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―3―

ホテル男性従業員を銃撃、殺人未遂の男逃走


8月9日午後1時33分 更新


神奈川県警は9日、殺人未遂と建造物侵入の疑いで容疑者に逮捕状を発行した。


発表によると、容疑者は8日午前1時50分頃、神奈川市中のビジネスホテルに押し入り、客室


の一部屋を荒らした後にフロントの男性従業員(66)の腹部を拳銃の様なもので撃った。容疑者


は未だ逃走中。強盗目的かと思われたが同ホテルに金品を盗まれた形跡もなく、犯行動機は不


明。男性従業員は重傷を負ったが、命に別条はない。


同ホテルの監視カメラに黒人の男が映っていることから、県警は関連を調べている。また宿泊者


名簿より荒らされた部屋に宿泊していた男性客らの存在が明らかとなり、こちらも捜索がされて


いる。


最終更新:8月9日(日)14時44分




私たちは良を追うため、瑞音町へと向かっていた。ノティにはコンテナ港で待っているよう言い聞かせてある。

「これ・・・絶対ホテル瀬川ですよね・・・」

下りの山陽新幹線の車内で、呟く。返事が無いのでディスプレイから顔をあげると、向かいの座席で文香さんは眠りに落ちていた。額に張られた特大のバンドエイドが痛々しい。

目線をノートパソコンに戻す。記事の最下部には、女性アナウンサーの姿がサムネイルの動画プレイヤーが貼られていた。一応目を通したが、これも記事本文と同じことを読みあげているだけだった。

記事の一部がやけに際立って見える。まるで、そこだけ蛍光マーカーでも引かれたかのように目立つ。

フロントの男性従業員の腹部を・・・──

罪悪感。あのフロントマンには何のかかわりもないというのに。偶然私がプロトタイプを掘り出し、偶然警備兵に捕まり、偶然良と共に逃亡して、そして偶然、数ある宿泊施設の中の一件──ホテル瀬川に行きついた、ただそれだけで彼は・・・。

命に別条はないと記されているのが唯一の救い、不幸中の幸いだった。

しかし・・・

何故警備兵はフロントマンを撃ったのだろうか?大方、彼が抵抗したなどの理由があるに相違ないが、警備兵を使わせた百野木自身は、今回のホテル襲撃を大ごとにはしたがらないはずだ。監視カメラに映った警備兵が逮捕されれば、そこから研究センターの情報が漏洩しないとも限らない。セイレーン創造の事実の隠匿に万全を期す百野木の性格と、今回警備兵がフロントマンを撃った事件との辻褄が合わないのだ。

となると、警備兵は百野木の命令に忠実ではない・・・?

考えてみれば確かに、警備兵はウノビスの軍人であり、研究センターの人間ではない。クライアントであるウノビス国家下にある軍の上層部から命を受けて施設内の警備にあたっていたにすぎないのだ。ホテル瀬川で私と良が襲撃された件にしても、私と彼との電話ごしの会話で、百野木は『寝首をかけば良いものを』と、表立った襲撃を批判していたではないか(ジョークとして昇華してはいたものの)。が、スマートな暗殺を望んだ百野木に対して、警備兵が取った行動は大っぴらな客室突入と、小銃の乱射。これは警備兵が百野木の命令に、背いているとまではいかなくとも、彼の命令をルーズに捉えているということではないだろうか。

だとすると、人前では警備兵の襲撃を受けない、という私や良の考えは間違っていたこととなる。情報隠匿など毛ほども気にかけない警備兵の存在は脅威である。良を連れ戻した後には、今まで以上に周囲に気を配らねばならない。

ノートパソコンを閉じ、トイレへ向かう。時間帯が朝であり、さらに下り方面の新幹線だとはいえ、車内は出張務め、もしくは帰りの会社員がそこかしこに見られた。

用を足し、ついでに朝食に車内販売のカツサンドとお茶をそれぞれ二つ買って座席に戻る。

再び、パソコンを開いた。検索バーに『インドラ』と打ち込む。検索結果の一番目、ウィキペディアのページに飛んだ。

インドラとは、バラモン教やヒンドゥー教における雷神の名前らしい。他の宗教にも登場し、この場合仏教では帝釈天、ゾロアスター教では神でなく、ヴェンディダードの7大魔王という枠組みに含まれるほどの悪神として扱われている。

一面四臂、つまり一つの顔に4本の腕を持つ存在で、千の目を持ち、さらには雷を自在に操る能力がある。いわく天と地を満たすほどの巨躯で、雷を象徴する武器、ヴァジュラを持っているとか。

ヴァジュラ、という単語にリンクがあった為、そこから詳細ページへと飛んだ。

ヴァジュラは金剛杵こんごうしょとも言われるらしいダイアモンド製の法具、または武具で、刃がついた槍のことらしい。

研究センターの地下で創造されている生物が、ウィキペディアの記述通りの特徴を持つのならば、脅威である。私はPCを片づけ、カツサンドに手を伸ばした。

インドラもセイレーン同様に、長い英単語の正式名称の頭文字を取ったものなのだろうか。その容姿、危険度など、分からないことが多すぎるため、何も判断できない。

しかし、出来るならば関わりたくないというのが本音だった。文香さんはインドラもセイレーン同様助けようとするかもしれないが、地下で、研究員にも秘密裏で創造されるような生物だ、水雷を抱えた合成獣以上に危険な存在である可能性は高い。

──最善なのは、研究センター突入前の良を発見し、連れ戻すこと・・・。そうすれば、残り7日間に十分な対策を練って、文香さんとセイレーンを助け出すことが可能かもしれない・・・





はめ殺しの窓から、太陽の光が室内を刺す。真夏日の昼下がりだった。

俺の両腕にかなりの負荷をかけているのは、変哲もない段ボール箱。だがその中身は爆弾だ。ウノビス兵が研究センターに持ち込んだ、大量の膠着ダイナマイト。全く、彼らは何を見越して、何に使うつもりでこれらを日本へ持ち込んだのか。もっとも、そのお陰で俺は企てを実行に移せるのだが。

──セイレーンを処分する。

自分の意志を確認する為、もう一度心で呟いた。声には出さないものの、唇も形作って。

室内には、一般企業のオフィスさながらにデスクが並んでいた。人はいない。部屋の隅まで進むと、俺は慎重に段ボールを下した。

肩が軽くなって、幾らか張り詰めた気分も和らぐ。壁の時計を見ると、まだ時間に余裕はあった為、確認の為に段ボールの上蓋を開いた。ベージュ色の包装紙に包まれた円柱が、規則的に積み込まれている。そしてその最上部、右下には黒い四角の機械、受信機があった。

着ている白衣の右ポケットには、セイレーンの起爆装置が入っている。送信機の周波数を合わせてある為、目の前の膠着ダイナマイトもセイレーンの水雷と同時に起爆可能だ。

これで、セイレーンを全て──引き渡される36匹だけでなく、障害持ちや奇形種のそれの命も全て断つ。セイレーンの為に殺してやるなどというおこがましい考えも、贖罪の為に殺すという考えも、抱きたくないし、抱かない。あくまで俺が創ったものを、俺が片づけるだけだ。遊んだ玩具を子供自らが玩具箱へ仕舞うと同じ、当然の行為じゃないか。

そう、セイレーンに関して言えば。

しかし

─『インドラ』

脳をその単語がかすめる度、内臓が発熱するような怒りに襲われる。全身が震え、知らず知らずのうちに拳を握りしめている。

──あれだけは・・・!

セイレーンを殺すことがけじめの行為だとしたら、インドラを殺すことは復讐の行為だった。

あれだけは、完成させてはならない。

殺せる機会は今をおいて他にないのだ。起爆装置を用いて、セイレーンと同時に、インドラの有する水雷も爆発させる。

殺さねばならない。否、殺してやる。その存在を抹消して、二度と──

「清水君かい?」

突然の声。驚いた俺は反射的に立ち上がった。振り向くと、部屋の扉の前に樋口が立っている。

「ああ・・・お早うございます・・・」

──まずい・・・!

副所長が何故此処に!?今日は所長の百野木を始めとする、全研究員が遠洋でのセイレーン爆破実験に立ち会っている筈だ。俺は急病という嘘をついたからこそ、無人の研究センターにいるというのに・・・

「樋口さん・・・爆破実験はどうされたんですか・・・?」

神経を使って、平坦な会話を心掛けた。

「行っていないよ。僕だけは少し仕事があってね」

その言葉で、俺は気付いた。

樋口の言う仕事とは、インドラの管理だ。未発達であるインドラを観察し、知能や身体能力をより進化させること。また未だにパーソナリティーが定着しておらず、不安定な状態にある現在のインドラは、いつ何時暴走を起こしてもおかしくない。その為それを察知し沈静を図るべく、インドラの管理に当たる研究員は24時間欠かしてはならないのだろう。よって全研究員が遠洋へ出かけている今でも、樋口はインドラの管理の為此処に残っている・・・

「おや?何だいそれは?」

樋口が俺の手元にある段ボールに気がついた。心臓が早鐘を打つ。幸いまだ中身には気づかれていないようだが、箱内にある物の正体を、そして俺の思惑を知られるのは時間の問題だ。

どうする・・・?樋口を殺すか?・・・しかし、自らの手を殺人で汚すのは御免だ。あくまでも殺すのはセイレーンとインドラ・・・。研究員を殺したくはない・・・。

だとしたら、取れる方法は──

樋口に怪しまれないよう、自然な手つきで白衣の左ポケットに手を入れる。立ち上がって、一歩下がった。

段ボールに近づいた樋口が中身を目にした。彼が息を呑む音が聞こえた瞬間、俺は銃を突きつけた。

「え・・・!?」

樋口は絶句して、こちらを見ている。目は見開かれ、口はだらしなく半開きだ。見るからに彼は状況を脳内で整理できていない。

「一切動くな。話もするな」

デスクから布製の粘着テープを出し、樋口に言う。

「ついてこい」


施設を出て、森の中。等間隔に木が並んでいる為、歩く場所には困らないが、葉が生い茂っている為視界は悪い。だが、ここなら施設爆発の影響は受けまい。俺は連れてきた樋口を地面に寝かせ、彼の四肢を一まとめにして巻いた。

「清水良・・・君は何をする気だい・・・!?」

彼の両目は鋭い光を放っている。返答をせずに、樋口の口元をテープで塞いだ。


アタッシュケースを手に提げ、俺は森を進む。抜けた先に、逃走用の車は既に用意してあった。後は車に乗り込み、警備兵に見つからない距離まで逃げてから起爆装置のスイッチを押す。そしてその後、警察機関へと告発をするだけだ。

その時、木々の隙間から警備兵の姿が見えた。大柄な巨躯が二つ。俺の姿が見つかったところで、ウノビス兵には大して咎められもしないだろうが、念の為に警備兵の動向を探りつつ、慎重に移動する。

警備兵の横を通り過ぎ、小さく息を吐く。本来必要のない緊張を感じてしまった。振り返ると、離れていく二人の姿が目に入る。

と、二人の体に挟まれて、女性の後ろ姿が見えた。警備兵の体が大きかった為、今まで見えなかったのだろう。だが、女性がウノビス兵と歩いていようとも、何の問題もない。その女性が二人のウノビス兵に挟まれているという点を見れば、何やら平和的ではないようだが、それも俺の爆破計画には支障をもたらさないはずだ。

しかし・・・

あの女性の後ろ姿に、何やら見覚えがあった。知り合いだろうか?思わず足を止めてしまう。

ウノビス兵に見つかっても平気だという思いから、俺はもう一度ウノビス兵の近くへと歩み寄った。木立に隠れて女性を見る。

肩まで伸びた黒髪。蒼白なその顔は紛れもなく留恵──かつての幼馴染だった。

考えるよりも先に、体が動いていた。木立から飛び出すと、留恵の肩を掴んで警備兵から引き剥がす。留恵の、驚愕と安堵の入り混じった声が聞こえた。

「良!」


8月10日 10時04分 清水良

研究センター敷地内の森、木立の中に良はいた。薮から蒸散した水分が不快感を伴って肌にまとわりつく。彼の目線の先には、警備室。そしてその奥には研究センターがそびえている。

再び此処に来ようとは。思いもしなかった再来に良は内心で舌打ちをした。

あの時、施設を爆破した時に樋口に見つかった事が最大の誤算だった。彼に気付かれさえしなければ、セーフティ・デバイスを展開されることもなかったのに。

これが最後にして、残された唯一のチャンスだった。研究センターへの襲撃。もたらされる結果は、動物兵器の死、もしくは良の死のどちらかである。今の彼を動かしているのは、最早数日前の冷静さではなく、たぎる怒りだった。

──今度こそ・・・!

今度こそ、殺す。手にしたアサルトライフルを握りしめた。

良は内頬を強く噛む。口腔内に広がる鉄の味を目いっぱい享受して、彼は立ち上がった。


8月10日 10時10分 高崎留恵

良を追って瑞音町に来た私たちは、御蔭山の中腹でタクシーを降りて、山道へと入った。数日前の帰郷よろしく、天候は快晴、茹だるような暑さである。しかし心境は帰郷時とは真逆、一刻一秒を争う今の事態に自然を楽しむ余裕などあろうか。

しばらく道を小走りで進み、見晴らし広場──小学生の時分、遠足で訪れた場所の入り口へと到着した。

「本当に、ここから研究センターの敷地へ入れるの?」

文香さんが聞く。私は自信を持って頷いた。

「ええ。昔ここから転落したことがあるんです。この崖の下は研究センター内の森でした」

良が未だ研究センターへ侵入していないのなら、此処から下り、先回りして待ち伏せしておけばいい。彼が研究センターに来るのはほぼ明らかなのだから。しかし、彼が現在既に突入しているとなれば、待ち伏せも無意味だ。

その場合は──私たちも突入。

否、突入、という表現が正しいのかすら分からない。潜入である可能性も十分にあるのだ。どちらか分からない以上、良の行動は『侵入』としか言いようがない。

崖を慎重に下り、森に立つ。ここからは研究センターの敷地内だ。ウノビスの警備兵に見つからないよう、音をたてないように等間隔に木が立つ森を進む。

数分後、視界が開けて、前方に研究センターが現れた。咄嗟に数歩下がって、森の木立にしゃがむ。此処から研究センターまではせいぜい2、30メートルほどだ。これより先を迂闊に進むのは危険である。

と、文香さんが私の肩を小突いた。耳元に口を寄せて言う。

「左を見て」

言われたとおりに顔を向けると、そこには立方体の小さな建物があった。研究センターと比べるとサイズは雲泥の差だ。プレハブ小屋を一回り大きく、堅牢にしただけという印象を受けた。

「あれが警備室よ。ウノビスの兵は見回り時以外はあそこにいるわ」

それがどうかしたのだろうか。私の疑問をよそに彼女は続ける。

「警備室では、警備兵が研究センターに設置された監視カメラの映像を随時チェックしているの。だから良が既に侵入しているのだとすれば、恐らく警備兵はそれに気付いて何らかの動きを見せている筈よ」

が、見た限りでは敷地内の屋外には警備兵の姿はない。警備室も兵が騒いでいる様子など微塵も感じさせず、静寂を保っている。

「だから恐らく、良はまだ侵入していないわ」

文香さんはそう結論付けた。だが、彼女の意見はどうも納得がいかないので、私は小声で反対意見を挙げる。

「良が監視カメラに写りこまないようにしながら侵入しているっていう可能性はないんですか?」

「それはあり得ないわよ。施設内の廊下と部屋には全てカメラが設置されているもの」

「じゃあ、良は映っているけど、警備兵が怠惰で映像をチェックしていないとか・・・」

私の呟きに、文香さんは眉間にしわを寄せた。しばし考え込む素振りを見せた後、

「・・・警備室の様子を見てくるわ。留恵ちゃんは此処で隠れていて」

私の制止をやんわりと払いのけて、文香さんは四つん這いの姿勢で警備室の方向へと向かった。


8月10日 10時15分 桑原文香

留恵の言葉が、文香に猜疑を抱かせた。

──良は映っているが、警備兵が怠惰で映像をチェックしていない可能性・・・

それも十分にあり得る。だが、文香はもう一つの可能性を危惧していた。

──良は映っているが、警備兵が映像をチェックできない状態にある可能性・・・

即ち、良による警備兵への攻撃行為。睡眠ガスなどを用いた一時的な行動抑制ならまだしも、最悪の状況を考えたら、彼女は留恵を連れて警備室へ向かうことはできなかった。

姿勢を低くしたまま、警備室の扉とは正反対の外壁に回る。壁に耳をつけてみるも、物音は一切聞こえない。

壁を見上げると、上部に窓が備え付けられていた。文香の身長ではジャンプをした所で室内をのぞくことはできないだろう。

なんとか室内を窺う方法は無いだろうか。彼女は額に手を当てた。

窓はこの壁に備わっている一つのみだし、扉を開けて中を見るなど危険も甚だしい。もし私の予想が外れていれば、警備兵は健康な姿でこの中に何人もいるのだ。既に私は研究センターの裏切り者として認識されているだろうから、彼らに見つかれば命を狙われる状態にある・・・

だとすれば、窓から窺う他に無いか・・・

周囲を見て、文香は窓のある外壁の真後ろに森の木を発見した。太さは十分、その上、おあつらえ向きに足がかりとなる枝も数多く付いている。

これに登れば、窓から中が窺えそうだ。文香は枝をつかむと、危なっかしく体を運んで木に上った。

しかし、枝に乗り、地上2メートルの高さから窓に目をやった彼女は、刹那にして硬直する。

──あ・・・?

背筋がうそさむくなり、バランスを崩した。反射神経が傍らの枝を掴ませたため、転落することはなかったが、いつ落下してもおかしくない状態だ。

──今、窓が・・・!?

胃が収縮と拡大を繰り返す。蠕動の末、胃から胃酸がこみ上げて味覚を刺激した。懸念していた最悪の状況。それがまさに今現実のものとなって現れている。

ふわふわと宙に浮いているような感覚。それに背反し重みを増したように感じられる自身の臓物。

あり得ない

これは夢だ

現実感が希薄となり、窓枠の中の景色と、口内の酸味だけが不快なリアリティを帯びている。

夢だと思い込むには、冷静すぎる自分の脳が在った。

現実を逃避するには、豊富すぎる彼の理由が在った。

だが、理解できない。

何故こんな真似をするの・・・?

此処にいない良へ向けて問い、同時に自らを滑稽に思った。

──何を馬鹿なことを。私も・・・似たようなことを企てていたじゃないか・・・

所詮、私のそれは机上の空論に過ぎないことが分かった。私にこんな真似は出来ない。良には確かにそれをする理由がある。だが、その理由は・・・秤にかけた時、軽い。

そう、彼がそれを行う理由は軽いのだ。人の命に比べたら。

窓枠の中は、血の海。警備兵の骸が六つ。死体という物体が6個。

良が、人間を亡骸にした。

窓には無数の銃痕があった。良も私と同じように、此処に登ったのだろうか。

ここを狙撃場所に選んだのだろうか。

私の恋人が。

彼女の中で際限なく悪い想像が膨らむ。まるで自身がそのシーンを目の当たりにしたかのように、ウノビス人が銃殺される様子が脳に浮かび上がるのだ。

黒い腕の筋肉を貫いて、血飛沫が壁に飛び散る様。頭部に銃弾が捻じ込まれ、淀んだ桃色の脳漿が零れ落ちる様。野太い断末魔の叫びを上げて、血の海を転げる真っ赤な黒人の様。

遂には耐え切れず、彼女は胃の中身を盛大にぶちまけた。黄色みを帯びた吐しゃ物は枝の上から地面に落下し、派手な水音を立てる。

──良が、警備兵を、殺した。

此処にきて、ようやく事実を端的に言葉として浮かべることができた。文香は咳き込んだ後、力なく木を降りる。地面にへたり込んで、漂う吐しゃ物の臭いの中で茫然と、焦点の定まらない目で警備室の方向を見ていた。

良が殺人を行う理由。それは彼が計画を完遂する為。セイレーンとインドラを殺す為。良が研究センター内に侵入すれば、その姿は必ずカメラに映る。そして先日、この地で爆破事件を起こした彼は文香同様、否、文香以上に反逆者として警備兵に顔を知られているのだ。監視映像を警備兵が見れば、彼は大人数の軍人に追われ、命を狙われることとなる。それでは動物兵器を殺すことができなくなる。だから良は先手を打った。

殺される前に、殺した。

殺す為に、殺した。

文香は絶望した。自分の好いていた男性の変貌ぶりは、まるで異形に憑かれたかのようだった。

──あれは清水良ではない。復讐に駆られた鬼だ。

彼女は良だった男性を鬼と表現した。

──私は・・・鬼からセイレーンを守らなくてはならない。

よろめきつつも、文香は立ち上がる。蹌踉たる二足歩行で留恵の待つ木立へと戻った。


8月10日 10時19分 高崎留恵

おぼつかない足取りで戻ってきた文香さんは、ただ一言、「行くわよ」と私に告げた。何処に、は言わずもがなだが、文香さんが侵入を決断した理由が不明だ。

「警備室に動きがあったんですか?」

私の問いにも、彼女は応えない。ただ俯き、沈黙するばかりだ。

「文香さん?」

数回呼びかけて、ようやく彼女は我に返ったように顔を上げる。

「大丈夫ですか?顔色、悪いですよ」

彼女は顔に笑みを浮かべ、大丈夫だと言った。だがその笑顔には無理が生じている気がしてならない。無理矢理に口角を引き上げただけのように見えるのだ。

「何があったんですか?」

文香さんの様子は、見るからに不自然だ。警備室で何かが起きたのは間違いないだろう。だからこそ私は、『何か』ではなく、『何が』あったのかというように、事が起きたのを前提とする質問をした。

「良が既に侵入しているのよ」

「・・・警備兵に動きがみられたってことですか?」

文香さんは首を横に振る。

「警備兵が良に攻撃されていたってことよ」

警備兵の攻撃から逃れるために良が取った策の詳細を、文香さんは私に話した。攻撃される前に、攻撃するというもの。動物兵器を殺す為に、警備兵を襲うというもの。

「それで・・・警備兵はどうなっているんですか?」

文香さんに訊く。嫌な予感がした。良が手を汚すという、最悪のシナリオが思い浮かんだ。

「・・・気絶させられているだけよ」

──良かった。

安堵に息を吐く。だが、気を抜いていられない状態なのは変わりない。

「良は、もうセイレーンとインドラを殺しにあの中へ入っているんですよね?」

研究センターを指さして言う。

「・・・ええ。その上警備兵に襲われることもないから、その分彼の計画はスムーズに進行するでしょうね」

彼の計画。セイレーンとインドラを殺すことだ。恐らく、一匹一匹を地道に殺していくような真似はしないだろう。起爆装置を手に入れ、数日前に、研究センターの一部を破壊しただけに終わった爆破事件を再び起こす。今度はセイレーン全てが爆破させられるだろう。

警備兵が気絶している今、それを止められるのは私たちか、ここの研究員のみなのだ。

「・・・行きましょう。絶対にセイレーンを守らないと」

私は自らと文香さんの両方に決意の言葉を言い、立ち上がろうとした。それを文香さんに制される。

「少しだけ待ってちょうだい」

額の汗を腕で拭い、彼女は私を見すえる。

「これから行う作戦の説明をするわ」

そう言って、大きく咳払い。先程までの精魂果てた様相は消えている。

「これより研究センターに侵入します。目的は、セイレーンの救出。具体的にいえば、良の爆破計画を阻止することと、セイレーンを海へと逃がすことの2つよ。敵は良と、百野木率いる研究センターの人間。そしてタイムリミットは良が起爆装置を起動させるまで──つまり一刻の猶予も許されない状況ね。だから、二手に分かれて行動するわよ」

つまりは、私たちのそれぞれが単独行動をするということか。

「でも・・・私は研究センターの内部を知らないですよ・・・?」

「それほど複雑な構造じゃないわ。知っておく必要のある部屋の場所は、これから私が教えるから」

そして文香さんは、私に命を下した。

「私は良を追うわ。留恵ちゃんには、セイレーンの解放をお願いしたいの」

毅然とした口調。

「どうすればいいんですか?」

私の質問に対し、彼女はセイレーンを逃がす手立てを詳しく話してくれた。

「元々、私が実行しようと思っていた方法よ」

私の両親が人質に取られなければ、文香さんはこの企てを実行に移していたのかもしれない。思っていた以上に単純で、合理的な計画だった。無論、敵は私がこれを行うのを、全力で阻止しようとするだろうが。

「インドラはどうするんですか?」

気になったことを尋ねた。セイレーン同様助けるのか。それとも殺すのか。

「・・・インドラが何であるか分からない以上、何とも言えないわね。これについては留恵ちゃんの判断に任せるわ」

──私の判断・・・

「あなたが助けたいと思ったら、助ければいい。生かしてはならないと思ったら、処分すればいい」

セイレーンは半人間である為、救出の必要がある。だが、インドラがそうであるかは不明だ。

私が生殺与奪の権利を握る・・・。

「それから、これを持っていって」

私は文香さんから拳銃を受けとった。以前脅迫に使用したものではなく、弾が装填されているそれである。

「警備兵がいない今だから、使う機会はないと思うけれど・・・もし研究員に襲われたら、あくまでも護身の為に、引き金をひいてちょうだい」

──護身の為に?

研究員を殺す、と決意を露わにしていた彼女が言うには妙な台詞だった。あくまでも手を汚すのは文香さんで、私に人殺しをさせたくないということなのだろうか。

「・・・文香さんは研究員を殺すんですか」

少し躊躇ったが、私は訊いた。と、彼女は自虐的ともとれる笑みを浮かべた。

「そんなことも言ってたわね。安心して、口先だけよ」

私には人殺しなんてできないわ、と吐き捨てるように言う。目に涙が浮かんでいたように見えたのは気のせいだろうか。

「行くわよ」

文香さんは立ち上がり、一人研究センターへと歩き始めた。私はそれを追う。



研究センターの外観は、少し昔風であることを除けば、普通のビルと何ら変わりはない。ただ、都会と異なり土地が豊富な為、4階建ての建物でも1フロアの面積をとても広く取っている。ちょうど3階にあたる位置の外壁が黒ずんで、大きく崩壊し内部をのぞかせているのは、良が先日起こした爆破事件の名残だろう。

私たちは正面入り口の裏へ周り、一階の窓を破壊してセンター内に侵入した。どこか病院の、入院病棟の廊下を思わせる廊下を歩いて、階段へ。本当はその隣にあるエレベーターを使いたかったのだが、爆破事件の影響だろうか、呼び出しボタンを押しても動く気配を見せないのだ。やむを得ず徒歩でフロア移動をすることになった。

「じゃあ、さっき教えた通りに頼むわよ」

「はい。文香さんも、絶対に良を止めてくださいね」

互いの健闘を祈って、軽く言葉を交わす。

それじゃあ、と力強く言い、文香さんは階段を上がっていった。

──さて、わたしも・・・

早まる鼓動を押さえつけるように、深呼吸。限界ギリギリまで息を体内に溜め、一気に吐き出す。右手の銃の、グリップを握りなおす。

地下階への階段を見据えた。日光が差し込まない為、、地下の光は蛍光灯のみで、とても無機質だ。

──絶対に、救う。

セイレーン殺しで良の手を汚させはしない。幼馴染に殺しはさせない。

靴音が鳴らないようにして、私は階段を下っていった。


8月10日 10時15分 清水良

留恵と文香が裏口より研究センターに侵入しようとしていた頃、良は研究センターの1階廊下を歩いていた。施設そのものは広いが、勤務している研究員は百野木を含めても計15人(良、文香の裏切りの為現在は13人)である為、廊下で人に見つかる可能性はとても少ない。しかし万が一のことを考え、彼は物陰に隠れながら、迅速に進んでいた。

良は研究センターに『潜入』していた。起爆装置を奪い、スイッチを押すだけで計画を完遂できるというのに、わざわざ研究員に自らの存在を露呈するのは、計画が破綻する要因を増やす行為に他ならない。その為、彼にとって監視映像は厄介な存在だったのだ。唯一気がかりに思っているのは、警備兵殺害の際の銃声を研究員に聞きつけられて、自らの侵入が悟られていないかということだが、アサルトライフルには消音器がつけられていることを彼は知っていた為、その心配たるや微々たるものだった。警備兵殺しに使われた武器は、弾切れが故既に木立の中へ放りこまれていた。現在彼が手にしているのは同じくジープより盗んだ、小銃である。アサルトライフルよりかは若干威力が劣るものの、同じく消音器が取り付けられているうえ、殺傷力は十分にあった。

良は一階の階段に着くと、上階へ向かう。彼の目的地は、二階の第一機械開発室だ。

第一機械開発室とはその名の通り、セイレーン創造に伴って必要となる機器の開発を目的とする研究員らが集う部屋のことを指す。セイレーンの体内に埋め込む爆弾の受信機を始め、爆発の命令を下す電波を送信する起爆装置、それをジャミングによって無効化するセーフティ・デバイスなど、諸々の機器は全てこの部屋で開発されている。

彼は第一機械開発室へと赴き、起爆装置を入手しようと目論んでいた。それを手に入れ次第、即刻起爆する。今の彼は自らをも爆発に巻き込むことを厭わなかった。

セイレーンを殺し、インドラを殺し、爆発によって研究員も殺す。この『研究員』には、良自身も含まれていた。

研究員を殺すという考えは、つい先日までは彼の中に無かったものである。あくまでも彼は、自らが殺すのを動物兵器のみと決め、人を殺めるのは避けようと思っていた。その例が爆破事件の際、副所長、樋口に自らの企てが露見したが、彼を殺さずに森で拘束するに留めたというものだ。

しかし、今現在の彼はインドラ創造への怒りから、自我を失いかけていた。研究員と名のつく者への怒り。インドラ創造に携わっていない研究員に対しても彼は恨みの感情を抱いていた。まさしく文香の言うところの鬼なのである。彼は冷静な怒りに喰われていた。








二階の白く長い廊下を走り、目的地へ。誰にも見つかることなく良は第一機械開発室に到着した。部屋の扉は木製の片開きで、扉の中心上部に部屋名の彫られた金属プレートがはめ込まれている。大仰な名前の割には、入口からして既にみすぼらしい。これは、瑞音国立資源・生物研究センターが日本政府から研究費を十分に受け取れていないことに起因する。現在のセイレーン創造、インドラ創造に必要な資金は、全てクライアントのウノビスによって賄われているのだ。石油大国でもあるそこは経済力豊かな為、研究センターに支出を惜しまない。よって、研究センターの交渉次第では施設そのものの立て直しも可能なのだが、違法行為を行っている為、国への一応のカモフラージュも兼ね、地上階だけは古いままなのだ。ウノビスの依頼以降に新たに作られた地下階は、外観、設備共に地上階からは予想もつかないほどハイテクだが。

良は扉に耳をつけ、室内の様子を窺う。研究員とみられる複数の人物の声。緊迫した様子の無さから、彼は自分の侵入を未だ露呈していないものと判断した。ドアノブを静かに捻り、ごく僅かに扉を開く。両手で小銃を構えると、ドアを足で押しのけて室内に突入した。素早く研究員の数を数える。女性研究員が一人、男性が二人。突然の闖入者に戸惑っている3人に向けて、彼は得物を構えた。

「だ・・・誰だ貴様は!!」

老け顔の男性研究員が叫ぶ。良は間髪いれずに引き金を引いた。無音で連射された弾丸が壁を穿つ。

「黙れ」

低く唸るように命令した。

「次に喚いたら命は無いと思え」

一人ひとりの脇腹に銃を突きつけ、静寂を要求する。全員が無言のまま頷いたのを確認して、良は3人を部屋の隅に集めた。

と、女性研究員が唐突に息をのむ。すかさず銃口は彼女に向けられたが、歯を鳴らしながら彼女は口を開いた。

「清水・・・さん・・・?」

その一言で、男性二人も瞠目する。携わっていた部門は違えど、現在部屋を占拠しているのはかつての研究仲間なのだ。

「黙れって言ってんだろうが」

仲間を目の当たりにしても、彼の瞳には友好的な光は一切宿ることが無かった。あるのは目的を遂行する為の意志のみ。

「喜多川」

もう一人の男性研究員──眼鏡をかけた30代の名を呼ぶ。

「金庫を開けろ」

再び3人に動揺走る。

「そんなこと──」

出来るわけないだろう。みなまで言い終える前に、喜多川は頭部から血液を噴いた。絵の具をぶちまけたように、白衣が朱に染まる。

良にとってこの攻撃は、所謂見せしめだったが、女性研究員はその惨状に耐えられず悲鳴を上げた。良はすぐさま彼女に寄ると、銃口を彼女の口に突っ込む。黙らせることが目的だったのだが、彼の予想に反し、女性はより一層大きく、くぐもった叫びを上げた。銃身が発砲によって、彼女の内頬に火傷を負わせるほど発熱していた為である。他の研究員がこの場に駆けつけることを恐れた良は、躊躇なくそのまま発砲した。数多の弾丸が口腔内から彼女の後頭部を貫く。女性は喉に血を湧かせ、悲鳴とうがいの混じったような声を出して絶命した。

人間二人の死亡を以てして、再び静寂。室内には血と硝煙の匂いが立ち込めていた。

一人残された男性研究員は、満面に脂汗を浮かべ、腰を抜かしてへたり込んでいた。失禁しているらしく、床と彼のズボンは尿にさらされ濡れている。

「熊谷。お前がやれ」

帰り血にまみれた良が、表情のない顔で命令する。逆らえば、死。熊谷は慌てて立ち上がると、過剰なまでに首を上下に振って従順の意志を表し、壁に取り付けられた金庫へ走り寄った。震える手で電子ロックの文字盤に解除パスワードを入力する。数秒後、電子音と共に金庫の扉は上へスライドオープンした。

良は壁の金庫へ近づき、中を覗く。奥行きの浅い内部には、7つの起爆装置がエアーキャップにくるまれて横並びに保管されていた。

そのうちの一つを手に取り、良は初めて満足げな表情を浮かべる。傍らで怯える熊谷に目を向けた。

「ありがとう」

そう言って、彼は微笑んだ。純真無垢な笑顔だった。熊谷もそれに応え、引きつった笑みを浮かべる。

次の瞬間、良の小銃が火を噴いた。熊谷の内臓を潰し、骨を砕く銃撃の嵐。

「な・・・?」

熊谷の呟き。良は冷酷に言い放つ。

「もう用済みなんだわ」

彼の狂気が満面の笑みとなって表れた。


その時背後に音を察知した良は、反射的に振り返る。次の瞬間、彼の目が黒人の巨躯と構えられた片手銃を捉えた。咄嗟に床へ転がる。彼が伏せるという行為を始めたコンマ数秒後に──銃声が空気を轟かす。銃弾は直線の弾道を描いて、元々彼の頭が存在していた場所の空気を穿って飛び、部屋の窓ガラスを割った。

──何故警備兵が生きている!?

間一髪で初撃をかわして仰向け状態となっている良に、一瞬動揺が走る。しかし彼は瞬時に意識を切り替え、今存在する敵を殺すことだけを念頭に置いた。

一発目の銃声後、1秒経過したか否かにして、彼は両足を振り、空中でブリッジをして──いわゆるネックスプリングを用いて起き上がる。時を同じくして、警備兵は二発目の弾丸を発射する為に両手で銃のうちがねを起こした。

良は小銃を構え、大きく前へ踏み込んで警備兵にそれを突きつける。警備兵は片手銃を再び構え、良に狙いを定める。二人による二つの動作は、同時に行われたと言っても過言でない。

よって、膠着。付加された沈黙。互いが互いの体に銃を向けた状態である。どちらかが少し指先に力を込めれば、鉄塊が飛んで相手の体に風穴をあけることだろう。だが、それを行うと反撃により自らも致命傷を負うであろうことは二人とも考えるまでもなく理解していた。

──畜生、生き残りがいたのか・・・

双方迂闊に手が出せない状況になったことが、彼の冷静な思考を可能にした。

──警備室にいたのは全員じゃなかったってことか・・・まずいな・・・。

相手は戦闘の玄人である。軍人を相手取り、これほどの戦いを繰り広げられる時点で良はかなりの身体能力を持ち合わせていると言えよう。

警備兵と目線を合わせ、互いに視線をぶつけ合う。言語の壁が存在する為、会話による牽制は不可能だ。良に負けず劣らず、警備兵の形相にも凄まじいものがあった。


沈黙は数十秒続き、未だ破られない。この状況を打破する手立てが存在しないと判断した良は、そして単純な事実に至る。

──そうか・・・俺は殺されていいんだ・・・!

こいつに撃たれようが、俺が絶命する前に起爆装置のスイッチを押せばいい──彼はそのようなことに気付いたのだ。

だが彼は、この方法が使えないパターン、つまりは相手の攻撃による即死を恐れ、最後まで善戦を尽くすことにした。善戦、と言っても、命を捨てることを惜しまない現在の彼の戦い方はかなり無謀なものとなるが。

良は唐突に発砲した。狙ったのは警備員の掌、片手銃の握られた両手。連射された弾は音もなく空気を裂き、見事に警備兵の手の甲へ幾度も命中した。

攻撃を予測できなかった警備兵は突然の攻撃になすすべもなく、手の痛みから片手銃を取り落とした。丸腰の警備兵へ良の追撃がかかる。全身蜂の巣となった彼は、床の骸に折り重なるように倒れた。


戦闘の数十秒後。息を整えた良は滴る汗を無造作に拭い、床に落ちた起爆装置を手に取る。

──これで全部終わる。

自らが課した使命を果たし、忌わしい自分の心を爆破する。汗ばんだ手で包む起爆装置が以前にも増して重く感じられた。

スイッチに這わせた人差し指に、少しずつ力を込める。十分な時間をかけて、爆発までの時を愉しむ。

ヒト、セイレーン、インドラ。3種の生命の消滅により彼の清算は為される。そして、ついに彼の指先へ、スイッチの凹んだ感触が伝わった。感触は良の神経を伝って脳へ至り、彼に至上の幸福をもたらす。彼は目を潤ませて地下からの爆風を待った。

8秒の経過。依然として研究センターは無音である。

──どういうことだ・・・?

彼は僅かに焦りを覚えた。手にした起爆装置を、今度は強く、素早く押す。だがしかし爆発は起きない。

「畜生!」

怒鳴った良は手にしたそれを力の限り壁に叩きつけると、壁の金庫から新たな起爆装置を取り出した。エアキャップを強引に破き、スイッチを押す。結果は一つ目の起爆装置と変わりない。

畜生。彼はまた叫ぶ。何度も何度も、繰り返し同じ単語を、怒りと焦燥を乗せて吐き出し続ける。

──セーフティ・デバイスか・・・!!

腹いせに壁を殴り、肩で荒い息をした。しかし、いつまでも怒りに身を委ねたままでいるほど良は感情的ではなく、諦めて研究センターから逃げるほど爆破計画に固執が無いわけではない。ある程度ストレスを発散したところで、冷静になってこれからの策を練る。

──起爆装置は入手しているから・・・やっぱりセーフティ・デバイスの解除をすべきか・・・

警備兵との戦闘時に鳴り響いた銃声、そして今しがたの自分の怒鳴り声から、良は自らの潜入を既に研究センター側に露呈したものと考えた。だが研究員が襲ってきたところで、小銃を手にした良にとってみればそれは恐るるに足らないものである。警備兵の生き残りが他にもいるかもしれないということのみが、彼にとって気がかりな点だった。

地下二階、配電室。そこから展開されたセーフティ・デバイスを解除。そして再び起爆装置を起動せんと、彼は第一機械開発室を出て階段へと走り出した。


8月10日 10時24分 百野木勇

鳴り響く内線電話の受話器を取った百野木は、4階所長室の書斎机に座して電話に出た。

「何だね?」

と、スピーカーから流れたのは押し殺した声。その上英語である。警備兵からだった。

「百野木さん、清水良です。ヤツが第一機械開発室にいます・・・!」

その名前を聞いて、百野木は眉をひそめた。英語で警備兵に返す。

「機械開発室の研究員は無事かね・・・?」

百野木は僅かに緊張していた。良が研究センターに侵入した目的が容易に分かるからだ。

「いいえ・・・。ドアの陰から室内を覗きましたが、既に3人とも良に殺された後でした」

返答を聞き、百野木は歯軋りをした。

「所長、お逃げください!清水は起爆装置を手にしています・・・!今は狂った様に哄笑を続けていますが、スイッチが押されるのも時間の問題かと・・・!」

段々と声を力ませる警備兵に、彼は諭すように、そして半ば小馬鹿にするように言った。

「落ち付きたまえ。先日清水が起こした爆破事件以来、此処には常時セーフティ・デバイスが展開されている。それを解除しないことには爆発は起きんよ」

受話器の向こうで、安堵のため息をついた音。百野木は続けて質問する。

「君は今何処にいるのかね?」

「2階の会議室です。施設内の見回り警備の最中でした」

そうか、と彼は言う。一呼吸置いて命令を下した。

「今すぐ清水を殺せ」

「了解」

警備兵はそう答えて受話器を置いた。


「清水良・・・か」

一人の所長室で、百野木はひとりごちる。

「彼の襲撃・・・成程、気性の荒い部分も似通っておるな」

くつくつと押し殺した笑い声。彼は再び電話を取ると、今度は外線の番号をプッシュし、旧来の友人へ繋ぐ。機械工学の大家であるその男に、百野木はヘリコプターを一機研究センターへ寄越すよう要請した。万が一のことも考え、研究センターから一時逃亡する手筈だけは整えておくことにしたのである。

彼は立ち上がると、書斎の鍵付き引き出しを開けて、中の書類──セイレーンとインドラの資料を全て取り出した。トランクケースに順に詰める。最後に壁にかかった紳士帽を手に取った時、下階から銃声が聞こえた。警備兵が良を狙撃した音だ。

恐らく、今の一発で清水は死んだであろう。百野木は口の端で笑った。だが、確実性を重んずる彼は、警備兵の撃った銃弾が彼に命中したとは限らない、と思い直して、ヘリの要請を中止することはしなかった。

そして──突然の怒鳴り声。良が何度も畜生、と繰り返す声を百野木は耳にした。

──清水は未だ生きている。

百野木は再び緊張の糸を張り、受話器を手にした。警備室に繋ぎ、清水を殺害せしめんと思ったのだ。だが、コール音は繰り返すばかりで、一向に電話は繋がらない。彼は受話器を置いた。

胸騒ぎがした。警備兵が電話に出ないのは単なる怠惰か、それとも・・・。

逃げた方がいい。百野木は心の声に従い所長室を出て、ヘリが着陸する予定の屋上へと歩き出した。


8月10日 10時22分 高崎留恵

地下一階、二階にはアクアトロンがあり、地下三階にはガス室と配電室、セイレーンの研究室がある。地下二階のアクアトロンにはウノビスへ引き渡される厳選36匹の、一階にはその他大多数のセイレーンがおり、地下四階には恐らくインドラがいる。これらが文香さんに教えられた研究センター地下の構造である。

地下一階への階段は思った以上に長く、踊り場を3度ほど通った。ようやく下りた先には、曇りガラスが一面に張られている。数秒経って、私はそれが自動ドアであると気づいた。研究員しか内部へはいれないよう、ロックがかけてあるのではないかと少し不安に思ったが、曇りガラスに近づくとドアは難なく開いた。

その先は、青。開いたドアの奥に広がる景色を目にし、思わず声をあげてしまう。

ドアから奥に向かって、一本の通路がまっすぐ伸びている。その両脇の壁、そして低めの、湾曲した天井はガラスでできていた。見渡す限り全て水の色。さながら水中に掘られたトンネルにいるような気分だ。

そして、水槽の中には、数え切れないほどのセイレーンがいた。私の存在など気にも留めないで、水槽の中を自由に泳ぎまわっている。壁のガラス越しに目を凝らすと、水槽はずいぶんと奥まで広がっていることが分かった。地上階の一フロアあたりの面積も相当広いが、此処はそれ以上の広大さだった。水族館の水槽など、この景色の前では金魚鉢サイズに過ぎない。

神秘。陳腐だが、この場所を表すのに正鵠を射た言葉だ。海中の如き広さ。視界の端から端へと泳ぎ渡る褐色の人魚。上方向からは日光──恐らく日光に似せた人工の光源が降り注ぎ、水槽内を余すところなく照らす。たゆたう水の影が通路の床に映り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

──此処がアクアトロン・・・

どう見ても、動物兵器の格納庫であるとは信じられない。私は暫くの間、自らに課せられた使命をも忘れて景色をただ眺めていた。



ハッとした私は頬を両手で挟むように軽く叩いた。一刻を争う事態なのに、私は何をやっているのか。この通路は言ってしまえば、四方八方を水雷に囲まれた危険地帯だ。良が起爆装置をいつ入手し使用してもおかしくないこの状況の中、呆けている暇などありはしないのに。

直線の通路を進み、50メートルほど歩いて今度は地下二階への階段を下る。同様に踊り場を三つ通過して、地下二階のアクアトロンへと到達した。

地下一階と殆ど変りの無い神秘的な景色。唯一異なるのは、水槽の中を泳ぐセイレーンの数だ。此処にいるのはたったの36匹。目測であるが、地下一階の3、4分の1ほどしかいない気がする。このフロアも同様に通過して、私はさらに下階へと向かう。

地下三階の自動ドアをくぐった先には、白い部屋が広がっていた。壁も白、床も白。清潔感あふれると言えば聞こえはいいが、むしろ肌が粟立つほどの綺麗さだった。床に反射した自分の姿がぼんやりと映る。

室内には黒いデスクが並び、壁際にはセイレーンとおぼしき生物の内臓が薬品に漬けられて標本として並べられている。部屋のところどころに事務用コピー機よりも大きな機器が数台連なって、無数のボタンとディスプレイを赤く光らせて鎮座していた。研究員はこのフロアにも一人としていない。

ここが文香さんの言っていたセイレーン研究室──セイレーン創造の中心部なのだろう。そしてこのフロアの隅には目的地となるガス室が存在するはず・・・

周囲を見渡し、部屋の隅角にそれらしき部屋の扉を発見する。私は静かにそこまで駆け寄ると、ドアを開けた。

中はラジオブースを思わせる作りになっていた。室内の右半分が置かれた機器によって取られており、奥の壁には大きな嵌め殺しの窓がついている。窓の先には四方をコンクリートに囲まれた殺風景な部屋が広がっていた。

私が今いる場所は、ガス管理室──ガス室内への青酸ガスの噴射を管理する機器が置いてある部屋だ。

嵌め殺し窓の横には、堅牢そうな扉がある。ハンドルの形をしたレバーを一回転させないと開かない仕組みのようだ。扉には赤いドクロが大きく描かれている。この先のコンクリート部屋が毒性に関する危険地域であることを示すハザードマークだ。

私はガス管理室内にあるであろう、セイレーン解放に必要なアイテムを探した。といっても、管理機器以外の物は部屋には無い為、機器の下を覗きこんだだけでそれ──塩酸の入った金属製タンクは容易に見つかった。

私は文香さんが話していたセイレーン解放の方法を思い出す。

──「最初に、ガス室の壁にある縦スライドの衝立を開くのよ。衝立の奥には縦穴があるから、そこに塩酸を流し込んでちょうだい──」

私はガス管理室の機器の前に立つと、画面に文香さんから教わったパスワードを打ち込む。ロックが解除されたそれを直感で弄り、ガス室内の衝立が開いたのを窓越しに確認する。そしてタンクを抱えてガス室へ入り、文香さんの指示通り縦穴に塩酸を流し込む。

塩酸は酸性の化学薬品、劇薬である。彼女の指示を聞いた時、私は何故それをガス室の縦穴に流し込むのか分からなかった。それに対する文香さんの答えを聞くなり、腑に落ちたが。

──「障害持ちのセイレーンはガス室で処分された後、縦穴を落下した先にある薬品のプールに沈むの。そこに溜まっているのはフッ化水素──強塩基性の劇薬よ」

彼女曰く、不要となったセイレーンは青酸ガスで殺された後に、フッ化水素で肉体を完全に溶かされてから海へと流される。爆薬を胎内に有している為、焼却処分が出来ないとのことでこの処分方法が取られたらしい。逆にフッ化水素を用いれば、骨まで完璧に溶かせるのだとか。胎内に埋め込まれた水雷の受信機と識別タグは特殊な金属で出来ている為、塩基性と反応して溶けるようになっている。つまり、セイレーンがシアン化水素のプールに落ちたら、全てが肉汁と化し、髪の毛一本も残らないという訳だ。

定期的にプール内の液体は入れ替えられるのだが、その際にセイレーンが溶けた廃液を海へ流す。だが、劇薬をそのまま海へと流し、漁業の盛んな瑞音町に水俣病の様な人為災害を起こせば、巡り巡って研究センターでのセイレーン創造が世間に露見する恐れがある。よって廃液を海へ流す前には、濃塩酸で中和し、無害な中性の液体にすることとなっていた。

今回のセイレーン解放は、その研究センターでのきまりを利用したものだ。まず始めに、塩酸の流入で劇薬プールの液体を中性で無害なものに変える。次に、ガス室の縦穴から生きたセイレーンを元・劇薬プールへと落とす。プールの液体は無害な為、セイレーンの体は溶けることがない。最後にガス管理室の機器を操作し、プール内の液体を海に流す。その際、一緒にセイレーンも海へ流れる・・・。以上が計画の全貌だ。

二回ほどガス管理室の機器を操作しなくてはならないことが、この計画の一番の難点である。誤って青酸ガスを噴射させてしまわないかが心配だった。

既に第一プロセスの『劇薬プールの無害化』を済ませた私は、次いで第二プロセスである『セイレーンのガス室への運搬』を行わなければならない。私はガス室を後にすると、再びセイレーン研究室を通り抜け、地下一階のアクアトロンへと向かった。


予想と裏腹に、私は現在に至るまで研究員の一人とも遭遇していない。そこから来る油断か、無意識のうちに音を立てて階段を駆け上がっていた。ふと気付いて自制する。計六つの踊り場を経て、私は再び地下一階に戻ってきた。

アクアトロンの一本道の中ほどで、左へ折れる。そこにも水中トンネルは続いていた。ワームがリンゴを食べて作った、虫食い穴のトンネルと似た光景だ。上下左右をアクリルガラスに囲まれた通路。一本道と異なるのは、その通路が階段になっている点である。一本道の曲がり角から、はるか上部まで斜めにトンネルは伸びていた。透明な一段一段に慎重に足をかけて、階段を上がる。腕を広げれば透明な両壁に触れられそうな程、通路の横幅は小さい。海中を歩いているような錯覚を覚えつつ、私は上へと登っていった。

階段を上がった先は、水上だった。水槽の最上部。上を見上げればアクアトロンを照らしていた光源──無数のLEDが天井を覆い尽くしている様が直接見え、周りを見渡せば水面がどこまでも広がっている。水は近距離から降り注ぐLEDの光を反射して煌めいていた。

水の上を結ぶのは、金網の通路だ。何本もの通路が水面を走り、水上での移動を容易にしていた。誤って転落しないよう、金網の通路の左右には手すりが設けられている。

私は階段と直に繋がっている金網通路を歩き、水面を真っ直ぐ進んだ。反射した光が眩しい。暫くすると水槽の端、即ち地下一階の壁際まで辿り着いた。プールサイドの様な材質の地面に降り立つ。

文香さんは、シアン化塩素のプールを無害化したらガス室へとセイレーンを運搬するよう私に言った。その方法は至って簡単、アクアトロンにある専用ダストシュートにセイレーンを放り込むことだ。ダストとは、この場合障害持ちのセイレーンを指す。ゴミ捨て装置の異名を持つそれを障害持ちセイレーンの廃棄場を表す言葉とするのは、研究センターが不完全なセイレーンをゴミ同等と位置付けているからだろう。成長の過程で、不完全なクローン体と判断された人魚は、廃棄物としてそこへ放り込まれる運命にあるのだ。

ダストシュートの出口は地下三階のコンクリート部屋──ガス室であり、2フロアにわたるアクアトロンから直接、処分するセイレーンを運搬できる合理的な設備となっている。シアン化塩素は空気よりも重い為、ガス室に充満したそれがダストシュートを上ってアクアトロンに至るという危険もない。だが安全の為、ガス管理室のガス噴射ボタンを押すと同時に、ダストシュートの出口が自動で締め切られ、ガス室を密閉する仕組みになっていた。


降り立った場所には、セイレーンの餌とおぼしき魚の入ったバケツがいくつも並べられている。研究センターが瑞音町の漁師と専属契約を交わして手に入れている多種多様の魚介類。セイレーンの給餌は此処で行われているらしい。そして、壁には一辺の長さが1メートルほどの、正方形の扉が取り付けられている。これが恐らくダストシュートだろう。私は扉の取っ手を引いた。

ダストシュートの穴は真下に伸びているのではなく、斜め下の奥へと続いていた。途中で緩やかに右へカーブしている。そしてその地面は、長細い円柱がいくつも並べられている、ローラー滑り台の様な作りだった。ダストシュートの入り口にセイレーンを乗せれば、後はこのローラーがガス室まで運んでくれるという訳だ。地下三階まで垂直落下しないので、誤って研究員が転落する危険もない。

ダストシュートを滑り落ちたセイレーンは、ガス室から更に縦穴を落ち、中性のプールに至り、そして海へ流れる。

私が行うべき残りのプロセスは、2フロアのアクアトロンにいる全セイレーンを中性プールに落とすことと、ガス管理室へ再び赴き、機器を使ってプールの中身を流してしまうことの2つだ。海に出たセイレーンには、後ほど人の目につかない場所まで泳ぐよう命令を下せばいい。

全てのセイレーンをガス室まで運搬するのは、体力的にも時間的にも全プロセスの中で最も難易度が高かった。しかし他により良い策が思い浮かばない以上、地道に一匹ずつダストシュートに放り込んでいくほかない。

私は教えられたとおり、バケツを手に取ると、中身の魚介類を水面に向けて撒いた。と、遥か水面下を泳いでいたセイレーン達は瞬く間に浮上し、餌を取り合い始める。撒いた魚介類はすぐさま数匹のセイレーンに跡形もなく食いつくされたが、これによりアクアトロンの全セイレーンが給餌を認識して、水上に顔を出した。

──怖い。

水槽の淵に突然、100以上の『同じ顔』がひしめきあう。

食欲を満たすために、本能に従ってピラニアのように魚介類を貪る。

──これが『人間』なのだろうか。

ヒトとバンドウイルカの合成獣。人の心を持った生き物──人間だと文香さんは言った。私もプロトタイプNO,2とノティに出会い、セイレーンの感情のこまやかさをその目で見て、彼女の意見に賛同した。その筈なのに。

目の前では、セイレーンが水飛沫を散らして餌を求めている。私がバケツの中身を撒くのを待ちきれないかのように、皆が喃語とすら言えない奇声を上げて催促している。

怖い、気持ち悪い──これを人間と認めたくない。

はっきりとした思考となって、嫌悪感は私の心を染めた。肌が粟立ち、歯が鳴る。

だが私は、自分の使命を思い出した。良の為にセイレーンを救うこと。その信念に従って、水際まで寄る。大きく口を開けて叫ぶ一匹のセイレーンの腕を手に取ると、それを引き上げた。黒い尾びれを力強く動かすセイレーンを抱きかかえ、壁のダストシュートへと運ぶ。

ふと目が合った瞬間、セイレーンは私に向かって微笑んだ。私に身を委ねているかのような、安らかな笑み。思わず息をのむ。

──まただ。

思えば、毎回こうだった。小学生の時も、昨晩のノティの手術の時も。セイレーンは目を合わせると、必ず微笑むのだ。元となる生物のヒトにも、バンドウイルカにも、パブロフの犬の様な条件反射でそのような反応をするプログラムは遺伝子に組み込まれていない筈だ。研究センターがセイレーン独特の反射行動として組み込んだと仮定しても、その理由が無い。

──私が今まで見てきたセイレーンの笑顔は、全て個々の意思によるもの・・・。

その笑みが、本心か、偽りかを知る術は私には無い。子供の時分みたく、無条件に笑顔を本物と信じられるほど純真無垢な人間でもなくなってしまった。けれど、この笑顔に意味があるということは分かる。

その意味が、その意図が何なのか。

愉悦から来るもの、安堵から来るもの、軽侮から来るもの、欺瞞から来るもの。

私は人魚が笑む訳を、これからも知ることが出来ないのかもしれない。だが、彼女らの表情に見いだせる事実が一つだけある。

意図的に笑む生物は、人間のみ──。

よって、セイレーンが微笑むことから、彼女の中に『ヒト』でなく『人間』が含まれていることを証明できるのだ。

──セイレーンは人の心を持っている。

人魚──人の心を持った魚。

人間の定義なんて大仰なことなど、私は考えたこともない。人間を人間たらしめるものがその外見なのか、心なのか、運動機能なのかも知りやしなかった。

だが、今分かった。人間を定義づけるのはその心──。

私は抱きかかえたセイレーンをそっとダストシュートのローラーに乗せた。彼女に笑みを返して、視界から消えるまで見送る。その後、私は二人目をガス室へと運ぶために、再び水際へと歩いた。


ダストシュートに入れたセイレーンの数が10を超えたか否かの時、突如として乾いた銃声が私の鼓膜を震わせた。私はセイレーンを抱えたまま、反射的に銃声の聞こえた方向──天井を見上げる。

──何かあったのだろうか・・・!?

攻撃行為を意味するその音は、必然的に私に不安を生じさせる。銃を撃った人間と、銃に撃たれた人間。そのどちらにも、良と文香さんが属していてほしくなかった。

しかし、その願いそのものが荒唐無稽なものであることは考えるまでもなく承知している。発砲したのも被弾したのも研究員であるなどということがあり得るわけがない。

私は良が殺人をしていないことを切に祈った。そして同時に、それ以上に二人の無事を願った。二つの願いが矛盾していることは分かっていたが、その点は無視するより他に無い。此処にいる私に出来ることなど願うことくらいしか無いのだから。他の対応が出来るとすれば、それは地上階で良を探している文香さんだけである。

彼女が一刻も早く、良を探し出して彼を止めることを期待し、私は自分のすべきことに集中しようとした。

両手がふさがっている為、自然と噴き出した嫌な汗は拭くに拭けない。背中を伝う汗のむず痒さを我慢して、私は抱えているセイレーンを壁まで運ぶ。

腕の中の人魚をガス室に送り込み、再び水際に戻ったその時、私は集まったセイレーン達の隙間から覗く水面に動く影を捉えた。それに気付くと同時に、私の両目が影を追う。

その影──白衣を着た二人の人間は、水槽の最深部に通っている一本道を速足で歩いていた。水上にいても微かに二人の話し声が聞こえてくる。

──どうしよう・・・!

彼らに見つかるわけにはいかなかった。だが水上のプールサイドと、水底の一本道の間には直線距離にして15メートル程の隔たりがあるものの、その間に存在するのは空気、海水、アクリルガラスといずれも透明な物質であり、実質筒抜け状態だ。私が彼らの姿を目にすることが出来るのと同様に、彼らも上方に目を向ければ私の姿を水底から見られるだろう。

そして、水槽内に未だ90匹ほどいるセイレーンがプールサイドに集まり、餌をねだって声を上げていることも彼らの目を引いてしまうに違いない。

姿を隠そうにも、隠れ場所はダストシュート以外に無い。更にダストシュートの中に隠れたとしても、セイレーンがプールサイドに集まっているというのに、給餌をしている人間の姿が見られなかったら、彼らはそれを訝しんで階段を上がってくる可能性もある。ダストシュートの扉を内側から閉めることは出来ない為、上がってきた二人に開きっぱなしの扉の中を覗かれたら私は発見されてしまう。

それならむしろ、逃げてしまおうか。

一旦ダストシュートで地下三階のガス室まで逃げ、頃合いを見計らって階段で此処まで上ってくる──いや、駄目だ。ダストシュートを降りる際のローラー回転音は意外に大きい。セイレーンが奇声を上げているとはいえ、なお静かなアクアトロン内では彼らにもその音が聞こえてしまうかもしれない。

手詰まりだった。逃げ隠れする術が無い。

──いや、正確には『逃げ隠れする術は無い』だ。

その時、水槽を見上げた研究員の一人と目があった。私の存在に気付いた二人は俄かに騒ぎだし、一本道から派生する階段を駆け上がる。

私は尻ポケットに手を入れた。文香さんが別れる直前に渡した、実弾入りの拳銃のグリップに触れる。

脅迫は初めてではない。橋渡病院で手術道具を奪った時の様に主導権を握れば、きっと上手くいく筈だ。

私は金網通路を走り、階段へと向かった。私が辿りつくと同時に、研究員の二人は階段を登り終える。私の姿を間近にし、研究員の一人が怒鳴りでもするつもりか大きく息を吸った。私は彼が大声を上げる前に、ポケットの拳銃を彼に突きつける。

「静かにしなさい」


瞠目した研究員の内一人、狐を想起させる顔つきの若い男性は、しかし黙ることなく私に話しかける。

「君は誰だ・・・!?」

銃を向けられているのに、何処か心の底では怯えていないように思わせる口調だった。

その言葉を無視し、私は二人を脅迫する。

「プールサイドへ行きなさい」

二人は両手を上げて金網通路を歩きだした。私は銃を構えたまま二人の後ろに続き、再びプールサイドに降り立つ。

「此処にいるセイレーンを全匹、あなたたちでダストシュートに運んで」

橋渡病院の時みたく麻酔を持っているわけでもないので、二人を行動不能にする方法は思い浮かばない。ならばその行動を自分の得になるよう仕向ければ良いのだ。脅して二人にセイレーンを運ばせれば、単純計算で全匹の運搬にかかる時間は私一人で行う場合の2分の1になる。

緊張で口が渇き、発汗も拍動も尋常ではなかったが、それを相手に悟られないように私はポーカーフェイスを心掛けた。

「・・・セイレーンをどうするつもりだ」

もう一人の、狐顔よりも若干年上──30代後半に見える男が私の命令に対して問いを投げかける。ダストシュートがガス室に繋がっているという点から、私がセイレーンを殺そうとしていると誤解したのだろう。そのように思われるのも不快だったので、私は否定しようと口を開いた。だが、それを遮るかのように憔悴を露わにした狐顔の声がアクアトロンに響く。

「まさか、君は清水良の仲間なのか・・・?」

「違うわ」

即答で否定する。

「私はセイレーンを救うために此処に来たのよ」

「・・・どういう意味だ?」

狐顔が質問を重ねる。立場上、質問を受け付けずに命令に従わせだけさせることも可能なのだが、つい誤解を解こうと説明をしてしまう。

「先日此処で良による爆破事件があったでしょう?でもセイレーン殺しは未遂に終わった。だから、今度こそはセイレーンを殺さんと、良は今現在この建物にいる」

彼らの間に明らかな動揺が走った。今の今まで良の潜入を知らなかったに違いない。

「もしや・・・さっきの銃声は清水良が発砲した音なのか・・・?」

もう一人の研究員の問いかけ。

「その可能性もあるわ」

成程、二人は銃声を耳にして下階から上ってきたというわけか。それなら一本道を速足で歩いていた事にも合点がいく。

閑話休題、と私は話を本筋に戻した。

「私は文香さんと一緒に、セイレーンを此処から逃がしに来たの。良もあなた達と同様に敵という訳よ」

「そうか・・・てっきり僕は桑原文香も清水良の仲間かと思っていたけど・・・」

だがしかし、実際は二人は敵対関係にあった、という訳だ。同時に恋愛関係でもあったからこそ、文香さんの心境は複雑なものとなっているのだろうが。

「つまり君は、セイレーンを毒殺するのではなく、逃がす為にガス室へと送り込むということ・・・?」

私は頷く。狐顔はセイレーンをガス室に送り込むことと逃がすことの因果関係が分からないのだろう、大仰に首を傾げているが、敵である彼にそれを説明する程私は馬鹿ではない。仮に説明したところで、拳銃を前にしては私達の計画を防ぐ術も勇気も無いだろうが、何処か狐顔の方は私が引き金を引けない人間だと見抜いているような雰囲気があったのだ。

「うーん・・・それは止めた方がいいな」

相変わらずの軽薄な口調で、唐突に狐顔が私に言う。

「君の行っていることは結果としてセイレーン殺しだ。いや・・・もしかしたら人殺しも、だ」

「どういうことなの?」

「角を矯めて牛を殺す──まあ、君にとって此処にセイレーンが幽閉されているのは瑣末なことじゃないのだろうけど、要は小さな欠点を改善しようとしたら全部駄目になってしまうということだ。聞くけど、此処から逃がしてセイレーンが殺されるのと、此処にセイレーンを残して生かすのと、君はどちらを選ぶ?」

どちらも望まない。だが、どちらかを選ばないといけないとすれば──

「後者ね。良に殺しをさせなくて済むし、何よりセイレーンの命が守られるもの」

「そう、命あっての物種だろ?」

やけに饒舌になった狐顔は妙な言い回しで更に話した。

「先日の爆破事件が未遂に終わったのは、清水良が起爆するより早く、他でもないこの僕がセーフティ・デバイスを研究センター内に展開させたからだ。セイレーン創造の一部の機器が誤作動を起こすってことで、今までは展開されることはなかったんだけど、事件以降はセイレーンの研究は殆ど終わっていたから、危険な反逆者清水良への対策と言うことで24時間、センター内に妨害電波を張り巡らせている。勿論、今現在もセーフティ・デバイスは起動中だ」

「要は、此処にいる限りセイレーンは起爆装置で爆破しないってことね」

「そういうこと。けれど、君が此処から出してしまったら話は別だ。考えたんだけど、多分君はフッ化水素のプールから海へとセイレーンを逃がすつもりだろ?」

見事に解放方法を見抜かれる。

「研究センターの敷地の端に、高い崖があるのは知ってるよね。プールの水はその絶壁に掘られた排水管から排出されるんだ。つまり、君の計画ではセイレーンはそこから海へと出ていくことになる。でも海中に出た途端、そこはセーフティ・デバイスの手の届かない場所だ。セイレーンが崖付近を泳いでいる時に清水良が起爆装置を押したら、何が起きるか分かる?」

セイレーンの死と、良の罪人化。私はそう応えた。

「それも勿論起きるな。けどそれだけじゃ済まない。水雷っていうのは、その名の通り水中で用いられる爆弾だ。つまり、水中でもっとも威力を発揮するように出来ている。よって水雷に求められるのは、爆風や爆速ではなく、バブルパルスという衝撃波のレベルだ。敵の戦艦を破壊するにはバブルパルスによるキャビテーション──壊食を起こすのが有効的だからね」

狐顔は続ける。

「前置きが長くなったけど、君がセイレーンを逃がしたらどうなるか・・・。研究センターに隣した崖でセイレーンの持つ水雷が爆発すれば、それによって出来るバブルパルスで崖は崩壊する。すると、だ。崖の内部にある研究センターの地下階は爆発の被害を喰らう。何せ数十個もの水雷が一斉に弾けるわけだから、その時点で地下にいる僕らは死んだも同然だ。その上、崖が崩落すればそこを基盤に建っている研究センターは崖もろとも海に落ちる。つまり、君がセイレーンを逃がせば、君の仲間である桑原文香も含め、此処にいる全ての人間も死ぬ危険性があるという訳だ。それじゃあ本末転倒、というかそもそも君自身死にたくないだろう?だったら安全な場所にセイレーンを残しておくのが得策だと思うんだが。まあ、ここにいるのは兵器としての価値が微塵もない唯の合成獣だからね、その心配はないんだけど・・・」

私は目の前で弁舌を振るう狐顔を見つめた。彼の物言いは軽薄だが、騙されているような気はしないのだ。軽い口調の割に、何処か熱く語っているような節がある。

──彼の言うとおりにすべきだろうか・・・

狐顔の言うことを全て鵜呑みにするのは危険だろう。嘘八百が十八番な人間である可能性もある。だが、現在セーフティ・デバイスが展開されているというのは一度爆破事件を起こされた側の心理的に十分ありうる話だ。文香さんに命ぜられた役割は一時放棄することになってしまうが、今はセイレーン解放を中断した方が良いのではないだろうか。彼女が良を止めた後で逃がせば、狐顔の言ったような惨事には至らない。

「分かったわ」

私は二人に呟く。

「でも、私が銃を持っているということは忘れないで。セイレーンを良から守るという点で、共通の意志を持っているから一時的にあなた達を私の支配下に置くだけよ」

支配下、とはまた暴力的な響きだったが、事実二人に向けた銃を下す気は無いのだから誤った表現でもない。

「いつでもセイレーン解放が出来るように、セイレーンの運搬だけは行うわ」

そう言って、狐顔を指さす。

「あなた、名前は?」

「僕?僕は樋口悠平だ」

「そう。じゃあ樋口さん。あなたは此処のセイレーンをダストシュートへ運んで」

「・・・了解」

渋々といった声音だ。脅迫されているという立場上、断ることは出来ないようだが。

私はもう一人の研究員を指指す。

「あなたは?」

「溝呂木浩司だ」

こちらは樋口と異なり、敵意むき出しと言った口調だ。

「溝呂木さんは、上の様子を見てきて。逃げたり、助けを呼んだりしたら樋口さんの安全は保証しかねるわ」

溝呂木は樋口に向かって礼すると、糞、と小さく吐き捨てて私に背を向け金網通路を歩いていった。

その時、再び上階から銃声。溝呂木はそれを耳にし、小走りになる。


8月10日 10時25分 高崎留恵

私は水際と壁際を往復する樋口に銃口を向けたまま、プールサイドに立っていた。私自身も運搬したいのだが、セイレーンを抱えて両手の自由を失えば樋口の反撃に見舞われる恐れがあるが故、願望とは裏腹に彼を脅すことしか出来ない。

「それにしても──」

人魚の両脇に手を入れて運んでいる樋口に話しかけた。

「樋口さん、此処ではかなり高い地位にいるようね」

彼は顔を上げて、不思議そうに私の顔を見た。

私がこう投げかけたのには意味がある。

インドラについて詳しく訊く為。アンノウンな存在である動物兵器について情報を得るためだ。

私は樋口らに会う前、地下三階までの計3フロアを歩いたが、その中に二人の姿は見られなかった。勿論、偶然互いが互いの存在に気付かなかったということもあり得るが、それよりも考えられることがある。

二人が地下四階──インドラ創造の研究室にいたということ。

インドラ創造は研究センターでも上層部の人間しか殆ど内容を知らない研究である。二人が地下四階にいたということは、二人とも高地位の研究員であるということを意味する。

そして、つい今しがた溝呂木に上階の偵察を命令した時に彼が見せた行動──樋口への礼は、樋口が溝呂木よりも上の立場であるが為のものである。

インドラ研究に携われる高地位にいながら、なおかつ上層部の研究員にも礼をされる人間。それが私が導き出した樋口悠平だ。

抱えたセイレーンをダストシュートに入れ手ぶらになった彼は、私の言葉に対し相変わらずの軽い口調で、

「うん、副所長だ」

今度は私が瞠目した。

予想していなかったと言えば嘘になるが、いわゆる単なる思いつき程度であったその返答が実際に彼の口から出るとは思いもよらなかった。私は返事に詰まり、彼の顔をまじまじと見た。

第一印象と変わらない、狐の様な顔。細い目にワインレッドフレームの眼鏡。尖った顎。インテリジェンスに富んでいるように思わせる顔で、見ようによっては好青年とも取れなくない。

好青年。

そう、私が言葉を失った理由はそこによるものが大きい。

青年、なのだ。ルックスで判断する限り樋口は、私や良よりもせいぜい3歳程年上なだけに見える。

良は高校時代、理系科目において天賦の才を惜しみなく発揮していたが為、研究センターによるスカウトを受けた。だが、その良ですら、平凡な一研究員としての待遇以上のものは受けていない。何故かインドラの存在を知ってはいたものの、その創造にも携わることは無かった。

しかし、そんな良より数年長く生きているだけの樋口は、所長である百野木に次ぐ人物なのだ。彼の地位はコネや親の七光りによるものか、それとも彼が持つジーニアスによるものかを推し量る術は無いが、事実として彼はトップツーの立場にいた。

取り直して、樋口に命令する。

「そう。じゃあ樋口副所長、あなたがインドラについて知っていることを全て教えなさい」

「あれ、よくそんなこと知ってるね・・・。そうか、桑原文香が話したのか。でも彼女がインドラについて知り得たのは存在と名前だけ。それで君は僕にそれ以上の情報の開示を求めたってわけだ。いいよ、教えてあげようじゃないか。でもそれには条件がある」

条件?そんなものを提示できる立場にいるとでも思っているのか。

「これは取引じゃなくて命令よ。命が惜しかったら余計なことは喋らないで」

「全く怖いなあ・・・。まあ、僕を撃ったら君はインドラの情報を知れなくなるんだけどね。溝呂木くんを脅すって手もあるけど、彼が知りえない重大な情報も僕は知っているし。言うなれば僕は知識という重要な鍵を握った人間だ。むざむざと撃ち殺すわけにもいかないんじゃないかな?」

立て板に水。樋口は舌に機械油でも挿してあるのではないかと思わせるほどよく話す。

「・・・条件ってのを言ってみなさい。聞くだけ聞いてあげる」

「僕へのセイレーン運搬命令を取り消すこと。君のセイレーン解放に手を貸すのは御免だし、何よりも僕は頭脳派だからね。肉体労働は回避できるだけ回避したい。ほら、セイレーンってこれでなかなか重いだろう?」

まさか、そんな筈はない。小学4年生の私にも抱きかかえた状態で山中を走ることが出来る体重だ。一般的な成人男性が負担を感じるわけがないではないか。とはいえ、目の前の樋口は先程からしきりに腰を叩いている。仮に腰痛があるように見せかける演技だとしても、その意図が掴めない。

それにしても、そんなことが条件なのか。肩すかしをくらった気分だった。彼個人の身体的負担──果たして負担であるのか分からないが、それを避けるためなら、機密情報を敵に教えてしまうというのか。

「まさか重労働をしながら、同時にインドラについても話せだなんて無理難題はふっかけないだろ?人は見た目によらずとは言ったものだけど、そんな拷問まがいな行為を強いるほど君は鬼畜なのかい?」

軟弱ぶりにも程がある。たかだか10キログラム強の物の運搬に対しこうも悪く言われようとは。

しかし、インドラを生かすか殺すかは私の判断にかかっているのだ。決断を下すには、先ずもって判断材料を手に入れなくては話にならない。

私は数秒迷った後嘆息し、

「分かったわ。運搬はしなくていいから、インドラについて教えなさい」


樋口は白衣に掌のぬらつきを擦り付けると、壁に寄り掛かって腰を下ろした。私は彼の正面に立ち、銃を向けたままで彼の説明を待つ。

と、彼は銃口を指さして口を尖らせた。

「そんな物騒なもの、もう下してくれよ。さっきから落ち付かないんだって。別に抵抗なんてする気もないからさ。警備兵が何をのんびりやってるか全くもって分からないけど、直に僕を助けに来るからさ。それまでなら抵抗なしで付き合ってあげるから、そんな怖い目しないでくれって」

「警備兵は気絶してるから、此処には来られないでしょうよ」

私が言うと、樋口はわざとらしく悲鳴を上げて、

「本当かよ・・・やれやれ、君たちも手ぬかりが無いというか何というか・・・。まあ、桑原文香が仲間にいるから、此処の警備状況に君が詳しいのも至極当然か。まいったなあ・・・助けは来ないのか。うーん、やっぱりもう一個条件追加。君が銃を下さなかったら僕もインドラについて教えない」

銃を下した途端に逃亡を図る疑いもあったが、樋口の体の脆弱さを鑑みればそれを阻止することは私にも可能である気がした。不安は残るものの、子供の駄々みたく条件を提示する樋口を見ていると、此処は素直に条件を呑んでやった方がスムーズに事が運ぶ気がした。

無言で腕を下げる。銃を掴んだまま、その右手ごとポケットに入れて私は樋口の横に中腰でかがんだ。

「これでいいでしょ。早く話して」

「やれやれ。じゃあ御教授して差し上げようか──ところで、君の名前は?」

「高崎よ。高崎留恵」

「じゃあ留恵ちゃん。二度は言わないから聞き逃すなよ」

偉そうにそう言って、咳払い。

「ご察しの通り、インドラってのはセイレーンと同じく、依頼を受けて僕たち研究センターが創りだした有水雷の動物兵器なんだ。セイレーンと違って水陸両用だし、しかも一匹しか創られていないけど、その一個体がセイレーンを遥かにをしのぐ攻撃力を有している。そもそもセイレーンは、水雷を持っているとはいえ、性格は温厚で爆発以外に攻撃方法も持たないだろう?けどインドラは狂気の域とも言えるほどの凶暴性を持っていて──いや、凶暴性しか持っていないと言った方が適切かな。それでもって平均94センチに渡る二本の鉤爪と、5メートル32センチの長大な尾、それと2320キログラムの咬噛力を誇る顎とか87センチの鋭利な牙とかを全部駆使して、ともかく目にした動くものへと襲いかかるんだ。外皮も半端なく堅牢堅固でさ、ダイアモンドのモース硬度は10なんだけれど、全長9メートル53センチのインドラの体を覆う鱗は、それより1劣る程度の9っていうね。兎にも角にもアイツは創った本人たちが腰を抜かすほどの大怪獣さ。さっき咬噛力は2320キロって言ったけどさ、これは今や絶滅した首長竜、クロノサウルスやリオプレウロドンに匹敵するんだ。ちなみにイリエワニですら咬噛力は約1300だ。ワニよりも遥かに勝る顎の力だよ?最早動物兵器と言うか怪物兵器さ、とても手に負えたものじゃない。幸いにもインドラは変温動物だったから、飼育室の空調をマイナス30度にすることで暴走を抑え込んでいられるんだけどね。多分だけれど、体が冷えてなかったらアイツの移動速度は尋常じゃないよ。腕が二本ついているものの、移動はヘビ同様の蛇行運動だし」

この時点で、私が助けることなど出来ないように思えた。助けるも何も、こちらが殺されかねない。

だがしかし──

「インドラの成り立ちは何?セイレーンみたく人間の合成獣だったりするの?」

インドラが人間ならば、助けなくてはならない。生物学上のヒトではなく、心を持った人間として存在するのなら。それが文香さんとの約束であり、自分自身の願望でもあった。凶暴性しか持ちえないという樋口の言葉から、インドラの救出は半ば不可能に思っていたが、望みをかけて尋ねる。

「いいや、アイツは第一に合成獣ですらないよ。研究センター完全オリジナルの生物だ。ベースとなる動物32種のDNA塩基配列を分析して、ちょっと弄ってから一つの生命体の設計図を組成する。まあ、強いて言うならDNAレベルの合成獣だ。例えば、胴体なんかはヘビから分析した塩基配列を使っている。オオアナコンダやらイボウミヘビやら、胴体を構築する為だけに20種以上ものヘビの血液を分析したのは流石に骨が折れたね。結果としてインドラの胴体にはアフリカニシキヘビのDNAを改良したものが使われたけれど」

「インドラが合成獣でないのはよく分かったわ。でも、そんな生物をどうしてウノビスは欲しがるわけ?セイレーンのような従順な生物兵器を欲しがっていた筈なのに、どうして此処にきて凶暴な動物兵器の創造を依頼したの?」

私がそう問うと、樋口は顎に手を当てて、

「うーん、二つばかり留恵ちゃんは勘違いしてるよ。まず僕らは、何も『凶暴な生物の創造』を依頼されたわけじゃない。攻撃力の高い生物を創った結果、たまたまその生物の性格まで超攻撃的になったってだけだ。二つ目に、インドラの創造を依頼したのはウノビスじゃないよ」

思わず目を見開く。

「セイレーンの創造はウノビス国の依頼で、インドラはウノビス国軍による依頼だ。ウノビスとキネロが油田の採掘権を巡っていがみ合ってるのは知ってるだろ?桑原文香から聞いているかもしれないけれど、セイレーンはその油田を国境ラインで守る海中の兵士として創られたんだ。キネロの採掘船やらがウノビス領海に船頭だけでも入ったら、その時点で海軍が水雷を遠隔起動、セイレーンは船を爆破するという訳だ。けれども、インドラは軍上層部が僕たちに極秘で依頼したもの──つまり、ウノビスの政治家たちには知られていない存在なんだ。何故かと言うと、まあ簡単な話なんだけれど、軍が独自でキネロ侵攻を企てているからだ。現在は両国に停戦協定が結ばれているけれど、軍はキネロへの侵攻を進めたい。それなのに政府は停戦状況を破ろうとしない。日本の研究機関に動物兵器創造を依頼するよう軍に命令を下したかと思えば、なんてことは無い油田を守護するだけの水生生物の創造依頼だ。業を煮やした軍人は、日本くんだりまでやってきた時、百野木さんに、守護する生物の創造を依頼すると同時に、国には内密で攻撃する生物も創るよう頼んだ。僕たちとしてもお金が貰えてやりたいことが出来るんだ、万々歳さ。二つ返事でオーケーだ。そういう経過で2種は創られた。まあ、インドラをウノビス軍がキネロの海に放したら、そう時を置かずして白旗が上がると思うよ。キネロの水陸を散々破壊した後にはインドラが持つ水雷の爆発も待っているからね」

肌が粟立つのを感じた。インドラは私の手には負えない。見捨てるしかない。樋口の言う話が本当なら、インドラはたった一体で戦況を傾ける、まさしく核爆弾のような生き物だ。

「そ、そう・・・他に何か情報はあるかしら」

これ以上聞いたところで、インドラ解放を諦めるという決断は覆されることが無いだろうが、一応彼に尋ねる。

「ま、此処まではインドラ創造に関わっている人なら皆知っていることだよ。でも、とっておきの情報──僕を含めてたった三人しか知りえない情報はまだ話していない。知りたいかい?知りたいだろうねえ」

随分と勿体つけて、からかう様に笑う樋口。私は先を促す。

「これを教えた途端、またセイレーンの運搬を命令するなんてのはナシだからね。よし、じゃあ特別に話してあげようか。実は、インドラの肉体は動物のDNAで創られているけれど──」

その刹那。

視界が暗転した。


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