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8月10日 10時25分 清水良

肩にかけた小銃をかなぐり捨て、良は第一機械開発室を飛び出した。セーフティ・デバイスを解除せんと地下三階の配電室に向けて猛然と走る。

足音を殺そうともせずに階段を二段飛ばしで駆け下り、地下階へ。地下一階アクアトロンの青い一本道を走り抜けた。

この時──僅かにも目線を水槽に向ければ、彼はセイレーンが水上に群がっていることに気がついただろう。そして、そのプールサイドの壁に座る自身の幼馴染と樋口の姿も見えていたに相違ない。

だがしかし、セーフティ・デバイスの解除しか頭にない良は脇目も振らずに走り、二人に気付くことなく地下一階を後にする。

プールサイドの二人も良の通過を知りえないままだった。


地下三階、配電室。膝に手をつき呼吸を荒く呼吸をした良は、立ち上がり室内を見回す。

薄暗いそこの殆どを占めるのが、研究センターの電気系統を司る直方体の機器だった。彼の背丈を優に超える高さのベージュの筐体が5個も6個も、8畳ほどの部屋いっぱいに詰め込まれている。人が立てるスペースは筐体同士の僅かな隙間だけであった。

室内の埃っぽさは、普段配電室に人の出入りが殆ど無いことを示している。そして同時に、埃の堆積した床に着いている足跡によって、近日中に何者かが配電室に足を踏み入れたことを彼に教えてもいた。足跡の主はセーフティ・デバイスを展開した樋口なのだが、良にそのことは知る由もない。

彼は狭い通路を進み、そして、奥に一つだけ悄然と置かれた、艶消し黒の筐体──セーフティ・デバイスに近づく。彼の腰ほどの高さであるその機器の上面にある、キーボード配列の白いボタンを弄って、どうにかして妨害電波の展開を解除しようと試みた。

セーフティ・デバイスの動作はコンピューターのOSによって管理されている為、筐体上面のディスプレイにはMacのデスクトップが表示されている。壁紙はデフォルトされたセイレーンが両手に大盾を構えている、アメコミタッチのイラストだった。画面左から飛来する稲妻──起爆装置の電波を大盾がはじき返している。

良はキーボードを操り、デスクトップ上唯一のアイコンからセーフティ・デバイスのソフトウェアを開いた。黒背景のウィンドウは妨害電波の周波数、展開距離等の細かい設定数値でびっしりと埋まっている。画面の左上、ツールバーの『ファイル』から『電波の解除』を選択した。

と、画面が切り替わる。相変わらずの黒背景に水色で『解除コードを入力してください』と表示される。しかし、4桁×3つの計12の文字コードを良は知らない。

コードを入力できない以上、セーフティ・デバイスの解除は不可能だ。彼は腹立たしげに機器を蹴ると、怒りでたぎった頭で思索をする。

──どうやって妨害電波を切るか・・・。

真っ先に浮かんだのは機器の破壊だった。だがしかし、鈍器や爆発物などの破壊道具も持ち合わせていない上、果たして人力で破壊できる程度の堅牢さなのかも分からない。道具を調達してでもやってみる価値はあったが、最終手段だろうと彼は判断した。

だとすれば、どうするか。爪を噛み低い声を漏らす。

──セーフティ・デバイスを正規の方法で解除するには解除コードを知る必要がある・・・。

良は正攻法で妨害電波を切る術を探した。

知っていそうなヤツを探して吐かせるか?・・・いや、そんなことをしている時間は無い。機械室での戦闘で警備兵の発砲による銃声が施設に響き渡っていた。百野木は──いや、百野木を含む此処にいる全ての研究員はあの音で俺の潜入に気付いただろう。逃げる前に殺さなくては。

逃げる前に殺せ。

全員殺せ。全匹殺せ。一つ残らず──殺せ。

自身への殺害命令は幾度もリフレインする。まるで自らに催眠をかけているかのように、何十回も。

烈火の如き憤怒とは正反対な、氷塊の様な冷静さは、そして思考の果てにこの状況の打開策を見出した。

彼は筐体同士の隙間に出来た狭い通路を抜け、彼は部屋の最深部に立つ。

壁の分電盤に手をかける──開かない。懐から消音器のついた拳銃を取り出し、暗証番号入力の文字盤ごとロックを破壊した。扉を開き、中のレバー──研究センターの全ての電気系統の大本であるブレーカーに手をかける。

──正規の方法で電源が落とせないなら、強制終了するまでだ。

彼は躊躇なくレバーを下げた。

暗転。地下階は太陽光も差し込まない為、照明を切ったことにより完全な闇が訪れる。セーフティ・デバイスのある方向に目を向けても、ディスプレイの発光は見られない。

暗闇の中で再び狂気的に笑んだ良は、ポケットから起爆装置を取り出した。

妨害電波はたった今切られた。現在起爆装置から動物兵器を守るものは一つとしてない。生身のセイレーンに、インドラに、そして人間に、電波はまっしぐらに襲いかかることだろう。

良はスイッチに指をかける。安堵と歓喜の様相を浮かべ、全てを『強制終了』しようとした。

だがしかし──二度目の押下は行われることがなかった。

視覚の封じられた状態が、代わりに彼へ鋭敏な聴覚をもたらしたのだ。ごく小さなその音を耳に捉え、彼は起爆を踏みとどまる。

それが何を指すのか気付き、良は焦燥に駆られた。

ヘリコプターの飛行音。百野木達が自分の計画に気付き、屋上からの逃亡を図っているのだろう。だが、研究センターはヘリを所持していない。つまりは他所から呼び寄せたということになる。

ヘリが現在未着陸ならば、百野木らは屋上にいる。その場合はこのまま起爆装置のスイッチを押せばいいだろう。しかし、既にヘリが彼らを乗せ離陸している場合は?

彼が恐れている点はそこだった。自分の聞いた飛行音が、着陸と離陸、どちらの際の音なのか不明なのだ。

そして、後者の場合、爆発によって百野木らを殺すことが出来ない。

歯噛みした良は、手探りで壁の懐中電灯を取ると、配電室を出た。今度は殺人の為に屋上へと駆けていく。

その目には再び復讐の火が宿っていた。


8月10日 10時22分 桑原文香


一階の階段で留恵と別れた数分後、文香は爆破計画を阻止するために、良を探して二階の廊下を小走りで進んでいた。拳銃を携えた彼女は、絶え間なく辺りを見回して恋人の姿を捉えようとする。だが長い直線の廊下には、良はおろか研究員の姿もない。研究センターの人口密度を鑑みればそれは当然のことであり、文香自身も、つい先日までの自分が勤務していた時と変わらない風景であると分かっていたのだが、それでもこの寂寞とした空間に普段とは異なるものを感じざるをえなかった。喩えるなら、赤透明の下敷きごしに見えるどこか異世界を想起してしまう景色──そんな視界のニュアンスが、文香の目に映るもの全てに存在していた。

本人は気付いていないが、文香がそのような違和感を抱いている原因は彼女自身の心理状態にある。転校が間近に迫った学生が、見慣れた校舎の風景を新鮮に思ったり、不治の病に侵され余命いくばくもない人が、生きることの素晴らしさに気付いたり──どちらにも共通しているのが、終了をその本人が感じているという点だ。そして、文香の場合は『自らの爆死』と『此処からの逃亡』の2パターンを自身の終了として無意識下で感じていた。死亡すれば勿論のこと、良や研究センターの目論みの阻止に成功した場合でも、裏切り者である彼女はこの地に戻ることはないからである。

良の捜索をしながら、同時にこれも無意識的にではあるが、見納めという意味で景観そのものを眺めてもいた彼女は、しかし次の瞬間自らの使命を思い出させられた。

唐突に響く乾いた銃声。彼女は僅かに身をこわばらせたが、取り乱すことなく、すぐさま目を閉じ思考する。

──東からかしら・・・!?

発砲が行われた大体の方向を耳から割り出そうとしたが、耳を澄ませても既に銃声の残響もない。その為、彼女の予想はあくまでも予想に過ぎなかった。

──音の大きさからして銃は地上階で撃たれた。多分私のいる二階だろう。となれば、発砲したのは地下にいる留恵ちゃんじゃない・・・。ましてや私である筈がない。

つまり。

今のは良が研究員を銃撃した音、もしくは研究員が良を銃撃した音。

──音のした方角に、良がいる・・・。

銃声は死神の呼び声だ。銃殺とは生を望む人間が矛盾にも切り開いた死への道の一つだ。そして銃とは魔法のランプよろしく、上手く使えば多くの願いが叶う道具、偽の神具だ。無論、願いを叶えるのは神自身ではなく、死の道を提示された唯の人間なのだが。

現在に限って言えば、銃声は良か研究員の負傷を表す。既に警備室での惨状を目の当たりにしてしまっている文香にとっては、留恵みたく良に殺人をしてほしくない、と願うことはしたくても出来ない。彼女は良を救うことを半ば諦めていた。彼が鬼と化した状態でなくなったことを救いと呼ぶとして、仮に説得の果てに彼を救えたとしても、殺しという既成事実は消えることなく在り続ける。良の潔白を守ることは既に不可能なのだ。

救えない自分に出来るのは、止めることだけだ。文香は第六感にも近い聴覚を頼りに、東へ向けて静かに走った。

その途端に、今度は怒号が彼女の鼓膜を震わせた。心臓が跳ね上がる。目を見開き、うろたえる彼女は、怒りの咆哮であり、悲しみの絶叫でもあるその声を、考えるまでもなく良のものだと察することが出来た。昨夜、神戸のコンテナで受けた暴行。その際に良が発した怒号と、なおも響くこの叫びとが完全一致していたからだ。

叫びの音源は、やはり東だ。彼女は恐怖を押さえつけて、良のもとへと急ぐ。

廊下を曲がった文香は、15メートルほど先に人影を見た。そして直ぐに、それが紛れもなく清水良だと悟る。良とのデートの際、彼女がプレゼントしたライトブルーのチェックシャツを、今や血に染まって赤黒くなったその服を、その人物が着ていたからだ。

文香は瞠目し、息を呑んだ。良の血塗れの様相を、彼の負傷が故のものと思ったが故である。

しかし当の本人、良は苦しんでいる様子を一切見せずに、肩にかけていた小銃をかなぐり捨てると、背後の文香に気付かないまま廊下を走っていく。文香は良を追走した。

だが彼女は廊下の一角、良の元々いた場所を過ぎたあたりで唐突に立ち止まる。正確に言うならば、彼女の意識とは関係なく足が止まったのだが。

良は既に廊下を曲がり、文香の視界から消えていた。だが、彼女は再び走りだそうとせずに、恐る恐る後ろを振り返る。良が立っていた場所は、第一機械開発室の前だった。部屋の扉は開いているものの、彼女のいる場所からは室内は窺えない。だが足を止める前、彼女は走りながら、視界の端に一瞬だがそれを捉えていた。足が止まるに至った原因であるそれを──殺人現場を。

開いたドアの奥に広がっているであろう凄惨な光景。血の海。臓器の臭い。転がる骸。紅い部屋。

既に一度、殺人現場を見ているという経験は、けして彼女に慣れによる恐怖の緩和をもたらすことは無かった。それどころか、フラッシュバックした警備室の光景が、今見たそれと一緒になって、二重苦として彼女へ襲いかかる。

激しい立ちくらみを感じた彼女は、壁に右半身を預けて呼吸を整えた。吐き気を無理矢理に抑え込む。何も出せるものは残っていないというのに、胃はきゅるきゅると蠢き続けた。

後ろを振り返った状態で、そして彼女は躊躇する。

殺人現場を見るか否か。

その葛藤は僅かな時間で解消された。文香は見ないという決断を下したのだ。

良は生きてこの部屋から走り去った。つまり撃たれたのは研究員である。文香はかつての研究仲間が死体として第一機械開発室に転がっている惨状を見ることに、耐えられる気がしなかった。

まだ間に合うかもしれない。再び良を追おうと走りかけたその時、しかし文香は室内から漏れる小さな声に気付いてその場に留まる。

──生存者がいる・・・!

後ろを振り返る。と、血染めの白衣を着た研究員──熊谷が廊下に這いずり出ていた。

「熊谷さん!」

悲痛な叫びを上げた文香は、熊谷のもとへ駆け寄りしゃがむ。

熊谷は震える真っ赤な手を伸ばすと、文香の手首を強く握った。柔らかな肌に爪が突き立てられる。

「く・・・桑原・・・」

息も絶え絶えに呻く彼の表情は、血に加えて涙にもまみれていた。

取り乱した文香はかける言葉もすべき応急手当も見つけられず、ただそのグロテスクな死体予備軍の放つ生命の臭いに圧倒され目を見開いていた。

「クソが・・・お前ら・・・絶対、に・・・許さ・・・・・・!!」

目はうつろだというのに、声は背筋が凍りつくほどの怨恨に満ちていた。死ね、と途切れることなく呪いの様に呟き続け、より一層強く、彼女の手首を握る。小さく悲鳴を上げた文香は、直後に熊谷の意図することに気付き肌を粟立たせる。

「違います!私は良の仲間じゃない!」

そう諭し、文香は熊谷の手をほどこうとした。だが誤解は解けず、どれだけ力を込めても手はがっちりと彼女をつかんで離れない。

そうこうしているうちに、熊谷は彼女の腕を引っ張り地面へ押し倒した。血まみれの体で彼女にのしかかり、首に両手をかける。気道が圧迫され、塞がれた。息ができない。もがいても、熊谷の体を退けることが出来ない。

酸素が脳に行き渡らず、意識が霞む。熊谷の呪詛が頭蓋骨に響く。朦朧とする。

そのさなか、文香は肉食獣が如き唸り声を至近距離で聞いた。

──殺される・・・!

刹那、彼女の自己防衛の本能が熊谷への同情と仲間意識を上回った。右手に掴んでいた拳銃で、文香は躊躇なく熊谷の額を撃ち抜く。間の抜けた声を出し、彼は──否、彼の死体は、脳漿を飛び散らせて文香にしなだれかかった。

吐き気の域など軽く凌駕した。今の彼女は何も感じない。ただ死体を体に乗せて、思考を喪失して、右手を無造作に投げ出して──それでも拳銃を握る掌には力が込められたままで、廊下の血の海に寝ていた。

現時点では、彼女は何も感じていない。殺人の罪悪感も、喪失感も、恐怖感も。だが、時間の経過の末に思考が再び可能になった時、殺人者を止めんとした結果が、自身の殺人者化であるという激烈な皮肉に彼女が自虐的な可笑しさを見つけたとなれば、いよいよ発狂は近い。

そして、熊谷の死から数分が経過し、彼女の無意識は状況判断を行い始めた。自分の姿勢と、体に乗っている物体の正体、そして手にある物。記憶からではなく、それらの要因から導き出される、自分のした行為。彼女はそれに気がついた。

「・・・は」

発狂の発作的な笑いに繋がる声が彼女の喉から発せられる。自らに課した使命も、留恵に託した使命も、例外なく意識の埒外に置かれていた。いつ精神が崩壊してもおかしくない。

文香は腕をまわし、死体の背中に触れる。幾多の穴が空いた肉塊も、掌を濡らす液体の熱さも、極上にして醜悪な笑いを生みだす。

そして、彼女の精神が修復不可能に崩れ去るその時は来た。断続的な笑い。双眸は極限まで開かれ、口の端から涎が一筋伝う。

彼女と正常な精神を繋ぎ留めるものは次々に千切れ、無くなっていった。

しかし、発狂するまさにコンマ数秒前──突如研究センターの照明が切れたことによって、彼女は気つけ的な刺激を受ける。地上階の照明が切れたところで、太陽光がある為明暗はさして変わらないのだが、廊下に仰向けに寝転がり、天井の蛍光灯が視界の中央にあった文香にとっては中々の変化が感じられたのだ。

──私は・・・!?

彼女はすんでのところで正気に留まった。そして思考をも取り戻す。体の圧迫感に気が付き、次いで自分に折り重なるように倒れている物の正体にも気付いた。悲鳴を上げ、失禁しつつも、彼女は反射的に熊谷の死体を押しのける。返り血に塗れた自身の体と、そうなるに至った自身の行為を改めて思い起こして、文香は地面にうずくまり慟哭した。


8月10日 10時30分 高崎留恵

「な・・・何が起きたの?」

完全な闇の中、樋口がいるであろう方向に向けて私は話しかける。

「分かるわけないよ。もっとも停電が起きた、ということだけなら分かるんだけど、留恵ちゃんが求めてるのはそんな言葉じゃないっしょ?けど理由なんて僕には知る由もないしね・・・」

饒舌ながらも、彼の言葉の端々からは不安を感じ取れた。突然このような事態になって驚かない人間などそうはいないだろう。

と、僅かな灯りがともった。樋口が携帯電話を開いたのだ。

「げ、電池残量9パーセントか。・・・まあいいや、それより留恵ちゃん、これからどうする?というか、どうするも何も選択肢はそんなに無いんだけれど・・・これはちょっとどころじゃなくマズイことになったよ・・・!」

「どういうこと?」

液晶画面の灯りで陰影が浮き彫りになった顔の樋口に聞く。彼は珍しく真面目な顔つきになり、答えた。

「停電したってことは、セーフティ・デバイスの電源も落ちたってことだ。停電の理由は分かんないって言ったけどさ、推察は出来るよ、簡単に。例えば誰かが意図的に停電させたとか・・・」

「誰かって・・・もしかして良が!?」

「うん、セーフティ・デバイスを切りたいって思うのは、セイレーンを爆発させたいからで。となると、そう思っているのは清水良くらいなもんだよ・・・。しかも問題は、清水良がセーフティ・デバイスが展開されていることを知っていたってことだ。留恵ちゃんは僕が教えてあげたから、爆破事件以降ずっと此処に妨害電波が飛んでいることを知ったけれど、清水良はそのことを知らない筈だよね。なのに知っている、ってことは、起爆スイッチを既に入手して、一回押しているってことじゃないかな?爆破に失敗したとなれば、セーフティ・デバイスが展開されていることに気付く。そんでもって、それを切ろうとするよね・・・!?」

どくん、と一際強く心臓が脈打つ。顔から血の気が引くのが分かった。

セーフティ・デバイスを切った良は、もう一度起爆装置のスイッチを押す。そして──今度こそ起爆命令の電波からセイレーンとインドラを守る術は無い・・・!

「今すぐ良を止めないと!」

この瞬間にでも、良がスイッチを押すかもしれないのだ。そうなれば動物兵器も、私たちも確実に命を落としてしまう。

「停電を起こしたとなれば・・・清水良は配電室だ。僕についてきて!」

そういうなり、樋口は音を立てて金網通路を走りだす。私も彼が掲げる携帯の灯りを頼りに、全速力で走った。

水上の階段を下り、一本道へ。と、後ろから誰かが来たことに気付く。私は走りながら振り返り、そして驚いた。

「文香さん!」

スマートフォンのライトを煌々と輝かせて、文香さんが私の横へ来る。しかしその容姿は全身血に塗れ、表情も悔しさの様な、やるせなさの様なものが滲んでいた。

「私の血じゃないわ、安心して」

私の目も見ずに淡々と言うと、文香さんは無言で私と並走し続けた。

「桑原文香・・・。君も清水良を追ってきたのか?」

樋口の問いには何も答えない。本当の意味で一刻を争う状態である為、話している暇など無いのは当然なのだが、それにしても文香さんの態度には違和感を覚える。

地下一階の階段を下り、地下二階のアクアトロンも通り抜ける。地下三階への階段を下りていたその時だった。

踊り場を曲がった刹那、光源を手に私の脇をすり抜けていく人間が見て取れた。一瞬のことだった為、顔を見ることは出来なかったが、そうするまでもなくその人物の正体には察しがつく。

「良!?」

人物の後ろ姿を目にし、叫んだのは文香さんである。と、彼女は唐突に一人立ち止まった。

「何をする気ですか!?」

樋口と私も足を止める。

「私の役目は良を止めることでしょう。あいつを追うのよ」

その顔は恐ろしく歪んでいた。

彼女は今度は全力で階段を駆け上がっていく。待ってください、と叫んでも返答は無い。

「留恵ちゃん、僕らは一刻も早くセーフティ・デバイスを最展開させるべきだと思うよ」

樋口に肩を掴まれる。私は後ろ髪引かれる思いを断ち切って、地下三階へと走った。


配電室の扉を開けて、樋口を先頭に埃っぽい室内に飛び込む。異様に狭い廊下を、私は彼をせっついて奥へと進んだ。

樋口は時折咳き込みながら、下手な口笛に近い喘鳴音を発して呼吸していた。セイレーンを重いと感じる程に運動能力のない人間だからその様子にも納得がいくのだが、この状況ではいつまでもへたばらせていられない。

私は樋口の背中をつついて、セーフティ・デバイスの再展開を促す。と、彼は苦しそうに了解と言い、更に奥へと

進んでいった。

「あーあ・・・大本から切られちゃってるや。やっぱりもっと堅牢な作りに変えた方が良かったのかな・・・」

携帯の液晶画面が唯一の光源である為、樋口が前方で何をしているのかは分からない。先程よりかは幾分落ち付いた荒い呼吸で、そう独り言をつぶやくと、何やら腕を上へ動かした。

室内に灯りが戻る。暗から明への、グラデーションの一切ない変化に目が眩んだ。

暫くして視界が正常に戻った後、樋口を探すと、彼は私の傍にある黒い筐体の前で中腰になり、額に玉の様な汗を浮かべながら上部のキーボードを操作している。恐らくこれがセーフティ・デバイスなのだろう。

「どう、できそう?」

邪魔になってはまずいと思い、聞こえるか否か微妙な声量で訊ねる。

「前回強制終了されてるからね・・・起動に時間がかかるなあ。起動後も異なるパスワードを5回入力しなきゃならないし、少なく見積もっても3分くらいは必要だよ」

それでは良の起爆に間に合う可能性は薄い。私は唇を噛み、残された唯一の希望である文香さんに命運を託す。

胸の前で両手を組み、彼女への頼みと、神への祈りを同時に行った。

──どうか、私たちを、セイレーンを、そして何よりも──良を助けてください。

自分に出来ることはもう無い。セーフティ・デバイスは起動中であり、樋口が操作できる状態でない。願うことしか出来ない状況が悔しくて、もどかしくて、私は頭をかきむしる。

そして、結局のところの答えである自分の本当の心境に気付いた。

──怖い。

爆発が怖い。死にたくない。熱風に煽られ焼死すること、崩壊した瓦礫に潰され圧死すること、瑞音の海に落ち溺死すること──自らの命が失われることが、何よりも怖かった。

人魚より、仲間より、自分の身。

そう考えて当然だと自らを許す自分もいれば、自己中心的な自らを軽蔑する自分もいる。しかし事実はそれとして不動である。無論、一番には爆発が起きないことを願っているのだが、私の中にある、他の命の無事を望む心は、確かに純粋な願いとしても存在するのだが、一部に綺麗な自分でいたいが為の誇張を孕んでいるのだ。

そんな自分の汚らわしさに気付き、ナーバスになる。

──自分は何もしていないのに。

課せられた使命であるセイレーン運搬を中断した自分には、すべきことも出来ることも皆無だ。

役割が欲しい。そう思った。全員が助かる為に、私に出来る行動が。自分ひとりでなく、皆を救う為の使命が。

そんな私の願いに呼応するかのように、突如。

地下から崩壊音が轟いた。




フィクションではしばしば、真の恐怖に遭遇した登場人物が、震え、すくみあがってしまい、そこから逃げることさえ出来ない様子が描かれる。そうして何も抵抗できないままに、その人物は惨たらしい目に会う──多くの場合は恐怖の正体により殺される、というのがセオリーであり、テンプレートだ。

だがしかし、その表現には些か誇張があったようだ。否、些か想像が及ばなかった、というべきか。

下方より腹の底を震わす轟音が響き渡った時、真っ先に反応したのは樋口だった。起動中のセーフティ・デバイスをそのままに、壁の配電盤へと駆けよる。

「なんてこった・・・!そうか、清水良が停電を起こした所為で・・・。うわ、これ本当にヤバいよ・・・。あああ、僕ってばどうして同フロアに鞭を置いておいちゃったのかなあ・・・」

甚だしく慌てふためき、半べそをかいていた彼は床にしゃがみ込んでしまった。

「落ちついて!何が起きたのか私に教えて」

肩を軽く揺さぶって、彼の顔を上げさせる。私を見上げて、樋口は震える声で話し出した。

「だから・・・清水良がセンターの全電気系統を切っちゃったろ・・・?ああ、しかも鞭を使うには地下四階に行かなきゃならないし。しかも鞭が無事かどうかも保証できないんだ、万が一、いや十が一程の確率で使い物にならなくなっていると思うし。そうなったらもうお終いだ・・・!」

話の本質が見えてこない。

「鞭って何?それに停電が起きたからどうしたっていうのよ?ちゃんと順序立てて──」

と、私の言葉を遮って樋口が叫んだ。

「インドラが暴れ出したんだよ!」

刹那、再び轟音。壁の崩落するような音に混じって、甲高い咆哮が重なる。

──インドラ・・・!?

樋口の言葉が思い返された。

もう一つの、隠された動物兵器。キネロ侵略の為の秘密兵器。一匹で国家間の戦争を傾けるほどの力を持つ、凶暴性しか有さない、核爆弾の様な悪神・・・。

一瞬のうちに口腔内が渇いた。鳥肌が立つ。

「どうして!?インドラは低温の部屋で行動を縛っているんじゃないの?」

「だから停電が起きた、って言ってるでしょ!清水良の所為だ・・・あいつの起こした停電で、インドラ管理室の空調も切れたんだよ・・・!」

室温が上がり、インドラの行動が超活発になったということか。

「どうすればいいのよ?何とかしてインドラを止める手立ては無いの!?」

唯でさえ良のセイレーン起爆という危機にさらされているというのに、加えてインドラの暴走である。両方とも早く終息させないと、大変なことになる。

「あるにはあるよ、インドラを昏睡状態に陥らせる道具──鞭が。キネロへ放たれたインドラが、ウノビスに侵攻して来た時に使われる装置さ。リモコンのボタンを押せば、インドラの体内に取り付けられた機器から5MeO-DMTっていうドラッグが血中に注入されて、それで気絶する仕組みだよ。けどダメだ・・・、鞭は地下四階、インドラが暴走しているであろう中心部に置いてある。取りに行こうものなら喰い殺されるよ・・・」

「でも、何もしなかったらインドラは地上に上ってくるんじゃない・・・?そうでなくとも壁を破壊して海へ出るかもしれないのよ?そうなったら取り返しがつかないわ!」

キネロに壊滅的ダメージを与えるような動物兵器なら。

日本でも同様だ。

今すぐにも逃げ出したい。だが、断じてそんなわけにはいかない。インドラが日本海へと放たれれば、死ぬのは私たちだけでは済まされなくなるのだ。

正義感では無く、責任感。逃げないのではなく逃げられないのである。

「樋口さん、鞭は何処にあって、どんな形状をしているの?」

「階段を下りて直進した先の壁だ。AEDの様なボックスに入って取り付けられているけど・・・まさか、行くつもりだってのか・・・!?」

「行くしかないでしょ?」

格好つけて、不敵な笑みを浮かべようとする。頬が痙攣しているのが自分でも分かった。

「あなたはセーフティ・デバイスの再展開をして。私は鞭を取ってくるわ」

そう言って樋口に背を向け、配電室を出ようとする。だが、強く手首を掴まれた。爪が喰い込んで痛い。

振り返ると、彼は震えながらも立ち上がっていた。

「僕も行くよ。君ひとりじゃ不安だからね・・・」


本当ならば彼にはセーフティ・デバイスの再展開を行わせて、鞭は私一人で取りに向かった方が良いだろう。仮にインドラに追われた場合、樋口の体力では逃げおおせるかも怪しいので、むしろ彼は足手まといとも言えるのかもしれないのだ。

だが、後者はともかく、前者は樋口自身も分かっているだろう。一人はセーフティ・デバイスが起動したら直ぐに妨害電波を張れるよう、配電室でスタンバイしている方が得策であり、手の空いている人間がインドラに対処すべきだ、という考えには、普通の人なら誰でも至る。

しかし、樋口は私についてくると言った。理性で考えれば一人配電室に残るという結論に達するだろうに、非効率的にも一緒に地下四階へ向かうと決めた。

何故だろうか。

──彼は単に怖かったんだ。一人、残されることが。

セイレーンの爆発でいつ死ぬとも分からない時に、周りに誰一人いないという、寂しさを孕む恐怖。一人私を危険な場所へ赴かせ、死なせてしまったらと言う罪悪感と孤独感への恐れ。

若年にしてかなりの頭脳を誇るであろう科学者は、冷静な計算ではなく、自分の気持ちに従って私へ同行を申し出た。

そして、私もその申し出を受けた。

強がってはみたものの、樋口と似たような気持ちを抱いていたからだ。




地下三階の階段を下り、地下四階の入り口へ。他階の入り口同様、そこには自動ドアが設置されていた。だが、見るからに他のそれとは格が違う。先ず扉の材質からして異なっている。地下一階から三階まではガラス張りだったドアは、ここでは透過性の欠片もない金属製の扉になっていた。際立って堅固であるかと言えば、そうでもなさそうだが、少なくともガラス製よりかは堅いだろう。金属製にした所以は、単に一般の研究員に中を覗かれないがためなのだろうが。

そして、他の階との相違点がもう一つ。ロック式の、しかも指紋認証が必要な扉であるという点だ。これもインドラの存在を徹底的に隠匿するためだろう。

時折響く轟音に首を竦ませながら、私は樋口に扉を開けさせ、奥に進んだ。と、3メートルほど先に同様の扉がもう一つ。風の侵入を防ぐのが目的であるはずが無いので、これは単に念を押したセキュリティなのだろう。

と、樋口が私の方に向き直る。

「さて、留恵ちゃん。この扉の先が地下四階のフロア、インドラの暴走地帯だよ。扉を開くと同時に全力ダッシュで直進して、150メートルばかし先の突き当りまで行く。で、鞭を取ったら即効ボタンを押下、インドラを昏睡させる。そうすれば帰路は安全だ、いいかい?」

了解、と震えないよう御した声で答える。彼は深呼吸をすると、壁のロックに人差し指をあてがった。電子音が短く鳴り、両スライドの扉が静かに開く。私達は滑り込むようにして地下四階のフロアへと侵入した。

まず驚いたのが、フロア内の状態だった。電気系統は既に回復したというのに、フロアは全体的に暗い。天井に取り付けられた電灯がインドラによって破壊されているからだろう。いくつか、壊されずに未だ光を放っているものもあったが、広大なフロア中を照らすには役者不足も甚だしい。

開いた自動ドアからフロア内に差し込む光は、床に散乱したコンクリートの大きな塊を照らしている。元々は壁や天井の一部だったものが、インドラによって崩壊させられたのだろう。横の壁に目を凝らすと、インドラの尾らしきものの跡が壁にくっきりと無数に刻まれ、内部の鉄芯が露わになっていた。壁に触れれば、残ったコンクリートも崩れ落ちそうである。時折聞こえる咆哮は、配電室で聞いたものの数倍凄まじく、腹に響くような重低音が感じられた。壁の崩壊音も同様である。

半壊。フロアはまるで震災の被害を受けたかのような、寧ろそれ以上の天災を受けたかのような様相をしていた。いつか写真で見た軍艦島を彷彿とさせる壊れぶりである。あくまでも目に見える範囲での話だが。

完全な闇、と言う訳でもないが、この暗さで、しかもコンクリ塊が足元に散乱しているという状態の中、樋口の言っていた『全力ダッシュで直進』は危険すぎる行為だ。

私は彼に耳打ちし、歩いて鞭のもとへと行くことを提案した。この薄闇に乗ずれば、インドラとて私たちを見つけることは容易くは無いだろうと考えたのだ。一見、闇はこちらに不都合なように思えたが、向こうに見つかる可能性を格段に減らし、逆にこちらはインドラの大体の居場所を咆哮と崩壊音で察することが出来る。こちらは向こうの存在を知っているが、向こうはこちらの存在を知らない。闇はそんな状況をキープするのに最適だ。もっとも、こちらが光や音を発して、インドラに私たちの存在を知られてしまえば、闇は障害へと変貌するのだが。

その理論から言えば、階段の光が差し込む此処、フロア入り口付近は危険な場所である。私は樋口の腕を引いて、自動ドアから離れた。直ぐに金属製のドアは閉まり、一気に暗さは増す。

瑞音国際資源・生物研究センター地下四階、極秘のインドラ研究フロア。

闇に閉ざされたそこにいるのは、二人の人間と一匹の戦争兵器。

この地に詳しい樋口を先頭に立たせ、足元に注意しながら私たちは鞭を探して奥へと進んで行った。


聞こえるのはインドラの轟音と、その反響音のみだ。目はせいぜい生き残った電灯を目印として認識する程度の役割しか為さなかった。つまり、私たちは手探りで進んでいたと言っても過言ではない。否、壁に触れれば壁材が崩落する為、手探る訳にもいかない。結局、役に立たない電灯の光を頼りに進んでいくしかなかった。もっとも、鞭のある最奥部まではフロア入り口から直進すれば到着できるため、さして問題は無いのだが。

正確にいえば、光を頼りに進んでいるのは樋口のみである。私は樋口の白衣の裾を掴んで、彼にエスコートを任せていた。

辟易したのが、散乱したコンクリ塊の多さである。小石サイズならまだしも、漬物石として使えそうなほど大きく感じられるものも転がっている為、足を取られて蹴つまずくことが多々あった。目に見えないので避けるにも避けられず、転倒を恐れるが故に私たちの歩みは遅々としたものになる。

また、小石サイズのそれも、大きな塊に引けず劣らず私たちの障害となった。小ささ故、足を取られる心配はないのだが、何せ数が異常に多い為、迂闊に床を踏むと塊同士が擦れ合って、まるで神社の砂利を歩いた様な軋んだ音を発するのだ。ボリュームはそれほど大きくないが、崩壊音と咆哮の合間に僅かに訪れる静寂時に鳴れば、それは私たちにとって中々の恐怖となる。対策として、インドラが暴れている時を選んで進み、音を発していない時は私たちも足を止めていた。

『だるまさんが転んだ』に似ている、などと思い、こんな状況なのにも関わらず小さく笑んでしまう。そんなことを考えていられる間は、私の心にも余裕が残っているということなのかもしれない。

そうして暫く前進と停滞を繰り返す。進むにつれ咆哮の類が大音量になれば、それは即ち私たちがインドラへ接近していることを表すが、幸いにも音は危険だと感じられるほど大きくはならなかった。音は入り口から直進するにつれ徐々に大きくなり、ある一点を超えたところから今度は小さくなっていったため、既にインドラがいる場所は壁を隔てた道を経て通り過ぎたと推察される。

フロアがまたサイレンスになった時のことだ。私は樋口の裾をしっかりと握りなおし、再びインドラが暴れ出すのを待っていた。しかし、今度は静寂の時間が長く、なかなか動き出さない。

さすがのインドラも、体力の限界が来たのだろうか。そんなことを思いつつ、私は耳を澄ませる。

心で数えて、2分が経過した。今までは長くとも20秒程しかインドラは破壊行動を中断しなかった為、これは珍しい事態だ。

何故、突然暴走をやめたのか。

その答えは、自力で辿りつくより早く、音によって教えられた。

背後より聞こえる、シューシューという蛇特有の鳴き声。私も樋口も立ち止まっている為、音を発した正体は疑いようもない。

殆ど音もなく近づくのは蛇の特徴を有しているからなのだろうが、蛇そのものではないので所々ボロが出る。例えば、蛇とは異なり長大な爪のついた前足があるので、それが地面に擦れて音を発していたりするなど。加えて、機械のショート音のようなものも聞こえる。

しかし──紛れもなく、インドラは私たちのいる場所へ近づいてきている。しかも、暴走中の偶然の接近、ではなく、明らかな意図を持った接近、忍び寄りだ。

さながら、蛇が獲物を仕留める時の如く。

口の中が異様に乾くのを感じた。初めて相対した具体的でリアリティ溢れる死の恐怖。上手く呼吸が出来ない。

──逃げないと。

音の大きさからして、私たちとインドラの距離はまだ結構あるようだが、このまま停滞していれば追いつかれるのは直ぐだろう。

私は樋口の裾を引っ張り、耳へと口を寄せる。樋口もインドラの接近に気付いていたのか、掴んだ肩は震えていた。

「全速力で撒くわよ・・・」

極限まで小さく絞った声で伝えると、樋口は突然私の腕を掴んだ。次いで私たちの周辺が唐突に明るくなる。樋口が携帯電話を開いたのだ。

「留恵ちゃん、絶対に転ぶなよ!」

インドラにも確実に聞こえたであろう大声で言う。そして彼は、私を連れて走り出した。

同時に、背後から今までで最大の轟音が襲う。私たちが急に逃亡したことに反応して、向こうもなりふり構わず全速力での追跡を始めたのだ。

鼓膜が破れんばかりの音。視界と聴覚のバランスの悪さといったらない。私は唯足元に気を配り、携帯電話のライトによって照らされるコンクリ塊を避けるようにして、死に物狂いで疾走した。

足を止めたら、死ぬ。転んだら、死ぬ。

涙も鼻水も垂れ流し状態だった。

その時、腕が突然引っ張られる。樋口が廊下の十字路を左に折れたのだ。予期しなかった動きに、慣性の法則でバランスを崩しかける。すんでのところで持ち直し、再び走りだした。

「方向転換で撹乱する!」

樋口が叫ぶ。インドラは巨体が災いしてなのか、移動の際に小回りが利かないのだろう。

「分かったわ!」

声を張り上げ、返答。悲鳴でもあり、無理に絞り出した鬨の声的な意味合いもある。

そこから先は、カーブの連続だった。十字路にさしあたるたびに、右に折れ、左に折れ、直進する。インドラを撒くには効率のよい方法かもしれないが、鞭へ辿りつけるのか、それ以前に私たちは暗闇のフロアで迷いはしないだろうかと不安になる。

だがしかし、そこは天才、樋口の所業だった。危機の渦中、足元しか見えない中で幾度となく方向転換しつつも、彼は自分の向かうべき方向はしかと記憶していた。

着いたよ!と背後より迫るインドラの轟音に負けじと張り上げたであろう声が耳に伝わる。

私の手を引いて、樋口は壁に近づく。携帯で壁を舐めるように照らした。

そして、彼は絶望に嘆く。樋口の照らした場所──床を見て、私も息を呑んだ。

危機的状況を打破する為の、悪神殺しの聖具は。

死の淵から生還する為の、殺戮兵器の停止ボタンは。

壁に取り付けられたボックスごと、原形を留めないほどに破壊されていた。

頭が真っ白になる。床に落ちた鞭の破片を愕然と眺め、近づくインドラの気配を茫然と感じていた。

「駄目だ、逃げよう!」

体力の限界はとうに超えているであろう樋口が、咳き込みながら言う。その声で我に返り、私は再び走りだした──その刹那。

視界に蒼い閃光が走った。逃走しつつ、それに目をやる。

そして、私は心臓を万力で締められたかのような衝撃を受けた。目の前にある、セイレーンとは異なる生物兵器の姿に。

凶悪な容姿。樋口の説明通りの巨大な牙と爪。鋭い歯がぎっしりと詰まった口は裂けており、歯茎が露わになっていた。鱗は見るからに堅固、かつ巨大で、盾と言っても遜色なさそうだ。アルビノなのか、全身の色素は皆無で、体表は皆是純白である。唯一、両眼だけは深紅であり、インドラの凶悪さを醸し出すのに一役買っていた。

一言で纏めるなら『大蛇』だが、そもそも一言で表現すること自体が不可能である。蛇に似た姿なのだが、それ以上に『大蛇のモンスター』と称した方がより適切な気がした。この表現ですら、インドラを完璧に言い表せてはいないのだが。

現実世界の産物とは思えない。怪獣映画や、ゲームの世界でCGという名目でそのまま出演出来そうだ。

そして、私が先程見た蒼い閃光も、やはりインドラによるものだった。インドラの純白の全身を、青白い光がオーラのように覆い、この暗闇の中で発光している。機械のショートするような音から、それが電気であると分かった。樋口の説明にはなかったが、インドラは体内に発電器官を有しているということか。

そんな怪物は、まるで疲れを知らずに私たちを再び追いかけ始める。私たちは張り裂けそうな肺の、苦痛の訴えを無理矢理に無視して、兎にも角にもインドラから逃げる為に走り続けた。樋口の先導で方向転換を繰り返し、やっとのことでフロア入り口まで戻ってくる。

と、再び樋口が焦燥から叫んだ。次いで、

「留恵ちゃん!少し時間を稼いでくれ!!」

とんだ無茶ぶりだ。一般女性に殺戮兵器の足止めが出来るわけがないではないか。

「無理よ!出来ないわ!」

「扉を開けるんだ!ロック解除まで何とかしてくれ!」

フロアを出る際にも、指紋認証が必要らしい。

「分かったから、早くして!」

インドラは方向転換の逃亡により、大分引き離した。此処に来るまでに扉が開けば、私が時間を稼ぐ必要は無い。

樋口は携帯の光を頼りに、人差し指を指紋認証ロックに合わせた。

それに同調するように、壁を破壊しつつインドラが私たちのもとへと突進してくる。距離は5メートル、間に合うか否か不明なラインである。

「早く!」

そう叫んで、私は反射的にズボンのポケットから拳銃を取り出す。使い方は知らない筈なのに、無我夢中のなせる業か、私はインドラめがけて発砲していた。

しかし、単発式の銃から放たれた弾丸は全て、インドラの鱗に命中し跳弾する。拳銃程度の兵器ではインドラに傷一つつけられない。

──早く!

私がインドラを撃ったと同時に、電子音が鳴り自動ドアが開く。樋口が私の腕を強引に引っ張って、フロア外に投げ出した。続いて樋口が転がるようにしてフロアから退避する。ドアは直ぐに閉まり、すんでのところでインドラを地下四階に閉じ込めた。だが金属製の扉は内側から何度も体当たりを喰らっている。ひしゃげて扉としての意味をなさなくなるのも時間の問題だ。私たちは休む間もなく、もう一つの扉を解除して、地下三階に繋がる階段へと逃げ込んだ。


「どういうこと!?なんでインドラは私たちがいることが分かったのよ!?」

激しい呼吸の間へ強引に質問を挟み込む。床で仰向けになっている樋口は、裏返った声で返した。

「インドラに蛇が使われていたからだよ」

そこまでを早口で言い、咳き込む。延々と全力疾走を続けたツケは当然、私たちの心肺の苦痛となって現れていた。

「視聴覚の両方に引っ掛からないように行動した所で、所詮無駄だったって訳さ・・・。インドラの一部として使われているアフリカニシキヘビは熱量で獲物を検知できるピット器官を持っているからね」

途切れ途切れの解説。

「ニシキヘビの類は夜行性だから、暗闇の中でも狩りが出来るように熱を見る術を身につけたのさ。唯、インドラにピット器官が受け継がれるとは思いもよらなかったな・・・。そもそも、蛇の特徴はインドラの容姿と移動方法のみに現れるように調節したつもりだったんだけど、やっぱり無茶な創造だったのかな、予期しない特徴まで付属しちゃったみたいだ」

闇はピット器官の存在意義だ。存在を知られないようにと暗い中を進んだことは愚行だったという訳である。

「全く、とんでもない怪物を創ってくれたわね・・・」

「返す言葉もないよ」

彼は寝ながら首を竦め、自嘲気味に笑む。

その時だった。

私たちのいる階段に、鈍い音が鳴り響く。紛れもなく、地下四階フロアの自動ドアが破壊されたことによるものである。

音を聞き、私たちははっとする。謎の解明に興ずる暇があったなら、対策の話し合いなり体力回復なりに時間を割くべきだったのだ。

危険はまだ去っていない。インドラは自動ドア越しの私たちを熱で認識し、襲いかかろうとしている。幸いにも、このフロアだけは二つ扉が付いている為、今すぐに危険が及ぶことは無いが、インドラが一つ目のそれを壊すのに要した時間は感覚で約2分、といったところだろうか──つまり、インドラが私たちのいる階段へと及ぶにかかる時間も同様だ。

「何か、鞭以外にインドラを止める方法は無いの!?」


「あるわけないよ!モース硬度9の体表だって言ってるでしょう!?鞭みたく、身体内部にダメージを与える武器が必要なんだよ!でもそんなもの、此処にある訳──」

彼は言葉を切る。数秒黙り込んだ後に、

「いや、ある・・・!」

やけに落ち着き払った様子で下を向いて思考に耽り、そして唐突に顔を上げた。

「留恵ちゃん、今からインドラを処分する。それにあたって、君にも協力してほしいんだ。駄目かい」

真摯な眼差しで見つめられる。

「何か思いついたの・・・!?」

心に生まれる安堵感。インドラが壁一枚隔てた先で暴れているという状況なのだから、それを止める手立てがあるのならどんなものでも聞く覚悟はあった。

「あったんだよ、アイツの身体内部を攻撃する武器──シアン化塩素のガス室が」

ガス室。障害持ちセイレーンの処分に使う部屋だ。確かに、致死量の有毒ガスをインドラに吸わせるという方法は良策かもしれない。しかし──

「どうやって地下三階までインドラを連れていくのよ?」

「そう、それが唯一の問題なんだよ。そこでだ留恵ちゃん、頼みにくいことこの上ないんだけど・・・インドラの囮になってくれないかい」

──私が・・・!?

申し出却下イコール死だ。インドラに黙って殺されるよりも、出来ることをしつくした方がいいに決まっている。

そう頭では思っているのだが、快諾出来るほど私は肝が据わっていない。今の今まで死ぬか生きるかの逃亡劇を繰り広げていたのだ。それを再びやれと言われて、素直に頷くのは無理だ。

「留恵ちゃんがガス室までインドラを誘導する。僕はガス室にアイツが入った瞬間にガスを噴射させる。機器の起動とは別に、ガス噴射には専用のパスワードが要るんだけど、7文字×3種類を入力しなくちゃならないから口頭で教えても直ぐには覚えられないだろう?携帯の電池も切れちゃってるからメモ機能を使うことは出来ないし、留恵ちゃんも携帯を持っていないみたいだし。だからどうしても、ガス室には僕が待機してなくちゃならないんだ」

「インドラは熱を感知できるのでしょう・・・!?だったら私たちがガス室にいれば、誘導しなくても私たちの熱を追ってそこまでやってくるんじゃないの?」

「いくらインドラでもそこまで遠距離の熱感知は無理だと思う。此処の広さは実感しているだろう?君に頼るほかないんだ・・・」

承諾か、拒否か。どちらを選んでも、恐怖は絶対的につきまとう。死ぬ確率もついてくる。しかし、私が囮にならなければ、その確率は100パーセントだ。逆に、樋口の申し出を受ければ、生存の確率はぐんと上がる。

──けど、怖い・・・。

葛藤していると、不意に樋口が私の手を握った。

「頼むよ、留恵ちゃん。僕だけじゃない、皆の命がかかっているんだ」

その言葉で、良と文香さんの姿が脳裏に浮かぶ。

──そうだった。

良はウノビス兵に連行されていた私を救ってくれ、文香さんは私の両親を助け出してくれた。

樋口の言うとおりだ。私だけじゃない。皆の命がかかっている。心の底から助けたいと思う命がある。それを自分の都合で見捨てることはできない。

セイレーンを助けたいと思うことが信念に基づくとすれば、この二人を助けたいと思うのは願望によるものだった。失いたくないという切実で強固な願い。

その為にだったら、やれないことは無い。

「・・・分かったわ。誘導くらい、わけないわよ」

樋口の両目をしかと見据え返して言った。



扉が壊れる音が号砲だよ、と樋口は私に告げ、階段を上って行った。今頃ガス室の付近でスタンバイしていることだろう。私は地下四階の階段に一人で残り、インドラが目の前の扉を壊すのを待っていた。扉の前ではなく、階段の踊り場に立つことで、少しでも距離を稼ごうとする。

依然としてインドラは扉に衝突し続け、その形を歪ませていた。壊れるまでもう少しだろう。私は靴ひもをきつく結び直すと、緊張でこわばった筋肉をストレッチで伸ばす。散々走った後なので、今更準備体操など不要かもしれない。だが、生死を分けるレースに万全の態勢で臨まずしてどうする、という話である。

そうこうしているうちに、扉は緩み、後一撃で壊れんばかりとなった。

──いよいよだ。

そして鳴った号砲は、しかし扉の壊れる音ではなく、インドラの咆哮となった。雄叫びと共に自動ドアは壊され、そこから凶悪な白い顔がのぞく。私はそれを目にするや否や、階段を駆け上がった。インドラも轟音を引き連れて私を追ってくる。

インドラにとって階段は隘路なようで、私を追うごとに左右の壁がインドラの鱗で破壊された。これは私にとって好都合だった。左右の壁に阻まれれば、インドラの追跡スピードは落ちる。加えて、三つの踊り場による方向転換もインドラの進行を阻む。地の利は我にあり、といったところか。

不思議と先程感じた程の恐怖は無かった。皆無という訳では無論ないが、今は恐怖よりも使命感が私の心を占めているのだ。守る者がいると人間は強くなれると言うが、まさにその通りだ。小学生の時分、プロトタイプのセイレーンを救おうとした時と同じである。

階段を登り切り、地下三階の自動ドアをくぐる。ガス室は此処からそう遠くないが、地下四階で樋口が行った様に方向転換を幾多に渡って繰り返さないとインドラの高速移動に対抗できない。私は真っ白い地下三階の廊下で、インドラに捕まらない最小限の回数をカーブしてガス室を目指した。最小限にした理由は単純で、樋口のように複雑なカーブを行えば向かうべき方向が分からなくなる危険があったからである。

そうして、先程訪れたガス室が見えてきた。樋口は部屋の横に立っていたが、私が近づくのを確認するとその場を離れる。

後はこのままガス室へと直進し、入室直前に横へ折れるだけだ。小回りの利かないインドラの巨体は、そのまま室内へと吸い込まれていくことだろう。

ガス室まで残り約10メートル。走り続けで体は悲鳴を上げているが、スピードを緩めずに直進する。見る見るうちに入り口は近づく。扉は既に樋口が開放してくれていた。

残り7メートル・・・5メートル・・・3メートル──

──今だ!

私は地を蹴った。

右足で床を蹴り、左に身を飛ばす。直進の慣性があるので、正確無比な直角カーブは不可能だが、出来る限り横に跳ぶように心掛ける。

そして、インドラのみが突進を続け、ガス室へと突入する──

その筈だった。

だが、酷使しすぎて、既に足の感覚が無かった為か──地を蹴らんと繰り出した右足で接地したのは、足の裏ではなく、足の甲だった。

激痛走る。

そして、体勢を崩した私はインドラもろともガス室へとその身を飛ばした。


転倒し、したたかに右半身を床に打ち付けた私は、しかし反射神経のおかげで間もなくして右へ跳び、インドラの突進を回避することが出来た。

打ち身の痛みが体を襲う。捻った足と、逃走による呼吸も同時に私を苦しめ、自らの意思で動くことすらままならない状態にしていた。私はガス室の片隅で仰向けに倒れたまま、満身創痍の姿で絶望を享受することとなった。

全方向を無機質なコンクリートで囲まれた狭いガス室は、その殆どを進入したインドラの巨体に占められている。入り口をその体に防がれているので脱出することも叶わず、アクアトロンに繋がるダストシュートも、こちら側からは扉が開かない仕組みになっていた。無害にした劇薬プールへと繋がる縦穴もインドラに塞がれ、逃走の経路は一つたりとも残されていなかった。

まさしく、絶体絶命。

個の終焉を本能が悟っているが故か、私の体に震えはない。唯心だけが心身相関に反し、自らの未来にーー予期されるその虚の中よりなお黒い未来の、無意識的、かつ具体的な想像によって傷つけられ、打ち砕かれ、致命傷を負っていた。

ーー喰われる。死ぬ。殺される。

弱肉強食。人間社会における比喩ではなく、この状況では言葉通りの意味だった。

弱の私は肉塊と化し、強の、凶の破壊神はそれを凄惨に食事する。

それが、自然の理だ。

自然に反逆し、神に背いた技術の数々によって生み出された、人工の神による自然の理。

理に背いた結果が理を遂行しようとしているのだから、その矛盾には感嘆を禁じ得ない。

悲鳴を上げる気にもならなかった。恐怖はほぼ無いと言って違いない。あるのは、純度100パーセントの、澄みきった絶望だ。

インドラは突進した後、扉の反対側にある壁に衝突した状態のまま暫く動かなかったが、私が逃げ場の無い室内にいることに気づいたのか、その鎌首をもたげて、紅の双眸で私を凝と見つめた。

紅い水晶球の如きそれらは、私の両目と視線を合わせることによって、これ以上は無いと思っていた絶望感に更に深く心を抉らせる。

私の心がもし具現化したとなれば、それは熟成が過ぎ、腐って潰れたトマトの様相を呈していることだろう。

──私は。

ここで死ぬんだ。

20年間、微塵も想定したことのなかった原因で。

否、そもそも自分が死ぬということすら、あまり考えたことがなかった。唯漠然と、人間はいつしか死ぬという言葉だけを知識として持ち、その意味を一度も考えずに生きていた。

自分の名を呼ぶ声がした。悲痛の叫びが何度も繰り返される。だが、そんな樋口の声に言葉を返すだけの気力もなかった。

私もろとも、樋口にシアン化塩素のガスでインドラを殺してもらって、それで終わりだ。

セイレーンは救えずとも、文香さんと良が無事ならそれでいい。第一に、セイレーンを救おうと思ったことこそが分不相応な愚考だったのだ。

──所詮、私には何も救えない。救えないまま、殺されるんだ。

でも、せめてあの二人だけには助かって欲しい。私が救うことは出来ないが、私の様に死なないで欲しい。

そう思うことは、分相応であって欲しい。

インドラは今や咆哮をやめ、静かに私の身体へと這い寄ってきていた。電圧で青白く光る体表に触れた時が、私の終わりとなるのだろう。

高崎留恵の寂滅。一個体の、生命機能の停止。それは主観的には世界の滅亡だが、客観的にはたった1人の逝去に過ぎない。

インドラは私の元へと寄る中で、体を包む電気を解除した。青白から純白へと変わったその身体で近づき、牙を私の顔へと触れさせた。

生存を諦観し、死を受け入れたわけでは無い。殺されることには抵抗があるし、苦痛はこの上なく絶望的だ。極々僅かにだが、恐怖も残っている。

なのにもかかわらず、私はインドラから逃げようとしなかった。生への執着を見せ、抵抗を試みることがなかった。

動かず、インドラを凝視し、それだけ。

眼前でインドラが大きく口を開いた。唾液が糸を引き、音を立てる。呼吸がもろに顔にかかり、私の髪をそよがせる。並んだ鋭利そうな歯の奥に、眼球並みに紅い舌がのたうっていた。

このまま、頭から噛みちぎられるのだろう。苦しみの少ない良い死に方だ。

開かれた口は私の頭へと近づく。私は目を瞑った。

──ああ、もう少し生きたかったな・・・

そんなことを考えて、頬に雫を伝わす。

インドラが低く唸った。雄叫びではなく、小さな、私に辛うじて聞こえる様な声だ。

そして、

その声は──

私の思考能力を一瞬超越した。

私は自分の耳にありったけの猜疑心を抱いた。

私は閉じた目を一杯に見開かせた。

私はその声を幻聴と思い、しかし現実と認定した。

『留恵』

インドラは私に語りかけた。語尾を上げ、疑問形で私にそう言った。

私は頷いた。自らが高崎留恵であると示した。

すると、インドラは──

『面倒臭いヤツ』

そう続けて、私から身を引いたのだった。


理解の範疇を越える。訳がわからず、私は茫然とそのままインドラ──もとい清水良の姿を目に映していた。

──インドラは、良・・・!?

それは、果たしてどういうことなのか。感情以前に、疑問ばかりが心を占めた。

何故この怪物は人語を話したのか。しかも、どうしてよりにもよって幼馴染の口癖を言ったのか。そして何故私を襲わないのか。

──いや、襲わないんじゃない、必死に襲わまいとしているんだ。

眼前のインドラは、帯電を解除したまま、低く唸って体をよじらせていた。時折、唐突に暴れて私に襲いかかるも、すぐさま中断する。

まるで、二つの人格が闘っているかの様に。

私を喰うか喰わまいかの狭間で、インドラは葛藤しているように見えた。

身を悶えさせたインドラは私を見据え、そして再び言葉を発す。

『逃げろ』

唸りの混じった声で言い、そして更にガス室奥へと進入してきた。とぐろを巻き、尾を収納してガス室に全身を収めると、今までインドラによって塞がれていた入口は開放される。インドラは、いや良は私をここから出そうとしているのだ。

『早くしろ!』

今度は咆哮の混じった、聞き取りづらい声。その命令で私は我に返った。立ち上がり、おぼつかない足取り出口を目指す。部屋は体を丸めたインドラで満杯な為、途中で堅固な胴を乗り越える必要があった。

室外からは相変わらず樋口が名を呼んでいでいる。私は入口に辿り着き、無事にガス室を脱出した。

と、樋口が猛然とこちらへ駆け寄ってきた。私をはねのけ、ガス室の扉を閉める。

「待って!やめてちょうだい!!」

樋口がやろうとしていることに気づき、彼を止めようとする。しかし、彼は私の元をすり抜けると、今度は隣りのガス管理室へと走っていった。

彼は、インドラを殺すつもりだ。当初の作戦通り、シアン化塩素の毒ガスで処分する。

ついさっきまでの私なら、それには大いに賛同していた。だがしかし、インドラが幼馴染だと判明した現在は、インドラ処分は幼馴染殺しと同義だった。

「やめて!殺さないで!」

泣き叫び、彼を追う。しかし体は言うことを聞かず、よろめくように前進することしか出来ない。やっとのことで管理室へと着いたまさにその時、樋口の人差し指はガス噴射のボタンをタッチしていた。

脱力し、床にくずおれる。

インドラは、これで死んだ。私たちの危機は去ったのだ。

それなのに、私は堪え難い程の悲しみに捕らえられていた。

樋口が私の傍へ近づき、立ったまま私を見下ろす。

「さっき言っておけば良かったね・・・全く、今日は後悔の多い日だ」

独り言を呟く様に言い、彼はしゃがんで私と目線の高さを同じにした。だが、私の目を見ようとはしない。

「停電しちゃって、結局言わずじまいだったんだけどさ、要はそういうことなんだ。君が清水良と知り合いだと言うことは薄々気づいてはいたけど、ここまでショックを受ける程の間柄だとは思わなかったな」

申し訳なさそうに、俯いたまま彼は続けた。

「でもここで処分しなかったら、インドラは再び暴れてガス室を破壊していたかもしれないだろう?そうしたら今度こそ、僕らがインドラから逃れる術は無くなっちゃうから・・・」

──そうじゃなくて・・・!

頭に血が登る。奥歯をぎり、と噛んだ私は、力の限り樋口の頬を張った。

乾いた音が管理室に鳴り響く。床に倒れた樋口を目にし、私は更に激しい怒りの炎に呑み込まれた。

倒れている彼の胸ぐらを掴み、引き寄せる。

「あなたは──あなたは、自分が良に何をしたか分かっているの!?」

叫んで、また手を上げる。今度は拳を握っていた。鈍い音が立つ。

暴力を振るう右腕を止めることが出来なかった。幾度も樋口を殴り、大声をあげ、そしてまた殴った。

良が、何故良が、あんな凶悪な動物兵器にされなくてはならないのか。

憤りの奔流のなすがままに、樋口を痛め続けた。

拳が彼の血で赤く染まる。鼻だけではなく、口の中も切っているだろう。歯も折れたかもしれない。

けど、知ったことか。

この狂人には、しかと思い知らせてやらねばならない。自分のした行いがどれだけ非道かということを──。

そして、私は殴打の中で自分が銃を持っていることに気づく。

──これを使えば。

身を守る為に使え。文香さんはそう言っていた。だが、その忠告は守れそうに無い。

私は拳銃を握ろうとして、しかし躊躇した。僅かに残った理性が殺人を止めたのだ。だがしかし、それすら憤慨は呑み込み、その上私に殺人を助長するかのように、記憶を思い出させた。

良との学生時代。3年ぶりの再会。救出されて、その後今に至るまで。

友情も、恋愛も越えた仲だった。そんな彼が復讐鬼に変貌したのは、樋口がインドラを創造した所為だ。

自分がもう1人創られた。それは核に匹敵する異形のキリングマシーンだった。

それは、良が怒りに狂い、文香さんを殴るに至ったことを納得できる理由だった。

引き金に指をかけ、彼の眉間にあてがう。銃口の跡がつく程強く押し付け、ありったけの憎悪の目線を彼に浴びせた。

「あんたなんて──!!」

殺してやる。

そして、私は引き金を引いた。


かちり。

そう、鳴った。乾いた銃声では無かった。

弾切れ。地下四階で発砲した時、私はそこで全弾を使い尽くしてしまっていたのだ。

そして、私は樋口が泣いていることに気づく。彼は腫れた目から涙を流し、嗚咽を繰り返していた。

その様子を見て、私は自分のやった激情的な行いに気がついた。理性は急速に私を冷やし、怒りを後悔へと変える。

──私は、私は何をやっているんだろう。

良に殺人をさせたくない、と言っていた自分が、なにゆえ樋口に銃を使ったのか。

良の抱く信念と執念の理由も知らずに、唯殺しを否定したくせに、最終的には自分がそれを行った。未遂に終わったが、私は確かに引き金を引いたのだ。

私は、殺人者だ。

頭を抱え、慟哭する。意味の無い音を無茶苦茶に叫ぶ。

気が狂いそうだった。思考がまとまらない。おぞましい程の自己嫌悪に骨の髄まで蝕まれ、気づいたら床をがむしゃらに殴りつけていた。

それをしたところで何が変わるわけでもないのに、自分を傷つけ痛めつけずにはいられない。

私なんて、死ねばいい。無力なだけならまだしも、罪悪をはたらくなんて。

私は、痛みだけを求めて腕を振るい続けた。

と、殴打の感触は突然、柔らかなものに変わる。驚いて見ると、樋口の掌が床と拳の間に挟まっていた。

そして、私は強く抱きすくめられる。

私の背中に手を回した彼は、子供のようにしゃくりあげて懺悔した。

「ごめん。本当にごめん──」

涙が、幾筋も私の首を伝う。

他人の気持ちが分かっていなかった、と彼は耳元で泣いた。自分の行為で、人がどれだけ悲しむか、怒るかを、殴られるまで気づけなかった、と。

「謝らないで・・・」

私も、震える声で返す。

謝らなくてはいけないのは、私なのに。

私は謝罪して、彼に許されざるべきなのに。

涙腺が決壊する。咽びが止まらない。

私も、樋口の背中に手を回し、号泣した。


清水良は、瑞音国立資源・生物研究センターに就職して間もない頃に禁忌を犯した。

入所当時に厳禁と言われた、地下四階フロアへの侵入。

彼はある時、地下三階の踊り場から、誤ってスクーターのキーを落としてしまった。そして、それを拾いに地下四階フロアの入口へと向かったところ、自分の上司である研究員がそのフロアへと入って行くのを見た。良は誘惑に駆られ、好奇心を抑えられずに、こっそりと上司の後をつけて指紋認証の扉をくぐった。二重扉は一つ目のそれが閉まらなくては二つ目が開かないという仕組みの為、一つ目の扉をくぐった彼は、扉同士の間の狭いスペースに、一時上司と共にいたことになる。当然、彼の上司は良の姿を目にすることとなった。だが、良は上司に背を向け、言葉を発さずに自らが清水良であることを隠蔽した。その余りにも浅はかな企ては奇跡的に功を奏し、彼は潜入に成功した。彼は隠れつつ、フロアの研究室を見て回った。

そして、彼はインドラを目にした。創造途中にして開発途中の白い神を。

彼は驚愕し、そして同時に、技術の粋を集めた成果であるその生き物に胸を踊らせたーー。

これらは、全て尋問の際に良が話したことである。

インドラを目にした直後に、彼は百野木に姿を見られ、警備兵によって捕縛された。タブーを犯した良は尋問を受け、素直に罪を自白した。

それまでには、良の他にも地下四階に忍び込んだ人間が2名いたが、両方とも情報漏洩防止の為に殺され、劇薬プールで死体を隠滅されていた。尋問の後、良も先人と同じく殺されることとなった。

だがしかし──。

彼は処分を免れた。研究班を悩ませていた、インドラ創造の問題を解決する為の実験体になることと引き換えに。

当時、既にインドラの体は殆ど完成していたのだが、身体機能に力を注ぎすぎた結果としてメンタルが穴だらけ、インドラは見境無く手当り次第に破壊行動をする超攻撃的な性格の持ち主だった。

ウノビスが所望したのは、命令に忠実な大量破壊兵器。最終的には研究班はその希望に添えず、行動抑制をする低温室と、緊急時に対象を昏睡させ、破壊活動を停止する制御機器『鞭』の二つをセットにつけることでインドラに完成という形をとった。だが、その当時はまだインドラの精神の穴を埋め、主に従順な生物にする為の実験が繰り返されていた。

そんな中で提唱された案が、ヒトの思考プログラムをインドラに組み込むというものだ。

インドラの脳は、持てるスペックの数パーセントしか使われていなかった。だが、容量には人間並の思考が可能なだけの空きが十分にあった。よって、プログラムとしてヒト1人の記憶と思考パターンを海馬への刺激によって人為的に『インストール』することで、インドラに高等な知恵を与えようとしたのだ。

知恵を得れば、インドラは戦況に即した行動を自分で導き、敵を攻撃できるようになる。また、人語を理解できるようになるので、インドラへの攻撃命令も格段に容易になる。高度な思考が可能になるが故、命令への反対や、主への反抗をするのではと危惧する声も一部の研究員からあがったが、その点はインドラへ『インストール』するプログラムを一部変更することにより、忠実な性格の持ち主にすれば良いという案で納得を得た。

そして、その案が決議され、しかし研究班は再び悩むこととなる。

インドラには、一体誰の思考を『インストール』するのか。

博学な人物の思考である必要はない。だが、浅学な人物のそれでなければということもない。知識の有無はさして関係無いのだ。

重要なのは、思考パターン。

大胆か、慎重か。楽観的か、悲観的か。傲慢か、謙虚か。プライド高いか、恥知らずか。それとも、それらの中間か。

性格とも呼べるそれで求められたのは、良質なものでは無く、悪質でないものだった。インドラの超攻撃的な性格を相殺できる理性をもった人物の思考なら、何でも良いとされた。

理性など、大抵の人間は持っている。とどのつまり、使う思考は誰のものでも良いということだった。

だが当然、自分の思考を動物兵器に与えんと立候補する研究員がいる筈もなく、インドラ創造はそこで一時期停滞した。

しかし、その1週間後。

規則を破り、極秘であるインドラの存在を知ってしまった新人研究員が現れた。

本来なら、有無を言わせず処分である。だがその時、所長である百野木勇がその人物の処分に待ったをかけた。

彼の思考を『インストール』するのはどうろうか。

その提案は多くの賛同を得、決定された。

その後、新人研究員こと清水良は連行され、何も説明を受けないまま、三日三晩に渡って脳を解析された。

そして彼が気づいた時には、自分がもう1人、否、もう一匹いた。

しかし、結局インドラの性格は人間の理性で相殺できるものではなく、実験は失敗に終わった。

「そして、清水良はインドラの比較対象として生かされて、何事もなかったかの様にセイレーン研究に戻ったんだ」

樋口が言う。

インドラの危機が去った以上、本当は一刻も早く良の説得に向かうべきなのだが、私はあえて留まり、彼のエピソードを聞いていた。

説得する人間が、無知であってはならない。良があの様になってしまった理由を余すところなく知り、その上で彼を救いたい。

私には、救う資格も力も無いけれど。

けど、無駄かもしれないけれども足掻きたい。

それが散々泣いた後、壊れた心に決めたことだ。

気持ちを切り替えて、心をリセットすることなど出来ない。私は今も自分の行為に人間失格の烙印を押したままでいた。

だが、良に私の様に殺人をして欲しくないからこそーーもう手遅れかもしれないが、彼に汚れて欲しくなかったからこそ、私は再び立ち上がることにしたのだ。

心の傷をそのままに。

樋口の語る良のエピソードは、つまるところ彼自身の罪の供述だった。罪悪感を知った彼は、とても苦しそうにそれらを話した。

私は、そんな彼に糾弾することも、同情することも出来なかった。

ただ、彼の言葉を事実として受け止める。

しばらくして、樋口の語りは終わった。全てを曝け出した彼に、私は感謝の意を伝えて、立ち上がる。

「清水良を止めに行くのかい?」

私は頷き、天井を見上げた。

「馬鹿な話でしょう?私みたいな人間が他人を救おうとするなんて」

「ああ、馬鹿な話だね」

樋口は少しだけ笑んで、

「けど、正しい話さ。だって他に選択肢は無いんだろう?」

そうね、と鼻をすする。

その通りだ。

綺麗な題目など掲げられない。私には何を救う資格も無い。けれど。

資格が無いから、良を救わない。

そう割り切れるわけが無い。

だから。

「だから、行くのよ」

そう言って、樋口に手を伸ばす。

「あなたも、手伝って」

と、彼は、

「手伝う資格なんて僕には無いさ」

私の手を取り、立ち上がる。

「僕は清水良を──いや、清水君に、彼に贖罪をするんだ」



無駄な足掻きと、償えない罪滅ぼし。

それを私たちは資格に代替する。



インドラの件には区切りがつき、残すところは良を止めることだけになった。そう思っていた矢先のことだった。

去ったかに思われた危機は再びこの場で猛威をふるいだす。

壁の崩落音。決意を固め、立ち上がったその時に、唐突に怪物は破壊活動を再開した。

「まだ生きているの・・・!?」

恐怖再燃。

セイレーンを即死させるガスをふんだんに浴びてなお、インドラは生きていた。

足を挫いた今では、碌に逃走することもできないだろう。精神が良のそれであることを知った今では、インドラの生存に僅かだけ安堵してもいるが、暴走行為は即ち、良の理性がインドラの本能である破壊衝動に飲み込まれたということを指すので、私たちが襲われるのは確実だ。

復活したインドラは、良ではない。

樋口が声にならない声を上げる。

「もう駄目だ・・・!他に方法が無い、逃げるしかないよ・・・」

切り札の鞭は破壊され、代替品の毒ガスも効力を発揮しなかった。手札はもう残っていない。

──なら、どうする・・・?

私は崩壊音の中、その場に立って考える。

インドラを処分するという選択肢は潰えた。なら、残されたのは樋口の言うとおり逃亡一択だ。文香さんと良、そして樋口を連れて、一刻も早く研究センターを後にする。これが正しいだろう。

──いや、違う。

『正しい』筈がない。私たちがこの方法を取ることで、インドラはそのうち壁を破壊し研究センターの外部へと飛び出すだろう。そうなれば、インドラは無差別に此処瑞音町、ひいては海を渡った先で、多くの被害を出すに相違ない。その存在が自衛隊、もしくは外国の軍により処分されるまでは。それまでに一体、何人の死者が出ると言うのか。

また、私たちが逃げることで、此処に残されたセイレーンはどうなるのだろうか。そもそもの此処への侵入目的がセイレーンの解放なのだから、逃亡によって私と文香さんの企ては失敗に終わる。自分たちの命を最優先にさせるのは余りにも狡猾すぎるのではないか。

インドラの存在を一般人が知れば、創造場所である研究センターは自衛隊の管理下に置かれ、徹底的に調査されつくされるだろう。そうなれば、当然セイレーンも発見される。そして彼女らは世界レベルの機関によって管理、そして自由を奪われるに違いない。それではセイレーンの境遇は今と全く変わらないのだ。

つまり、逃亡が『正しい』選択肢なのではなく。

──そうすることしか出来ない、のか。

私は自分の非力さを呪った。唇を噛み、拳を握った。

「──逃げましょう」

樋口に言う。




ガス管理室の扉を開け、廊下に出る。と、そこには巨大なインドラがいた。

反射的に後ずさる。だが、直ぐに異変──インドラが微塵も動いていないことに気付いた私は、立ち止まって眼前のモンスターを観察した。

インドラは、腹を天井に向けて転がっていた。私の側に頭部が向いているが、顎は力なく開かれ、両眼にはあの残忍な光が宿っていない。

「死んでいる・・・?」

疑問がそのまま口をついた。

「・・・そうみたいだね」

樋口が応える。

安堵感と寂寥感。私はインドラに近づくと、その頭を撫でた。反応は無い。

あの暴走は、最期の足掻きだったのだろう。

インドラの中の良は、私をガス室から逃がした後も其処に残ることを選択した。自分の破壊衝動を恐れ、ガスにその身を浸して自ら死のうとした。だが、死の間際になって、インドラの持つ本能が彼の精神を乗っ取り、生に執着しガス室を脱出しようと試みた。

そして、瀕死のインドラは此処まで這いずって、事切れた。

推察の域を出ないが、そういうことだろう。幼馴染の考えは、少しは分かるつもりだ。

たとえ、容貌が異様に突飛で凶悪なものでも、これは幼馴染なのだから。

インドラの轟音はもう聞こえない。今度こそ、私たちはインドラの処分に成功したのだ。

無言。何も言わずに、唯インドラを撫でる。

自分の感情が分からなかった。

幾千もの感情が同時に湧き立ち、ぐねぐねとうねり、私の体内で蠢いていた。

本当に。

私は何を感じていたのか、分からなかった。


と、不意に樋口が息を呑む。私が見やると、彼は蒼白な表情で口を抑えていた。

そして私のもとへと駆け、手を握って疾走しだす。私は挫いた足を浮かせ、片足跳びで彼の走行に縋りついた。突然のことに、私は疑問符を表情に露わにしていたのだろう、樋口が走りながらその訳を話す。

「ガスが漏れているんだ!」

その言葉で私も状況を理解した。インドラは死んでも、まだ危険は続いているということを。

インドラがガス室の壁を破壊し、廊下に飛び出したその時、シアン化塩素のガスも一緒に漏れ出した。そして密閉状態の地下フロアに蔓延し出した──。

「噴射音が聞こえなかったかい?一息でも吸えば即昏倒だよ!」

彼が問う。だがその時はインドラに意識を奪われていた為、音など全く気付かなかった。

廊下を駆けて、地下2階へ通じる階段へと辿りつく。良を止める為上階へと向かおうと、階段を上りはじめた。だが、私は5段ほどで足を止める。隣にいた樋口が不意に踵を返したのだ。

「樋口さん、何しているのよ!?」

咄嗟に階段を降りて、彼を止める。

「ごめん、先に行ってくれ!」

「な・・・?どういうこと!?」

強い口調で言う。

「思い出したんだよ。僕は役目をまだ果たしていないんだ」

「役目?」

刹那、気付く。度重なるインドラの災害で忘れていた使命を。

セーフティ・デバイスの展開。ガス室と同フロアにある配電室に設置された黒い筐体は、先程は起動中で展開をするまでには至らなかったのだ。

「このままだと清水君が起爆スイッチを押した時、セイレーンは守れないだろう?」

「そんな、大丈夫よ・・・!これだけ時間が経ってるのよ?多分、文香さんが彼を止めたのよ・・・」

そうは言いつつも、それが願いであることは自分でも分かっていた。未だ押されていないだけで、これから爆発が起こる、ということも十分あり得る。樋口の考えは正しいと思えた。

けれど、致死性のガスが充満し始めている場所に残るのは自殺行為だ。彼に銃を向けた私が言えたことではないが、敵ながらも彼には死なないでほしかった。

「大丈夫さ、もう起動は済んでるんだから。サッとパスワードを打ち込んで、直ぐ追いつくよ」

彼は笑んで、手をひらひらと振った。

「さあ、行った行った。早く清水君を止めてくれ」

けれど。彼を見殺しにしろというのか。本当に彼は死なないのだろうか。

そう思いつめていると、樋口はまた口を開いた。

「セイレーンを救いたいんだろう?違うかい?」

その一言で、私はハッとさせられる。

「こうしてる時間すら勿体ないんだ。それに、セイレーンを救いたい気持ちは僕だって一緒さ。だから、さっさと清水君を止めてくれよ」

一瞬の沈黙の後、

「・・・本当に死なないんでしょうね」

彼に訊く。

「勿論さ。安心してよ、ガス室と配電室は正反対にあるんだ。その上この階段は配電室寄りだ。ふわふわと漂ってる気体に速さで負けやしないさ」

出会った当初の様な、軽薄な口調。私はそんな彼に向けて親指をつき立てると、彼に背を向け階段を駆け上がりだした。

「ああ、そうそう」

と、思い出したような口調で樋口が声をかける。

「清水君に会ったら言っておいてくれ。『ごめんなさい』って」

何を言っているのよ、と私はため息をついた。

「自分で言いなさいよ。直ぐ追いつくんでしょう?」

そうだけどさ、と彼は笑った。


8月10日 10時32分 清水 良


彼は地上階に出ると、懐中電灯を投げ捨てた。地下と異なり最上階までひとつなぎになっている階段を駆け上がる。

彼はつい今しがた見たものを現実と認めないよう努めた。何もなかったことにし、その存在を意識の埒外におくことで思考をしないよう試みた。しかし、意図せずともその事実は彼自身を驚かせ、そして詰る。

留恵と文香がいた。

それは、少し考えれば想定するのは容易かったろう。良と対立する意見を持っている彼女らが彼の失踪の意図に気付き、彼が向かった先を考えるまでもなく分かるのは当然だ。

だが彼は2人の出現を予測出来なかった。インドラの完成を知り、深夜のコンテナで激昂して以来、今のいままでインドラと研究員、セイレーンを殺すことしか眼中に無かったからだ。

彼はそして、研究センターの地下で2人の姿を目にし、初めて自らの失態に気付いた。2人が此処に来られないような何らかの対策を施さなかった自分に強烈な苛立ちを覚えた。

だからこそ、彼は積極的に何も考えないよう努力した。幼馴染と恋人。大事な人間の影響で自らの心が揺らぐことを恐れたのだ。

2人がいようとも、彼は研究センターの爆破を中断するつもりは無かった。無くしようとした。

故に、彼は足を止めない。


良が二階に差し掛かった時のことだ。ヘリコプターの羽音の中、彼は背後で自分を追う足音が鳴っていることに気付いた。彼と殆ど変わらない、寧ろそれ以上の速度でこちらに向かっている。それが何を示すかを考えないように努めても、無意識はやすやすと出来事を悟り、彼の思考に事実を突きつける。

信じまいとして良は階段を登るスピードを上げた。フィジカルな要素に意識を注ぐことで、思考を鈍らせようとしたのだ。

だが、それは成功を収めなかった。どれだけ考察を拒否しても、五感の全てが考察の結果を裏付けようものなら、現実逃避のしようがない。

足音は徐々に大きくなり、そしてほっそりとした指が良の手首を握りしめ、触覚としての認識をさせた。

彼は腕を引かれ、足を止める。後ろを振り返りはしなかった。

彼は激しい呼吸の中で、薫り立つ濃密な汗の匂いを感じた。その嗅覚が彼の記憶とリンクし、背後にいる人物の正体を悟らせる。しかしなおも彼は思考を否定し、事実から目を背ける。

そして、聴覚。背後の人間ははっきりとした声で、彼の名を呼んだ。

良はゆっくりと振り返る。そして両目にその人物の姿を捉え、視覚にも事実を突きつけられた。

泣きはらした目、振り乱した髪、上気した頬。その全てが、どうしようもなく真実で、逃れようの無い事実だった。

最後に、味覚。

その人物──文香は掴んだ手を引き寄せると、乱暴な接吻をしたのだった。


その唇は彼を恍惚とさせ、とてつもなく堅固な彼の意志を揺らがせるほどの効力を発揮した。怒りが、信念が、溶解し押し流されるかの如く薄れていく。

唐突に世界が現実感に溢れたように感じられ、彼は憤怒を忘れた。

しばらくの後に口は離され、二人は互いを見つめる。上気した文香の顔に、良はある種の魔力のようなものを感じていた。

たかがキスで。いく度となく繰り返された、いわばマンネリと化したたったそれだけの行為が、今回はかつてないほどの重みを持っているように思えた。

目と鼻の先にある文香の顔は涙に濡れ、普段の知的な印象は微塵も見受けられない。だが彼はそのしどけなさとのギャップから新鮮な恋心を感じていた。

酩酊にふやけた意識に身を任せ、彼は文香の背中に手を回した。二人の過去と現状を一切合切スルーし、自分が彼女にした、あるいはこれからする予定だった暴虐で残酷な行為には目を瞑り、彼は文香の唇を求め、顔を近づけた。

だが、

その口が再び交わることはなかった。

二度目の接吻を防ぐかのように唐突に始まったそれは、まるで二人に対する悪意でも持ち合わせているかのようにキス直前で行為を止めさせた。

下階から轟く崩落音。

そして、明らかな咆哮。

残忍で、酷薄で、考えられないほど凶悪なその叫び声は、彼の知っているものだった。

彼の知っている、最悪の動物兵器の声だった。

刹那、まるで二重人格の持ち主であるかのように、彼は豹変する。

愛が殺意に、安らぎは殺意に、快楽すら殺意になり、彼の心拍数を心筋が千切れん程に上げた。引っくり返るように忘れかけていたインドラへの底知れぬ恐れが甦り、彼は完全なパニックに陥る。

抱いていた文香を突然に突き放すと、二、三歩その場で何処かへ行く素振りを見せた。そして普段は発することはない高音で意味の無い汚物のような音を叫んで、インドラへの殺意の一念で百野木の確実な殺人という計画を忘れた彼は、起爆装置を取り出してスイッチを押そうとした。

だがそれは、そばにいた文香によって防がれる。

起爆装置を目にした途端、彼女は良の腕に巻きつき、それを奪おうとした。だが装置を掴まんと伸ばされた腕は、勢い余って彼の手の中にあったそれを弾き、床に飛ばす結果となったのだ。

幸いというべきか、その所為で彼の突発的なパニックだけは収まった。双眸をかっと見開いた彼は満面朱をそそいで、百野木を殺す為、起爆装置を拾って屋上へと走り出した。


そうして二段飛ばしで階段を駆け上がった良は、最上の4階フロアから更に段を上った先にある屋上への扉にたどり着いた。ノブを掴み、ドアを開けようとする。

「辞めなさい!」

ノブが捻られようとしていたその時、外部から鳴り響くヘリコプターの音に負けないほどの声量で、気迫を露わにした文香の声が彼の鼓膜を震わした。同じ口がつい今しがた接吻をしていたなどとは到底思えないような、彼に対する厳格で命令的な声だった。

だが言葉など、今の彼の抑止力にはなり得ない。良は無視してノブを捻る。

と、文香は声を張り上げた場所──階段の踊り場から一気に上り詰めると、良の背後へとつき、彼の腹部へ持っていた銃を押し付けた。

言葉による抑止が効かなくとも、武器による脅迫は通用した。此処で文香に撃たれては百野木を殺せないと思った彼は、ノブを握ったまま動きを止める。そうして、首から上だけをぐるり、と回して後ろの文香を怒気のこもった目で睨んだ。

「離れろ」

明白な苛立ちを含んだ声音で、良は文香に命令を下す。無論、彼は人を従わせる立場におらず、逆に文香の命に従わざるを得ない状況な訳だが。

「嫌よ。少しでも扉を開いてみなさい、あなたを撃つわ」

言うと、彼は嘲笑し、

「やれるもんならやってみろよ」

「本気よ・・・!」

射抜くような鋭い眼光で文香は良を見上げる。その表情を見、彼の顔からは酷薄な笑みが消えた。文香の覚悟が本物であると悟った──否。

文香が覚悟をきめようと、気力を振り絞っているのが見て取れたからだ。

今此処で死ぬと百野木が殺せなくなるから、という狂気じみた理由で動きを止めている良とは異なり、文香は当然ながら、彼が死ぬことを純粋に悲しいことと捉えている。

が、そんな彼女が、良を殺すと脅している。

そして彼女は本気でそうする──為に必死で自分を押さえつけている。

良を殺したくないという自分の心を殺している。

彼女にここまでさせる原動力は、ひとえに彼女の思いだった。

良にこれ以上罪を重ねさせない。

センター爆破を止め、留恵を、セイレーンを死なせない。

その為なら、私は良を殺す。

私が罪を重ねる。

そう彼女は決意しようと努めていた。

そして良と文香の膠着は、それから十数秒後に終わりを迎えた。外部から鳴り響くヘリの音が唐突に極端に弱まったのだ。これは即ち、研究センターの屋上に百野木が逃走する為のヘリが着陸したということである。

それに気がついた良は、最早後先を考えることを放棄した。銃口を脇腹に向けられた状態のまま、彼はノブを捻り扉を開ける。

脅迫は無視された。完膚無きまでに。良は躊躇なく動いた。

そして文香は、恋人を撃とうとする。

次の瞬間、乾いた銃声が良を襲った。


良の動きは不意に止まった。そして、何が起きたか察知した瞬間後退し、文香を抱えて階段の踊り場へと飛び込む。受け身の姿勢をとったが、ダイブの勢いで強く突き当たりの壁に背をぶつけた。しかし彼は痛みをものともしないかのように、すぐさま文香の体を離すと、手のひらを下方向に押し付けるジェスチャーで彼女に腹這うよう伝える。

口を開きかけた文香に黙るよう身振りで伝え、良も踊り場で平伏した。

あの時──彼が屋上の扉を開けた瞬間、銃声と共に扉の曇りガラスが砕け散った。

不意打ちに硬直した彼は、そして前方に人影を目にした。ガラスを撃ち抜いた張本人であるサマースーツの男性、百野木を。

良がここに来ることは見透かされていた。当然である。命を狙われている自覚があったからこそ、百野木は逃亡を図ったのだから。

彼は匍匐前進で階段を僅かに上がった。角度により屋上の様子は見えず、また足音一つ聞こえないので、百野木の動向はわからない。かと言って、立ち上がれば攻撃されるのは目に見えている。運良く初撃は当たらなかったが、二度目もそうなる保証は無い。

止むを得ず、彼は百野木に呼びかけた。

「こっちには起爆装置がある!妨害電波も切断した、撃つな!」

しばらく沈黙が流れる。彼の反応は無い。良は起爆装置を左手、拳銃を右手に持つと立ち上がり、階段を登って屋上へ出た。

そして良は炎天下で百野木と対峙する。真夏日の昼の煌々とした日光が初老の所長を不気味な生命力溢れる存在に見せていた。百野木は銃を良へ向けたまま、口元だけを笑ませる。

「久しいな、清水君」

「いや、二日ぶりだ」

起爆装置を見せつけるように持ち、良は短く返した。

「まあ、そう怒るな」

含み笑いと共に言った百野木に、良は拳を

握りしめた。

「怒るなだと・・・!?」

「そうも目くじらを立てるものじゃない、ということだよ。落ちつきたまえ、私を殺すのを急く必要はないだろう」

余裕の態度で彼をからかう。良は押し黙ったまま百野木を睨み続けていた。

「それにしても、君の覚悟には驚かされるね。起爆装置を使うということは自らも死ぬということだろう?その勇気には感服するよ」

微塵も感服した気配の無い、むしろ嘲弄するような声で百野木は話す。

「私も殺し、人魚と大蛇も殺し、自分も殺すか。成る程綺麗さっぱり清算できそうじゃないか」

百野木は良の目を見た。そして今度は目を細めて柔和な笑顔を浮かべた。

「君が死ぬ気なら、私が銃で脅しても意味は無いね。それでは私は丸腰と同じだ、逃げる術が無い。よし分かった、ここは一つ君に殺されようじゃないか」

過度に抑揚のつけた演技がかった声で、百野木は起爆装置の起動を促す。

「・・・・・・・」

良は未だ無言である。彼が何を企んでいるのか分かりかねているのだ。

──まさか本当に殺されようとしているということはないだろう。俺が死ぬのを怖がって起爆しないと高を括っているのか?

いずれにしても百野木の言うとおり、銃は良への脅しにはならない。良は起爆装置の起動に躊躇いを感じることなどない──そのはずなのだが。

桑原文香と高崎留恵。

考えまいとしていても、結局彼の心に二人の姿は残った。ここで爆発を起こせば二人も死んでしまう。それを避けたがっている自身が未だ彼に起爆をさせずにいるのだ。

「どうしたのかね?起爆すればいいじゃないか。それとも怖いのか?」

挑発を受け、良は一層鋭い眼光で百野木を射抜く。それを見た彼は可笑しそうに笑って、両手を軽く広げた。

「いやいや、ジョークだよ。君が本気なのも、死を恐れているわけではないのも、見れば分かる。そもそも、私たちを裏切った後再び此処にくるほどの人間が今さら臆病風に吹かれるとは思えんよ」

そう言って、また小さく笑う。

「殺したくない者がいるんだろう?」

良は何も言わなかったが、心を見抜かれた悔しさに百野木から目を逸らした。それを百野木は見逃さない。

「全く君も甘いな。目を逸らすというのは肯定と同義なのだよ」

──大方、そこにいる桑原君なのだろう?

その言葉で良の心臓は跳ねた。

「動くな!撃つぞ!」

その言葉を無視し、百野木は銃口を良の背後に向けた。何時の間にか文香も屋上に出て、良の近くに立っていたのだ。

銃を向けつつ、彼は不気味に笑う。

「君が不審な真似をしたら、彼女を殺す──とは言え、桑原君を殺しては、君が起爆と発砲を躊躇う理由は無くなるからね・・・」

本質的な状況は何も変わっていない。

良は文香と留恵を巻き添えにする起爆装置は使えない。彼が百野木を銃で撃てば、百野木は文香を撃つ。百野木が文香を撃てば、彼は良の起爆ないし銃撃で殺される。

百野木が良ではなく文香に照準を合わせたのは、彼が死を覚悟していることをふまえてである。良が文香を殺したくないとはいえ、彼自身が撃たれて死にかけば、彼女を犠牲にしてでも爆破を遂行するのではないかと危惧したのだ。

また、百野木がヘリに乗り込もうとすれば、文香の銃が火を吹く。よって彼が動くこともできない。

そうして、膠着が発生した。全員が何の行動も起こせず、ただ隙を見せないようにと神経をすり減らすのみである。その状態が何分か続いた。

と、その時。屋上に新たな人物が現れる。

揺らめく陽炎の中、高崎留恵が銃を百野木に向けて屋上を歩いてきたのだった。


8月10日 10時40分 高崎 留恵


豪雨の様に降り注ぐ太陽光は、熱を伴って研究センターの屋上を焼いていた。私は入口の扉を開けると、銃を構えて屋上へと出る。

研究センターのフロアと同じく、広大な面積を持つそこは、給水塔やエアコン室外機などが数多く鎮座しているものの、なおかなりの広さを有していた。屋上の端には、落下防止の為、私達の背丈をゆうに超える高さのフェンスがそびえているが、ある一角、海に面する方角の一部だけはそれが途切れている。恐らく、先日良が起こした研究センター爆破によるものだろう。フェンス付近の床も崩れていた。

広い屋上は唯々平坦で、ベンチや観賞植物といった類の物も見られない。だからこそ、そこに鎮座するヘリコプターはかなりの存在感を放っていた。

なんの変哲もない白の機体。ここからは距離があるため、機体側面に書かれている文字は読めないが、軍用ヘリには見えないので、ウノビス兵が用意した物ではないだろう。

そして、その手前に立ち銃を構えているのが百野木だった。向かい合う様にして良と文香さんが立っている。その手には起爆装置が握られていた。

まだ彼らは私に気づいていない様である。私は痛む右足を引きずって、3人の元へと歩いて行った。

「留恵・・・」

しばらくの後、3人は私の存在に気づいた。私は銃を良に向けて、文香さんの傍に立つ。

「文香さん、良は──」

「安心して、もう彼は大丈夫・・・いいえ、今は大丈夫だから」

どういう意味なのか。疑問に思って問うと、

「私達を巻き込みたくないから、爆破はできないみたい。けど、私達が死んだら爆破を躊躇する理由はないから、百野木も私達を撃てないのよ」

「みなまで言うな、恥ずかしいだろうが」

「あら、本当のことでしょう?」

「うるせー。黙ってろ・・・」

表情は固いが、そんな軽口を叩けるのだから、良は目を覚ましてくれたのだろう。緊迫した状況下だというのに、つい顔がほころんでしまった。

と、文香さんが私の耳に口を寄せて囁いた。

「セーフティ・デバイスは?」

私は彼女の耳元で囁き返す。

「樋口さんが起動中です。もしかしたらもう展開されているかもしれませんけど」

「そう、よかったわ。でも、それを良に言っちゃ駄目よ」

「何でですか?」

「良がまた怒って暴れるかもしれないからよ。その様子を見た百野木が爆破が不可能ということに気付けば、私達の脅迫道具は減るわ。まあ、銃があるから仮にそうなったとしても膠着は続くでしょうけど、武器は多い方がいいでしょう?」

──そうか。

再会の喜びもあってか、つい気を緩めてしまっていたが、あくまで此処は命の危険に晒されている場なのだ。いつ何時降着が解けるか分からない現状で、呑気に会話をしていた今までの方が異常だったのである。

──じゃあ、インドラのことも言わずにいるべきか・・・

下手に良に伝えてリアクションを取られては、百野木が付け入る隙を作ってしまうことになる。インドラの暴走を彼が知らないのなら、私と樋口が処分したことはあえて触れないでもいいだろう。状況を悪化させないためにはそうするべきだ。

そうするべき、なのだが──。

「文香さん」

今度は耳打ちでなく、普通に彼女へ話しかける。

「何?」

「しばらくの間、百野木に銃を向けていてもらえますか」

一瞬怪訝そうな顔をしたが、文香さんは承諾してくれた。

「良」

「なんだよ」

良の顔は百野木に向けられたままで、その目は憎々しげだ。

私は良の手を握って、言った。

「私、インドラを殺したの」

どうしても、これを伝えたかった。私がインドラを殺したということが、良にとってどういう意味を持つのか。

私に感謝するのか。それとも怒りのぶつけようが無くなり、敵を横取りした私に怒るのか、または凶悪で醜い自分を見られたことに嘆くのか。

願わくば、恨まれないでほしい。

私の行動、「良殺し」が間違っていないと彼の口から聞きたかった。完全に自分のわがままであるとは分かっていたが、今すぐにでも聞きたかったのだ。

そして、私の願いは叶った。

インドラ殺しを告げた途端、彼の表情はみるみるうちに変化した。体ごと私の方を向き、そして笑いながら涙を流した。

「ありがとう」

そう良は言った。

殺しに変わりはない。酷い行為である。

だが、たった今、後悔は無くなった。

「樋口さんにも感謝しなさいよね。あの人のお陰なんだから」

「あいつが・・・?」

笑顔から突然、呆気にとられた表情になる。

「そうよ。自分たちの命を守るためとはいえ、処分の策を考えたのはあの人なんだから」

「そうか・・・」

彼の表情が複雑な物になる。樋口にセイレーン爆破を阻止された事実を思い出したのだろう。

そうか、ともう一度彼は呟いた。

勿論、樋口の伝言は伝えなかった。


現状を否が応でも思い出させる光景が、その瞬間に起きた。

音に反応して私が振り返ると、そこにいたはずの文香さんが消えていた。無論、それは錯覚で、実際は視界に入らない場所へ彼女が移動した、ということなのだが。

そして彼女の位置は、派手な赤色によってすぐさま私に指し示された。

見えたのは、崩れ落ちた文香さんの姿だった。未だ宙に浮いていた血液が尾を引いて、コンクリートの地面へとこぼれ落ちる。

「文香さん!!」

考えるよりも早く、体が動いていた。良の元を離れ、彼女へと駆け寄ろうとする。

だが、その時点で足を捻挫していることを忘れていた私は、右足が接地するや否や激痛に襲われた。前進の勢いを押し殺すようによろめく。

唐突に、熱さが感じられた。

銃を持っていた右手のひらが異常に熱い。ふと目を見やると、私の手から血が湧き出ているのが見えた。

視認した瞬間、足とは比べ物にならない程の痛みが手のひらから走る。悲鳴も上がらず、私は喘いで地面へと倒れた。取り落とした銃が音を立ててコンクリートの上を転がる。

手を抱く様に、私は胎児みたく丸まった。

右手を抑えた左手のひらに、血が漏れては溢れた。手のひらを撃たれたのは明白だ。

貫通した銃弾は、指を動かす筋肉を千切り、手の形を保つ骨を玉砕し、掌の皮を破っている──のだろう。

確認する余力はあるが、その気力が残っていない。痛みを感じまいと無心を努めるだけで精一杯だった。その行為すら、徒労に徒労を重ねたものでしかない。

良が私と文香さんの名を叫んでいる。私はそれに応えようと、力を振り絞り左手を挙げた。

すぐに彼は駆けつけ、私の体を抱き上げて屋上の端まで退避する。

「留恵!大丈夫か!?おい!!」

鼓膜にダメージを受けるのではないかと思わせる程の音量で、良は私に声をかける。声を絞り出して、大丈夫だと返した。

激痛は走っているものの、命には別状は無いだろう。このまま出血が続いたら話は別だが。

と、彼は私を地面に寝かせると、再び屋上の中心へと駆けていった。

その様子を見て、思い出す。負傷した文香さんがまだ百野木の近くに取り残されていることを。

私は体を何とか起こして、跪くような姿勢で良の向かった方向を見た。

後ろ姿の良の、その奥には、うずくまった

ままの文香さんと、彼女に銃を突きつけている百野木の姿があった。

助けに行かなくては。反射的にそう思うも、私は踏みとどまった。自らもが手負いであるこの状況で、私に何が出来るのか。

右手は使えない。そもそも銃も落としてしまった。私が良の元へと行ったところで、加勢はおろか百野木が付け入る要因を増やすことにしかならない。

そんな理屈と、自分を撃った人間の近くへと赴きたくないという恐怖心があいまって──本音を言えば殆どが恐怖による金縛りのようなものなのだが、私は屋上の端から動くことが出来なかった。

文香さんを人質とした百野木は、彼女を強引に立たせて、こめかみに銃口をつける。

私達が死ねば、良はセイレーンの起爆を躊躇わない。それを分かった上での行動だろう。

百野木は、文香さんを連れてヘリに乗り込む気だ。

その為に、私と良が話している時に、一か八かの発砲をした。彼女を人質にしようと目論んだのだ。

殺してしまっては施設爆破が良によってなされる可能性がある為、撃ったのは頭部でも心臓部でもなく、銃を持った右手だ。

そして、文香さんを助けに入った私はそれを妨害された。だが百野木にとって人質は一人で十分だったので、私は良の救出を得られたというわけだ。

屋上中心部で交わされている会話の内容は、ここからでは聞きとることが出来ない。文香さんの首に手を回したまま後退する百野木と、じりじりと距離を詰めようとしている良の姿が見えるだけである。

──このままでは、まずい・・・!

文香さんが連れ去られてしまったら、もう彼女を救う術は残されていない。逃亡に成功した百野木が、彼女を生かしておく理由も無いのだ、何がなんでもヘリの離陸は防がなくてはならない。

防がなくてはならないが、私がそれを実行することは出来ない。机上の空論を繰り広げても無駄以外のなんでも無い。

その時、不意に閃いた。私は思い切り良へと叫ぶ。

「操縦士を人質にして!!」

私の声を聞き、良は地を蹴った。ダッシュで百野木の横をすり抜けて、ヘリの開いたドア越しに、内部の人物へと銃を向ける。

百野木の動きは、そこで止まった。

これで、時間稼ぎは出来た。安堵に息を吐く。

操縦士を脅しに使う。もし百野木がヘリの運転をすることが出来たのなら、この降着は生まれなかっただろう。だが、実際には百野木の動きを止めることが出来た。つまり操縦士を殺されることは、百野木にとって退路を断たれることと同義なのだ。

暫く後に二言、三言が双方の間に交わされた。と、百野木は文香さんを解放する。とはいえ、銃は彼女へと向けたままだ。次いで良が銃を下ろした。

二人の間に何らかの交渉が行われたのだろう。

文香さんが良に肩を貸してもらい、私の方へと近づいてくる。一方で、百野木は動物兵器の資料が入った鞄を拾い上げると、ヘリの方へと歩き出していた。

良が私の隣に文香さんを下ろす。

「大丈夫ですか!?」

「ええ・・・留恵ちゃんの方こそ、大丈夫?」

「全然平気ですよ、こんなの・・・」

本当は激痛が依然続いていたが、冗談めかして強がった。

「・・・それよりも、良。百野木と・・・何を話していたの?」

私が問うと、

「人質交換の交渉だ。文香と操縦士のな」

事も無げに言うが、とどのつまり良は百野木がヘリで逃亡するのを許した、ということだ。あれだけ怒りに震えていた彼が、随分と呆気なく百野木の殺害を諦めてしまった。諦めてくれた、という方が正しいのだろうか。

喜ばしいことなのだ。復讐よりも、恋人の命を優先させたことが明白に分かる選択を良はした。彼が手を汚すことが無かった。

でも──

「それで・・・いいの?」

自分でも意味の分からない質問をしていた。まるで良の殺人を助長するかのような発言。文香さんがすぐ傍にいるというのに、何故私はこんな愚問をするのか。

答えはすぐ分かった。私は良の諦めの良さに不可解さを感じているのだ。

あの醜く凶悪なアルビノの兵器を実際に見たからこそ。

今現在も、目の前にいる良の様子からは恋人と引き換えに百野木の逃亡を許さざるを得なかった、という悔しさのようなものは微塵も感じられない。穏やかで、私達の無事を喜んでくれているようだった。

きっと、だから私は尋ねたのだ。

それでいいのか、と。

「いいや、よくないな」

良はそう答えた。そして、

「まだ諦めちゃいないさ」

次の瞬間、視界が変わった。

目の前にいたはずの良がいない。だが今度は、動いているのは被写体ではなく私自身だった。

良を見ていた両目は、昼下がりの夏空を網膜に映し出していた。

そして、視界に良が再び映った。逆光の所為で黒い影にしか見えない。

私は良に突き落とされていることに気付いた。爆破事件の影響でフェンスの無くなった屋上の端から、瑞音の海へと。

じゃあな、と彼は微笑んだ。逆光で顔は見えなかったが、確かに微笑んだように思えたのだ。

そして、段々と彼の姿が遠くなる。

耳元で潮風が唸る。

屋上が遠くなる。

良の姿が小さくなる

永遠に感じられた落下の末に、私は頭から海へと落ちた。

幸いにも、打ち身はしなかった。落下の勢いで体は深く沈む。

海中で目を開くと、たゆたう水越しに見上げる空がとても美しく心に印象を刻んだ。海水が目に焼くような痛みをもたらす。

そんな景色に、刹那、轟音と光が混じった。屋上からである。

屋上で──爆発が起きた。

神秘的な景色の中で、私は幼馴染の死を悟った。

不可思議な程に、心が凪いでいた。


と、屋上の爆発に呼応したかのように、何処からか響く地鳴りが海水を震わせた。今まで聞いたことも無いような特大級の崩落音が腹に響く。

海水越しに見上げる空は、突然にその様相を変えた。

日の光を覆い隠して、何か巨大な壁のようなものが海へと迫っている。それが爆破によって崩落した研究センターの建造物だと気づいた時には、空の殆どが覆われていた。

死を意識した。

幼馴染と同じ場所へと向かう。

悪くない。

死に場所としては、こんな穏やかな海は上々過ぎる程だ。

両親には、セイレーンの救出は安全だと豪語してしまった。嘘をつく結果となってしまったことだけが、唯一の心残りだった。

太陽を隠す物体はぐんぐん近づいて、私へと迫って──。

その時、私の足を誰かが掴んだ。体が引っ張られ、海中をもの凄い速さで進んでいく。

段々と、意識が薄らいでいった。

意識が途切れる寸前、私は確かに目にした。

優雅に海を泳ぐ人魚の姿を。


夏の夕刻に特有の生暖かな空気が、潮風となって足元を吹き抜ける。実家の縁側に腰掛け、ぼんやりと海を見ていた私は、それを契機にしたかのように仰向けに寝転がった。

木目模様の天井が映る。幼い頃はこの模様に人の顔を連想して怯えていたものだ。

仰向けで見上げるという行為が、二日前のあの出来事を思い出させるスイッチのようなものになっていた。その気は無くとも、ふと寝転がると自然にあの時の光景が脳裏に浮かぶ。

揺らめいた水越しの爆発。

美しくもおぼろげで、その事実が未だに私の中では現実味を帯びていなかった。

全てが夢だったのではないか、と。そんな気がするのだ。

私たちはセイレーンを救えなかった。樋口によるセーフティ・デバイスの再展開は間に合わなかったのか、良の起爆によって、彼女らは皆死んでしまった。今際の際の熱風と衝撃波で全てを破壊し尽くして。

あれから──セイレーンの爆発の影響で崖が崩壊してから、私は気を失い、気がつくと瑞音町の砂浜に寝ていた。けたたましいサイレンの音で目を覚ますも、自分の身に先刻何が起こっていたのかを理解し難く、暫く呆然としていた。ふと隣に文香さんが倒れていることに気づいて、私は安堵した。だが安心も束の間、彼女は目覚めるや否や周りを見渡し、そして慟哭した。私も時をおかずして彼女の行為の訳を知り、唖然とすることとなった。

御影山が燃えていた。

爆発の影響だろうか、木々は橙の炎に染まり、山全体が黒煙をあげて燃え盛っていた。

うわ言のように良の名を何度も呼び、悲痛に呻く文香さんの顔を胸に埋めた。彼女の号泣を聞いても、どこか私は非現実な感覚を抱き、半透明なフィルム越しに良の死を知っているような、そんな気分の中にいた。

文香さんが私の背に腕を回し、一層強く泣き叫ぶ。

近くを走るいくつもの消防車のサイレンが、彼女の泣き声をかき消し──。

思い出しても、涙の一つも出なかった。まるで悲劇の映画を見ているようで、悲しみの感情こそ持てど、我が事のように感じられなかったのだ。

その後御影山の火は消し止められたが、研究センターのあった崖の崩壊が確認されて、レスキュー隊の人員で瑞音町はごった返した。同時に御影山に謎の爆発が起きたと報道され、一気に全国に瑞音の名が知れ渡った。

今現在も海上保安庁によって、研究センター職員の捜索がなされている。樋口や熊谷などの研究員や、ウノビスの警備兵など徐々に遺体が発見されているが、未だ良が見つかったという報せは聞かない。

ウノビス兵遺体の発見は、更に世間を騒がせた。何故国立の研究機関にウノビス人の、しかも軍人がいるのか。だが問い詰めようにも研究センター職員は所長を含めて全員が爆破事件で生存を絶望視されていた為、問い詰めるべき相手がいない。外務大臣がウノビスに回答を求める文書を送ったとニュースで報道されていたが、その返答は軍と研究センターとの一切の関わりを否定する内容のものだった。ウノビスはセイレーン創造の依頼をしたことを隠し通すつもりなのだろう。

セイレーンもインドラも、体内で爆発が起きた為、体は木っ端微塵になってしまったに違いない。恐らく資料も爆発で焼けただろうから、合成獣達の存在が露見することはないだろう。セイレーン亡き今、彼女らの存在が露見しようがしまいが、同じなのだが。

災害の報道の後、私の両親は驚くほど早く瑞音町に戻ってきた。私の身を案じてくれたらしい。セイレーンに関する秘密を知っている為、「謎の爆発」が指すことが分かったのだろう。

私は両親に何度も、研究センターで何があったのかを尋ねた。心底から私のことを心配してくれたのだが、しかし私は本当のことを話さなかった。自分でも何が起きたか言葉にまとめるのは相当難しかったうえ、親をこれ以上心配させるのは忍びなかったのだ。とにかく分からないの一点張りで、爆発が起きた時間、自分はこの家にいたと答えた。しかし良がいないことは隠しようがなかった為、彼が行方不明であることだけは伝えざるを得なかった。

文香さんは、事件の当日は私の実家で寝泊まりしたものの、翌朝に家を出て行った。曰く、暫く一人になりたいとのことだ。それを止める理由も無く、私はありきたりな励ましの言葉をかけることしか出来なかった。

その時、文香さんに言われた言葉が未だに耳の内部で反響している。

──どうして、私を励ませるの?

留恵ちゃんは悲しくないの、と彼女は詰るように私に言った。

分かりません、と私は返した。現実感が感じられないと正直に答えた。

そして、無言で彼女は我が家を去った。


思考をやめ、起き上がる。先程よりも日は落ち、少しあたりも暗くなっていた。私は暮れなずむ夕景に、長い間見入っていた。

その後、母が縁側にやって来て、神妙な面持ちで私に話しかけた。縁側に腰掛けて、私の顔を見て口を開く。

良君の遺体が見つかったの。

母はそんな言葉を発して、黙り込んだ。

母の言葉の意味が、分からなかった。

私はその言葉を咀嚼し、反芻する。

良の死は、知っていた。良自身の爆発をこの目で見たのだ。今更母にそれを聞かされたところで、どうということもない。

そう思っていた。

だが、母の言葉は私の心を剥き出しにする重さを持っていた。その重さが現実感だと分かった瞬間、私は途方もない虚脱感に喰われ、感情を犯された。

良の死後、私は始めて泣いた。


その夜、一人になりたくなった私は、家を出てあてもなく歩き出した。街灯もない道を、月の光を頼りにふらふらと歩く。

数分後に、海沿いの道へと出た。静寂の中、浜に押し寄せる波の音だけが聞こえる。私は浜に降り、砂の上で仰向けに寝転がり、また出来事を想った。

紛れもない現実の世界では、私はセイレーンも救えず、幼馴染をも失ってしまった。

こんな非現実的な現実があるなんて思いもしなかった。救いの皆無なこの状況は、あまりにも残酷で無慈悲だった。

一人の海で、再び嗚咽が漏れる。胸が痛くて堪らなかった。どれだけ泣いても泣き足りない気がして、それでも泣かずにはいられなかった。

泣いて、泣いて、泣き続けて──。

その時だった。

聞き覚えのあるあの喃語。聞こえるはずがない彼女らの声が、確かに私の耳朶を打った。

──まさか。

咄嗟に身を起こし、もう一度耳をすませる。と、再び声が聞こえた。

──まさか、ここにいる筈がない。起爆装置の電波を受けて、皆死んでしまったのだから・・・。

論理的に考えて、馬鹿な期待を消し去ろうとする。期待が裏切られた時の絶望に、これ以上耐えられない気がしたのだ。だが、その声は海に響き続ける。

何故なのか。そう思った刹那、私は一つの推察を閃いた。

ノティは、体内での火薬生成量が多すぎるという障害を持っていた。ならば、その逆、火薬生成量が少なすぎる、もしくは全く火薬を生成しない個体がいても、おかしくはない。

そして、私が研究センターに侵入した時、ダストシュートでガス室へと送り込んだ個体は、全て障害持ちではなかったか。

樋口の言葉が思い返された。

──ここにいるのは、兵器としての価値が微塵もない唯の合成獣さ。

もしかすると、私がガス室へ送ったのは、全て『爆発しない個体』だったのではないか。

溶解液のプールは、地下フロアよりも更に地中深くに存在する。その為、爆発の影響を受けなかった可能性が高い。

ハッとした。あの時、海中で私を助けてくれたようにみえた人魚。あれは幻覚ではなく、このプールにいて爆死を免れた彼女らの一人なのではないだろうか。

そこまで考えて、いてもたってもいられなくなった私は、声が聞こえる方へと駆けた。

波打ち際につくと私は周りを見回した。あたり一面に漆黒の水面が広がっている。

突如、濃紺の水滴を髪から滴らせて、褐色の女性たちが顔を出す。私を見て、皆が桃色の唇から潔白の前歯をのぞかせる。

首から上だけを水中から出したまま、彼女らは顔をほころばせて私の元へと寄ってくる。

彼女たちの柔らかそうな唇が動く──。


「ありがとう」

今までで一番流暢にセイレーンは喋り、今までで一番の笑顔を見せた。そして私が何かをいう暇もなく、身を翻し夜の海に消えていく。

一人残された砂浜に立ち尽くし、私は自分の顔も、セイレーンと同じように笑んでいることに気づいた。

満ち足りた気持ちになり、私はまた仰向けになる。星々が数多も煌めいて、私の全てに光を当てていた。

──明日、文香さんに電話しよう。

目を閉じる。手足を思い切り伸ばす。

さざ波の音に混じって、最後にもう一度だけセイレーンの声が聞こえた気がした。



〈fin〉


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