―2―
「私って、何でセイレーンを守ろうとしてるのかな・・・」
留恵が呟いた。その晩、中国自動車道を大阪方面に上っている最中のことだ。
「なんだ、わかってないのか」
良は苦笑交じりに返す。
「命狙われてまでしてやってるんだから、よっぽど深い理由があるのかなんて思ったけど、考えてみたらそうでもないのよね。だって結局、半ば流される形で現状があるわけだし」
確かに言う通りだ。良はハンドル上に組んだ両腕に顎を乗せる。
─偶然プロトタイプのタグを入手して、思いがけず警備兵に捕まって・・・。で、たまたま俺に会って、一緒に逃亡。留恵の決断による行動といえば、さっき一人で研究センターに赴こうとしたことくらいだもんな。
「まあ、セイレーンが殺されるのは嫌なんだろ?殺されたくないから守るって当然のことだろうが」
「うん・・・そうだけどさ。例えば近所の家で火事が起こって、そこに顔を知っている程度のおばさんが取り残されているとするじゃない?私がやってることって、その顔見知り程度のおばさんを助けに、燃え盛る家に突入してるようなものだなー、って」
留恵は大きく欠伸をすると、何気ない口調で良に尋ねた。
「良はさ、自分がどうしてセイレーンを殺したいって思うのか、わかってる?」
割れたフロントガラスから前方を見たまま、良は考えた。沈黙が数秒続いた後、
「強いて言うなら、プライド・・・か?」
留恵が首をかしげる。
「プライドというかけじめというか・・・。マッドサイエンティストとして、じゃなくて、理性的な研究員としての決断ってところかな」
「ますます訳分かんないよ」
留恵はこめかみを押さえて眉をひそめる。
「自分の尻は自分で拭くってな。あんなん狂気が生み出した産物だ。製作者側が責任を以て処分するのは当然だろう?もっとも、マッドな百野木らは処分すべきということに気付いていないみたいだがな」
「変なの」
口をとがらせて留恵が呟く。その様子に良は再び苦笑した。
「ちょっと此処で待ってろ」
留恵をジープに残して、良は外に出る。時刻は夜の八時を回っていた。夜空には雲ひとつないが、都会である大阪に近づいたここ西宮名塩のサービスエリアでは、瑞音町と違って満天の星空は見られない。
良は煌々と明かりの灯るSAの建物に背を向け、あえてうす暗い駐車場の隅へ行った。携帯を開いて、電話帳から文香にコールする。ほどなくして電話は繋がった。
「もしもし、どうしたの?」
少し苛立った声が聞こえてくる。良はなだめるように優しげな声音で話した。
「いや、文香の声が聞きたくなって。今大丈夫?」
だが、目論見は瞬間的に看破される。
「嘘言わないの。どうせ愛しの留恵ちゃんに泣きつかれたから電話してきたんでしょう」
ぎくりとする。何故文香がそれを知っているのか。
「・・・反論しないってことは図星なの?」
文香の声に僅かにだが本気の嫉妬が混じっていることに気付いた良は、すぐさま否定する。
「いや、確かに図星だが・・・アレだ、この愛しさってのはその、家族に対する愛情みたいなもんだから」
言ってる良本人も、自らの言葉の薄っぺらさに歯噛みした。事実を言っているのに、しどろもどろ過ぎて逆に怪しさを抱かれかねない。
「というか、文香がどうしてそれを知ってるんだ?」
これ以上言葉を並べても全て陳腐になるであろうことを予想した良は、話題を変えた。
「そうじゃないかと思っただけよ。何せ昨日から私の仕事は人質『高崎健児』、『美希』の見張りだもの」
「本当か!?」
反射的に聞き返す。留恵と同じ高崎姓だ、その二人が両親とみて違いない。
「文香、その二人が留恵の両親なのか?」
自然と口調が速くなる。
「そうよ。昨夜言ったじゃない──って、そういえばあなた途中で電話切っちゃったのよね」
「・・・ああ。丁度警備兵が襲撃してきやがったんでな」
苦々しげに良が言う。
「私に言われてもねえ。全ては百野木さんの命令だから・・・」
ここだ。直感的に察した良は、声のトーンを落として真剣に話す。
「─それなんだが、文香、お前百野木に楯突く気はないか?」
一瞬の沈黙。その後、良は文香の溜息を耳にした。
「あなたの仲間になれって?生憎だけど、私はセイレーンの処分には反対よ」
「仲間にはならなくていい。唯、百野木の側についていてほしくないんだ」
良は好機とばかりに続ける。
「文香もセイレーン創造に加担したことを悔いているだろう?だが俺と違ってセイレーンの命は守りたい。このままだとセイレーンらは全匹軍事利用される。つまり爆弾として利用され、殺されるということだ。文香がそれを救いたいならば、百野木に楯突いてでもそれをするべきじゃないか?」
「・・・また説法するわね。でも、あなたはセイレーン処分派よね?何故あなたが保護派の私にそれを推進するのかしら?」
良は押し黙った。
「わざわざあなたが私という敵を作る筈がないわよ。本当のことを話してちょうだい」
「・・・わかったよ」
諦めたように呟く。
「留恵の両親を連れ出してほしい」
「研究センターを裏切れってこと?」
そうだ、と良は強く言った。
文香は渋るかと思いきや、二つ返事で承諾する。
「留恵ちゃんは関係ないものね。助けてあげるわ」
「恩に着る」
始めから素直に頼めば良かった。良は安堵していた。
「で、あなたは今何処なのかしら?」
文香が尋ねる。良は現在地を伝えた。
「了解。今は樋口が二人の見張りにあたっているから、明日私の受け持ち時間になったらこっそり連れ出すわ。集合は・・・そうね、とりあえず神戸駅でいいかしら?」
「大丈夫だ。時間はいつ頃になるか分かるか?」
「私の受け持ちが明日の朝4時からだから、それから直ぐ連れ出したとしても着くのは夕方か夜ね」
文香の話す内容を、良は頭の中に書き留める。
電話が切れる直前に、文香が言った。
「念のために言っておくけれど、起爆装置は持ち出さないわよ」
「わかってるよ。どうせ、セイレーンに関する資料は持ち出すんだろう?」
「当り前じゃないの。これを証拠に百野木を逮捕させてやるわ」
発破をかけたのは自分だが、保護派の文香にこうも燃え上がられるとこちらの障害になる。
──留恵の他にもう一人、面倒臭いヤツが増えちまったな・・・
良は微笑みながらも、肩を落とすのだった。
レンガ造りの花壇の淵に私達は座っていた。ジープは近隣の有料パーキングに停めてある。
前方では、幾台ものタクシーが駅から出てくる人を乗せては街へと出ていく。そうして、客を目的地まで送り届けたら再び此処へ戻ってくるのだろう。
赤血球の様だ。留恵はそのさまに何処か不思議な感覚を抱いた。
酸素は人で、それをタクシーが全身の細胞、もといこの街のいたる所へと散りばめる。テレビなどではよく道路が血管になぞらえられているが、そこを通る存在をも他の物に喩えると、まさしく街が、いうなれば世界が一つの人体のように思えてくる。自身は卑小なO₂分子に過ぎない、などという自虐的な思考をしてしまったり。
雑踏の中に見られる人々は、多くが仕事帰りの風貌だった。足早に駅を去る人もいれば、千鳥足で駅構内へと歩いて行く人もいる。
ここ、JR神戸駅には熱帯夜の空気に混じって、人の汗の様な匂いが漂っていた。不思議と嫌な感じはしない。私がいつも、東京で嗅いでいた匂いだ。私に社会の正しいサイクルに乗っ取った生活を思い出させてくれる香りだった。実際は良の爆破事件から未だ丸二日と少ししか経っていないが、何故か私は何年間もこうして、良と二人でセイレーンを巡って奔走しているような錯覚に陥っていた。
良が桑原文香なる女性研究員に両親の救出を頼んだことは、SAで一夜を明かした翌日、神戸に向かっている最中の車内で彼の口から聞いている。私はそれを聞き、ようやく心を落ち着けることが出来た。今すぐにでも両親の無事な姿を見たいという気持ちは依然として心の中にあるが、現在のそれは寧ろクリスマスを待ちわびている子供の心情に似ている気がした。
「遅いな・・・」
良が神戸駅北口の壁に掲げられた、大きな時計を見て呟く。時刻は午後の8時を回っていた。
「百野木に捕まってないといいけどね・・・」
私はそれに応ずる。そうだな、と良が僅かに不安そうな声で頷いた。と思ったら、突然良が立ち上がる。
「噂をすれば、だ。ようやく来たぞ」
良の視線の先には、グレーのスーツを着た女性がいた。彼女が文香さんなのだろう。身長は私よりも少し大きく、歳も私の少し上─20代の後半くらいに見える。私達の元へと近づくその歩き方は凛然としていて、私に『したたかな女性』という第一印象を植え付けた。
─うわ、美人・・・。
文香さんがいくらか近づいて、私にも顔がはっきりと見て取れるようになった時、そう思った。
個性派美人、という表現が適している気がする。少しつり目な為、目を単体で見るときつい性格の持ち主の様に感じられるが、口元の微笑みが対称的にしっとりとしていて、目の毅然さを相殺していた。髪はウェーブがかった栗色のロングで、それも彼女のフェミニンさを強調するのに一役買っている。
「良、思っていたより元気そうね」
文香さんが良に笑顔を向けた。
「いや、もう満身創痍だ。いつ襲われるか分かんねーってのは神経が衰弱するな」
それから、良は思い出したように私に言った。
「留恵、こいつが文香な。俺の研究仲間だった人だ」
良に両肩を掴まれながら、文香さんは初めまして、と私に微笑む。何故か顔が熱くなった。
「あ・・・両親を助けて下さって、本当にありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくても良いわよ。安心して、二人とも無事だから」
文香さんは照れくさそうに言う。
「それで、私の両親は何処ですか?」
私は気になっていることを聞いた。
「ここに連れてくるのはちょっと心配だったから、港の倉庫にかくまっているわ。勿論今から行くわよね?」
私は大きく頷いた。
神戸湾には、少なからず廃倉庫が存在するらしい。
私達が到着したのは、既に見捨てられたドライ・コンテナが立ち並ぶ港だった。潮風がつんと鼻腔をつく。赤や緑など、コンテナの塗装は多種にわたるものの、錆びが見られることと、塗装が若干禿げていることは私が目にしたコンテナ全てに共通している。コンテナは整然と並べられており、その幅2メートル程の隙間によってできた道が、碁盤の目のように広がっている。私は何となく平城京を連想した。
先を行く文香さんの後を歩き、港の奥、即ち海岸の方角へと進んで行く。
足下は少し滑りやすく、注意を払っていないと転倒する危険すらある。私は左手でコンテナの壁を触れながら、急く心を押さえて慎重に進んで行った。
「ここよ」
文香さんが足を止め、青のコンテナを指差す。
「この中にか?」
良が少し焦った様相で尋ねる。
「それがどうかした?」
「窒息とかしてないだろうな・・・!?」
不吉な言葉に、私も思わず声を漏らしてしまう。
「大丈夫よ」
文香さんが宥めるように言った。
「ほら、扉の所にパイプの様なものがあるでしょう?簡易ベンチレーターっていう通風孔よ」
「・・・詳しいんだな」
「下調べは完璧よ」
文香さんが扉をドライバーで外して、開く。
瞬間、中からまばゆい光がこぼれ出してきた。私は思わず目をつぶる。
目は闇に順応していた為、唐突の灯りに視力を失った。目を開けて、コンテナ内部を見渡せるようになるまで数秒かかる。
全方向を鉄板に囲まれたコンテナ内部。その中央に、木箱を挟んでくつろぐ両親がいた。緊張が露ほども感じられないその態度は、二人が拉致監禁されていた事を私に疑わせる。
「おお、留絵。遅かったの」
父はコンビニ弁当を頬張りながら、片手をあげた。薄い白髪を木箱の卓上扇風機がたなびかせている様子が滑稽で、同時に腹立たしい。
─あれだけ人に心配をかけさせておいて・・・
百野木の元へと赴こうとしたことが馬鹿らしく思えてきた。
だが、同時にそれを上回る安堵をも感じていた。両親は精神的な被害もなく、いつも通りの呑気さで私の傍にいる。その事実に、何故か目頭が熱くなった。
怪我はない?酷いことはされなかった?自然と口をついて出る質問の数々に、しかし両親は一つ一つ丁寧に答えてくれる。そして回答を要約すると、どうやら両親は来賓室に閉じ込められていただけで、行動制限がされていること以外はむしろ厚遇されていたと言っても過言ではなかったらしい。
そしてなにより私を驚かせたのが、母の言った一言だった。
「まさか、水揚げを届けただけでこんなことになるとはねえ・・・」
苦い笑みとともに放たれた言葉に、私は疑問を覚える。
「お母さん達は自分からあそこに行ったの?」
瞬間、母はしまったという顔になる。だが父が珍しく真面目な口調で母に言った。
「もう話してもよかろう。留恵も何か知らんが巻き込まれとるようだしの」
そうね、と頷いて、母は私に向き直る。
「実はねえ、私たちは2年前から研究センターと給餌の契約を結んでいるのよ」
意外なカミングアウトに、思わず私は声を荒げる。
「給餌って・・・セイレーンの!?」
母は首を傾げた。
「何への餌かは知らされていないわ。けど、魚介類なら大方買い取ってくれるし、何より取引額が瑞音漁港よりも格段にいいのよねえ。その代わりに契約に関することは他言厳禁だから、アンタには今まで秘密だったけどね」
両親は研究センターから水揚げの代金を貰っていた。つまりは、我が家の生計は研究センターの、言うなればセイレーン創造のクライアントであるウノビス軍の資金によって成り立っていたということなのだろう。
見ると、両親の恰好はカーキ色のオーバーオールにカッパ、そして長靴と、漁師の服装そのままである。
「で、魚を届けに行ったらどうなったの?」
「智ちゃん達と登山して、正門についたと思ったら突然警備員─あの黒人の人達が私らの腕を握ってねえ。普段ならその場でスチロールケースを渡すだけなのに、昨日は無理矢理施設内まで連れていかれて、それで閉じ込められたのよ」
母の話に出てきた『智ちゃん』という人物の存在。これは給餌契約を結んでいたのが両親だけではないという意味だろう。
全てを話し終えた母は、やれやれといった表情で飴の包み紙を弄りだす。話が一段落したのを見計らってか、父が私に尋ねた。
「そんで、わしらはなんで拉致されたかね?」
私は良のほうを見やる。彼が首を縦に振ったのを確認すると、私は両親にセイレーンに関する一連の事件について話した。
「お二人はこれからどうされるつもりですか?」
文香さんが両親に尋ねる。
父は息が続かなくなるまで唸った後、
「どうすればええのかわからんでなあ・・・。やはり瑞音に戻ってはいかんかね?」
文香さんはそう答えるのを予期していたようで、間髪いれずに答えた。
「ええ、再び人質として捕らえられる危険もあります。それに、何より研究センターはセイレーン創造を世間に知られることを恐れています。お二人がセイレーンについて知ったことが判明すれば、口封じされるのは避けられないでしょう・・・」
口封じ、それ即ち殺人だ。
「何か、考えをお持ちなの?」
そう聞く母は、少し顔色がよくない。私と良の命が狙われているという話をして以来、青ざめた顔のままだ。
「研究センターの手が届かないところまで逃げるのをお勧めします」
言うなり、文香さんは茶封筒を取り出し、その中身を両親と私に渡した。
「新潟行きの片道切符です。私の母に、新潟駅までお三方を迎えにくるよう頼んでおきました」
「つまり、あんたの実家に邪魔させてもらうっちゅうことか」
ええ、と文香さんが頷く。
「ご不便をおかけしますが・・・。私が研究センターを刑事事件として告発するまでの間の辛抱です」
「そんな、不便だなんて。・・・どうしますあなた、御厚意に甘えさせて貰いましょうか」
うむ、と父は低く呟いた。そして、座位のまま深々と頭を垂れ、謝礼の言葉を口にする。
「今夜発の寝台列車です。出発まで残り2時間しかありませんから、今すぐ神戸駅まで送りますよ」
両親は立ち上がり、良と文香さんにお辞儀した。
「留恵、行くわよ」
母が私を促す。だが、私は両親について行く気にはなれなかった。
「・・・私、ここに残る」
両親と文香さんが戸惑いの表情を浮かべる。
「何をわがまま言ってるの?あなた、命を狙われているのよ?」
語気を強めて母が言った。
「命を狙われているのは良だって同じよ。幼馴染が残るのに私だけ逃げられないわ」
「良君は研究センターの関係者でしょう?あなたは関係ないじゃないの・・・!」
困り果てた表情で話す母の顔には、明らかな苛立ちが滲み出ていた。むっとした私は言い返す。
「関係なくない!私、セイレーンを守りたいと思ってるのよ」
「自分の命とどっちが大事だと思ってるの!?」
「どっちも大事よ!どうせ文香さんが告発するまで数日じゃないの!研究センターにも私たちの居場所なんて分る筈がないから大丈夫よ!」
「どうして駄々をこねるの!?桑原さんの告発でセイレーンは守られるのでしょう!?あなたがいなくても同じじゃない!」
私は返す言葉に詰まった。
湿気の多いコンテナ内はしばし沈黙に包まれる。
「留恵」
父の少ししゃがれた声が鉄板の壁に反射した。
「お前が残りたいのなら、残ればええ」
途端、母が大声で父に反論しかける。だが父はそれを片手で諌めた。
「さっき留恵も言うとったが、桑原さんの告発までにそう時間はかかるまい。それに留恵は特に危険なことをするわけでもなかろう。わしは瑞音に帰れんし、万が一ということもあるから新潟へ行かせてもらうがの」
「・・・けど、あなたもこの子が此処に残りたがる理由が理解できないでしょう?」
なおも食い下がる母に、父は変わらぬ声音で返す。
「理解できんよ。じゃが、留恵なりの理由があるのじゃろう。それが無いなら、そもそも此処に残ると言い出すはずがなかろうて」
母は私を正面から見つめた。睨みと言ったほうが正しい気にさせる程の目力であるものの、ほんの僅かだけ目に潤いが見られる。
「好きにしなさい」
小さくそう言い放つと、母はそっぽを向いた。
「留恵、母さんが心配しとるっちゅうことも理解したれよ」
私は目を伏せ、小さく頷いた。
神戸駅で両親を見送った後、私たちは再びコンテナ内にいた。
木箱の上の電気ランタンが良と文香さんの顔に陰影をつけている。恐らく私もこんなホラーチックな顔をしているのだろう。
さて、と文香さんが腕を組んで口を開いた。
「良、私は明日にでも告発しに行くわよ」
「それをどうして俺に言うんだ。俺はお前の考えに賛同できないっての」
「つまりセイレーンを処分する時間なんて残ってないってことよ。もう諦めて欲しいの」
ふん、と良は機嫌悪そうに鼻を鳴らす。
「お前こそ考え直せよ。体に水雷仕込まれて、下半身をイルカにされた生物を人間と言えるか?・・・いや、仮に人間だと認めよう。だとしたらその人間は、生きていたいと思うのか?」
「何言ってるのよ。普通の人間がある日突然キメラにされたわけじゃない。そんなこと分っているでしょう?彼女らは生まれたときからあの姿なの。生存本能はあるに決まっているわよ」
「だとしても─」
なおも異を唱えた良の口を文香さんが掌で塞ぐ。口元に絡みつく彼女の指が妙にエロティックに感じられた。
「あなたと論争しても埒があかないってことを忘れてたわ。この話は終わり」
まだ何か言いたげな目で良は文香さんを見た。が、彼女は意にも介さない。
「ところで、留恵ちゃんは私と同じ考えなのよね?」
先程の両親との会話を聞いたからだろう、文香さんが私に微笑む。
「・・・はい。私も──セイレーンは守るべきだと」
そう思う理由を自分でも分っていないことを思い出した為、答えるまでに若干のタイムラグがあった。
「じゃあ、明日私と一緒に神奈川県警まで着いてきてくれないかしら?」
「ありがとうございます」
彼女が握手を求めてきた。私はその手を握る。
と、文香さんが私にだけ聞きとれる程度の音量で囁いた。
「後で見せたいものがあるの。良が寝たらつきあって」
「何話してんだ?」
良が訝しげに尋ねる。
「何でもない」
小悪魔めいた口調で文香さんはあしらう。
「さ、レディはもう寝るんだから、良はそろそろ出ていってね」
「な・・・どこに行けって言うんだよ!?」
と、文香さんは木箱の上蓋を開けて、中から寝袋と懐中電灯、そしてドライバーを取り出した。
「これを使えばコンテナの扉を開けられるわ。暑いのはここも一緒だから我慢してね」
「本ッ当に面倒なヤツだな文香は・・・」
良は不平を洩らしながら、コンテナを出て行った。
「いいんですか?折角の再会なのに追い出して」
「留恵ちゃんとの用を済ませたら、会いに行ってあげるから大丈夫よ」
「でも─良がどのコンテナにいるかがわからないんじゃ・・・?」
文香さんがはっとした表情で私を見た。
多分良は隣するコンテナにいるだろうと一人ごちて、文香さんはコンテナの扉を開けた。良がここを出てから30分ほど立った時のことだ。
「留恵ちゃん、行くわよ」
コンテナを出て、海岸の方向へと歩いて行く。私はついて行きながら、狭い鉄の箱内からの解放感を感じていた。なおも左右はコンテナがそびえ立っているが、上空と前後が開けているだけでも大分気分は変わる。もっとも、首筋がちくちくするような蒸し暑さは依然として残っているが。
歩きだして1分経つか経たないかほどで、文香さんは足をとめた。目の前の視界は開けていて、黒い海が広がっている。水平線は遠くに光る水銀灯の数々で賑やかだが、手前はとても暗く、文香さんのランタンだけが頼りだった。
文香さんは持っているポーチから、何やらリモコンの様なものを取り出した。私はすぐにそれがセイレーンの起爆装置だと気づく。
「私がこれを持ってきたこと、良には秘密よ」
彼女はウインクと共に言った。
「何をするんですか・・・?」
見せたかったものとは、起爆装置のことだろうか。だがそれならコンテナの中でもいい筈だ。
それに、彼女がそれを起爆を目的として使うわけがない。なぜ所持しているのかも不明だ。
「留恵ちゃんは、セイレーンの名前の由来を聞いたことがある?」
「ええ。確か、自我を無くした海の爆弾、でしたっけ」
「ええ。本当は自我も感情も持っているのにね」
文香さんが悲しげな声で言う。
「正式名称のEの部分─Early warning systemは敵機発見装置、つまり軍事利用において、セイレーンが敵を目視した時の脳波を受信する装置よ」
「それが、その機械ですか?」
「ええ。起爆装置と敵機発見装置は一つにまとめられているの。これと同じものが研究センターには十数個あるわよ」
文香さんは続ける。
「で、敵機発見装置のもう一つの機能──信号の発信を今から行うわけ」
彼女は装置のボタンを押した。ノイズ音が装置のスピーカーから漏れた後、クリアな電子音が響く。
「元々は、軍事展開における作戦開始の合図としての使用が目的だったんだけどね」
と、水面から音がした。濃密な黒い水の中から、人影が現れる。
私が幼いころ見たのと、寸分たがわない人魚がそこにはいた。
水上に出ているのは露出した上半身のみであるため、ランタンが水中を照らさないこの状況下では、セイレーンの容姿は限りなく人間に近い。だが容貌はセイレーン独特のそれ──球状の頭部に離れた両眼という、どこか人間らしさに対する程遠さを感じさせるものだった。
瓜二つ。小学生の夜に出会った人魚とあまりに類似している。否、類似ではなく、風貌に関しては同一なのだ。
──彼女はクローンだから。
唯一異なるのは、彼女の方が昔出会ったセイレーンよりも腹部が膨らんでいる点だろうか。
「どうして彼女─このセイレーンを連れ出したのですか?」
文香さんは彼女を告発の実物証拠─証人とするつもりなのだろうか。尋ねている最中にそう思う。
返事は返ってこない。文香さんはコンクリートの海岸にかがむと、セイレーンに手を差し伸べた。そのまま彼女を陸に引き揚げる。バンドウイルカの黒い下半身が露わになった。
「この子は、ノティはあのままだと明日にも殺されていたから」
あどけない表情のセイレーンの頬を優しくなでながら、彼女は言う。
「ノティって・・・そのセイレーンの?」
いい名前でしょ、と文香さんは目を細める。
「ウノビスの言葉で『心』を指すの。彼女には─ううん、彼女だけじゃなくって全てのセイレーンには心を自分のものにして欲しいって願ってるから」
心を自分のものに。セイレーンの現状は、生殺与奪の権利も、行動の全ても研究センターに握られている。直接目にした訳ではないが。
「自分の意思でやりたいことをやって、それで多くの感情に触れてほしいのよ。彼女らはまだ喜怒哀楽の喜と哀しか知っていない。喜を知れる子なんて一握りだし、圧倒的に哀しみの感情に接することのほうが多いわ。それに、そんな生活が『当り前』と化しているから、怒りなんて感じていないに等しいんだもの」
彼女は声を震わせて、ノティを強く抱きしめた。黒髪から海水が滴り落ちる。ノティの発する喃語が聞こえる。
「留恵ちゃん」
洟を啜って、文香さんは小さく、しかし強く私の耳朶を打つ声で言った。
「私は良に、明日告発に行くと言ったわ」
あれは嘘なのよ。
彼女はそう呟く。私は耳を疑った。
「もし告発したら、当然私を含めた研究員らは逮捕されるわよね。その後国に保護されたセイレーンはどうなると思う?ちゃんとした扱いを受けられるかしら?日本は、いいえ世界はセイレーンに生命の尊厳を与えるのかしら?」
「わかりません・・・でも現状よりは好転するんじゃないですか。少なくとも国が保護すれば、爆破実験に使われることはなくなりますし・・・」
「それでも、安全の為にセイレーンの行動はセーフティデバイスが展開されている範囲に制限されるでしょうね。大方水族館や他の研究所の水槽に詰め込まれるでしょう。ウノビスとの国交もどうなるか分らないし、セイレーンを武器とみた団体が憲法第9条に違反したとして抗議を起こすのは目に見えているわ。それだけじゃない、研究センターの実験を中断させても、今度は日本国が、国連が、寄ってたかってセイレーンで実験を始めるわ。『合成獣の安全性の立証を目的とする』なんて立派なお題目を立ててね。結局セイレーンの待遇は変わらない。それどころか悪化する可能性も高いわ」
彼女の目的は告発ではない。
「・・・文香さん、あなたは何をしようとしているのですか・・・!?」
「良とは対照的だけれど、似たようなことよ」
思わせぶりなことを、真剣に言う。
「私はセイレーンを海へ逃がす」
確固たる意志を宿した瞳が、私の両目を射抜いた。
「良に嘘をついたのは、セイレーンを守るためよ。彼のことだもの、セイレーンが海にいると知るや否や、起爆装置片手にセイレーンを殺しにいくでしょう」
文香さんは続ける。
「告発をしないのもそのためよ。研究員逮捕の報道の中で、遅からず良はセイレーンが逃げたことを知る。そうしたら私が嘘をついた意味はなくなるもの。それに、良が殺すよりも早く、国連が保護という名の拘束をする可能性もあるわ。だから、公的機関への訴えは絶対にしない。セイレーンを逃がした後は、一片の証拠も残さずに、研究センターを爆破するわ」
──彼女は平和主義者だと思っていたのに。
裏切られたような気分だった。セイレーンが人間であると熱弁をふるった彼女は、内心でそれが他人の共感を得られない意見だととっくに気づいていたのだ。
そして、彼女はラジカルな思想に走った。
爆破。
彼女はセイレーンの命を守りたがっている。が、研究員の命はどうなのだろうか?
告発をしないのだから、研究員らは逮捕されない。つまり、今いるセイレーンを逃がしたところで、新たにそれが創られる可能性は非常に高い。
だから、二度とセイレーンが創られないように、彼女は研究員を─少なくとも百野木を殺す・・・?
法による制裁では、公的機関によってセイレーンが虐げられるから、自らが爆殺という手段で制裁を下す?
彼女が『研究員らを殺す』と明言したわけではない。だが、彼女の言葉にはそんな意味が含まれている気がした。
施設の爆破に含まれる目的は、資料の隠滅だけではないだろう。
セイレーンを殺そうとする良と。
研究員を殺そうとする文香さんと。
「そんなの・・・変ですよ・・・!」
意思とは関係なく、本音が漏れた。ダムが決壊したかのように、言葉があふれてくる。
「セイレーンも人間ですけど、研究員も人間ですよ!?セイレーンの命を尊重する文香さんが、どうして百野木を爆破に巻き込もうと目論むんですか!?」
「分ったのね、私の本当の目的も。けど、これは必要悪・・・。悪事をさせないための悪事よ」
それと、と口元に微かな笑みを浮かべて、彼女は言った。
「留恵ちゃんの両親を助けたのは私よ」
恩着せがましさなどは少しも感じられない声音だった。
がしゃん、という音がコンテナの壁で反響した。心臓が跳ね上がる。
咄嗟に後ろを振り返ると、そこには驚愕の表情を曝け出した良がいた。足元に彼が落としたであろう懐中電灯が転がっている。
─まずい・・・!
今しがた文香さんが話した、良の行動予想が思い出される。
文香さんは彼に気付くと、即座にノティを海中に放そうとした。同時に良が険しい形相をして、唐突にこちらへ駆けてくる。
ノティの命が狙われている。私は立ち上がると、良の前に立ちふさがった。
と、彼は私の左手首を強く掴んだ。そして、何故か文香さんの手も同じようにとったかと思うと、ノティを放置して、猛然とダッシュしコンテナ群の通路へと引き返す。
てっきりノティが銃撃されると思っていた為、完全に虚を突かれた私は、良の行動の意図が読めずに、彼の引っ張られるがままになっていた。恐らく文香さんも同様だろう。
ぬめったコンクリートの地面を暫く走り、文香さんがバランスを崩して尻もちをついた時にようやく良は足を止めた。
「馬鹿野郎!」
ぜいぜいと肩で呼吸をしながら、文香さんを一喝する。
「爆発したらどうする気だ!?起爆装置の電波は半径100㎞範囲なら生きてるんだぞ!?」
口では怒りつつも、良は文香さんに手を差し伸べた。
起爆装置を百野木が所持していて、爆弾が文香さんの傍にある。そして、百野木は文香さんの命を私たち同様に狙っている─
よく考えればノティを連れ出したのは自殺行為でしかない。
「・・・大丈夫よ」
顔を良から背けて、彼女は応える。
「・・・研究センターを抜け出してから、もう半日以上経ってるのよ?]
「それがどうした!?」
「百野木にはセイレーンの場所が分らないんだもの。一般人がいるようなところで起爆して、大きな話題になるのは避けようとするんじゃないかしら・・・?」
尻すぼみの声で話すため、説得力は感じられない。
「あり得ないな。現に、ホテル瀬川のフロントマンを警備兵は銃で脅してんだ。確かに話題に上がるのは嫌がるだろうが・・・寧ろアイツはセイレーンを目にした人間は死すべきと考えるんじゃないか?」
「その存在を知らしめないために?だったら、なるべく一般人にはセイレーンを見られないようにするため、私が逃亡したと百野木が認識した瞬間に、起爆装置のスイッチは押されていたはずよ?どうして未だに爆ぜないの?」
良はしばし黙り込んだ。
「一般人に見られる危険を冒してでも、セイレーンを生かしておく理由か・・・」
生命の尊重、などと言う理由はお笑いにしかならない。兵器としての貴重さを鑑みて起爆させないというのも考えにくい。クローンでいくらでも代わりは生み出せるのだから、今更たかが一匹を殺すのを躊躇はしないだろう。
「・・・文香が俺達と合流することが読まれていたんじゃないか?」
良は難しい顔で唸った。どういうことかと文香さんが尋ねる。
「百野木はセイレーンの起爆で文香を殺す、と俺は考えていた。確かに、文香自らが爆弾を持ち出しているんだ、高い確率で殺めることができるだろうよ」
だが、と良は顎に手を当てる。
「百野木は大穴を狙ったんじゃないか?文香が俺達と合流する。ならば、3人とセイレーンが一堂に会した時に爆発させれば─」
「3人とも一挙に殺せる・・・?」
言葉を引き継いだ私に、良が頷く。
「起爆がいつになるかは不明だが、遅かれ早かれあのセイレーンは爆ぜる運命にあるってことだ」
爆ぜる運命。即ち、死ぬ運命。
「そんな・・・!」
青ざめた顔で、文香さんが悲痛な叫びをあげた。
助けないと。そう叫んで、慌てて踵を返す彼女の腕を、良はしかと握った。放して、と喚く文香さんを、再び良は叱り飛ばす。
「戻ったところで何も出来ないだろうが!」
逃げるのが先だ、そう断言して、良は海岸から遠ざかろうとする。が、文香さんもノティを守ろうと、良の手を振りほどくのに必死である。
「むざむざ見殺しにしろっていうの!?」
文香さんが叫びをあげる。
「ああ、そうだ!諦めろって言ってんだよ!あんな爆弾、守る意味なんてないだろうが!」
刹那、文香さんが力を緩めた。下唇を強く噛み、目に憤怒の光を宿す。
彼女は右腕を振り上げた。先端は平手ではなく、握り拳である。
私は反射的に、二人の間に割って入った。空をかいた拳は私の背中にぶつかる。思わずうめき声をあげてしまった。
だが、痛みを享受している暇もない。私は痛みを堪えつつ、毅然とした態度を心がけつつ聞いた。
「良、セイレーンは後どのくらいで爆発するの?」
「俺が知るか」
彼は憮然と返事をする。仕方がないので、自分で思案に耽る。
─百野木が3人の殺害に確実性を重視するなら・・・ある程度は時間に余裕を持たせるのではないだろうか?ならば、まだ爆発秒読み状態では無いということになる。それなら─
私は良が以前話していたセイレーンの生態を思い出した。
─子宮にあたる器官に、体内で生成された火薬が溜め込まれている。
「文香さん、携帯と、それとお金を貸して下さい」
言われた通りに、彼女はポーチからそれらを取り出す。
「・・・何をするつもり?」
藁に縋るような瞳を向けられた。
「私がノティを救います」
文香さんからスマートフォンと財布を受け取り、私は海岸と逆方向に走り出した。
「待て!」
良が瞬間的に私の手を握る。
「俺が見過ごすと思ってるのか」
痛いほどの握力。良の顔は、またも無機質で、見慣れていない冷酷なそれとなった。
─良はセイレーンを唯の動物としか考えていないから。
「わざわざ百野木自身がセイレーンを処分してくれるんだ。俺にしてみればそんな機会を棒に振るわけないだろう?」
もう片方の腕も掴まれ、一刻を争う事態だというのに、逃げるに逃げ出せない状態にされる。
その時だった。
「それは私も同じよ」
文香さんがポーチから拳銃を取り出し、良に突きつける。数秒目を見開いた彼は、苦笑いを浮かべた。
「─彼氏に銃を向けるとはね・・・」
「留恵ちゃんがノティ助けてくれるのよ。そんな機会を棒になんて振れないじゃない」
虚勢を張っているのが見え見えの笑顔で言い放った。
「その腕を放して」
良は彼女の言いなりに、私の手を緩め、両手を上げる。私は再び、走り出そうとした。
「一つ聞かせて」
銃の照準を良に合わせたままで、文香さんが聞く。
「どうやってノティを救うつもり?」
振り向きざまに応えた。
「私は医大生です」
それだけで文香さんは納得したようだった。
神戸駅近隣のパーキングエリアまで走り、ジープを見つける。運転席に乗り込まず、私は後部のトランクを開けた。
運転免許を昨年取ったとはいえ、私は公道の運転経験は数えるほどしかないペーパードライバーだ。
一秒一刻を争う事態のさなかに、交通事故を起こすなどという真似は回避したい。そのため、元より移動手段は電車に頼るつもりだった。だからこそ文香さんに財布を借りたのだ。
ジープの元まで来たのは、此処に散乱していた道具を調達するためである。
私は蛍光灯に照らされて、黒光りしている拳銃を一つ、手に取った。
ずっしりとした重さは嫌でも存在感を感じさせ、それが野蛮の象徴たる武器であることを再認識させる。
命を奪える道具。
無論、実際に殺人を行うつもりなど毛頭ない。自分が命を奪える立場にいる、と相手に知らしめればよいのだ。
それこそまさに、この黒い鉄塊の存在意義通りの野蛮な使い道である。しかし、セイレーンの事情は込み入り過ぎているうえに、突飛も過ぎる。知り合いにならまだしも、初対面の相手に口頭説明をした所で私の要求を呑んでもらえるとは到底思えない。ましてや、時間も無いのだ。
誤発射を避けるために、弾丸は抜いておくことにした。トリガーの付近の突起を押すと、弾倉が音もなく滑り落ちる。それをジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
パーキングエリアを後にし、神戸駅に向かいがてら借り物のスマートフォンで地図検索のアプリを開く。サーチエンジンの欄に、『神戸駅 病院』と打ち込んだ。
数秒、画面にローディングの円環マークが出たかと思うと、神戸駅周辺の地図が現れそこに5個の旗が立つ。順にチェックしていくと、神戸の名を冠した病院が一つ、個人の姓を冠した内科が二つ、耳鼻科が一つに整形外科が一つだった。
出来るだけ大きな病院に行きたいのだが、そこには大人数が院内にいるという危険も伴う。しかし個人経営の病院では私が求めているものは取り扱っていないだろう。迷った末、最も大規模らしい『神戸橋渡病院』を選択する。此処からJRで二駅分だ。
神戸駅の北口から構内に入り、私は橋渡病院を目指した。
電車を降りて、橋渡病院へ。外来時間は過ぎているため、正規の入り口からは入れない。もとより、そんな目立つ場所からの侵入は念頭に無いが。
私は病院の裏手に回ると、植え込みの陰から緊急搬送用口を覗く。人影は見えない。その場にしゃがんで、再び一連の行動を脳に焼き付ける。
─搬送口から侵入し、恐らくいるであろう宿直のバイトを探す。一人でいる時を狙いたい。発見次第、銃で脅して手術道具を入手。そして、脅迫相手を拘束して、その間に逃亡─
この計画で最も避けるべきは、脅迫相手以外の人物に発見されることだ。事が大きくなればなるほど、私ひとりでは対処できなくなる。私が院内にいる時に通報なぞされようものなら、お先真っ暗である。
─本当にやるの?
自らに尋ねる声がした。セイレーンの命を守るのなら、その存在を公にするのが手っ取り早いのだ。セイレーンを連れて、橋渡病院に駆け込む。そうして実物を見せれば、信じない人はいるまいし、手術にも協力が得られるかもしれない。しかし、私はその方法を選ばなかった。
文香さんが、セイレーンの存在を公にしたくないと言ったから?
否、自分でもそう思っているからだ。文香さんの言うことは正しい、と。存在が公になれば、良の手が迫る。
─私自身が、セイレーンの存在を公にしたくないと思う。依って、私は医療機器を強奪する。
セイレーンを良から守るために、私が法を犯す。罪に問われる行為をしてまで、セイレーンを守る。
セイレーンの命と自分の命、そして履歴は明らかに重さが異なる。自分を投げうってまで救う価値など無いはずなのに、何故かそれらを秤にかけた時、重いのはセイレーンの命なのだ。まったくもって解せない。
もう一度、搬送口を覗いてみた。ぽっかりと空いた闇の奥には何も見えない。
私は自らの頬を軽くはたくと、掌の汗を服で拭いて、立ち上がる。音を立てないよう心がけ、私は肋骨に打ち付ける鼓動の心音を感じながら、院内へと侵入した。
薄暗い廊下でリノリウムの床がスニーカーと擦り合わさり、甲高い音を出す。瞬間、私は飛び上がりそうになった。静かに、大きく息を吐く。擦れ音の残響がまだあるような気がした。念の為、その場で耳をそばだてる。どうやら誰にも聞かれてはいないようだ。
私が宿直バイトをしていた病院、聖オピアエ病院ではこの時間帯に院内にいるのは宿直が二人と看護士が二人だった。それが橋渡病院にも当てはまるのかは不明だが、行動する際の目安にはなるだろう。
殆ど灯りの無い通路を、私は持てる神経の全てを使って慎重、かつ迅速に進んでいた。
1F廊下の角を曲がった時、右奥の部屋から漏れる黄色のうすら明かりが見えた。はっとした私は一度立ち止まり、深呼吸をする。尻ポケットから拳銃を取り出して、右手で強く握った。
一歩一歩、兎に角無音を心掛けて進む。背中は汗でぐっしょりと湿っていた。扉の前に立つ。衣擦れの音、呼吸、拍動、否応なしにも発せられる諸々の音が一層私を緊張させる。口の中は驚くほど乾いていた。
扉の隙間からそっと中を覗くと、診察室らしき場所のデスク前に座る白衣の男性の横顔が見えた。年は20代前半だろうか、ワインレッドの眼鏡をかけていて、一人で手にしたカルテらしきものに集中していた。
どうしたものか。このまま部屋に乗り込むのもシンプルだが、悲鳴をあげられても困る。
私は扉から顔を離し、辺りを見回す。医師のいる診察室を通り過ぎた先に左右の曲がり角、つまりは隠れ場所があるのを確認すると、私は診察室の扉を軽くノックした。そして素早く、無音で廊下を曲がる。同時にノックに対する医師の返答が聞こえた。今彼は診察室への来訪者がいると思っているだろう。
ほどなくして、いっかな扉が開かないことを疑問に思ったであろう医師は自分から扉を開けた。私は曲がり角の端から医師の動向に気を配っていた。
医師は扉をノックした人物を探して、廊下を見回している。だが、曲がり角の先─私がいる場所は死角となって彼からは見えない。唯一不安なのは、彼を見るために少し壁から出ている私の顔を発見されることだが、恐らく彼も躍起になって来訪者を探そうとは思わないだろう。推察の域を越えないが、自分の聞き間違えだったと判断する可能性も高い。
案の定、医師は二、三度廊下を見渡すと、すぐに踵を返して診察室に戻ろうとした。
─今だ・・・!
私は跳躍すると、左手を医師の口元に押しつけた。突然のことに暴れる彼だが、叫び声は私の手に遮られてくぐもった小さなものとなる。私は彼によく見えるようにと拳銃を持った右腕をまわして、彼の顔の前に持ってきた。
鈍く光るそれを見た途端、彼は叫びを止め、抵抗をやめた。私は銃を彼の頭に突きつける。
「お願いがあるの。私の言うことに従って」
彼の首は、無言のまま何度も大きく縦に振られた。
医師の背丈は私より頭一つ分高いため、彼の口元を押さえるために私は背伸びをしなくてはならなかった。つま先立ちはかなり不安定な体勢なので、暴れられたら最後、いとも容易く転倒してしまうだろう。だが、突きつけた武器がもたらす効果は予想以上にあった。微塵も抵抗する素振りを見せなかったため、私は彼の口元から手を放す。彼は言葉一つ発さずに、両手をあげた。顔は蒼白だが、私のことはしっかりと見ていた。
「誰にも連絡を取らないで。私が聞いたことにだけ答えるのよ」
鼓動は依然として激しいままだ。私は彼の頷きを確認して、続ける。
「あなたはこの病院の何?」
数秒の沈黙の後、かすれた声の返答。
「・・・外科医だ」
それなら話は早い。
「お願い。腹部切開の手術をするから、道具一式用意して頂戴」
「こんなもので脅さなくても、手術は執り行ってやれるぞ・・・?」
患者は何処かな?彼は宥めるような声で言う。
「勘違いしないで。あなたに手術してもらいたいわけじゃない。私が手術するから、道具を渡してほしいの」
医師の顔に明らかな狼狽が浮かんだ。
「素人が切開手術だと・・・!?そんな真似──」
「黙って」
彼の側頭部に、銃口を強く押し付ける。
「聞いたことにだけ答えろと言ったわよね?」
医師は口を閉ざした。
「薬品保管庫まで連れて行ってくれる?」
小さく彼は頷いた。
その後、他の人物に見つかることなく道具の調達は進み、私は再び医師の診察室へと戻ってきた。道具は全て医師の私物である鞄に入っている。
「・・・何故こんなことをする?」
恐怖に慣れたのだろうか、先程より幾分強い口調で医師が言った。
「あなたが知る必要はないわ」
素っ気なくあしらう。だが、彼はなおも食い下がった。
「手術は人命を扱う行為だ・・・!君は多少、医学に関する知識はあるようだが──然るべき施設、然るべき薬品の投与を無くして確実な手術はできないぞ・・・・」
返す言葉に詰まる。医師の言うことはもっともだ。だからつい、私もまともな返答をしてしまう。
「でも、他に方法は無いのよ。間違っても此処に連れてくることはできない」
「どうして・・・?」
「・・・それは言えないわ」
自戒して、再び淡々と受け答える。
ここらが潮時だ。私は銃を彼に向けたまま、鞄から注射器を取り出した。彼の背中に手をまわし、首筋に針を挿す。男性は身じろぐも、銃を目の当たりにしているため大きな動きは無い。注射から数十秒後、彼は私の腕の中でくずおれた。意識も朦朧としてきているようだ。もう抵抗できないと踏んだ私は、銃を鞄にしまう。
「ごめんなさい」
床に仰向けになっている彼へ頭を下げた。
「絶対に、患者は私が救うから」
意識を失った彼を診察室のベッドに寝かせ、私は人知れず病院を出た。
再び、夜のコンテナ群。私が返ってくるまでの約1時間、文香さんはずっと良に銃を突きつけ続けていたらしい。
「今から手術をします。爆発の危険もあるから、二人はこの港から出て行ってください」
本当は文香さんにも手伝ってもらいたかったが、それでは良が野放しになる。仕方なく一人で手術を執り行うことにした。
良は未だにごねていたが、流石に銃を目の前にしては何もできないようだ。しきりに私を諭すのは、私を危険な目に合わせたくないからか、それともノティを見殺しにしたいからか。
文香さんは良を連れて、私のもとを離れて行く。私は鞄を手に、二人とは逆方向の海岸へと走った。
ノティは先刻文香さんが引き揚げた時と同じく、コンクリの地面にうつ伏せで寝転がっていた。私が近づいたことに気付くと、上半身をもたげて嬉しそうな声をあげる。私は彼女に微笑みを向けた。
可愛らしい仕草をこのまま見ていたかったが、残された時間はあまりない。私はノティの傍にかがむと、彼女を抱きかかえて、両親が匿われていたコンテナへ向かった。
コンテナ内でランタンをつけ、ノティを床の中央に仰向けにした。鞄から脱脂綿を出し、消毒液をつけてノティの腹から胸にかけて拭く。本当なら清潔な水で洗いたかったが、この際贅沢は言えない。
次にノティの背中に手を差し入れ、体を持ち上げた。セイレーンは腰に関節を持っていないため、人間のように上半身だけを起こすことができないのが辛いところだ。私は片手でノティを支えながら、もう片方の手で注射器を手にすると、彼女の首筋に麻酔を注入した。橋渡病院の外科医に投与したものと同じである。
ノティはあどけない表情のままで、眠りに落ちていった。
ここからが本番だ。私は手術用手袋を着用すると、メスケースを開きペンホルダーのメスを取り出す。深呼吸ののち、ノティの子宮部に刃先をあてがうと、まっすぐに皮膚をなぞった。
褐色の皮膚がめくれ、鮮血の飛沫と共にビビッドな赤い肉が現れる。コンテナ内に濃密なにおいが充満した。切開部を開創器で固定し、私はノティの腹部を膨らませていた原因──水雷を見た。
それは正確な球状をしていた。子宮いっぱいに緑がかった黒の爆薬が詰まっている。表面は粘液でぬらぬらと光っており、一目で湿っていると分かる。この爆薬は湿気を持っていてもなお爆発するということなのだろう。
──そして、この黒い塊の中に、起爆装置の受信機が入っている・・・。
良の話によれば、セイレーンはそれぞれ誕生して間もなく、子宮部へ受信機を埋め込まれるらしい。これが起爆装置の電波を受けると、爆薬に電流を流して起爆するのだとか。
つまり、ノティの体から受信機を取り除いてしまえば、体内に爆薬が残っていようとも爆破される危険はゼロとなるわけだ。彼女が体内で爆薬を生成するのはセイレーンの定められた生命プログラムであるため防ぎようがない。よって、今ノティが有している爆薬を取り除くことは重要ではない。
あくまでも、排除すべきは受信機。
帝王切開の要領だ。私は自らを鼓舞する。実際に子を取り上げた経験は無いが、人並み以上の知識は持っている。助産婦にでもなったつもりで爆薬の塊を取り出してしまえばいい。
子宮膜に張り付いた爆薬を丁寧に剥がして、両手の指で持ち上げる。まだ爆薬の張り付いている部分があるようなので、指で再び剥離させる。その後もう一度持ち上げると、塊はノティの体から離れた。子宮部と塊の間に粘液が糸を引いている。大きさはバレーボールより一回り小さい。
爆薬の塊にメスを入れると、軽く表面がえぐれた。同じ部分に数回切り込みを入れると、塊は真っ二つになる。
受信機はその中心部にあった。一片3センチほどの立方体の機器で、白く塗られた側面にはLEDが赤く光っている。私は受信機を摘まんで、塊の断面から外した。
とりあえず、これで一安心だ。大きく息を吐く。
一旦立ち上がって屈伸をすると、私はノティの腹部を縫合し始めた。
それから十数分後、手術は無事終了した。
手術道具を片づけて、コンテナの扉を開ける。充満していたノティの臭いや臓器特有の香りが、吹き込む潮風にかき消された。
二、三時間もすればノティは眠りから覚めるだろう。私はコンテナの外部に出て、壁にもたれた。
──成功した。
ノティを救うことができた。脱力せんばかりの安堵と喜びが心に満ちている。
──でも、何故・・・?
何度目になるだろうか、答えの出ない自分への問いがまたなされた。
どうして私はセイレーンを救いたいのだろうか。
そのうちの一人、ノティを救った今の、私の感情が何かしら答えのとっかかりである気がした。少しでも他ごとを考えたら、すぐにそのとっかかりは忘れ去られて、消えてしまうだろう。今だけ、その答えを知るチャンスがもたらされているような。
ノティを助けたのは、彼女の命を救いたかったから。この気持ちは確かだ。・・・だが、それだけじゃない。単純な救命欲以外に、もう一つの、とても重要な理由がある・・・
ふと、考えをめぐらす頭が、別の観点から同じ問いをした。
──逆に、どうして私はセイレーンを見捨てないのだろうか。
刹那、閃く。これもまた単純な理由だった。どうしてこんなことが分からなかったのか、不思議なくらいに。
見捨てたら良と同じだからだ。
幼馴染の彼が、セイレーンの命を奪おうと目論む。そんな様が彼らしくなかったから、以前の良に戻ってほしいと思ったから、セイレーンを救うに至ったのだ。
──私は、本当は良を救いたいのだ。
道を踏み外しそうになっている彼の軌道を修正をする。彼による殺しを防ぎ、以前のように、少し捻くれた皮肉屋の彼に戻す。
自分如きが抱くにはおこがましい意志かもしれない。けれども、それは結果的に私に病院での犯罪行為をさせる程の力を持つのだ。
良がセイレーンを殺すなら、文香さんが研究員を殺すなら。
「・・・私が全部救う」
一人呟いて、しかし同時にもう一つの疑問。
『全てを救う』という言葉に含まれる、矛盾。
セイレーンを逃がしても、研究員は新たな創造をするだろう。それを防ぐには研究員を逮捕、もしくは文香さんの言う通り殺すしか方法はない。しかし、私は文香さんに殺しをしてほしくはないから、結局選択肢は研究員の逮捕のみとなる。けれど逮捕によってセイレーンの存在が公になると、現在いるそれらが良や公的機関に狙われる。そしてそうなった場合、私は前者を止めることはできても、後者を止めることは不可能なのだ。
全部救う為の方法が見つからない。ベストは研究員が逮捕され、かつ良と文香さんが改心、現存するセイレーンが人知れず平穏無事にその生涯を終えることだ。しかし、あちらが立てばこちらが立たず。
嘆息の後に大きく欠伸をする。
──とりあえず、文香さんの側にいようか・・・
セイレーンを守りたいという意志は共通なのだ。彼女は良と恋人関係にあるから、彼を救いたいという私の気持ちにも共感してくれるかもしれない。彼女が抱く研究員への殺意は、説得すれば無くせない可能性も無きにしも非ずなのだ。
暫くは両親に会えそうにない。私は別れ際に告発後すぐに会えると言ったことを思い出して、少し心苦しくなった。
時を同じくして、コンテナ群の一角。
良と文香は手術が終了した旨を留恵から知らされ、彼女の両親が匿われていたコンテナの中へと戻ってきていた。
距離をあけて座る二人の間には相変わらず緊張が漂っていたが、現在文香は良に向けていた銃を懐に収めていた。ノティの体内から水雷が除かれ、自身も武器を所持していない今、良にはそのセイレーンを殺す術がないとみたからである。
「留恵はどうした?」
良が尋ねる。声音には機嫌の悪さがありありと見えていた。
「私が連れてきたセイレーン──ノティを診てる。今夜は一晩中、経過観察の為に同じコンテナにいるらしいわ」
そうか、と良は鼻を鳴らす。
それっきり会話は途切れた。
「・・・もうあのセイレーンには水雷は無いわ」
暫くして、唐突に文香が呟く。
「それに、あなたもさっき見たでしょう?ノティの表情を。少なくとも彼女は生きることを楽しんでいる。それを『殺してやるのがセイレーンの幸せ』だなんてのたまうのは独りよがりの偽善よ」
「・・・セイレーンの為を思って、ていうのが全てじゃない。他にも処分理由はあるさ」
理由?少し喰いつきぎみに文香が尋ねる。
「製作者側として危険な失敗作を回収するのは義務だろ」
「失敗を無かったことにしたいわけ?」
文香の顔には苛立ちが露わになっている。
「そういうことじゃない。要は──科学者のプライドだ」
「つまらない意地の間違いでしょ・・・!?」
良の語る理由を、文香は一蹴した。
「・・・それに、セイレーンは失敗作なんかじゃないわ・・・」
唇を噛んで、うつむく。
「なら文香はセイレーン創造がされて良かったとでも思ってるのか?」
「そんなわけないでしょう!?」
不意に響く大声。目を見開く良に、気まずそうに文香は言った。
「セイレーン創造が良いことだなんて口が裂けても言わないわ。・・・けど、ノティに会えたのは良いことよ。決してセイレーンは失敗作じゃない。無論、二度と創られてはいけないものだけれど・・・」
段々としどろもどろになる様を可笑しく感じたのか、良はくすりと笑った。そして、立ち上がると文香の傍まで歩いて、再び座る。
何も言わず、良は文香の目を見ていた。文香は彼の目に映った自分の顔が赤いことに気づく。
彼は文香の両肩に手をかけた。彼女が何かを言おうと口を開いた瞬間、その隙間に自らの口を重ねる。
情熱的で、むさぼるようなディープキスだった。文香は良に対する怒りや不可解さが一瞬のうちに溶けてしまうのを感じる。
──いつぶりだろうか・・・
甘い痺れの中で、文香の冷静な部分が接吻という行為を客観的に見ていた。
二人が今まで交わした中で、最も長い時間を費やしたキスだった。良は唇を彼女の口から離すと、婀娜っぽい様相の彼女を後ろから抱き締める。
良の手は彼女の首から鎖骨にかけてを這いずり、レディスーツの胸元から中へと侵入しようとしていた。彼女は既に全てを良にゆだね、されるがままの状態である。
その為、彼女がそれに気付くまでにかなりの時間差が生じた。
良は胸に入れた手を、彼女の乳房をまさぐることなくすぐに引っ込めた。と、彼は緩慢な動作でその手を彼女の側頭部に添える。
拳銃が握られていた。
恍惚からの転落。文香は心が瞬時に冷え切るのを感じた。悲しみをたたえた氷、などという程度のものではなく、まさしくドライアイスのような、ともすれば狂気に至りかねない危険な冷気が彼女の中に蔓延る。
驚愕の感情は僅かな時間しか抱かなかった。純粋な悲哀。女として裏切られた自分へ向けられる、自らによる哄笑。怒りすら湧かない。
「騙したの・・・?」
声が震える。答など既知だというのに、認めたくないがために改まって尋ねる自分が内心馬鹿馬鹿しく思えた。
良は薄く笑うと、
「文香から銃を奪うにはこれしかないと思ってな」
より一層、彼女は深い悲しみに沈む。良を迂闊に信頼し、体を預けた自分への嘆き。
「文香のことは好きだ。が、こっちもそれ以上に切羽詰まっているんだ」
申し訳なさそうな声は、単に体裁を保つためのものだろうか。
「撃つの?」
「返答次第ではやむを得ない。今から言う質問に答えてくれ」
文香は小さく首を縦に振る。
「まず、ウノビスがセイレーンを受け取るのは何日後だ?」
「8日後よ。あなたも知っているでしょう?」
自分や良の起こした騒動によって、日にちに変更があったかもしれないが、そこは彼女には分かりかねる。
「確認の為に聞いただけだ」
素っ気ない返答。
「次に、引き渡されるセイレーンは36匹だよな?」
これも確認のつもりだろう。文香は応えた。
「ええ、変わりないわ」
引き渡されるのは、数多いセイレーンから厳選された、健康面で良好な36匹である。クローン体であるセイレーンは、その技術の特性上、身体に何らかの障害を持って生まれてくることが多い。ノティは幸か不幸か、障害持ちでその36匹の中には選ばれなかった個体だ。健康なセイレーンは摂取したアンモニアの殆どを尿素に変えて体外に排出し、ごく一部を酸化させて硝酸化合物──水雷の爆薬成分にする。しかしノティに関しては、アンモニアを酸化させる量が他の個体と比較して異常なまでに多かったのだ。その為、留恵が目にしたようにノティの腹部は妊婦の如き膨らみをみせることとなった。
「梱包容器はもう届いたのか?」
良が言った。
梱包容器とは、セイレーンをウノビスへと輸送する際に個体を収納しておく水槽のことである。容器は各個体に一つ、計36個用意されており、内部には海水が満ちている。外見は木製の梱包資材風にカモフラージュされているが、実際は水温調節や水質維持の為に機器がふんだんに使われていた。と言っても、科学力に乏しいウノビスが作成したものなので、先端技術の類は全く使われていないが。
「届いたわ、あなたの爆破事件後間もなくしてね」
「いくつだ?」
「聞くまでもないじゃない。セイレーンは36人よ、36個に決まってるわ」
「・・・梱包容器以外に、何か届かなかったか」
これが最も問いたかったことか。文香は静かに深呼吸をする。
届いていない、と言おうとして、文香は口をつぐんだ。頭で否を唱える記憶の存在に気付いたのだ。
「届いていたかも・・・」
答えを聞くや否や、肩を掴む良の腕に一層力がこもる。
「どんなものか覚えているか・・・!?」
「届いてすぐに、地下室へと運ばれて行ったからほんの僅かしか見られなかったわ。・・・けれど、恐らくあれも梱包容器よ」
「本当か!?」
驚愕の声を漏らし、歯噛みする良。額に汗を浮かべながら、文香により強く銃口を押しつける。
「詳しく話せ・・・!」
「・・・材質は他の容器と同じ木だし、諸々の機器も同時に搬入されていたから間違いないわ。他のと違って分解された状態で運び込まれていたから、多分・・・組み立てたらサイズはセイレーン用の容器以上に大きくなると思う」
「それだけか・・・!?」
「後は・・・地下室への搬入には百野木が立ち会っていたわ。それに、梱包容器を運んでいたのも研究センターで高地位を占める人ばかりだった・・・」
記憶にあることをひとしきり話し終え、文香は良の方向へ目を向ける。そして、慄いた。
彼の表情は般若と見まごう程である。憤怒と業腹が、湯気のように立ち上っている錯覚すら覚えさせんばかりの勢いで尽きることなく彼の所作として現れる。
「畜生・・・遂に・・・!!」
全身に粟を生じさせる声で、良は低く呟く。
と、突然彼は文香の体を力いっぱい突き放した。彼女は抵抗するいとまもなく壁に叩きつけられる。頭をしたたかに打ち、眼前に数多の星が舞う。彼女は視界が揺らぐのを感じた。床に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中で彼女は再び、良の唸り声を耳にした。
「インドラ・・・!!」
いかに非日常的な事件に巻き込まれようとも、体内時計は正常に作動するようだ。私はコンテナの中で目を覚ました。ノティの経過を見ているうちに、何時の間にか寝てしまったらしい。
彼女は安らかに寝息を立てている。術後の健康状態も、一目見た感じでは良好そうだ。
立ちあがって、とりあえず文香さんと良のいるコンテナに行こうと思い、コンテナの外に出る。が、未だ日が昇っていないのを見て考え直した。
もう少し此処にいよう。良の元へ行って、万が一恋人同士ののそういう場面に遭遇してしまったら気まずいし・・・。
それから、空が明るくなるのを待って、私は二人の寝泊まりしている場所へ向かった。
と、コンテナの扉が開きっぱなしになっている。どうして、と不思議に思った瞬間、あっと息を呑んだ。
文香さんが倒れていた。たった一人、頭から血を流して。
「文香さん!?」
駆け寄って、膝に彼女の頭を乗せた。頬を軽くはたくと、うっすらと目を開いた。
「あれ・・・留恵ちゃん・・・?」
表情は呆けていて、視線は虚空を彷徨っている。と、頭の怪我に気付いたのか、やにわに後頭部に手をやり、うずくまった。
「何があったんですか!?」
私の問いに、彼女はゆっくりと口を開いた。口腔内も切れて血が出ている。
「良が・・・」
瞬間、神経を鷲掴みにされたようなショックが体を走った。
そんな──
「良がやったんですか・・・!?」
無言の頷き。彼女の目尻に涙がみるみるうちに溜まり、私の膝に伝う。
信じられない。
否、信じたくない。
まさか、良が女性に手をあげるような人間だなんて。
彼女の話が虚偽や思い込みであって欲しかった。しかし、コンテナ内に彼の姿はなく、一人残された文香さんがこの状態では、その可能性は限りなくゼロに近い。
良が、文香さんを──
「何故・・・?」
自然と口をついた言葉は擦れていた。
「わからないわ・・・」
彼女は絞り出すような小さな声で言う。
「銃で脅されて、それで質問された・・・。答えたら・・・そうしたら、突然憤って・・・私を・・・壁・・・に・・・」
後半が涙声になったかと思うと、彼女は嗚咽を始めた。私は唇を噛む。
彼をそうさせた何かが、質問に対する文香さんの回答であることは明白だ。なら、彼が暴力を振るうに至る程の回答とは?
良は、決して短気ではない。例え文香さんが良の逆鱗に触れるような回答をしたとしても、物理的なダメージで返すような短絡的な性格ではないはずだ。まして、相手は良の恋人なのだから。
暴力が文香さんへの怒りからきたものでなければ、もしくは八つあたりなのか。それこそ性質が悪い。
「インドラ・・・?」
一人思索に耽っていると、唐突に文香さんが呟いた。訝しむような、恐れているような声音で。
「何ですか、それ・・・?」
「良が呟いていたの・・・。遂に完成しやがった、って・・・」
インドラの完成?良はそれに憤って文香さんに危害を加えた・・・?
「詳しいことは私も知らないわ・・・。けれど、多分インドラは動物兵器・・・セイレーンのようなものだと思うの」
それから、文香さんは私にインドラについて知りうることを話してくれた。彼女いわく、研究センターの上層部が、地下実験室でセイレーン以外の何かをウノビスの為に創造しているという噂は知っていたものの、それ以外には何も分からず、創造されていたのがインドラと呼ばれる生物であることすら、昨日まで知りえなかったらしい。
「疑問なのは、何故良がインドラを知っていたのかなのよね・・・」
彼女の口ぶりからすると、良は研究センターでそれほど上位の役職だったわけでもなさそうである。
ふと、整然とした思考が脳に浮かぶ。
良は何故かインドラの存在を知っていて、その完成に激昂した。つまりインドラの存在を望んでいない、言い換えればインドラを処分したいと思っている・・・。
怒り方からして、殺欲はセイレーンの比ではないようだ。それこそ、直ぐにでも殺しに行きたいと思うほどの──
「良は──研究センターへ行ったんじゃ・・・!?」
文香さんの顔から見てとれるように血の気が失せた。
「そんな・・・嘘よ・・・。いくら彼でも、そんな直情的な真似──」
現実逃避のさなか、彼女は突然言葉を切る。口を茫然と半開きにしたまま、数秒間経過したかと思うと、突然立ち上がる。
「文香さん!?」
彼女は後頭部を右手で押さえて、蹌蹌踉踉とコンテナ外へ歩き出した。咄嗟に手を引いて彼女を止めると、小さく呻いてバランスを崩し、私の腕の中でくずおれる。
「無理したら駄目ですって!」
彼女は頭を抱えて、荒い息をしている。額には玉のように汗が浮かんでいた。
「引き渡しまでには後7日間あるから、良も多分、まだ研究センターには行ってないですよ」
私は必死で文香さんを諭す。
「きっと彼は十分準備をしてから研究センターへ来るから、あらかじめ私たちが付近に待ち伏せていれば・・・」
「駄目よ!そんな時間残っていないわ!」
私の言葉を遮るように、文香さんがヒステリックな声を重ねる。
「良は、私が告発する気がないことを知らない・・・!」
私は目を見開く。文香さんの言葉の意味を理解したのだ。
良は、私たちが今日告発に行くと思っている。そしてその場合、警察は私達の話を真実と認めるや否や、研究センターへと捜査に向かうだろう。そして、研究員は逮捕されるものの、セイレーンとインドラは捕縛され、公的機関によって管理される──つまり、セイレーンらが生かされるという、彼の最も望まない結果となってしまう。
だから・・・彼はセイレーンらを殺す──警察の捜査が入る前に!
喘ぐように、目を見開いた彼女は叫んだ。
「彼は、既に研究センターへと向かっているわ・・・!」