをしてきたからあなたなんてキライ、じゃあなんにもならない。相手がどうしてそんなことをしてきたのか、想像して考えてみるんだ」
「そうぞう……」
「どうしてそうなったか、理由を考えたら、美羽の受け止め方もきっと変わる。人の気持ちって見えないし、わからないものだけど、どんな風か想像することはできるだろう?」
この日美羽は家に帰ってから、まず日記帳に「そうぞうしてみる」と書きこんだ。
辞書で「そうぞう」という言葉を調べると、「自分で経験していないことを推し量ること」と書かれていた。次に「推し量る」を調べ、また知らない単語は調べて、美羽はとうとう理解した。
自分の体験していないなにかを、頭の中で思い描いて考える。人の気持ちを、知らない世界を、目を閉じて、一体どんなものなのか考えていくことなのだと。
美羽の大好きな、「フリューと妖精の旅」。
実際には、フリューも、妖精もいない。魔法の薬を作る老婆もいないし、羽根の生えた馬だっていない。けれど目を閉じれば、彼らは美羽のすぐそばに現れるのだ。
祖父の言った「想像してみなさい」はまた別な意味だったと、美羽が気が付いたのはその四年後の話。
それはそれで理解して、でもその頃既に、美羽は一流の妄想家になっていた。
胸の中にはいつでも巨大な翼を広げた竜が。
赤い絨毯の先には、うやうやしく頭を下げた騎士がいる。
玉座の上には立派な髭を蓄えた王がいて、宝石をちりばめた冠を輝かせていて。
城の出口には巨大な門。大きな歯車が回って、扉は音を立てゆっくりと開いていく。
向かう先は、海の向こうの未知なる大陸か、それとも神の住まう山々か。
腰には剣、真っ赤な長いマントを翻し、振り返れば旅の仲間が、すぐそこに――。
「あ、目を開けました! ミハネ様、良かった、大丈夫ですか?」
ぼやっと霞む視界の中に浮かんだのはユーリの顔で、美羽は何度か瞬きをして、十秒たってからようやく、自分が夢を見ていたと気が付いていた。
「そっか……。鞭が当たって」
「そうですそうです。良かった、記憶もしっかりされてるんですね」
ユーリの向こう側に見える光景からして、魔法の天幕の中のようだ。明るくて、暖かい。
美羽がゆっくりと首を動かすと、隣のベッドでウーナ王子が横になっているのが見えた。それはもう綺麗な綺麗な横顔で、途端に顔の筋肉がでれでれと緩んでいく。
「元気そうじゃねえか」
呆れた声はヴァルタルのもので、エルフ男はユーリの向こうから顔を出すとまず、謝ってきた。
「悪かったよ、お前に当たっちまうなんて、……本当にすまなかった」
口調はそっけないものの、耳が最大限まで下がっている。最早たれ耳と言っていいくらいのその様子に、可愛いヤツめ、以外の感想が出て来ない。
「ウーナ王子は? 大丈夫なの?」
「ええ、ウーナ様はお疲れなだけで、レレメンド様が体をほぐしたらこの通り、眠ってしまわれました」
「そっか。良かった」
鼻血のアーチを見たんだっけ、と美羽は自分の顔を指でこすった。血でべっとり、なんて事態にはならず、ほっと安心して身を起こす。
天幕の真ん中にはテーブルと椅子があって、ヴァルタルはその横に立ち、ブランデリンはがっくりと肩を落とした状態で座っていた。もう一人は何処か、左右を見渡すと、レレメンドは隅っこの方でヨガの達人的な奇妙なポーズをとっており、ぴくりとも動かない。
「どのくらい寝てた?」
「今はもう夜ですよ。僕たちはもう食事を済ませてしまったんです。ミハネ様、お腹が空いたでしょう?」
「うん、そうだね。それより喉が乾いちゃった」
すぐに水と食事が用意され、美羽はテーブルについた。
ユーリは給仕の為に隣につき、向かいに何故かヴァルタルが座る。
「おい、腰抜けも」
「はい」
偽エルフに呼ばれ、ブランデリンもその隣に座った。
「どしたの?」
「どしたの、じゃねえ。いくらなんでも、戦えない女にケガをさせるなんて酷すぎる。あのクソ王子も起きたら、一緒にちゃんと反省しなきゃなんねえって話してたんだよ」
ヴァルタルの言葉に、ブランデリンもものすごい勢いで首を振って同意している。
「ふふ」
「なんだよ」
どうしてあの日の祖父の話を思い出したのか。
わかった気がして、美羽は思わず微笑んでいた。
「そうなんだ。大事なのは、想像することなんだよ」
相手の気持ちを慮ること。
未知なる世界について、考えを巡らせていくこと。
「おじいちゃん、ありがとう」
脳裏にママじいじスマイルが煌めく。祖父は微笑んだまま、「死んだ人みたいな扱いはやめてくれよー」と愛する孫娘に訴えた。
「魔王倒したら、久しぶりに遊びに行こうかな」
「どこへですか」
「おじいちゃんのとこ」
ユーリはごくりと唾をのむ。
十万歳の魔女の祖父だなんて、何百万年生きているのか。それどころか、もしかして「魔王」だったりして――。
そんな少年の思いそっちのけで、美羽は一人、腹ごしらえを済ませていった。