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夢を見ている。睡眠の最中に私はそう思った。

─こういうのを、明晰夢と言うんだっけ。



夢の中の私の眼前には、水面が広がっていた。そこが海であるのか、川であるのかすら定かでない。

夢の中は深夜だった。夢の中の私はしゃがみ、そっと水に手の先をつけ、水を掌にすくってみた。

凪いだ水面に、自らの掌から水滴がこぼれる音が響く。濃紺の水面に数多の波紋が広がる。

そして、その音に呼応したかのように、一際大きな水音がした。夢の中の私は驚いて顔を上げる。

濃紺の水滴を髪から滴らせて、褐色の女性が顔を出した。私を見て、桃色の唇から潔白の前歯をのぞかせる。

首から上だけを水中から出したまま、彼女は顔をほころばせて私の元へと寄ってきた。

柔らかそうな唇が動く。夢の中の私はその言葉を耳にして、微笑を浮かべる。これが夢だと認識している私自身も、非日常の予感に胸の高鳴りを感じていた。

夢の中の私は陸から、彼女に手を差し伸べる。彼女は目を細めて、私の手を握りしめた─



私─高崎留恵は激しい揺れで目を覚ました。随分長い間眠っていたらしく、意識は未だぼんやりとしている。

私はタクシーに乗っていた。車内には煙草の臭いがこびりついており、窓ガラスはうっすらと水垢が付いているせいで白く汚れている。

何気なく窓から景色を見ると、懐かしさに胸が踊った。その瞬間に私の眠気は彼方まで飛んでいく。

目の前を木々が流れていく。タクシーは舗装も中途半端な山中の悪路を走っていた。道理で揺れが激しいはずだ。何故だか笑いがこみあげてきた。

目の前を流れる木々の、更に奥に目をやると、茂る深緑の葉の隙間から海が見えた。夏の到来を感じさせる強烈な日光が海を照らしている。車を降りたら日焼け止めを塗りなおしておいた方がいいかもしれない。

私は夏休みを利用して、実家のある瑞音町へと帰郷している最中だ。

高校卒業の後に進学の為上京し、大都会で3年間一人暮らしをしていた私にとっては、懐かしの景色も同時に新鮮に映る。数時間前まで自分の周りにそびえるものは灰色のビルの群だった。それが今では濃淡様々の緑葉に代わっているのだ。興奮を覚えずにはいられない。

唐突に窓外の木々が消え、眼下一面に瑞音町が映る。思わず感嘆の声をあげた。

3年ぶりの故郷は、以前と何も変わっていないように見える。家の数はとても少なく、ビルと呼ばれる類の建造物は一つたりとも見当たらない。漁港の水揚げ場が最もそれに近いだろう。

すっかり東京に馴染んでいたせいか、どうやら私は無意識のうちに故郷のイメージを過疎化した寂寞なものに書き換えてしまっていたようだ。

だが、実際はそうではないことを実感した。都会の様な人間の活気には乏しいが、ここにはそれを補ってありあまる程の自然の活気があるのだ。都会の人混みの中いるとそんなことも忘れてしまうらしい。

この景色をもう少しだけ見ていたい。一瞬にして流れていくには勿体なさ過ぎる程の光景だ。

「すいません、やっぱりここで降ろしてもらえますか」

私は運転席のドライバーに声をかける。ドライバーはカーナビを見て心配そうな声を出した。

「目的地まであと12キロもありますよ。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。ここから実家までは歩いて行きたくなったんで」

これでも、高校時代は片道5キロある通学路を毎日歩いていたのだから、大丈夫だろう。

私の返事を聞いて、ドライバーは豪快に笑う。そして車をその場に止めてくれた。

タクシーを降りて、私は一人、山から瑞音町を見下ろした。水垢の付いた窓ガラス越しに見ていた風景は、ガラス一枚無くなるだけで驚くべき鮮やかさをもたらした。クーラーの効いていない車外は茹だるような暑さだったが、今の私にはそれがこの上なく気持ち良かった。水平線を凝視し、大きく伸びをする。

─ゆっくりと、この景色を眺めながら家へ帰ろう。

夏の昼下がり、私は陽光降り注ぐ故郷の山道をはつらつと歩きだした。


たかだか12キロだ、と高をくくったのが間違いだった。私は自らの判断ミスを悔やんだ。

3年間の都会生活は私に機械による移動をすっかり習慣づけさせたらしく、結果筋力や体力といった類のものを著しく低下させていた。山道を歩いて30分くらいしてその事に気が付いたのだが、時すでに遅しだ。タクシーは来た道を逆走して既に遥か彼方である。山中で拾えるタクシーなどある筈もなく、結局私は歩いて山を下りた。疲弊しきって町に出たのは日が落ちた後のことだった。

変色したアスファルトの道路は所々ひび割れている。街灯が殆ど見当たらず、視界が悪いその道を歩いていると時々割れ目に足を取られる。その都度私は道路の補修工事をしない瑞音町役場に対して心の中で悪態をついた。が、しばらくすると、そもそも一時の高揚感に身を任せてタクシーを降りた自分自身が悪い、という考えに落ち着いて最終的には自分自身の無計画さに呆れるのだった。

タクシーを降りて間もない時にテンションがハイになっていたせいで、日焼け止めを塗り直すことも忘れていた。

歩きだして30分後、疲れて路傍に座りこんだ時にその事に気付き、急いで肌に塗りたくったのだが、肌にはきっちりと半時間分の紫外線が刻まれてしまっていた。その上山道を歩くというのに私は虫よけスプレーを持参してこなかったのだから、蚊の猛襲は最早必至である。今現在、半袖ワンピースから露出した四肢と首筋がどのような状態にあるのかは言わずもがなだ。

月も無く、墨汁を溶かしたような暗闇の中で、私は人一人見当たらない廃れた道路を歩いていた。暗くて足元すら見えなかったが、行くべき方向は分かっていた。実家の明りが見えるのだ。

私はその光だけを頼りに、先程から体中を掻きむしりながら棒になった足を前へ前へと運んでいた。その筈なのに、一向に実家には着かない。光が見えてからかれこれ10分は歩いているのではないだろうか。は益々途中下車という選択をした自分を情けなく思う。気分は蜃気楼に映った幻影のオアシスに向かって歩き続ける砂漠の遭難者だ。

砂漠よろしく私が歩いている道には風一つ吹かず、ワンピースは汗で濡れている。そもそも、何故自然の地に来るときにワンピースなどという大方アウトドアに相応しくない格好なのだろう。

考えれば考えるほど、自分の「都会ボケ」を痛感してやるせなくなるので、私は無心に歩いていくことに決めた。


その時、私は背後からエンジン音が近づいてくるのに気付いた。振り返った瞬間、強烈なライトの光に顔を照らされる。

エンジン音の正体は派手な排気音を立てて私の横に止まった。

「おっ、やっぱり留恵じゃないか!」

男性のはずんだ声が聞こえてくる。その顔を見た途端、嬉しさのあまり私もつい声を弾ませた。

「良!久しぶりじゃない!」

ブルーメタリックのスクーターに乗っているのは、幼馴染である清水良だ。海や山には場違いな白衣をまとっている。

「確か3年ぶりか?合わないうちに、お前オシャレになったなー。さすが東京だな」

良は私の着ている半袖ワンピースを褒めてくれた。大量の蚊に吸血される為、留恵は明らかな服装選択ミスだと思っていたが、良の褒め言葉を受け取れたのだから、完全なるミスでもなかったようだ。

「良こそ、白衣が随分に合うようになったじゃない」

私の言葉に良は照れ臭そうに笑う。

「でも、あんたもオシャレに気を配った方がいいわよ。万年白衣なんてみすぼらしいし」

「白衣の下はポロシャツだから、脱いだら蚊に刺されるんだよ。オシャレの為とはいえ、お前みたく蚊に刺されるのは御免だしな」

軽くからかった私は、良からのカウンターをまともに食らった。

三年間互いに離れた土地で暮らしていたが、そのくらいで友好関係に溝が生じることは無いのだろう。私は久しぶりに再会した幼馴染に以前と変わらぬ態度でいられたことを嬉しく思った。

家まで行く途中だと言うと、良はスクーターに乗せてやると言った。私はその言葉に甘えてスクーターの後ろにまたがった。


「あんた、生臭くない?」

私はスクーターの後ろで揺られながら言った。

「うるせー。仕事柄しょうがないだろ」

前を向いたまま良がむきになって反駁する。

「仕事って、あんた瑞音漁港で水揚げでもしてるの?なんで科学者から魚の匂いがするのよ」

「魚を研究してるからに決まってんだろ・・・。お前、オレの勤務先を何処だと思ってるんだよ」

呆れたような声で言われ、合点がいった。良は瑞音海洋資源・生物研究センターに研究員として勤務しているのだ。

「口外厳禁だから内容は口が裂けても言えねーけど、要は『魚類を扱った何かの研究』をしてるってことだよ。」

「なるほど。あんた、昔から理科が大好きだったもんねえ」

まあな、と良が笑う。

良とは高校も同じだったのだが、文系はさておき、理数系にかけては他生徒の追随を許さないほどの高成績ぶりだった為、教師も含めた全員が、良は必ずや何処か優秀な大学に行くだろうと思っていたに違いない。だから、高校三年生の時に彼の進路希望が、学年でも数人しかいない「就職」だった時にはちょっとした騒ぎになったものだった。

そもそも、過疎化しているこの町では高卒で働ける場所など無いに等しかったのだ。おそらく町一番の企業であったであろう瑞音漁港も、私が高3の時には財政難の為に廃業が決定していた。

3年生の時、学校中に広まった噂によると、良が提出した進路希望表を見るなり、クラスの担任はすっとんきょうな声を上げて良に問いただしたらしい。だが良は、平然と自らの希望を主張し、担任を狼狽させたとのことだった。

その日のうちに良の進路については全校の生徒及び職員が知ることとなり、その意外な進路にだれしもが豆鉄砲を食らった鳩の様な顔をしたのだった。ただ、私の場合はその日以前に良自身から彼の進路は聞かされていたので驚きはしなかったが。

その後、噂では担任はおろか校長までもが連日清水家を訪問して良と彼の両親に進学を勧め、挙句の果てには担任、校長、そして厳格で有名な学年主任までもが床に手をついてまでして彼に進学を頼みこんだという。無論、ただの噂話なので、私はその「三教師土下座伝説」に関しては信じていなかったが。

結局良は就職という進路を選んだのだが、その後、私達が高校を卒業し、私が上京する時になって、良は私にだけその真相を教えてくれた。

彼は、瑞音町の山中にある瑞音海洋生物・資源研究センターの研究員として、高校卒業後すぐに働き始めた。

彼曰く、高2の冬に、自宅へ研究センターから就職のスカウトが来たらしい。私が、何故高校を通じてではなく、直接清水家へスカウトをしたのだろうと聞くと、良は、研究センター側が、自分たちの情報を部外者である学校関係者に知らせるのを嫌がったからだろうと言った。

つまり、研究センターは良の高成績の噂を聞きつけて良を秘密裏にスカウトし、彼も自らが最も望む職からのスカウトを快諾したということだ。

学校にすら知らされなかったことを私が知ってもいいのかと尋ねると、彼は人差し指を自らの口に当てた後、幼馴染が上京する餞別話だと耳打ちして悪そうな笑みを浮かべた。

その日の別れ際、彼に「三教師土下座伝説」の真相について尋ねると、彼は腹を抱えて笑った。それを見て、やはり尾ひれの付いた噂話だったかと、私も一緒になって笑った。教師にもプライドがあるし、やっぱり土下座なんてしないわよね、と笑いを我慢して良に言うと、彼は一言、「いや、教頭もしてたぞ」と言い放ったのだった。



「で、具体的にはどんな研究をしてるの?」

教師四人に土下座をさせるほどの成績を持つ良が、一体何の研究をしているのか、私は知りたくてたまらなかった。

「そこまで言ったらオレはいよいよ首だわ。絶対教えられねー」

「ケチ」

私がむくれた声を出すと、良は諭すように言った。

「そもそも、オレの職を知ってるってだけでもお前は特別なんだぞ」

「まあ・・・そうだけれど」

言われてみればその通りかもしれない。

「・・・確かに、私も良に教えられる以前は、あのゲートの先に研究センターがあるってことすら知らなかったのよね」

瑞音町の山奥には、研究センターに繋がるゲートがあるが、ゲートの横には小さな警備員室があり、またその周辺には有刺鉄線の金網がクモの巣のように張り巡らされていて、その先に侵入できないようになっている。その上ゲートの先には森が広がっており、木々がその先にあるものを隠しているので、私を除いた町民の誰一人、ゲートの先にあるのが何かを知らないのだ。

「それ以前に、無関係者ではお前以外、瑞音町に研究センターが存在することすら知らねーだろうよ」

ゲートの先にあるものが何か、おそらく町民の誰も知りえなかったし、興味を示さないだろう。

「それに、研究センターだってただのグレーの建物だから、パッと見ただけじゃそこが研究センターだってわからないだろうしね」

私が笑って同調すると、良は目を丸くした。

「何でお前がそんなこと知っているんだ?」

「え?何でだろ。なんとなくそんな感じがしたというか・・・」

「勝手に侵入したんじゃないだろうな」

冗談混じりの声で責められる。

「まさか。まあ、私なら警備員を誘惑してゲートを開けさすことは楽勝だろうけど─」

良は小さく吹き出したっきり、返事をしない。無言に否定を感じた私は、思いっきり良の背中を殴った。


良と話しているうちもスクーターは走り続け、いつの間にか我が家に到着していた。

私の実家は築40年の、老朽化した家だが、そのボロさもまた私には懐かしい。窓からは室内の明りが漏れ出している為、辺り一面の闇と対照的に我が家の周りだけが明るく、外装の細部まではっきりと見える。壁に、チョークで書いた、イルカの様な動物を棒人間が抱きかかえている落書きが残っていた。私が昔書いたものだろうか。

良のスクーターを降り、お礼を言って、私は小走りで玄関まで行った。そして次の瞬間、硬直した。

「おかえり」

母が無表情に等しい形相で仁王立ちをしていた。室内の明りが母の背中を照らし、私の側へ長い影を作りだしている。

「ただいま・・・」

「今何時だと思う?」

母は私が辛うじて聞き取れる程度の、囁くような声で唐突に問いかける。

「じ、11時です・・・夜の・・・」

「私の耳が狂っていなければ、あなたは遅くても6時には此処へ着くと言っていたわ。そこで私は愛娘の帰郷を今や遅しと待ちわびて、腕によりをかけて夕食を作りました。」

─ああ、実家では家族が待っていたんだった・・・

今日幾度となく私を襲った、タクシー途中下車の後悔を、今までで一番痛烈に感じる。下車するとしても、何故家へ電話の一本も入れなかったのだろう。

「ごめんなさい・・・」

私は深々と頭を下げた。だが、それでも母の怒りは収まらないのか、無機質な弱音アルトボイスのねちっこい責めは続く。

「夕食はとうに冷めたわ。お父さんはあなたの帰りが余りにも遅いので、何度もあなたの携帯に電話をしました。だというのに、あなたは一度も電話に出なかった」

慌ててカバンの中から携帯電話を出して開くと、7件の着信履歴が画面に表示されていた。同様に、画面右上にはサイレントマナーモードのマークが表示されている。

「とりあえず、中に入りなさい。言い訳はご飯を食べながら聞かせてもらいましょう」

冷めきったご飯をね、と付け加えて、母は踵を返して家に入って行った。

帰郷して間もないとまもないというのに、私は猛烈に東京へ帰りたくなった。


玄関扉をくぐった瞬間、湿っぽい木の香りが鼻腔を満たした。私は靴を脱いで、下駄箱に仕舞う。

下駄箱の上には、なぜか短針が6を指したままのアナログ時計と、招き猫が、三年前と全く変わらぬポジションに鎮座している。招き猫の頭頂部には埃が積もっており、それは私に恒久的な物侘しさと、不変への喜びを同時に抱かせた。

思わず感傷的な気分に浸っていると、甲高い母の怒号が不意に私の鼓膜を震わせたので、早足で食卓へと向かった。

食卓では、父が卓袱台の傍で缶ビールを煽りながら、ナイター中継に夢中になっていた。私がただいまと声をかけても、父はなおざりに呻くだけで、顔をこちらへ向けようともしない。

卓袱台の上には3膳、魚料理が並んでいたが、父のそれはもう完食された後の様だ。

──久方ぶりに会う実娘よか、野球が大事か。

携帯電話に入っている、幾多もの着信履歴と、眼前ですっかり出来あがっている父の様子とが、どれだけ奮励してもリンクしない。そもそも、母みたく怒っていたにせよ、娘の帰りが遅いことを心配していたにせよ、あれだけ電話をかける位なのだから、普通は母と一緒に玄関先まで出てくるだろうに。

業を煮やした私は、テレビの前まで行って、主電源を落とす。情けない悲鳴を上げて父がリモコンの電源ボタンを押すが、主電源を切った以上、遠隔操作ではテレビはつかない。

立ちあがって、主電源をつけるべくテレビのもとまで来た父の前に私は立ち、改めて言った。

「ただいま」

「だから、さっきからおかえりって言ってるじゃろ?」

今にも地団太を踏みかねないほど焦燥した様子で、父は喚く。

「呻き声しか聞いていないし、そもそもおかえりと言いさえすれば良い訳ないでしょう!?」

「構って欲しいなら母さんの方へ行ってくれ。試合が終わるまでは─」

「あれだけ電話を入れておいて、なんで今や無関心なのよ?」

間髪いれずに私が言うと、突然父は呆けた顔に豹変した。ガシガシと毛のない頭を掻いて、不思議そうにつぶやく。

「お前に電話したのは母さんじゃなかったかの・・・・」

「私じゃありません!」

湯呑を三つ運んできた母が、噛みつくように言った。それを見て合点がいったのか、父はいがらっぽい笑い声を

上げた。

「とぼけんでもええじゃろう。あれだけ怒った手前、母さんも実は留恵のことを心配していたとは言いづらかったん

じゃろ?」

「知った口聞かないでください!そんな、心配なんて─」

「娘が11時を過ぎても帰ってこないのに、心配しない方が異常じゃろう。もしや、母さんは留恵のことを心配していなかったのか?」

なぶるように意地悪く責め立てる父は真正のサディストに違いない。

一方言葉に詰まって、顔を朱く染めている母は、先程の激昂ぶりとのギャップが激しすぎて、爆笑に値する。

と、父の言葉に反論できないことを悟ったのか、母はすぐさま矛先を私に向けた。要は八つ当たりである。

「大体、アンタの帰りが遅いから悪いんでしょう!?昔からアンタは向こう見ずなのよ!」

最早、その怒声に先程のような気迫は微塵たりともない。それどころか、大してサドではない私の加虐心までもをくすぐる始末だ。

「例えば、どんなことがあったっけ?」

尋ねながら、自分の顔が緩んでいるのが分かる。先程怒られた分の報復はしっかりと果たさせてもらおう。

再び母は口ごもる。今現在、母は脳内で必死に、過去に娘が起こした『向こう見ずな行動』をサーチしているに違いない。

「ほ、ほら、小学生の時だったか、山へ遊びに出掛けたまま、一晩中帰って来なかったことがあったじゃないの!

さもしてやったりといった声音で言い放つ母の様子はこれまた笑えたが、母が言ったことは確かに私の『向こう見ずな行動』のいかにもな例だ。今度は私が返す言葉に詰まる。

その時ふと、疑問が浮かんだ。

─どうして、私は一晩中帰ってこなかったのだろう。

「どれだけ心配したか分かってた?あの時は学校はおろか、警察にまで電話して捜索してもらったのよ?

鼻息荒く、どうだと言わんばかりに自信たっぷりの面持ちで母は私に指を突きつける。だが私は、母に言い返す言葉より、頭に浮かんだ疑問について考えていた一晩中帰ってこなかったことは事実だ。だが、その事以外何も覚えていない。理由はおろか、その夜私が何処にいたのかすら覚えていないなんて・・・・

母は更に追い打ちをかける。

「帰ってこなかった理由を聞いても、お墓を作ってた、とか、神様が守ってくれるから、とか、訳のわからないことばかりを言ってたわねえ。」

それを聞いた時、一瞬にして、断片的な記憶がスライドの様にフラッシュバックした。

─生臭い匂い。注連縄の巻かれた大木。漆黒の水面。そして何故か、家の壁の落書き。

「お母さん、私って、その時何処で発見されたんだっけ?」

今や調子に乗って、機関銃の如く捲し立てる母の言葉を遮って質問する。

「ここから4キロも先の、御蔭山の神社よ。境内の下で泥まみれで寝てたから、本当に驚いたわよ」

御蔭山。私がタクシーを降りた場所だ。

母の言うことを要約すると、私は夜中に神社でお墓を掘っていたということになる。しかも、記憶が正しければ、私が埋めたのは魚だ。けど、唯の魚を埋めるために一晩を掛けるだろうか。ペットとして水生生物を飼っていた記憶もない。それに、同時に浮かんだあの落書き。あれは何なのだろうか。

私が思考にふけっているのを、母は私が何も言い返せずにいると思ったらしい。

勝利の優越感に浸っているのか、鼻を鳴らしたあと、母は夕食にしましょうと言った。


私の両親は六十路を越えているが、二人とも漁師として、毎日海へ出て魚を獲っている。

瑞音漁港が倒産した時点で職を失ったと思ったのだが、存外ニーズはあったらしく、二人の生計を立て、私の大学生活をある程度支援してくれるだけの賃金も得ているようだ。

その日も朝早くから漁に出掛けたようで、私が8時ごろに目覚めると、既に二人とも家にいなかった。だが食卓の卓袱台には、私の分の朝食がきちんと配膳されており、置き手紙までもが残されている。

チラシの裏に書かれた手紙には、夕食時までには帰ってくる旨や、昼食は自分で作れとの指示が書かれていた。

とりあえず朝食を食べ、食器を洗う。今から何をしようか、という、妙に期待感を感じる退屈さに頭を悩ませて、結果少し遠くへ散歩へ行くことにした。

台所でおにぎりを三つ作り、母から無断拝借した、黒ウサギが描かれたパン企業のトートバックに入れる。その他、虫よけスプレーや日焼け止めなど、前日の反省も余すところなく補う。迷った末、携帯電話は家に置いていくことにした。都会と違い、過疎が凄まじいこの町では、万が一携帯電話を落とした場合、拾われる確率が非常に少ないだろう。

次いで着替えることにしたのだが、これには少々手間取った。なにせ持って来たキャリーケースには、アウトドアに不向きな服ばかりが詰め込まれているのだ。さんざん悩んだ挙句、最も虫の猛攻を避けられるダメージジーンズと、汚れても構わない、一番安物のシャツに身を包んだ。ついでに、キャリーケースからデジタルカメラの入ったポーチを出して、カラビナをジーンズのベルトループに引っかける。日焼け止めクリームと、家にあった虫よけスプレーで、露出した両腕と首筋、顔をプロテクトして、私は家を出た。

家の裏で自転車を借用し、跨った。その時点で、初めて目的地を決めていないことに気付く。だが、あてどなく、町を走るのも良いかもしれないと思い、先ずは浜にでも行こうと決めた。

その矢先、脳裏に昨晩の疑問が蘇る。

御蔭山で私が一晩、何の為のお墓を掘っていたのか。長時間を掛けて土を掘らせる気力は何によって起こされたのか。

海も見たいが、それ以上に御蔭山の神社へ行ってみたい。私は自転車を逆方向へ向けて、ペダルを踏んだ。

それから半時ほど経った後、私は昨日通った御蔭山の登山口に着いた。ここから先の山道は勾配が急で、自転車で進むことは不可能なようだ。幸い、瑞音町の閑散ぶりでは自転車盗難の心配もなさそうなので、登山口の脇に自転車を停めて、私は山道を歩きだした。

それから、再び半時経った頃、道が二又に分かれているのに気づいた。一瞬、どちらが神社へ繋がっているのか迷ったが、前日に通った道中には神社など無かったことに気付き、前日通ってこなかった方の道を選んで進んで行く。

その後暫く歩くと、突然視界が開けた。道の両端には苔の生えた狛犬がある。さらにその奥には、傾いだ建物─おおよそ廃墟にしか見えないが、恐らく本堂だろう─がひっそりと佇んでいる。狛犬の裏側に転がっている、朱色の丸太は鳥居のなれの果てだろうか。大層に丹塗りされていたであろう表面はその半分以上が剥がれ、ベージュ色の中身が剥き出しで土にまみれている。全体の印象は暗く、鬱蒼とした木々が、今にも神社を呑みこまんばかりの勢いで枝を伸ばしていた。

私はなるべく雑草の生えていない場所を選んで本堂に進む。そっと扉をノックしてみたが、想定通り人の気配は無い。

再び、何をするともなく狛犬の前まで戻り、神社全体を見渡す。このまま、廃墟のような景観を楽しんでいるのもいいが、それは有意義な過ごし方では無いだろう。それに、何もない神社というのにはすぐに飽きがきた。そもそも、此処へ来たのは純粋な疑問からだが、別にそれを思い出すことが必須な訳でもない。のんびりと久しぶりの故郷を満喫して、ついでに思いがけない記憶と巡り合って、それに浸れたら幸せ、程度にしか考えていないのだから、もう移動してもいいのではないだろうか。

そう思って、踵を返した瞬間、視界の端に真っ黒い立て看板が入った。何かしらの金属で作られたであろうその看板は、泥や水垢で汚れてはいるものの、なお頑丈な様子で地面に立っている。

よく見ると、看板が立っている背後の木には注連縄のようなものが巻かれていた。他の木に紛れて気がつかなかったが、その木は他と比べて二回りほど大きいようだ。

その時、私の脳内で、昨晩浮かんだ記憶のスライドのうちの一つ、「注連縄の巻かれた木」が目の前の大木に重なった。何か思い出せるかもしれない。僅かに胸を弾ませて、看板へと歩み寄る。

看板には、白い筆フォントで何かが書かれているようだったが、こびり付いた泥のせいで読むことができない。私は爪で泥をひっかき、削った。


~御蔭大杉~

延暦4年、右栗錚継によって皇族の殺害が企てられ、右栗錚継の乱が起こされる。

戦いは数週間にも及ぶも、胡郡天皇率いる軍勢との圧倒的な兵力差により、右栗軍勢は次々と討ち取られ、僅かに残った右栗軍勢は撤退を余儀なくされる。

負傷し、今にも力尽きんばかりの右栗は此処御蔭山で、山神に出会ったとされる。

その際、彼は山神に対して、山道で死した者と、後に死にゆくであろう自らの安楽を願った。山神が願いを聞き届けた後に、右栗は御蔭大杉の根元で死んだ。

山神は御蔭大杉に宿り、その後、御蔭山での死には安楽がもたらされるようになったという。


読み終えて、ふと思う。

──山神がこの杉に宿っているのならば、御蔭大杉の根元で死ぬことで最も安楽を得られるのだろうか。

頭に浮かんだ馬鹿馬鹿しい考えを一蹴する。我ながら心配性な考え方だ。御蔭山の中での死ならば、杉からの遠近に関わらず、山神によって安楽がもたらされると書いてあるではないか。

と、その時、自身の記憶の中で、全く同じ思考が再生された。

──私は、以前にも同じ考えを抱いたことがある・・・

記憶の中で、昔の私は、全く同じようにこの看板を読み、杉の根元が最も死者にとって安楽だと考えた。

デジャヴだろうか。そう考えた瞬間、更なる記憶が蘇る。

──私は・・・此処に何かを埋めた・・・?

その考えが、私がお墓を作っていた、という母の言葉と結び付くのに、そう時間はかからなかった。


 点同士が繋がって、線となる感覚が脳内で膨らむ。断片的だった記憶が次々にリンクしていき、少しずつ鮮明さを取り戻していった。

 次に浮かび上がった記憶は、壁の落書きだった。イルカの様な生物が棒人間に抱かれた絵。この生物こそ、私が弔った対象ではないか。生臭さを感じた記憶もあるので、少なくとも水生生物だろう。それなら、あの棒人間は私だということになる。

 それが具体的にどんな生物か、何故死んだのかは依然として分からない。思い出せそうで思い出せないじれったさに歯噛みしていると、唐突に、水生生物とは無関係な映像が脳内再生された。

──漆黒の水面が広がっている。私はしゃがみ、そっと水に手の先をつけ、水を掌にすくう。凪いだ水面に、自らの掌から水滴がこぼれる音が響く。濃紺の水面に数多の波紋が広がる。

そして、一際大きな水音がする。 濃紺の水滴を髪から滴らせて、褐色の女性が顔を出す。私を見て、桃色の唇から潔白の前歯をのぞかせる。首から上だけを水中から出したまま、彼女は顔をほころばせて私の元へと寄ってくる。

彼女の柔らかそうな唇が動く──

他のどれよりも、細密で、鮮明な記憶だった。妄想の類とは思えないほどの現実味を孕んだその映像は、これも例に漏れず、他の記憶とリンクした。刹那、戦慄が走る。

──私は、私は人間を弔っていた・・・!?

 かぶりを振って、自分の思考を完全否定する。埋めたのは水生生物だと、今しがた判断したばかりではないか。

だがしかし、考えてみると、壁の絵の記憶は過去の事実を確定させる程の物ではない。壁に水生生物が描かれているからといって、私が弔ったものが水生生物であるという確証は何処にも無いのだ。同様に、そのことはたった今の映像に関しても言えるのだが。

かたや人間を、かたや水生生物を弔ったという記憶。どちらが現実的かを考えた時、答えは明白である。

──恐らく、記憶には無いけれど、昔飼っていたペットを埋めたのだろう。

そう結論づけ、今度こそ、私は踵を返して神社を去ろうとした。だが、どうにも、心のわだかまりは消えない。私は足を止める。

弔ったのが水生生物だとすると、今の映像に現れた褐色の人間女性は何処で関係しているのか。

漠然とした記憶では無く、鮮明なムービーとして脳内に映った以上、それが妄想の類だとは思えない。

本当に、埋めたのは水生生物なのか。頭では分かっていても、その目で確かめなければ納得がいかないような、頑固な意志が私の中でくすぶる。

貴重な休暇を裂いてまで、無意義な穴掘りに身を費やすことに、僅かに躊躇するも、私は発掘道具を探すことにした。

地面を見渡すと、雑草の隙間から数本の木札が見えた。近づいて、その辺りは土の色が違うことに気付く。恐らくは中途半端にお焚きあげされたものだろう。私は木札を手に取ってみる。握りにくさは否めないが、これなら土を掘れるだろう。神具を穴掘りに用いることに、若干の背徳心を感じたが、あえて無視した。

御蔭大杉の正面付近を、勘で掘り始める。土は腐葉土であり、踏み固められてもいない為、思っていたよりはスムーズに進められた。

小学生の頃作ったお墓なので、そこまで深さがあるとは思えない。私は50センチ掘るごとに場所を変える。

三つ目の穴を掘っていた時だろうか。不意に木札が何かに当たった。私は木札を置いて、指で土を掘る。

白々とした物が見えた。その周囲の土を掘って、それを両手で引き上げる。

目にした瞬間、強烈な痺れが脳の中心から全身に広がった。

私が両手で掴んでいるそれは、白骨と化した頭蓋だった。肉の一片すら地中で分解されて残っておらず、全体的に白磁器を彷彿とさせる色をしている。眼窩はぽっかりと空いており、奥には腐葉土が詰まっていた。

思わず悲鳴を上げて、頭蓋骨を投げ捨てる。

──何なの・・・これ・・・・!?

キャパシティを越える出来事のせいか、動揺してはいるのだが、どこか冷静に物事を考えている私もいる。

──お墓を作ったのは事実だ。そして、掘り起こされたのは人骨・・・。これは私が人間を弔ったことを意味する・・・

泰然自若に考えを重ねるうちに、益々恐怖心は増すのだが、思考は止まらない。

──でも、どうして当時の私は、大人に何も言わずに人を埋めたのだろう。いくら子供とは言え、人が由緒正しい墓地で弔われなくてはいけないことくらい知っていた筈だろうに。

もう一度、恐々と頭蓋骨を見やる。顔部分がこちらを向いており、思わず私は身震いした。空洞のはずの眼窩から、ぬらぬらと光る眼球が私を射すくめているような、身の毛がよだつ錯覚に襲われる。職業柄グロテスクには慣れているが、パニックと恐怖で思わず目をそむけてしまう。

その瞬間、ふと骸骨の違和感に気付いた。

──頭蓋にしては、サイズが小さすぎるのではないだろうか・・・

正視したくなかったが、頭蓋が人間の物でないと証明できれば随分気が楽になる、と心に強く言い聞かせ、私は再びしゃれこうべを凝視した。

よく観察すると、サイズが小さいだけでなく、骨格も奇妙なものだと分かった。通常、人間は上顎骨と下顎骨が出っ張っている為に、正面から頭蓋骨を見ると楕円形をしているように感じられる。それに対して、今目の前にある頭蓋は、正面から見たときの形がかなり円に近い。顎骨が突き出ておらず、全体像も綺麗な球体のようだ。

今まで医療用模型や本物の、いくつもの頭蓋骨を目にしてきたが、明らかにこれは特異な形だ。おおよそ人間のものとは思えない。

そう感じた途端、相当な安堵に溜息が洩れる。

だが、だとすると何の骨か。

恐怖は遠のいた為、私はしゃれこうべを手にとって観察することができた。だが、頭蓋を見るだけでは皆目見当がつかない。

頭蓋骨以外にも、骨は埋まっているに違いない。私は再び木札を手に取り、腐葉土を掘り始めた。


数分後、再び私は驚愕することとなった。

目の前には、掘り起こされた亡骸の骨格が横たわっている。全体の大きさは130㎝程だろうか。上半身に関しては、頭蓋骨以外は人間の骨格となんら変わりが無かった。

ところが、下半身の骨が人間の物ではないことは一目瞭然だった。骨盤や足は存在せず、背骨がそのまま下半身に延長している。背骨の周りには細い骨が規則正しい配列で並んでいた。下半身に限っては、いつか遊びに行った水族館で見た、イルカの骨格標本のようだ。

私は異質すぎる白骨死体を目の当たりにし、頭蓋を掘りだした時以上の緊張を感じていた。先程の様な恐怖は感じられないが、代わりに骸のインパクトに呑みこまれ、訳の分からない動悸の強さに襲われる。

上半身は人間の骨で下半身は水生生物の骨。頭の中でこの言葉を反復する。この生物は何なのか、私は何処でこの生物に出会ったのかを思い出そうと、必死に記憶を手繰り寄せる。

ふと、閃きを感じた。

刹那、穴抜けになっていた記憶の全てが頭に湧き上がってくる。この死体の正体から、私がそれに出会い、弔った経緯まで、細部にわたって余すところなく思いだした。

──これは・・・人魚だ・・・。


当時小学四年生だった私は、その日、学校の遠足で御蔭山の登山をしていた。と言っても、午後三時には学校へ戻るというスケジュールのうえ、移動は全て徒歩なので、山の六合目にある見晴らし広場まで行った後に下山するという程度のものだが。

前日は日がな一日雨が降り続いており、その日の遠足が決行されるか不安だったが、その懸念は杞憂に終わった。昨夜まで空に覆い被さっていた灰色雲は跡かたもなく消え失せ、代わりに白藍色の晴れ渡った空が瑞音町を包んでいた。遮るものなく降り注ぎ、地面の水たまりを煌めかせる太陽光が、梅雨の終わりを大々的に誇示している。

私を含む四年一組の生徒は、列をなして学校を出発し、嬉々としながら1キロ先の御蔭山の登山口を目指した。私は同じ班の良や美優ちゃんとこっそり飴玉を口に含み、話しながら歩いていた。先生はゴミのポイ捨てを恐れて、生徒に道中お菓子を食べてはならないと釘を刺していたが、飴程度なら口に入れてしまえばバレやしまい。勿論、包装紙は道端に捨てず、ナップサックに入れた。

会話に夢中になっていて、気がつくと山道に入っていた。上方がみずみずしい葉や梢に覆われ、陽光の激しさが多少やわらぐ。木漏れ日が点々と地面に射していた。

勾配が急になったこともあってか、生徒間の口数は時間の経過に反比例して減っていった。私達の班も、入山後しばらくは会話が続いていたが、30分も歩くうちに皆沈黙した。

黙々と湿っぽい地面を歩く。地面は前日の雨の影響でいつも以上に柔らかく、木の根や岩場が滑りやすくなっていたので、私も二度ほど肝を冷やすこととなった。

鬱蒼とした山道から道は開け、見晴らし広場に到着する。山道を抜けた瞬間、唐突に光が降り注ぎ、著しく明暗が変化したので、私は目を細めた。

一時的に視力の落ちた目で周りを眺める。見晴らし広場は、敷地面積が大体学校のグラウンドの三分の二ほどで、東側に屋根付きベンチがあった。その奥には海が広がっていることだろう。木製の遊具が二、三あったが、どれも壊れているのか、トラロープによってぐるぐる巻きにされていた。

担任の先生が1時間の昼休憩を告げた後、私達はそれぞれ仲良しグループに別れて、ビニールシートを広げる。私のお弁当はおにぎり三つにミカンという簡素なものだったが、登山で疲弊しきっていた為にどれもこの上なく美味しかった。空腹は最大の調味料とはよく言ったものである。

昼食を食べ終えて友人と話していると、良が美優ちゃんと一緒に駆け寄って来て、私達のグループを鬼ごっこに誘った。見ると、二人の後ろにも数人の男子がいる。

サンリオキャラクターの腕時計を見て、まだ集合時間まで30分以上あることに気付いたので、私達は喜んでそれに加わった。

じゃんけんの結果、鬼は美優ちゃんに決まった。ゆっくりと10カウントされているうちに、私は良と一緒に遠くへと逃げる。他メンバーも広場に散り散りになっているが、人数に対して広場はさほど広くない為、鬼が頻繁に変わるのは必至だろう。

その読み通り、開始して一分経つか経たないかのうちに、美優ちゃんは一人の女子を捕まえた。再び10カウントがされ、今度はその女子が鬼として走り出す。

彼女は一人に固執して追い回すのでなく、不意打ちを狙って複数人を次々に追いかけているらしい。深追いはしないため、初めに身をかわされたらすぐさま他の人を狙いに行く。

徐々に彼女は私と良がいる広場の隅に近づいてきた。私達二人に気付き、スパートをかける。私は良と二手に分かれて逃げた。猛然とダッシュして、広場に来るときに通った山道へ逃げ込む。広場の外に出てはいけないというルールはなかったはずだ。

走りながら振り返ると、鬼の姿は見えなかった。どうやら良を追いかけに行ったらしい。

安心して、広場に引き返そうとUターンしたその時、私は雨によるぬかるみに足を滑らせた。さらに運の悪いことに、私から向かって右側は、おおかた二足歩行では登れないほどの勾配になっている。

バランスを崩した私は、ダッシュの勢いそのままに転倒した。さらに慣性の法則にのっとって、打ちつけられた私の体は山道を外れる。あっと声を上げる暇もなく体は宙に浮いた。頭から落下する。見る見るうちに地面が近づいて、私の視界は暗転した。


意識が戻って、最初に感じたのは腐葉土の匂いだった。ゆっくりと目を開く。

私はうつぶせで倒れていた。転落した時に打ちつけたのか、頭の芯が朦朧とし、鈍痛がある。転んだ時の擦り傷も、私の鼓動に合わせてジクジクと痛んだ。

不幸中の幸いだったのが、転落場所が柔らかかったことだ。湿った腐葉土によって衝撃は緩和されたので、全身打撲の様な痛みは否めないが重傷は避けられた。

起き上って、周りを見渡す。視界は暗く、遠くを見ることは出来ない。

少し肌寒さを感じて、今が夜だと感じる。咄嗟に腕時計を見やると、既に午後の10時をまわっている。途端、言いようのない不安に襲われた。

──他の皆は、もう帰っちゃったの・・・?

自分ひとりだけ置き去りにされたという恐怖と、山の中に一人という孤独感。全身の毛が総立つのが感じられた。

転落した崖を見上げる。足がかりになるようなものは無く、今いる場所との高低差も目測で5メートルほどあった。ここをよじ登ることは不可能だろう。

私は暫く、不安感にされるがままに震えていた。360度至るところから鳥のけたたましい鳴き声や、風に木々が煽られる音が聞こえてくる。音の正体は分かっているというのに、不意打ちで聞こえるためにそれらは私を怯えさせた。幻聴か否か、獣の唸り声らしきものも何処からとなく聞こえ始め、私は益々怯懦になる。

堪らなくなり、私は声を上げて泣き出した。先生や友人の名前を思いつく限りに叫びながら、何処へ行くともなく彷徨い始める。

歩くうちに喉が枯れて、私はしゃくりあげながら森の中を歩いていた。

森の木々は何故か等間隔に並んでおり、一本一本が伸ばす枝も長いため、上方はほぼ完全に厚い葉に覆われている。一筋の月光すら差し込まず、それに加えて涙で視界が滲んでいる為に、夜陰の見通しの悪さにさらに拍車がかかる。

ふと、遠くに光が見えた。誰かがいるのかもしれない。

安堵が心に満ちて、私の顔がほころぶのが分かる。

私は涙を掌で拭って、駆けていった。

森を抜けた私は、目の前にそびえる建物に圧倒された。

五階建てのグレーのビル。煌々と照明が灯っているわけではなく、数えるほどしか電気はついていなかったが、闇の中でも重々しい存在感を放っている。

──こんな場所が、瑞音町にあったんだ・・・

都会的な鋭利さを持つ雰囲気と、廃墟の様なおどろおどろしさを同時に感じさせる巨大な景観に、私はしばし見とれる。

何の建物だろうか。疑問に思った私はビルの入口へ近づいた。

防風の為に二重になっている自動ドアの横に、金属製のプレートが取りつけてあった。「瑞音海洋資源・生物研究センター」と角ばった字体で書かれている。

自動ドアに近づいても、ドアは開かない。大声で助けを求め、建物内の人に出てきてもらおうかと思ったその時、何処からか水しぶきの舞う大きな音が聞こえた。

そこに人がいると思った私は、音のした方へと小走りで向かう。

研究センターのビルから数メートル離れた位置に、フェンス囲いの施設が見えた。どうやら音はそこから発せられたらしい。

フェンスの網目越しに中を覗くと、床で水面がたゆたっているのが分かった。どうやらここはプールの様だ。

「誰かいますか」

私は小さな声で尋ねた。返事は無い。

だが、その問いに呼応するかのように、再び水しぶきが舞った。飛沫が少し私の顔にかかる。

私はフェンスをよじ登り、プールサイドに着地した。水面に近づき、もう一度音の主に声を掛ける。返事はない。

私はしゃがみ、そっと水をすくった。凪いだ水面に、手の隙間から水が落ちて、数多もの波紋を作った。

その時、一段と大きな音が聞こえる。驚いて目を向けると、水面に女性の顔が見えた。

肌は褐色で、髪の毛は濃紺だった。目が少し外寄りになっていて、奇妙な風貌だ。

彼女は私を見ると、心から安心したように笑った。首から上だけを水上に出して、私の元へと近づいてくる。

そして、私をじっと見つめ、こう口にした。

「たすけて」

呂律が回っておらず、聞きとるのは困難だったが、確かに彼女はそう言った。

私に向かって手を伸ばす。私は緊張しながらも、その黒く細い手を掴んで、彼女をプールサイドに引き上げた。

彼女の上半身が水上に出た瞬間、私はあっと小さく叫んだ。彼女は裸だったのだ。豊満な乳房とくびれた腹部がグラマラスな曲線を描いている。

だが、彼女の全身を目にした瞬間、私は更に驚いた。

彼女の下半身は、人間のものでは無かった。下半身は黒く、腰のくびれの辺りにダークブラウンから漆黒へのグラデーションがある。足が無く、最端には尾ひれがついていた。

私は目を見張った。同時に、心の底から好奇心が湧いてくるのを感じていた。

──まさか、人魚が本当にいるなんて・・・!

今や、迷子の恐怖など吹き飛んでいた。目の前にいる、想像上の筈の生き物との出会いに心が痺れ、私は非日常への突入を噛みしめていた。

彼女に見惚れていると、彼女は匍匐前進で私の足元へ寄って来た。そうして、私を見上げて再び「たすけて」と口にする。

私は大きく頷いた。それを見て、彼女は満面の笑みを浮かべた。


彼女を背中にしがみつかせ、苦心の末なんとかフェンスを越える。一旦彼女を降ろし、抱きかかえる姿勢に変えた。

この時点で私は、瑞音国立資源・生物研究センターを悪と判断していた。彼女が「たすけて」と口にしたから悪。

そして私にとって、ビル内にいるのは『悪の研究員』に他ならなかった。なので、私は音を立てないように注意を払いながら、施設の陰を通って森へと走った。

「たすけて」を「ここから逃がして」と解釈したのは今思えば飛躍が過ぎるが、プールから連れ出しても彼女が止めなかったことを鑑みると、間違っていなかったのだろう。

彼女の体表は若干のぬらつきがあり、僅かに生臭かった。

だが私は、しっかりと両腕を彼女の腰にまわしていた。そうでもしないと粘膜に滑って、彼女を抱きかかえていることができなかったのだ。

私が駆けこんだ森でも木々は等間隔に並んでおり、見渡す限り同じ品種である為、迷ったら元の場所に戻ってこられないことは必至だった。

しかし、何故かその時の私には、森を抜けることは容易いという自信が満ちていた。それが庇護すべき存在がいる時の心理なのか、ヒロイズムへの陶酔なのかは分からないが。

森の中を駆けるうちに、段々と呼吸が乱れてくる。自らの喘鳴が聞こえ、吸気の度に彼女の臭いが私の鼻腔をついた。

振り返ると、既に研究センタービルの灯りは小粒ほどの大きさにしか見えなかった。ここまで来れば大丈夫だろう。

私は足を止め、彼女を傍らに寝かせる。両膝に手をついて呼吸し、息を整えた。

そして、再び彼女を抱き、今度はゆっくりと前へ進んで行った。


それから間もなくして、私達は森の終点に到着した。

眼前には、私が日中に落ちたのと同じような、垂直に近い急勾配がある。高さも同じく5メートルを超えており、やはり登るのは不可能に思われた。

だが、目を凝らすと、所々から木の根がせり出しているのが分かる。これを足がかりに登っていくことが出来るかもしれない。

手を滑らせて転落する恐怖が頭をよぎる。だが、背後には迷いの森が広がり、更に頭では『悪の研究員』の残虐的イメージが膨らむ。もしかすると、彼らは既に人魚の失踪に気付いて森を捜索しているかもしれない。

私は意を決すると、フェンスを登った時のように彼女を背負い、木の根に手をかけた。

壁に貼りつくようにして登っていく。なるべく頑丈そうな根を掴み、下を見ないようにして進んでいった。

背中に重さを感じる分だけ、やはり登りにくい。彼女が落ちないように気を配らなくてもいけない為、想像以上に重労働だった。

やっとのことで山道へと登る。全身から冷汗が噴き出ていた。

地べたに座り込んで荒く呼吸していると、彼女が喃語で語りかけてくる。意味を持たない母音の長音を繰り返し発する様からは意思を組みとることはできなかったが、彼女の表情から、私を心配してくれていると感じ取ることが出来た。

私は大丈夫だよ、と努めて元気に言い、笑顔を見せた。それを見て、彼女も無邪気な笑みを返す。その笑顔を見た途端、肉体と精神と、両方の疲れが吹き飛ぶのだった。

彼女を抱いて、山道を下る。歩きながら、ふと思った。

山を出たら、彼女を連れたまま大人の元へ行こうか、それとも、彼女の存在を誰にも知られないうちに海へ逃がしてやろうか。

勿論、私の失踪を皆が心配しているだろうから、一刻も早く安心させてあげた方がいいのかもしれない。だが、大人たちは彼女を見てどう思うだろうか。

彼女が危険な存在とされれば、どんな処遇を受けるか分からない。または、私が研究センターの生物を窃盗したとして、大目玉を喰らうかもしれないのだ。

考えた末、彼女を海へと連れて行ってから、家へ帰ることにする。下山後も人に見つからないようにしなくてはならない。

道なりに下山していくと、広場に出た。月明かりに照らされて、トラロープの巻かれた遊具が見える。どうやらここは見晴らし広場らしい。

つまりは、広場付近の崖から転落した後、私は迷いの森の中で山を登っていたということだ。

腕時計を見ると、短針は12の文字盤を半分ほど過ぎていた。心配の余り、お母さん達が私を探しに御蔭山へ来ているかもしれない。私は早足で広場の中央を歩いていった。

壊れた遊具の横を通り過ぎる時、私は人の気配を感じた。反射的に顔を上げる。

機関車を模した木製遊具に、一人の男性が腰かけていた。山中に似つかわしくないスーツ姿で、何処となく紳士的な雰囲気を漂わせる風貌をしている。白髪交じりの髪は整っており、小ジワの多い縦長の顔は柔和な微笑みを形成していた。

男性は立ち上がると、悠然とした動作で私の前に立った。私が抱きかかえている人魚を見ても、身じろぎ一つしない。

「君は、ここで何をしているのかね?」

穏やかな声音で尋ねられた。私を咎めるようなひびきも、心配するひびきも無い。

私は突然現れた男性に対し、話すことが出来なかった。

男性は再び口を開く。

「君が抱いているそれだが─実は私の物でね。返してもらえるかね?」

その言葉から、男性が研究センターの人間であることが分かった。

相変わらず温厚に話していたが、その言葉には有無を言わせない迫力が滲み出ている。

私は金縛りにあったかのように、動くことが出来なかった。男性が人魚に向けて、ゆっくりと手を伸ばす。

私は人魚の震えで我に返った。歯を鳴らし、心底怯えたように小さな悲鳴を上げる彼女に気付いた私は、彼女をしっかりと抱えたままで後ずさる。

その様子を見た男性は、僅かに語気を強めた。

「お嬢さん、君の為を思って言わせてもらうが、それは大変危険な生物だ。君の命をも奪いかねん」

そんなこと、あるはずがない。心の中で叫ぶ。腕の中でこれ程怯えている彼女が、私に危害を加えることがあろうか。

私は男性を睨みつける。内心恐ろしくて堪らなかったが、彼女を庇護するという使命感が、感情と正反対の行動を起こさせた。

「渡しなさい」

そう言いつつ、一歩また一歩と私達に近づく男性の顔からは、笑みが消えていた。口調からも何かしらの焦燥が感じられる。

私が動じないのを見ると、男性は目を伏せて溜息をついた。そして、自然な動作で懐に手を入れる。

「私だってこんなものは使いたくない。だから、お願いだからそれを返してくれないかね?」

男性の手にあるものが拳銃だと理解するまで、数秒かかった。黒光りする物の正体に気付いた瞬間、心臓が一気に暴れ出す。

銃口は私に向けられており、男性の指は引き金に掛けられていた。あの指が少し動くと、それだけで私は死んでしまう。

突然襲ったかつてないほどの本能的な恐怖に、私の使命感は消えかかっていた。彼女を手渡せば、私の安全は保障される。出会って間もない人魚を、自分の命をかけてまで守る必要があるのか。

だが、腕の中の彼女は懇願の目で私を見る。瞳孔は開き、両眼から涙が幾筋も伝っていた。

男性の顔には、再び笑みが戻っている。だが、その目には残忍な光が宿っていた。

二対の異なる目線が、私を板挟みにしていた


私はどうすることも出来なかった。とにかく男性の瞳と、拳銃が恐かった。

気がつくと、私は人魚を抱いた腕を緩めていた。そろそろと腕を伸ばし、泣き叫ぶ彼女を男性へ渡そうとする。私は半ば放心していた。

男性はその様子を見て、満足げに頷いた。拳銃を懐に収め、私に近づく。

彼の手が人魚に向けて伸ばされた。腕の中の彼女は逃れようとして、魚のように体をくねらせて地面に落ちる。

彼女はなおも逃走を図り、腕の力だけで地を這い始めた。だが、その速度は相当に遅く、すぐさま歩いてきた男性に腕を掴まれる。

その時、広場に地崩れの様な轟音が響き渡った。

男性は人魚の腕から手を離し、憔悴を表に出して周りを見渡し始める。そして、彼の視線は一か所に留まった。

男性の視線の先──瑞音研究所のある方向の中空には、夜の闇が無かった。昼間の様に明るく、もうもうと煙が立ち上っている。

男性は苦々しげに悪態を吐き捨てた。そして、私に再び銃を向けた。

「ここにいなさい。逃げたら撃つ」

第一印象の柔和さを微塵も感じさせない、低く憤懣に満ちた声で脅される。私の頷きを確認すると、男性は一目散に研究所の方向へと走って行った。

広場には私と彼女だけが残された。逃げるなら今が絶好の機会だろう。

だが、まるで威圧的な男性の脅しに足枷をつけられたかのように、私は足を動かすことが出来なかった。

彼女が私の足を掴んだ。私を見上げ、涙で濡れた顔であの無邪気な笑顔を作ろうと試みる。

この笑みには、どんな意味合いが含まれているのか。

彼女の身を売ろうとした私を、それでもなお信じてくれているのか。それとも、他に頼る者がいないがゆえの、仕方無しの媚態なのか。

考えるまでもないことだ。私は彼女を抱きかかえ、走り出した。

──この笑顔に裏などあるわけがない。


私の体にしがみついている彼女は、未だに軽く嗚咽を漏らしていたが、大分落ち着いたように見える。

いつ男性が引き返して来るか分からない不安に、私は疲れも忘れて全力疾走を続けていた。坂を下っている為、予想以上のスピードが出る。気をつけないと再び転倒してしまうかもしれない。

ゆるやかな山道から、丸太で作られた階段に出る。踊り場で直角に左折して、さらに階段を下りると、再び土の地面に戻った。

風の音に混じって、怒号が聞こえた。耳にした瞬間、背骨を這うような緊張が走る。あの男性が早くも彼女を捕まえに戻って来たのか。

だが、断続的に聞こえるその声をよく聞くと、どうやら日本語ではないようだった。更に、複数人で何かしらのやり取りをしている様子も聞き取れる。恐らくあの男性が使わせた部下だろう。

声は次第に大きくなり、乱暴な足音まで聞こえるようになった。振り返ると、木々に懐中電灯の光が当たっているのが見えた。相当近くまで来ているらしい。

私は更に足を速めた。だが、既に体力は限界を超えており、視界も悪く、何時転倒するかもわからない危うい状態だ。その上、階段を下りた先の山道は随分長い一本道になっている為、追手が階段の踊り場で左折したが最後、私は彼らの視界に捕らえられてしまうだろう。

そして、小学四年生の自分が大の大人達から逃げ切れるはずがない。

どうすればいい。見つからないように彼らをやり過ごすには、何処へ逃げるのが最善か。

私は頭をフル稼働させる。

ふと、昼食休みの鬼ごっこの情景が頭に浮かんだ。私は閃きをおぼえる。

この方法しかないのか。私は痛みと恐怖を思い出し、逡巡する。だが、一度目は無事だった。今回は故意に行うため、身を守ることも出来るだろう。頭を保護すれば気絶も免れるかもしれない。

私は足を止め、荒い息を押さえつけて山道の急勾配を覗き込んだ。下方は暗闇で、地面は見えない。だが、追手は着実に距離を縮めている。あと数秒で私は発見されてしまうだろう。

私は腕の中の彼女に、目をつぶり、しっかりと私を掴んでいるよう言った。そうして、助走をつけて、自ら崖を飛び降りた。

奇妙な浮遊感を感じながら、自由落下する。風が耳元で唸った。

私は頭を彼女の胸元に埋め、衝撃から身を守ろうとする。

そのうち、木の葉や梢を掻きわける音が聞こえてきた。木に突入したらしい。全身をそれらに引っ掻かれ、剥き出しの四肢が傷つく。

私の体は再び地面に打ち付けられた。



しばらくして私は目を開ける。今度は気絶することは無かったようだ。

私は彼女の上に覆い被さるようにして地面に突っ伏していた。このまま彼女にのしかかっているわけにもいかないので、私は立ちあがって退こうとする。

だが、立ち上がった瞬間、右足首に痛みが走った。思わず喘ぎ、近くの木の幹にもたれて片足立ちになる。

着地時に捻挫でもしたのか、右足首は僅かに熱を持っていた。痛みをこらえてならば、歩けないこともなさそうだが。

ふいに彼女の悲鳴が聞こえた。驚いた私は片足跳びで彼女の元まで駆け寄る。

彼女は仰向けになったまま、途切れることなく悲痛の叫びをあげていた。その声の余りの大きさに、私は彼女の口元を押さえて、追手に居場所を知らせないよう努める。だが、彼女の叫びは止まる気配を見せない。

彼女は背中を宙に浮かせ、反りの浅い、柔軟体操のブリッジのような体勢になっていた。私は地面と背中の隙間に左手を差し入れ、彼女を抱きかかえようとする。

その時、臀部の左上辺りに、奇妙な突起があるのに気付いた。嫌な予感が胸に蔓延る。私は彼女の体を覆した。

次の瞬間、私は息を呑んだ。

彼女の背中には、直径3センチもあろうかという、乾いた太枝が深々と突き刺さっていた。落下時のことだろう。貫通はしていないものの、肋骨の少し下から斜めに刺さっており、臓器に至っているであろうことは一目瞭然だった。

半狂乱に陥り、私は反射的に太枝を掴み、引き抜いた。彼女の一際大きな悲鳴が響き渡り、刹那、血液がとめどなく溢れ出す。

血は彼女の背中から流れ落ち、腐葉土の地面に染み込む。源泉の如く湧き出るそれには、血液の凝固作用など一切役に立たないことだろう。

茫然としながら、私は朧げに大人の力を借りた方が良いと思った。彼女を死なせたくなかった。たとえ私が窃盗犯になろうと、彼女に酷な処遇が待っていようと、死よりましであることは火を見るより明らかである。

最早足の痛みなど感じない。一刻も早く、彼女を町の大人に見せるという一念だけが脳を支配していた。

私は血みどろの彼女を向かい合わせに抱きかかえた。気休めにすぎないが、止血の為に彼女の背中にまわした掌で出来る限り強く傷口を押さえる。生温かな鮮血が私の腕を濡らした。

今いる森の木々は多種多様で、生え方も等間隔では無かった。私は彼女の体に負担をかけない範疇での、最大限の速度で走った。

森を抜けて、神社に出る。両親と何度か来たことがあったため、この先の山道から登山口まで30分あまりで着くことを知っていた。少し安堵する。

誰かいるかもしれないと本堂の扉を開けたが、人一人いない。私は下山を急ぐことにした。

その時、周囲から雑草の掻き分けられる音がした。私の体が硬直する。

音は神社より少し離れた所から発せられているようだった。だが、何時此処に来るか分かったものではない。私は神社を出ようと走りかけた。

だが、鳥居をくぐった辺りで、先の山道に懐中電灯の光がちらついているのに気付く。このまま前進すれば追手と鉢合わせになってしまう。私は気付かれないように後退した。

山道にも、周囲の森にも追手がいる。どちらもまだ私の存在には気づいていないが、このまま此処にいれば捕まるのは時間の問題だろう。どこか、隠れ場所を探さなくては。

神社内を見渡す。本堂の縁の下に隠れられそうなスペースを発見した私は、彼女を抱いたまま寝ころんで、そこへ滑りこんだ。


縁の下の奥行きは想定したよりも短く、手足を広げられるようなスペースは無かった。私は彼女を抱き、横向きの姿勢になる。

頬に粘着質な存在を感じた。クモの巣でもかかったのだろうか。縁の下は暗く、視認することは出来ない。私は激痛に呻き震える彼女を抱きしめながら、外の様子を見ていた。

間もなくして、複数の足音がこちらへと近づいてきた。地面に耳をつけている為、接近に関する聴覚は抜群である。恐らくは三人がこの神社にいるだろう。私は更に身を縮ませて、奥の壁に体を強く押し付ける。彼女の体をより私に密着させた。既に私の服も血塗れに相違ないが、気にしていられる余裕など無い。彼女は背中から依然として鮮血を流し、まさに今、生命の危機に瀕しているのだ。

早くここからいなくなれ。私は縁の下から見える追手達の足に、怨恨の視線を投げかける。追手らは神社にたむろして、何やら話していた。交わされている言葉の意味は分からないが、声の調子からすると緊迫した様子は感じられない。彼らは人魚を捕まえるという信念を、それほど強くは持っていない様だった。少なくとも、先程出会った男性よりは。

それからどの位の時間が経過しただろうか。私の服は既に多量の血を含み、肌に張り付いている。許容量を超えた血液は腐葉土に浸透し、地面を赤黒く染め上げていた。それに気付いた途端、私の血の気が失せる。

彼女の血液は、縁の下までの道程に点々と落ちていた。それらが追手らの目に入れば、その時点で捕まったも同然である。彼らは談笑に夢中になっているとはいえ、地面を一瞥すれば容易に気付くだろう。無意識に雑草を避けて歩いたのか、血痕が残されている位置を雑草が隠しているということは無かった。

私は目をつぶり、唯々祈った。今思えば、私は神頼みに集中して、過度の緊張状態から逃れたかったのかもしれない。彼女の口を覆い、傷口を押さえ、彼らが一刻も早くこの場から消えることを望んだ。

一秒が数十分にも引き延ばされたように感じられた。気がつくと、追手の声は聞こえなくなっている。私は慎重に外の様子を伺い、彼女をその場に残して外に出た。

周囲に耳をすませる。風は止み、獣も眠りに就いたのか、御蔭山は静寂が支配していた。

ようやく追手らは何処かへ行ったらしい。念の為に、もう暫く縁の下で様子を伺っていたいと思う気持ちもあったが、彼らが此処へ戻ってくる可能性も否めないうえ、何より彼女の容態は一刻を争う。私は再び下山を決意した。

本堂の縁の下に手を伸ばし、血と土に塗れた彼女を引き寄せる。あと少しだと自らを鼓舞し、小さな掛け声と共に彼女を抱きあげた。

その時、違和感を感じる。やけに彼女の体が重く思えるのだ。見ると、彼女の手は私の背中にまわされておらず、だらりと宙に垂れている。

そこで私は違和感の正体に気付いた。「彼女」でなく、無機質な「物体」を抱いている感覚。

私の腕の中で、彼女の頭部は力無く上を向いていた。虚ろな双眸に光は無く、半開きの口からは僅かな吐息すら感じられない。彼女は既に事切れていた。


驚きと共に、私の胸中で悲歎の感情が膨れ上がり、堰を切る。涙という目に見える形に具現化され、私の目尻に溜まった。

だが、それが頬を伝うことは無かった。悲しみは、次の瞬間には虚脱感と自己嫌悪に蝕まれ、そして呑みこまれたのだ。

私は彼女の亡骸を抱えて、茫然と立ち竦んでいた。自分の意思で何かを考えることが出来ない。脳漿が凍り、シャーベット状になったかのようだった。

能動的な活動を止めた意思の中で、脳は次々と、今まで起きたことを映し出す。良に鬼ごっこを誘われた所から始まり、迷いの森をさまよい、研究所で人魚に会ったこと。そして、拳銃を構える男性、謎の爆発。飛び降りと彼女の怪我。

走馬灯のようにそれらの記憶が呼び起こされる。だが、私の目から雫はこぼれない。

ふと我に返り、彼女の体をそっと抱き寄せる。まだ体温が残っていた。

彼女の目と口を閉じてやる。その穏やかな表情を見て、私は心が少量の熱い液体で潤されたような、不思議な気持ちになった。何処か優しくなれるような、安心できるような─そんな妙な感じだ。

そしてその気持ちは、私の凍った脳を融解させる。次第に悲しさが湧き上がり、ついに私は涙を流した。一筋、また一筋と頬を流れ落ち、気がついた時には、私は声を上げ、滂沱として泣いていたのだった。

ひとしきり泣いた後、私は彼女にお墓を作ってやることにした。何処か、目印となるものの近くに作るのが望ましい。周囲をさがすと、他の木よか二回り以上大きな、注連縄の巻かれた杉の木が見つかった。

傍の看板の文字──『御蔭大杉』を目にして、私は以前、家族で此処に来た時に、お母さんが言っていた言葉を思い出す。

──この木には・・・神様・・・昔の戦い・・・・安楽が・・・

とりとめない会話だった為、一字一句までは覚えていない。だが要約すると、この木には、山の生命の死を守る神様が宿っているということになる。

つまりは、この山に彼女を埋めれば、彼女は安らかに眠れるということだ。また、埋葬場所が神様の近くであればある程、より深い安楽が得られるのではないだろうか。

私は御蔭大杉の根元に、手で穴を穿った。無心に掘り続け、彼女の体が入るスペースを作る。そして、彼女をその中心に寝かせた。

それからたっぷり数分かけて彼女を見納めると、私は土を彼女に被せていった。下半身を土で覆い、次に上半身も土で隠す。最後に、顔にも土をかけて、彼女を完全に埋葬する。

──願わくば、彼女の死も守られますように。

私は彼女のお墓に合掌した。

その後、私は地面に残された血痕を、足で消していった。研究センターの人間に、彼女の亡骸を発見できないようにするためだ。

血を吸った私の服も、神社の水道で丹念に洗い、綺麗にする。よく絞っても服は未だ水気を残していたが、私は構わずそれを再び着た。

腕時計に目をやる。既に夜明けの時間帯だった。視界が若干明るくなったと思った矢先に、柔らかな朝日が木々の隙間から差し込み、神社の所々に突き刺さる。

朝の到来は、まるで今までに起きたことが夢だったかの様に思わせた。もしかすると、私は一晩中神社で寝て、人魚と出会う夢を見ていただけなのではないだろうか。

明け方の空気を全身で享受しながら、私はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じていた。夢を見ていたのなら、こんなに疲れる筈がないだろう。私はそのまま横になると、睡魔のされるがままにした。

眠りに落ちる寸前、お母さんの叫び声が聞こえた気がした。複数の足音が私のもとへ駆け寄ってくる・・・。



その後、遭難者として発見された私は、両親と先生に散々泣かれて、それから、遠足の昼休みに広場外へ出たことをこってり絞られた。翌日、一晩山で何をしていたのか聞かれたので、私は一部始終を話した。だが、大人は誰一人として信じてくれない。私が夢でも見たと思っているのか、子供の可愛げのある作り話だとでも決めつけているのか、話を聞いた大人は一様に困ったような笑顔を私に向けるのだ。

誰も信じてくれない中で、私自身も、自分の記憶に自信が持てなくなった。時の経過とともに、鮮明だった記憶は色あせ、ぼやけていく。

いつの日からか、私も彼女との出来事を夢と思うようになった。それは取るに足らない記憶として思い出の奥深くに埋もれていく。そうして、私はその夜の出来事を忘れた。



恐怖の対象でしか無かった白骨が、愛おしく、親しいものに思えてくる。私は持っていた頭蓋骨の泥を払い、元々あるべきポジション─頚椎の上付近に置いた。

少しだけ悲しくなり、鼻を啜る。彼女の悲惨な運命を思い出して同情の念を抱いたのだ。

彼女は瑞音国際資源・生物研究センターに捕まり、あの狭いプールにいた。私が知らないだけで、他にも多々の悪逆非道な目に会ってきたに相違ない。

頭の中で、彼女の「たすけて」と言う声が反響する。あどけなさの残る声に如実に表れた、心の底からの救済願望に背筋がうそ寒くなる。

──ちょっと待って。

頭の片隅に引っかかるものがあった。何かが研究センターと深く関係がある気がしてならないのだ。そして、その答えは直ぐに分かった。

──瑞音国立資源・生物研究センターには・・・良が勤務している・・・!

中学三年生の時点で、理系に関する天才的な頭脳を持っていた良。彼はスカウトを受けて、中学卒業と同時に研究センターへ就職したのだった。

妙な胸騒ぎがする。児童期の、研究センターに対する悪いイメージを鵜呑みにするのもおかしな話かもしれないが、記憶だけでなく、本能的な何かがその予感を確信に変えるのを後押ししていた。

悪の研究員。良がその一員かもしれないと思うと、居ても立ってもいられなくなる。良の元へと今すぐにでも駆けつけて、彼自信の口からそれを否定してもらいたい。

私は彼女を埋め直す為、再び穴の中央に置いた。彼女を二度と忘れない為、私は手持ちのカメラにその姿を収めようとした。だが、思いとどまってやめる。白骨と化した姿を撮影するのは可哀想だ。彼女の安らかな眠りを私自身が妨げてしまった以上、早いうちに埋め直してやるのが良いだろう。

見ると、彼女の右腕には金属のブレスレットが嵌まっていた。指節骨を崩さないように、慎重に取り出す。長年を経てもなお錆びずに残っているそれは、鈍い銀の光を放っていた。

これなら、彼女の形見になりうるだろう。そう思い、ブレスレットを自らの腕に嵌めようとする。だが、輪の大きさが足りないため、それは不可能だった。

その時、ブレスレットに刻まれた文字を見つける。何だろうと思って、顔を近づけた。

「SEIREN  P.T NO,2」

青い文字でそう書かれている。それを見た私は彼女の腕に嵌められていた物の正体に気付いた。

──ブレスレットじゃない。これは・・・識別タグ・・・?

動物園のペンギンは、飼育員が個体を見分けるために、翼にフリッパーバンドと呼ばれる識別タグをつける。彼女が嵌めていたのもそれに似たものか。

同時に、いくつかの疑問が頭をよぎる。SEIRENとは何か。P.Tとは何を意味するのか。

だが、何よりも私の気を引いたのは「NO,2」の文字だった。NO,2ということは、NO,1もいたのだろう。もしかすると、NO,3以降も・・・。

──つまり・・・研究センターには、彼女以外にも人魚がいた・・・!?


神社を出た私は、山道を歩き、瑞音国立資源・生物研究センターの正面ゲートに向かった。彼は勤務中の為、会うことは難しいかもしれないが、ゲートにいるであろう警備員に頼みこめば、良を呼び出してもらうことは何とか可能とみたからだ。自惚れるつもりはないが、良い容姿を持つ乙女の特権を活用する術は心得ていた。それを用いれば上手くいくかもしれない。即ち、上目遣いでのおねだりである。

私の身長の二倍ほど高さがある、堅牢そうなフェンスの奥にはあの迷いの森が広がっていた。だが、ゲートの先には舗装された道路が伸びている。恐らく、研究センターの建物に繋がっているのだろう。

ゲートの付近まで近寄ってみたが、警備員の姿は見当たらない。その横に、警備員の事務所らしき建物を見かけたので覗いてみたが、誰もいないようだ。

自然と溜め息が出る。警備員が一人も持ち場にいないなんて、職務怠慢もいいところだ。

ゲートに近づく。鉄製のそれは、機械で開閉されるものらしく、横に引いてみてもびくともしない。

携帯で良に連絡を取ろうにも、携帯は家に置いてきてしまった。そもそも彼の番号すら知らないのだから、どうしようもないのだが。

どうしたものかと頭を悩ませていると、突如機械音が聞こえてきた。どうやら、ゲートから発せられているらしい。

私の期待通り、ゲートは徐々に開いていく。研究センターの関係者が出てくるに違いない。その人に頼んで、良に会わせてもらおう。

中から現れたのは、紺の警備服を着た、二人の警備員だった。だが、二人とも筋骨隆々なうえに、肌が褐色をしている。見るからに日本人では無い。挙動も何処かおかしいようだ。落ち着きがなく、絶えず辺りを見回している。そして、私は彼らに見下ろされる形で発見された。

突然、彼らの一人が叫んだ。思わず私は縮みあがる。その叫びが私に向けて発せられているのに気付くまで、数秒かかった。どうやら、英語で「動くな」と言ったらしい。

もう一人の警備員が私に近づいて、英語でバッグの中身を見せるよう言った。私は大人しくそれに従い、黒ウサギの描かれたトートを渡す。

昼食のおにぎりに、日焼け止めと虫よけスプレー。これらのものには、警備員らは格段興味を示さなかった。

だが、次の瞬間、彼らの表情に険しさが浮かんだ。トートを漁っていた警備員の手には、人魚の識別タグが握られていたのだ。

もの凄い剣幕で、これは何かと問い詰められる。私がしどろもどろになっていると、二人は懐から小銃を取り出して私に突きつけた。

冷汗がどっと噴き出す。理由も分からず怒鳴られたと思ったら、識別タグを見た途端銃を向けられる始末だ。

素直にタグの入手経路を話せば良いものを、頭が真っ白になって何も話せない。暫くの後、私は腕を掴まれた。

驚いて振りほどこうとすると、再び一喝される。怒鳴り声をよく聞くと、同行を求められていることが分かった。

明らかに尋常ではない。私の心臓が激しく鼓動する。私の腕を掴んでいない方の警備員は、今も小銃を私に向けているのだ。識別タグを所持していただけで、こんな目に会うなんて。

銃を向けられているという恐怖から、抵抗らしい抵抗も出来なかった。何処に連れて行かれるのか不安な中、私は警備員に連れられてゲートをくぐる。研究センターの敷地内へと入り、道路をまっすぐに歩かされていった。


突然、道路の脇の森から影が飛び出してきて、私の腕を引いた。不意打ちを喰らった警備員は、私を掴んでいた腕をいとも簡単に放してしまう。次の瞬間には二人とも小銃を構えて、影に銃の照準を合わせる。私は何が起こったのか分からず、唖然としていた。

影は、白衣を着ていた。左手にはアルミアタッシュケースを提げ、右手には何やらトランシーバーの様な機械を手にしている。

「良!」

思わずうわずった声が出た。明るくなった私の気分とは裏腹に、厳めしい面持ちの良は、私を見ると低い声で呟いた。

「留恵、英語話せるか?」

私は頷く。理系では良に遠く及ばないものの、英語に関しては自信があった。

「今から俺が話すことを、あいつらに英語で伝えてほしい。」

再び頷く。私達と警備員らは膠着状態だった。私は良が言った言葉を英語で話す。

「俺の手にあるのはセイレーンの水雷及び、施設に仕掛けた爆弾の起爆装置だ。これで研究センターの全セイレーンと、施設を爆破させられる。」

脳裏に識別タグに書かれたSEIRENの文字が浮かんだ。あれをセイレーンと読むのだろうか。

私の言葉を聞くや否や、二人の警備員に明らかな狼狽が生じた。良の起爆装置を指差し、大声でまくし立てる。

「そんなことをしてみろ!軍が黙ってはいないぞ!」

軍?軍とは何のことだろうか。よく分からないまま、日本語訳をして良に伝える。

「いいから聞け。逃走用の車を今すぐに用意しろ。さもなくば起爆する」

警備員の歯ぎしりが聞こえた。

「分かった。用意するが、調達に少し時間がかかる。5分待て」

時間稼ぎのつもりだろうか。だがその作戦は呆気なく打ち砕かれた。良が指差した先には、古ぼけたジープが停められていたのだ。

あれを渡せ。良は目でそう伝えた。警備員らは小声で話しあい、その後一人がジープを運んできた。エンジンがかかった状態で、良に引き渡す。

「起爆装置と交換だ。乗車したら装置をよこせ」

警備員が言う。良はジープの運転席に乗り込むと、私に助手席へ座るよう言った。その間も、警備員二人の小銃は私と良、一人ずつにそれぞれ向けられている。警備員の一人が口を開いた。

「このまま車を発進させたら、お前たちを撃つ。発車前に装置を渡せばこの場は見逃してやる」

装置は小銃を持った人間と対等に渡り合うためのカードだ。それを渡してしまった瞬間から、警備員が発砲するのに不都合は無くなる。だが、装置を渡さずに発車しても撃たれる。まさに一瞬が勝負だった。装置を渡し、すぐさま発車する。空気が張り詰めていた。

良はジープの窓から、起爆装置を持った手を出した。警備員の一人が小銃から手を放し、それを受け取ろうとする。

その瞬間、良は強くアクセルを踏んだ。手には装置が握られたままだ。

警備員らがジープの後部に向けて小銃を発砲する。リアウィンドウが音を立てて砕けた。

「良!取引と違うじゃない!」

良は返事をしない。銃弾を浴びるジープを飛ばして、一目散に正面ゲートへ向かっていた。

いつの間にか、ジープの進行方向にも三人の警備員がおり、こちらへ銃を向けている。

「伏せてろ!」

良が叫んだ。私が姿勢を低くした瞬間、フロントガラスが割れる。

その時、苦々しげに叫んだ良が右手に持った起爆装置のボタンを押した。

背後が強く光り、轟音が響いてくる。警備員たちは真っ青な顔になり、ジープへの発砲を止めて研究センターの方角へと走っていった。

「こうでもしないと逃げ切れないだろう!」

良が声を張り上げる。障害の無くなった道路を、ジープは100キロを超える速度で走行していた。

開きっぱなしのゲートを抜けて、ジープは山道に飛びだした。


ジープはそれから延々と走り続けた。御蔭山を抜け瑞音町を出た後、夕刻に高速道路に乗る。

背後には一車両も走っていないので、警備員による追跡や尾行はされていないようだ。私は大きく息を吐いた。

「留恵」

ほぼ無言で運転をしていた良が、ようやく口を開く。

「何故お前はヤツらに捕まっていたんだ?」

「わからないわよ。これを見た途端に銃を向けてくるんだもの」

私は取り返したトートから識別タグを出し、良に渡した。

「・・・どうしてお前がこれを・・・?」

良は目を見開いた。私は良に、遠足の日の出来事をかいつまんで話す。

「なるほど、昔助けたセイレーンの死体を掘りだしたのか。・・・それで警備員のヤツらは無関係者のお前がタグを持っていたから捕まえた、ってことだな」

良は勝手に一人ごちた。さっぱり訳の分からない私は良に尋ねる。

「今度は私から質問。研究センターで何が起きてるのか、またセイレーンとは何なのか。全部話して」

良は目を伏せて、暫く黙っていた。そして顔を上げて言う。

「長くなるぞ」

構いやしない。理解できない方が余程恐く、気持ちが悪い。

良は識別タグを私の方へ突き出した。

「ここにSEIRENって書いてあるだろ」

顔は前に向けたままで良が言う。

「これは瑞音国立資源・生物研究センターが秘密裏に創造した動物兵器の名前だ。ギリシャ神話に出てくる人魚、セイレーンにちなんで名づけられた。正式名称は"Sea bomb・Early warning system・Identity・Removed・Easy operated・Nudnick"・・・最も、これらの英単語は後付けのバクロニムなんだけどな」

「動物兵器・・・?どうしてそんなもの──」

「順を追って話すから」

良が私の言葉を途中で遮る。彼は再び話し出した。

「今の正式名称を直訳すると、『自我の除かれた、低知能で操作の容易な海の爆弾兼敵機発見装置』となる。要は感情を持たない生きた魚雷ってこと」

「私が昔助けたのは、兵器として創られた生物だったってこと・・・?」

日常とあまりにかけ離れた内容に、頭がパンクしそうになる。

「そういうことだな。キリがないから詳細は割愛するけど、簡単に言うとバンドウイルカとホモ・サピエンスの胚を掛け合わせて創られた合成獣に魚雷としての機能をつけたものだ」

人体実験ということか。人権だけでなく倫理と法も無視した所業ではないか。

「勿論犯罪行為だけどな」

私の心情を察したのか、良が頷いた。

「禁忌と分かっていても、やってしまうのが科学者の性なんだよ。何せ俺達は探究心の塊みたいな人種だからな」

俺達、という言葉に戦慄を覚える。

「まさか・・・良自身もセイレーンの創造を・・・?」

「当然だろ」

溜息をついて良が答えた。

「中学の時、就職のスカウトが学校を通じてじゃなくて、直接俺の所に来ただろう?あれは何故かと言うと、学校には公開できない情報があったからなんだ。スカウト時に見せられた書類には、事業目的の欄に合成獣の創造と明記されていた。俺はそれを知っていながら就職したんだ。」

唇を舐めて良は続ける。

「就職したての頃は、罪悪感に苛まれたな。けれど一か月も経てばそれにも慣れて、そこからは純粋に研究が楽しくなった。けれど、数週間前に遠海での爆破実験に立ち会った時、自分のやってることが恐くなった。それで、今日セイレーンを爆発させることによって、全頭処分したんだ。同時に研究センターも爆破して、生体サンプルや資料も破壊した」

良はそこまで言うと、黙りこんだ。

私は何も言えなかった。良への叱責も、慰めの言葉も思い浮かばない。車内にはジープのエンジン音だけが響いていた。

「他に聞きたいことはあるか」

数分ほど経った後、良が呟くように言う。私は答えた。

「さっき、セイレーンには自我や感情が無いって言ったわよね。」

「ああ」

「でも、私が小学生の頃出会ったセイレーンは笑顔も涙も見せたわ。銃を向けられたら震えたし、何より研究センターから逃げ出したいという願望を持っていた。つまり自我も感情も持っていたわ。どうして?」

しばし考える素振りを見せた良は、再び識別タグを私に見せた。

「ここに、P.Tと書いてあるだろう?これはプロトタイプ─試作品という意味なんだ。プロトタイプは俺や留恵が小学4年生の頃に2匹、初めて創られた。兵器としての機能は完璧で、生命という点でも至って健康体だった。だが一つ、大きな問題があったんだ」

「問題・・・?」

「セイレーンの正式名称には『自我の除かれた』とあるが、当時創られた2匹は自我も感情も有していた。これでは兵器としての利用は出来ないんだ。感情があれば死に対する恐怖を抱いて、実戦投入された際に敵前逃亡をするなどの可能性があるからな」

いつの間にか日は落ちていた。良は車のヘッドライトをつける。

「2匹は失敗作だということで、ある夜に処分されることになった。だが、その晩に二つの事件が起きた」

良が人差し指を立てる。

「一つは、NO,1と呼ばれるセイレーンの施設内での爆発だ。殺処分の為に、窒素を充満させるガス室の中に入れられたNO,1は、呼吸が出来なくなって自らの死を悟ると、自らその場で爆発した。言い忘れていたが、セイレーンの魚雷は俺がやったみたいな遠隔起動の他に、セイレーン自らの起爆も可能なんだ」

良は続ける。

「その爆発で、研究員4人が死んだ。研究センターには火がつき、山火事一歩手前だった。だが、それだけに留まらず、その時点で既に二つ目の事件─NO,2の逃亡が起きていたんだ」

良がハンドルから手を放し、タグに刻まれた『NO,2』の文字を指差す。その瞬間、私は理解した。

「私が助けようとしたセイレーンは、プロトタイプのNO,2ということ・・・?」

良が首を縦に振る。

そういえば、見晴らし広場で男性に拳銃を突きつけられた時に、研究センターの方角で爆発が起こった。あれがNO,1の自爆だということか。

「それからすぐに警備員が研究センター所長の命令を受けて、NO,2の捜索にあたった。御蔭山の隅から隅までを三日かけて探しまわったが、結局見つけられずじまいだ」

まさか自分がそんなことに関わっているなんて、思いもしなかった。

「この二つの事件以降、人魚の自爆対策の為に、ガス処分に使われるのは窒息死を狙った窒素から、毒性による即死を狙う青酸ガスになった。そして、セイレーン創造の新たな課題は自我と感情の排除となり、脳の前頭葉を切除するロボトミーや遺伝子の改造などの様々な試みがされてきたんだ」

「それで、現在は自我を持たないセイレーンは完成しているの?」

「ああ。半年ほど前に研究センターの所長、百野木が作り上げた。けどセイレーンは俺が全部処分したから、今頃ヤツは憤死してるかもしれないな」

百野木なる人物が憤る様を想像したのか、良は薄く笑った。そして、私の方を見る。

「けど、まだ俺にはやるべきことがあるんだ」

真面目な声音。私は先を促した。

「セイレーンは全て処分し、サンプルやデータも破壊した。だが百野木らは再びセイレーンを創るだろう。それができないように─」

そこまで言うと、良は脇のアルミアタッシュケースを持ち上げた。

「この中にある、セイレーン創造の証拠─生体サンプルと資料の一部を警察に持ち込む。研究員を全員逮捕させて、2度と創造が行われないようにするんだ」

それって、と言いかけた私の言葉を、良が引き継ぐ。

「研究仲間を裏切るということだ。それだけじゃない。俺もそれに加担した身として自首する」

ジープは沈黙を乗せて夜の高速を走る。


途中で国道9号線に乗り換え、鳥取県への県境をまたいだ。それから二時間余りで鳥取市に入る。

「今から出頭するの?」

すっかり暗くなった車内で、私は良に尋ねた。

「もう夜遅いしな・・・それは明日の朝一番にする。とりあえず泊まるところを探そう」

良はジープを市街地へと進める。

東京と比べると寂しい街並みだったが、ビルに囲まれた通りには煌々と明かりが灯っていた。零時を越えているので、人通りはない。良は通りの一角にある、ビジネスホテルの前でジープを停める。

「ここでいいか」

そう呟いて、ホテルの屋内駐車場にジープを入れた。

私達が入ったホテルは少し古ぼけていて、どこからか湿った木の香りがする。フロントには赤いペイズリーのカーペットが敷かれており、壁際には果たして価値があるのかも分からない壺が、ガラスケースに収められて陳列されていた。夜も遅い為フロントに人はいなかったが、良は立ち入り禁止の筈の管理室へ入ってフロントマンを叩き起こすと、宿泊の手続きをさせる。事前予約はしていなかったが、空き部屋はあるとのことだ。

良は鍵を二つ受け取ると、行くぞ、と私を促した。私は眠たそうな目をした初老のフロントマンに謝罪して、良の後をついていく。


「ちょっと待って」

エレベーターの前まで来た時、公衆電話が並んでいるのを見かけた私は良を引き留めた。

「どうした?」

「実家に連絡しておかないと。もう日付を跨いでいるし、親も心配してるだろうから」

「分かった。先に部屋で待ってようか?」

良は、私が親との会話を聞かれるのを嫌がると思ったのか、気を使ってそう言ってくれる。

「ううん、大丈夫。ちょっとだけだから待ってて」

私は財布から10円玉を取り出そうと、トートに手を入れた。だが、間もなくして財布も実家に置いたままだということを思い出す。

と、良が10円玉を3枚渡してくれた。お礼を言って、電話の投入口に硬貨を入れる。それから番号をプッシュした。

コール音が数回鳴って、高崎家へと繋がる。だが留守電に設定されていた為、受話器から聞こえてきたのは、大げさに抑揚をつけた女性の声だった。私はガイダンスの指示通り、『ピーという音の後』に両親へのメッセージを入れる。

「お母さん?私、留恵です。昼に良と会って、今・・・えっと、色々あって鳥取県にいます。鳥取市のホテル瀬川っていう・・・あ、ビジネスホテルだよ?そこに泊まっているから。電話入れなくてごめんなさい。明日には帰ります」

セイレーンの件は伏せた。たかだか数十秒の留守番メッセージで、他人に信じさせることが出来るような話ではない。


エレベーターに乗っている時、良が言った。

「しかし、なにゆえビジネスホテルだと念を押したんだか・・・」

デリカシーのないヤツ。私は素っ気なく答える。

「言わずもがなでしょうが」

「そーいうホテルが『瀬川』なんて地味な名前な筈無いだろ」

まあ、そうだけど。


4階で降りて、私達は404号室へ入った。無論、宿泊部屋は別々だが、私の部屋へと帰ったところで眠れそうになかったので、良についていったのだ。

「ねえ、さっき話してたセイレーンのこと、もっと教えて」

室内のシングルベッドに寝そべって、良に話しかける。アルミアタッシュケースを慇懃な手つきでベッドの下へとしまった良は、胡乱な眼で私を見た。

「明日にしろよ。もう1時だぞ」

「いいじゃん。修学旅行みたいで楽しいし。それに3年振りの幼馴染同士、積もる話もあるでしょ。話そうよ」

本音を言うと、今を逃したら話せる時間が取れないかもしれないという不安があったのだ。明日良が警察に出頭してしまったら、下手すればそのまま留置所行きである。

良が面倒臭いヤツ、と小さく笑った。私は心でガッツポーズをする。良がそう言う時は、決まって私の頼みを聞いてくれるのだ。思えば幼いころから、いつも良はこんな調子で私の無理を聞いてくれた気がする。

「何笑ってんだ?」

良が怪訝そうに私を見た。

「何でも。ほら、セイレーンの生体でも何でもいいから、言いなさいよ」

私のそんざいな口調にむくれた良は、しかし私と話してくれた。

「じゃあ、留恵はセイレーンの肌が褐色の理由を知ってるか?」

知らない、と私は首を振る。すると良はヒントと称して、こう言った。

「其の1、研究センターの人間は、合成獣には興味があっても水雷には興味が無い」

良の意図する答えが何か、皆目見当がつかない。良は続ける。

「其の2、警備員も褐色。しかも銃刀法の厳しいここ日本で、小銃を持っている」

頭を捻ったが、答えは見つからない。私はうつ伏せのままで両手を上げて降参した。良は散々もったいつけた後に、正解を教えてくれる。

「答えは、セイレーンの創造は依頼されたものだってことだ」

「どういうこと?」

「研究センターの警備員は、全員がウノビス国軍だ。ウノビスは知っているよな?」

「名前くらいしか知らない・・・」

私の答えに、良は呆れた声を出した。

「ウノビスってのは、30年くらい前に、内戦が原因で二つに分断した中東の国の一つだ。元々砂漠地帯の、資源に乏しい貧困国だったが、12年前に領海で弩級の油田が発見されてからは富裕国に早変わりだ。あくまでも石油の国で、ドバイのように観光に力を入れているわけでもないから確かに有名じゃないけれど、これくらい覚えとけよ」

成る程。だが、そのウノビスと人魚兵器がどう関係するのか。

「だが、その油田が発見された場所っていうのが、また微妙な所でな。油田は内戦で分断したもう一つの国家─キネロとの国境に跨っているもんだから、キネロはそれを自国の資源と主張したんだ。結果、採掘権を巡って今度は戦争が勃発。その後、どうにかウノビスは採掘権を守りきったんだが、戦争自体は停戦状態で、今現在も終結していない。いつ何時、油田が奪われるか分からない状態だってわけだ。そしてウノビスは海底油田の護衛兵を欲しがった」

「それがセイレーンってこと?」

「ああ。石油だけで国の経済が回るもんだから、ウノビスは科学力なんて持っていないに等しいからな。ウノビス軍の最高司令官は秘密裏に来日し、瑞音国立資源・生物研究センターに動物兵器の創造を依頼した」

「そこで、どうして百野木って人はウノビスの依頼を受けちゃったのかなあ・・・」

「元からヤツもそういうことがしたいと思っていたんだろうな。けど曲がりなりにも国立の研究センターってことで、一応政府の目があったから、それまでは本気でやろうとは考えてなかったんだろう」

良はベッドに腰掛けた。

「研究センターは、ウノビスに脅迫されたという大義名分を、事が露見した際の言い訳として用意した。そうして、極秘裏の研究の為に敷地内には研究センターが外から見えないようにと木々が植えられ、警備にはウノビスの軍人があたるようになった。で、いよいよ合成獣の創造に入ったわけだが、その時ホモ・サピエンスの胚を提供したのが、黒人であるウノビス人の女性なんだ」

「だからセイレーンは褐色なのね」

そういうこと、と言うなり良は立ち上がる。ベッドの下のアタッシュケースからPCを取り出すと、何やらキーボードを叩き始めた。

「次はお待ちかね、セイレーンの生体を教授しようか」

そう言って、良は私の方へディスプレイを向ける。

そこに画面いっぱいに映っていたのは、成体の蝶だった。燐粉や触角の一つ一つがくっきりと見える為、美しさを通り越してグロテスクだ。私はふと、羽の模様が左右で異なっていることに気付く。

「うわ・・・何これ?」

「アゲハ蝶の突然変異種だ。左がオスの、右がメスのアゲハの羽になっている」

左は黒とクリーム色の模様、右にはその模様に加えて群青の模様がついていた。

「これは性的二形と呼ばれる、オスメスで外見が異なる生物の一つの個体に、両性の外見特徴がはっきりとした境目をもって混在する、モザイクという現象だ。ちなみにこれは人間にも起こりうることで、この場合は両性具有─いわゆるふたなりになる。まあ、合成獣は異なる種類の生物の特徴が一つの個体に現れることを指すから、モザイクとは似て非なるものだがな」

要は、一つの体に雌雄両方の特徴が現れるのがモザイク、種の違う生物の特徴が現れるのが合成獣ということか。

「でもそれならモザイクで、合成獣であるセイレーンは創れないんじゃないの?」

「そう、今まではそれがボトルネックだった。だが、モザイク現象が起こる過程を細かく研究した結果、人為的に体細胞を突然変異させる方法─つまり遺伝的に異なる部位を持つ生物を創る方法が見えてきたんだ。そうして、その方法を合成獣創造に転用させて、ホモ・サピエンスと水生生物の合成を行おうとした。で、思考錯誤の末ようやく、バンドウイルカとの合成獣、即ちセイレーンが創られた。このアゲハが左右で外見が異なるように、セイレーンは上下で外見が異なると言う訳だ。まあ、この時点では水雷としての機能は持っていないがな」

私は良の話を理解する為に、頭を捻りに捻った。なんとか話にはついていけるが、気を抜いたら訳が分からなくなりそうだ。

「ここで質問その2。何故、セイレーンは女性の姿をしているか」

良は再びクイズを投げかけてくるが、私は良の言った言葉を反芻して理解するだけで精一杯だ。すぐさま白旗を上げる。

「張り合いがないなあ。正解は、水雷に使われる爆薬が、人間でいう子宮にあたる器官にあるからだ」

「男性には子宮が無いから、水雷としての機能は持てないってこと?」

「その通り。人が肝臓にグリコーゲンを貯めるように、セイレーンは体内で炭素、水素、後は硝酸化合物を精製して腹に貯める。一般的な水雷並みの威力はあるな。起爆装置は、セイレーンが産まれた時に腹に埋め込まれる。神経との接続もされるから、自らの意思での爆発も可能だというわけだ」

ふと、良の『セイレーンが産まれた時』という言葉に引っかかりを覚えた。私は尋ねる。

「そういえば、セイレーンは複数いるのよね?セイレーンには生殖機能はあるの?」

「あるわけないだろ。メスしかいないうえに、子宮も火薬貯蔵庫になってるんだから。セイレーンは、最初の個体からクローンを作って数を増やすんだ。だから、プロトタイプの2匹も、俺が今日処分した36匹のセイレーンも全て、最初に胚を提供したウノビス人の容姿をしている」

人体での合成獣実験に、日本での兵器製造。それに加えて次はヒトクローン(厳密にはヒトではないが)の製造ときた。乗りかかった船とはいうが、いくらなんでもやりすぎではないか。

「これで水雷機能を持つ合成獣が出来たことになる。だが、この時点では未だ自我と感情を持っている、プロトタイプの状態だ」

「で、百野木はどうやってそれらを除いたの?」

「最初は、ヒト並みだったセイレーンの脳をビーグル犬のものと入れ替えた」

段々と、話が突拍子もない方向へ進んで行く。

「2005年に、アメリカのスタンフォード大学で、ヒトの脳を持つマウスを創る実験がされたんだ。研究センターはその実験を元に、マウスの代わりにセイレーンを使って、それを行った。だが、ビーグルの脳では火薬の精製が著しく鈍くなることが分かり、ビーグル脳のセイレーンは処分された。さっき話した青酸ガスでな。」

下半身をバンドウイルカに、脳をビーグルにされたセイレーンは、最早人間と呼べないだろう。私は少し気分が悪くなった。

「その後、セイレーンの脳が火薬の精製に最も適しているということが分かり、脳の入れ替えはされなくなった。そして半年前、今度はセイレーンの脳の前頭葉を切除する手術─ロボトミーが行われた」

ロボトミーに関しては、私も医大の講義で聞いたことがある。

「前頭前野への神経路を断つことによって、セイレーンの脳からは意志や言語能力、学習能力が失われた。まさしく低知能で、自我を持たない生物となったってことだ。感情に関して言えば、厳密にいうなら快不快といった類の感情は持ち合わせているが、複雑な感情は持たなくなった。命令には忠実で、ウノビスの海底油田を守らせるには最適の動物兵器が誕生した」

以上、と良はPCを閉じ、再びアタッシュケースに入れてベッドの下へとしまった。

「ほら、もう充分だろ。俺は寝るから、留恵も早く自分の部屋に帰れよ」

良が私を押し退けてベッドに寝そべる。目を閉じた良に対して、私は良の首筋にチョップを入れた。奇妙な声で呻いた良は、首を押さえながら跳び上がる。

「痛ッ・・・お前、何してんだ!」

涙目の良に、私はにこやかな表情で言い放った。

「セイレーンの話はあれで終わりね。なら今度は思い出話でもしようじゃないの」

いい加減にしろ、と良が怒鳴る。だが、その声に本気の怒りは含まれていない。まだ1時半だし、もう少し良を付き合わせてもいいだろう。

それから散々ねだって、ようやく良は、満身創痍の様子でこう言ったのだった。

「面倒臭いヤツ・・・」




「ようやく寝たか・・・」

時刻は午前の2時半を過ぎている。良は寝息を立てている留恵の体に羽毛布団を掛けると、大きく伸びをした。

──俺も寝るか。

良は明日も、先程留恵に説明したのと同内容の話を警察官にしなくてはならない。しかも実際過去にセイレーンに出会い、その上昨日の爆破計画にも偶然立ち会っていた彼女だからこそ、良の話を素直に信じたのであって、初対面の警察官に何の脈絡もなく合成獣の話をしたところで信じてもらえるかは分からない。少しでも信憑性を上げる為にと、資料もセイレーンの写真付きのものを多くした。その為無碍な扱いは受けないだろうが、だからといって容易に信じてもらえるとも思えない。

自分の説明に全てが掛かっている。良は自らを奮起させた。

留恵を起こすのも可哀想だと判断し、良は化粧台の上に置いた留恵の部屋の鍵を胸ポケットに入れる。自分が代わりに留恵の部屋で寝ればよいと思ったからだ。同時に、外して置いておいた腕時計と携帯電話も手に取った。

と、彼は携帯電話のLEDランプが青く点滅しているのに気付く。携帯を開くと、不在着信と新着メールが合わせて46件も入っている。良は画面に並んだ「桑原文香」の文字に、苦笑いをした。

まだ起きているだろうか。一瞬躊躇したが、良はドアの前まで寄ると文香に電話を掛けた。

ワンコールで電話は繋がる。良が文香の名を呼ぼうと口を開きかけた刹那、受話器から文香の叱責が響いた。

「良!あなた何やってるの!?」

声には険しさが含まれている。良は空気を重くしないようにと、努めて軽い調子で話した。

「おう、文香。何やってるの、ってのは研究センターを爆破したことか?大丈夫だって。これでセイレーンも消えたし、明日警察に行けば百野木らも逮捕されるし。そうだ、文香は今のうちに逃げた方がいいぞ。そこに残っていたらお前も捕まるから─」

「そうじゃないでしょう!?」

一際大きな文香の声が良の言葉を途中で遮り、彼の鼓膜をつんざいた。

「な、何で泣くんだよ・・・」

狼狽した良に、涙声の文香が言う。

「一歩間違えればあなたが銃殺されていたのよ?」

ああ、俺のことを心配していたのか。良は文香を愛おしく思った。

「悪い。ありがとな」

心からの感謝をこめて囁く。受話器から鼻を啜る声がした。

「でも、もうセイレーンは処分した。俺も怪我ひとつないから安心しろよ」

文香からの返事は無い。良は彼女の名を呼んだ。と、彼女は小さく呟く。

「いいえ、違うわ・・・」

何が、と良は聞き返す。文香はかすれた声でゆっくりと良に告げた。

「セイレーンは・・・36匹全て生きている」

良は息を呑んだ。

「どういうことだ・・・!?俺は、確かにあの時起爆装置を押した!」

焦燥から自然と声が大きくなる。良は留恵を起こさぬようにと声のトーンを下げた。


「あなた、センター内に爆弾を仕掛けたところを樋口に見られたでしょう」

文香が言う。

「ああ。けど起爆装置を持っているってことは、セイレーンの命を人質に取っているようなもんだからな。セイレーンの起爆を脅しに使って逃げた」

それが原因よ、と文香は淡々と告げる。

「樋口は、あなたが逃げて直ぐに、セーフティ・デバイスの展開を試みたわ。そして、あなたが起爆装置のスイッチを押す直前に施設内に妨害電波を張って、セイレーンを遠隔操作で起爆できなくした。あなたが爆破できたのは研究センターだけよ」

「畜生・・・樋口の野郎・・・!」

壁を強く殴り、頬の裏を思いきり噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。

一匹も処分できなかったことに対する悔しさが良の体を駆け巡った。今もなお、セイレーンは悪逆な実験に使われているというのか。

「ねえ、どうしてそんなにセイレーンを殺したがるの?」

ふいに、文香が声を荒げて尋ねる。

「セイレーンも人間なのよ?警察に暴露するのは賛成だけれど、セイレーンを殺す必要なんて無いんじゃない?」

またその話か。良は内心で溜息をついた。

「生かす理由もない」

一転して、低い声で呟く。

「第一、セイレーンは人間じゃない」

「人間よ!ロボトミーが施されているけれど、脳は人間のものなのよ」

噛みつくように文香が言い返す。

「なら、文香はセイレーンにも人権があってしかるべきだと思っているのか?」

「当然じゃない。彼女らには兵器としてではなく、人間として生きる権利がある筈よ!」

良は小さく笑った。そして、文香に言い放つ。

「お前、さっき言ったよな?セイレーンは36『匹』全て生きているって。セイレーンを人間とみなしているお前が、どうして匹なんて単位を使う?」

文香は返す言葉に詰まった。良は畳みかける。

「それに、セイレーンを生かしたままでその存在を世間に知られてみろ。当然、お前みたくそれの人権を唱える奴が出てくるだろうよ。だが、水雷を体内に有しているヤツが、どうして人間として認められるっていうんだ?仮に人権が認められたとしても、皆に蔑まれ、距離を置かれ、セイレーンが幸せに暮らせられるわけがない。おっと、そもそもあれが幸せなんて高度な感情を持てるわけがないか」

文香は何も言い返してこない。良もこれ以上彼女に言う言葉が見つからず、電話を切ろうとした。

その時、彼女が言った。心なしか、笑っているような声音だ。

「変わらないわね、全く。もういいわよ・・・」

その声を聞いて、良も我に返った。

「悪い。ちょっと言い過ぎた」

この謝罪には返事がない。暫くして、文香が話しかけた。

「ねえ、あなたの所に高崎って人いる?」

「ああ、留恵か?すぐそこで寝てるよ」

「すぐそこ?どうして─」

彼女の声が険悪なものに変わる。

「いやいや、誤解するな。あいつを抱いたとかいう類じゃないから」

良は即座に否定した。

「あの子とどういう関係なのよ?今だって下の名前で呼んでたじゃない」

追及の手は止まない。なおも文香の声は猜疑を孕んでいた。

「小学校の時からの幼馴染だよ。親しすぎて逆に恋愛感情なんて抱かないから安心しろ」

「本当に?」

「本当だってば。で、留恵がどうかしたのか?」

良が尋ねると、思い出したかのように文香が話した。

「そうなのよ。実は─」

文香が語りだしたその時、良は目の前にあるドアのノブがゆっくりと捻られるのを目にした。

─誰かが来た・・・!?

良は呼吸を止める。

「・・・崎って人が、良と行動を共にしているということが─」

ドアには鍵がかかっている為、捻られたノブは途中で小さく音を立てて止まった。

──まさか、研究センターの警備兵が・・・!

追手の襲撃を悟った良は、ゆっくりと後ずさった。

「・・・百野木所長の指示で、高崎の両─」

良はそこで電話を切った。そうして、音を立てないようにベッドまで寄り、留恵を起こそうとする。

その時、静寂の中で良は鍵穴に鍵が差し込まれる音を聞いた。次の瞬間、ロックが解除される。

刹那、良は床を蹴ると、脱兎のごとく駆けて扉を押さえた。その衝撃を察知した襲撃者は慎重な行動を止め、力を以てしてドアを破ろうとする。良は叫んだ。

「留恵、起きろ!!」


良の張り上げた声で私は目を覚ました。いつの間に眠ってしまったのだろうか。

ベッドで上半身を起こす。それにしても、何故良は私を起こす為にわざわざ叫んだのか。他の宿泊客に迷惑ではないか。

良の姿をさがして周りを見渡す。だが照明の灯った部屋に彼の姿は見えない。

「良、どこー?」

「ここだ!起きろ馬鹿!!」

不意に怒号が響き、私の心臓が跳ねる。

「ちょっと、何やってんのよ!夜なんだから静かに─」

ヒソヒソ声で叫んで、声のした方を見る。良はドアに張り付いていた。私と目が合うなり再び叫ぶ。

「襲撃だ!」

その一言で意識が一気に覚醒した。私は慌てて室内に会った一人掛けのソファを両腕で押すと、良を押し退けてドアの前に置く。即席のバリケードだ。

「でかした!」

良は部屋の中に駆け戻ると、テレビや机などをソファの付近に積んだ。

「ねえ、私達どうすればいいの!?」

私は叫んだ。焦りの為か、冷静な思考が出来ない。

「軍人と戦えるわけないだろう!逃げるんだよ!!」

「でも何処に!?」

良がはっとした表情で私を見る。唯一の出入り口であるドアにはバリケードが積まれ、その向こう側には襲撃者がいるのだ。窓から逃げるにしても、此処は4階だ。飛び降りたら致命傷はおろか死の危険も高い。

「どうすれば・・・どうすればいいのよ!?」

恐い。脳裏に遠足の日の夜、男性に銃を向けられた光景がフラッシュバックした。あの時感じたのと同等の恐怖が私の心に湧きあがる。

「落ち着け!!」

良に一喝された。彼は部屋中を歩き回りながら必死で最善策を考えているようだ。

落ち着け。私は良に言われた言葉を何度も心で呟いて、パニックに陥らない様努めていた。

その間も木製のドアは強く叩かれ、何度も木の軋む音が響く。バリケードは衝撃で揺れ、ついに椅子の一脚がソファから転がり落ちた。それを目にした私は、再び強烈な憔悴に駆られる。

「良!バリケードが!!」

その時、良の足が止まった。そして彼はバリケードの手前にあるシャワールームの脱衣所に飛びこむ。

「何やってるのよ!?」

良の後を追うと、彼は脱衣所の隅の壁にある窓を開け放っていた。

「ここから逃げるぞ」

安堵したような、落ち着いた口調で言われる。だが、窓から覗き込んでも下方に地上は見えず、闇が広がっていた。

「飛び降りろっていうの!?」

私が叫びを上げると、良は傍の引き出しからバスタオルを二枚取り出して私に放った。

「それで手を覆え!壁伝いに降りていきゃいいだろうが!!」

良が焦れたように叫ぶ。見ると、この窓のすぐ目の前にはコンクリートの壁があった。ホテル瀬川の壁と隣のビルの壁に手を突っ張って降りろということか。

「そんな・・・無理よそんなこと!」

手を滑らせたら闇の底へと自由落下、その先は考えたくもない。此処は4階だ。もしかすると高さは15メートルを超えているのではないか。

「ヤツに捕まるのとどっちがいいんだ!?」

良が怒鳴るのと同時に、ドアが破られた。バリケードが崩れる音が聞こえる。良が青ざめた顔で、脱衣所のスライド式のドアを内側から押さえた。

「さっさと行け!」

命令と言うより、懇願に近い物言いだった。私は両手をバスタオルで何重にも覆うと、窓の桟によじ登った。

上半身を外に出すと、深夜の張り詰めた空気が私の頬を撫でる。そのまま左腕を伸ばして、奥の壁に押し付けた。

突然、脱衣所のドアが大きな音を立てる。反射的に振り返ると、良が必死の形相でドアを押さえつけていた。警備兵が室内に侵入したのだ。

早く降りなくては。私は身震いをした。良は私の無事を見届けてから続くつもりだろう。ならば私が多少の危険は覚悟で素早く下降しなくては彼が危ない。

私は左足を出すと、これまた奥の壁に押し付ける。そして、左半身に続いて右半身も窓から出し、一歩一歩下降を始めた。


ホテルの2階少し下辺りに到達した頃だろうか。矢庭に銃声が響いた。四肢に力を入れたままで上を見上げると、窓から飛びだす良の影が目に映る。次の瞬間には、私は良の姿を明確に捉える事が出来た。

彼は私の真上にいた。バスタオルの代わりに左腕のみに白衣を巻いて、左腕と右足を両壁に突っ張って壁を高速で滑り降りている。右腕は下に向けて伸ばしていた。

その刹那、私は滑り降りてきた良の右手に抱きすくめられて、彼と共に落下していった。あっという間に地上に降り立つ。と、彼は私を小脇に抱えたままで建物の隙間を猛然とダッシュしだした。彼の足音に呼応するかのように、何発もの銃声が響く。良はものの数秒で隙間を抜け、ホテル瀬川の正面入り口に躍り出た。銃の死角に入った為か、良は私を降ろして息を整える。

「あの野郎・・・!まさか街中で発砲するとは・・・」

苦々しげに良が吐き捨てる。見たところ何処も撃たれてはいないようだが、荒々しく肩を上下させる様は彼がかなり困憊しているように思わせた。

「留恵、お前は大丈夫か?」

良が私を気遣って尋ねる。私は彼を心配させないようにと、心の余裕の残量を全て笑顔に変換した。勿論、こんな場面で無邪気な笑顔を晒せる筈が無いので、それは弱々しいものになっただろうが。

僅かな休憩を終えると、ついてくるよう言うなり良は再び走り出す。先程よか幾分スピードは緩いが、警備兵が一階に下りてくるまでに逃げ切らなくてはいけないという強迫観念が自然と私達の足を速めさせた。

屋内駐車場に入り、ジープに乗りこむ。エンジンの爆音と共に、私達は警備兵の残るホテル瀬川から逃げ出した。



「どうして私達のいる部屋が分かったのかしら・・・」

深夜3時過ぎの一般道をひた走るジープの車内で、私は良に尋ねた。

「大方、フロントマンを銃で脅して吐かせたって所だろう。警備兵は402号室の合い鍵も持っていたしな」

初老のフロントマンの安否が気になる。私達が壁を降りる時以外は発砲されなかったようなので、無事だとは思うのだが。

「だが・・・それよか不思議なのは、そもそも何故俺達がホテル瀬川に泊まっていることが分かったかだ」

良がアクセルを踏みながら思想にふける。

「確かに尾行されなかったから、私達が鳥取県に逃げたことさえ、警備兵は知らない筈だし・・・」

私は良に言葉を返した。

「もしかして、ジープに発信機でも仕掛けられているとか?」

「それは無いな。元々警備兵の物だったのを奪ったんだから。あの引き渡しまでの短時間のうちに発信機を設置できたとも思えない」

と、良が何かを思い出したような顔になる。

「そういや、留恵に言ってなかったな・・・」

「何を?」

私が聞くと、良は唇を噛んで言った。

「俺が一匹もセイレーンを処分できなかったこと」

良はそれから、文香という女性との会話内容の一部始終を教えてくれた。彼はとても悔しそうだったが、私はどこか安堵していた。

「でも、それで良かったと思う」

良の話が終わった後、私はその気持ちを声に出した。良は剣呑な目つきで私を見る。

「正直、私はセイレーンも人間だと思うのよ。だから、セイレーンを処分出来なかったってことは、良が殺人を犯さずに済んだってことだもの」

私の言葉を聞くと、良は悲しそうな顔になってシートにもたれた。

「セイレーンは人間か・・・お前も同じことを言うんだな・・・」

その声音には、私に罪悪感を生じさせる何かがあった。私は咄嗟に取り繕う。

「でも、問題無いでしょ?だって明日警察に話せば、セイレーンの研究は強制的に終わらせられる訳なんだから」

良は何も言わなかった。私はどうして気まずい空気になったのか分からず、首を傾げていた。

「セイレーンを・・・どうやって処分するか・・・」

良は小さく呟き始める。私は良にかける言葉を模索していた。

「・・・もう一度赴いて・・・爆破させるか・・・?」

彼の言葉に薄気味悪さを感じた。常に少し斜に構えている良らしくない、負の感情をストレートに出した呟き。

すると突発的に、ジープが甲高い悲鳴を上げて滑った。良が急にブレーキを踏んだのだ。

ジープは数十メートルもの距離を移動して止まる。慣性の法則で私達の体は思い切りシートに叩きつけられた。

「ちょっ・・・どうしたのよ!?」

良は私の問いかけに応じない。目を見開き、ダッシュボードの一点を凝視しながら体を震わせて、彼は歯軋りをした。

「起爆装置は・・・アタッシュケースの中・・・」

「良?大丈──」

「アタッシュケースは・・・ホテルに置いたままだ・・・!」


コンビニで菓子パンなどを適当に見繕って買い、駐車場に停めてあるジープの元へと向かう。

朝も早い為、店内に客はいない。コンビニ本体の三倍以上の面積を持つ駐車場にも、私達のジープ以外には商品搬送のトラックが一台停まっているだけだった。

良は運転席で脱力したように眠っていた。私は車外からそれを覗き込み、つい溜息をつく。

「らしくないんだよなあ・・・」

思わず独り言が出た。その言葉はまさに、私の中で渦巻いている数多の感情を一本に束ねたものだ。

私らしくない。良らしくない。そして、日常らしくない。

一昨日までは、私は単なる医大生だった。大分都会に慣れてきて、少しだけファッションのなんたるかを知っただけの、外科医を志す21歳。

本来ならば、今の時間はちょうど病院での宿直バイトが明けた頃だ。数えるほどしか乗客のいない朝一番の東京メトロに揺られながら、爆睡している筈なのに。

久方ぶりの故郷を堪能しようと思って帰郷したら、いつのまにか事件に巻き込まれている。それも平凡な刑事事件では無く、人間兵器の開発というとんでもないものだ。その上、ついには命まで狙われるのだから、いよいよ理解できる範疇を大幅にオーバーしてしまった。

良も、私が知っている彼らしくない。幼馴染という立場から、良のことは殆どを理解していると思っていたのに。

彼は唯実験を終わらせるだけでなく、あくまでセイレーンを殺すことにこだわる。

なぜ殺さなくてはならないのか。

なぜああも簡単に、殺そうと思えるのか。

彼にしてみれば、その行為は『処分』に他ならないからだろうか。伝染病に感染した家畜を一斉処分するのと同じように、実験動物であるセイレーンの命も奪う。

研究員の目線から科学的に見れば、確かにセイレーンは人間ではないのかもしれない。セイレーンに詳しい良だからこそ、人間との相違点も知りつくしていて、それでセイレーンを動物と思えるのかもしれない。

だが、私にはそう思うことが出来ない。どうしても、その容姿にとらわれる。そして、私自身それをよくないこととも思っていないのだ。

セイレーンを人間と判断するのに、理屈は必要ない。

どうしてか、そんな信条が私の芯に通っているのだ。その非論理的な信条を持つことすら、私らしくない。



私はジープに乗りこむと、冷えた缶コーヒーを開けた。静かな車内にプルトップの音が響く。

コーヒーを味わいながら、ふと良を見やった。寝ていると言うのに、彼の表情は穏やかでない。精魂尽き果て、それでいて憤怒がたぎっているような。

アタッシュケースを置き忘れたことに気付いた後、良は私をジープから降ろし、自分一人でホテルに引き返そうとした。だが、警備兵のいる場所に戻るなど正気の沙汰ではない。私は必死に反対した。良は次第に強い口調で私の下車を命令しだしたため、私も意地になって助手席に居座り続けた。結局根負けしたのは良である。私は落ち着いた良に、ホテルに戻る危険性と、無意味さを語って彼を諌めた。そして良は渋々ながらも承諾して、再びジープを走らせて鳥取市から離れたのであった。1時間ほど前にこのコンビニに駐車して今に至る。

良の寝顔を見ているうちに、私は何故か無性に不安を抱いた。喩えるなら知らない土地に無一文で放り出されたような、新鮮さに対する恐怖だろうか。良が別人に見えてやまない。

私は袋から良の分の缶コーヒーを取り出すと、彼の頭上にそれをかざし、手を放した。頭と缶底の距離は拳一つ分である。

良はすぐさま、大げさな悲鳴を上げて飛び起きた。私は腹を抱えて笑う。

良の騒ぐ様があまりにも可笑しかったことと、いつもの彼らしかったことからだ。


寝起きは散々騒いだというのに、良はものの数秒であの疲弊しきった顔に戻ってしまった。私は落ちた缶コーヒーを拾って、朝食の菓子パンと一緒に良に渡す。

良は無言でそれを受け取ると、黙々とパンを咀嚼し始めた。目は虚ろで、心ここに在らずと言った様子である。

「今日、警察行くの?」

私は良に尋ねた。答は既に分かってはいるのだが、沈黙に耐えられなかったのだ。

「いけるかバカ」

帰ってきた答えは想像通りのものだ。

「起爆装置も証拠資料も無い。再び研究センターに戻れば殺される・・・」

コーヒーの缶を開けながら、良は呟いた。今度は独り言では無く、私に向けて発せられているのだろう。

「諦めちゃダメだって。また頑張ればいいじゃない。私も手伝うから、ね?」

私は明るい声を良にかける。

「いや・・・これ以上お前を巻きこめないって・・・」

私と対照的に彼の声音は低く、聞き取りにくい。その様にじれったさを感じた私は、握り拳で良の肩を小突いた。

「巻きこむも何もないでしょうが。私の命だって狙われてるんだから、アンタに護ってもらわないと」

良の表情に少しだけ変化が見られた。私は続ける。

「そもそも、私の方が先にセイレーンを知っていたのよ?後から知ったアンタにとやかく言われる筋合いはないわ」

良は呆気にとられたような顔つきになった。そして少しだけ笑みを浮かべる。

「ごもっとも」

良はそう言って大きく伸びをしたのだった。すると彼は私の方に向き直り、けどな、と口角を引き上げた。

「誰も一瞬たりとも諦めちゃいないよ」



「セイレーンは既に完成しているしな・・・。ウノビスが輸送船でそれらを受け取りに来るのは今月の末日─つまりタイムリミットはあと10日ってことだ」

その日の昼頃。公園のベンチで噴水を眺めながら良が言った。レンガ模様の地面は日光で温められ、陽炎を作りだしている。四方八方からアブラゼミの合唱が聞こえていた。

「やっぱり、警察に言うのが一番いいんじゃないのかなあ。たとえ信じてもらえなくても損は無いし」

私は食べ終えた氷菓の棒を咥えながら良に応える。

「警察か・・・その方法だと研究は中止させられても、セイレーンを処分できないんだよな・・・」

再び良は唸り始めた。うんざりした私は溜息をついて言う。

「あのさ、処分にこだわるから難しいんじゃないの?良一人で敵の根城に乗り込んで、全セイレーンを爆発させるのって相当な難易度よ?」

「良一人で、ってことは留恵は手伝ってくれないのかよ。さっきと言ってることが違うじゃないか」

「私は処分には反対よ。あくまでもセイレーンを生かす為に手伝うんだから。それに、仮に研究センターに潜入したとしても、見つかればウノビス兵に命を狙われるうえ、起爆装置を手に入れた所でセーフティ・デバイスとかいうのが展開されちゃったら手詰まりなんじゃないの?」

「・・・正論だな」

良が両手を上げる。

「だが・・・いずれにせよセイレーンはオレが処分しなくちゃならないんだ」

「全く、頑固なんだから・・・」

その後も私達は話しあったが、結局妙案は思い浮かばなかった。そもそも私と良ではセイレーンを生かすか否かという点において目的が異なるのだから、二人ともが納得する良い案が出る筈がない。私はベンチを立ちあがると、ゴミ箱に氷菓のスティックを捨てに向かう。

と、ポケットの携帯電話が軽快なメロディを立てた。取り出して画面を開くと、着信相手は非通知にされている。

誰だろうか。非通知設定されていることに僅かな奇妙さを感じる。私は歩きながら電話に出た。

「どうも、高崎留恵さん。久しぶりだね」

柔和な口調の、低い声。だが私はその声の主に覚えが無い。

「えっと、申し訳ございませんが、どちら様でしょうか・・・?」

私の質問に、男性は品性のある笑い声を出した。

「すまないね。君とは以前、御蔭山で会ったことがあるのだが・・・なにせ随分昔のことだ。覚えていなくても仕方ない」

私はこの男性と知り合いなのだろうか?声だけ聞いていても、さっぱり思い出せない。

私が黙っていると、再び男性は笑った。だが、二度目のそれは何処か私を嘲っているように感じられた。


男性の笑いが止んだ後、携帯のスピーカーからはこう聞こえてきた。

「私は百野木勇──いや、君には百野木所長と名乗った方がいいのかな?」

全身の肌が粟立った。私は歩みを止め、木陰に入る。携帯を持つ右手が震えるのを、左手で押さえつけた。

「何故私の名前を・・・?」

情けない声で百野木に尋ねる。

「君と会った翌日、昨夜御蔭山で高崎留恵なる少女が遭難していたことを町民から耳にしてね。私がその児童をプロトタイプの逃亡に加担した者と判断するのは当然だろう?」

その言葉を聞いて、機関車の遊具に腰掛ける百野木の姿が思い出された。

「あなたが・・・小学生の私を殺そうとしたのですか・・・?」

「とんでもない。銃はあくまで脅しに使わせてもらっただけだ。殺す気は無かったよ」

自らに銃を向けた相手と、私は今会話をしている。首筋を冷汗が伝った。

良に代わるべきだろうか。私は彼が腰かけているベンチを見やる。良は私の様子には気づいていないのか、相変わらずぼんやりと噴水を見つめていた。

「し、清水良に代わりましょうか」

どうしてか敬語のままで、私は百野木に尋ねる。

「いや、清水に用がある時は彼の携帯にかける。今日は君と話がしたくてね。いいかな?」

百野木は物腰柔らかな態度で私に聞いた。私は曖昧な返事をする。

「始めに、君に謝らなくてはならない。君と清水の命が危ぶまれたことについてだ」

百野木はそう言った。

「昨夜はすまなかったね。全く、ウノビス人は野蛮な輩ばかりなのでな・・・」

謝罪が意味するのは、ホテル瀬川の私達を警備兵が襲撃したことだろう。だが、何故彼がその件について謝るのかが分からない。襲撃は百野木の命令によるものではないのか。

「今日、ホテル瀬川に私も赴いた。まさか警備兵があれ程強硬な手段で襲撃するとは・・・ドアが外れているのには私も驚いた。」

その様を思い出したのか、百野木は可笑しそうに笑う。だが、私には彼が何を思っているのか理解できない。

「本当に、野蛮で粗雑な輩だよ─もっとスマートに寝首をかけば良いものを」

元に戻りかけた肌に再び鳥肌が立つ。電話口で百野木は自分の言葉に笑っていた。元より謝罪する気はさらさら無く、襲撃もやはり百野木の命令だったのだろう。彼は上手いジョークでも言ったつもりなのだろうか。

「・・・そもそも、どうして私達がホテル瀬川に泊っていると分かったのですか?」

私は最も気になっていたことを尋ねる。

「そう、それなんだよ。実は、勝手ながら君が実家にかけた留守番電話の録音を聞かせてもらってね」

「・・・盗聴したんですか・・・?」

「いいや、そうではない。君の実家の家電話から直に聞かせてもらった。」

百野木は続けた。

「分かりやすいように、初めから話そう。昨日、うちの清水が爆破事件を起こして逃亡した後、研究センターに戻って来た私は事件に居合わせた警備兵から妙な話を聞いたんだ。清水が逃亡を共にした女性が、なんと死体すら見つからなかったあのプロトタイプNO,2の識別タグを持っていたとね。私はすぐに君の存在に気付いたよ。あの夜にプロトタイプを守ろうとした君が、何故清水のセイレーン殺しに加担するようになったのかは分かりかねるが、ともかく君は清水の共犯者だ」

セイレーン殺しの加担などしていない。私は心の中で百野木に異を唱えた。

なりゆき上良と行動を共にしているが、セイレーンに対する見解は正反対なのだ。私の考えはプロトタイプに会ったときから変わっていない。

「そこで、だ」

もったいつけたように、百野木が言葉をいったん切る。

「セイレーンの殺害を危惧する我々としては、一刻も早く清水良と高崎留恵に姿を現してもらいたい。後生だ、どうか瑞音の研究センターまで足労を願えないかね?」

一瞬、呆気にとられる。敵の頭に来いと言われて、素直に敵の本拠地へと赴く愚者がいるとでも思っているのか。

「・・・行くわけないじゃないですか」

そう言うと、百野木は何度目かの笑い声を上げた。

「いやいや、ちょっとした冗談と言うものだ。勿論、自ら進んで来てくれるとは思っておらんよ」

そして、彼はこう言った。

「だが、この場合はどうかね?自らが望まなくても、私の元に来ざるを得ない状況─」

刹那、携帯を取り落としそうになった。真夏の空気が、極寒の冷気に変わったかのように感じられる。

百野木の、高崎家で私の留守番を聞いたと言う発言が思い返された。つまり、彼は我が家を訪れたと言うことだ。だが、頼まれたからと言って、人は初対面の相手に留守番電話を聞かせるだろうか。答えは否である。

そして、私の元に来ざるを得ない状況─

二つの発言が繋がった。その答えがあまりにも絶望的で、私は嘔吐感を覚える。

「君の両親は今、研究センターの一室に軟禁されている。意味は分かるね?期限は三日だ。それまでに、君一人で構わないから研究センターに来たまえ」

蝉の合唱が遠く感じられた。


放心状態から立ち直るのは意外に早かった。私は立つと、良のいる噴水に背を向けて走り出す。

セイレーンらの命と、両親の命を天秤にかけた時、傾いたのはやはりというべきか─両親の側なのだ。百野木が約束を順守するかには疑惑の余地があるが、それ以上に気のはやりがあった為、私は一人で研究センターに向かおうと決めていた。

駐車場に到着した私は、ジープのトランクを開いた。車両を強奪した際にキーは手に入れていなかった為、ジープは常にアンロック状態にあるのだ。

良には悪いが、現在一文無しである私はトランクから現金ないし、即座に換金できるものを拝借してタクシーを拾うしか、研究センターのある瑞音町へ戻る手段が思い浮かばなかった。

私は背徳感を抑えつけながら、トランク内を物色した。だが、そこには警備兵の物だったであろう銃が十数丁に、弾薬のぎっしり詰まった木箱が二つ、それとリアウィンドウのガラス破片がいくらかあるだけだった。

良の唯一の荷物であるアルミアタッシュケースも今や研究センターの手に渡っているうえ、彼の財布も彼自身が身につけているようで、車内には無かった。とどのつまり収穫ゼロである。

私は汗に蒸れた長髪を掻きむしった。猶予三日と言えど一刻も早く両親の無事を確認したいというのに、瑞音町へと行く術がない。

──何か上手い嘘の口実を作って、良から交通費を貰うことはできないだろうか。

ふと思い浮かんだ。背徳感は消えないものの、今は四の五の言っていられない。後から理由を話して、借りた額を返し謝るほかあるまい。

私は思い直して、噴水のベンチに向かうことにした。。だがトランクを閉めて振り返った時、そこに人が立っていることに気付く。

「幼馴染が車上荒らしってのは、全く笑えねーな」

仁王立ち姿の良が呆れた顔で私を見ていた。




再び、公園のベンチ。少しだけ日の当たりが和らいだ気がする。

良は私に、車内を物色した理由を詰問された。私は逡巡したが、このまま彼に誤解を抱かせたままでいるわけにもいかない。良が協力者となってくれることを祈って、先刻の百野木との会話内容を余すところなく話した。

「──つまり、留恵はお前一人が研究センターに行けばそれで良いと思っているのか?」

静かな怒りを感じさせる声で、良は私に聞いた。私は頷く。

と、彼は無言で私の頭に拳骨を振り下ろした。脳天に電流が走ったような痛みが襲う。

私が呻いていると、良は語気を荒げて言った。

「何で俺に黙ってた!?」

「だって・・・!私の両親のことなのに、良を巻き込むのは悪いし・・・」

「関係ないヤツは巻きこめないってか!?さっき俺がそれを言ったときお前は反駁してたくせに。思いっきり矛盾してるだろうが!」

「・・・でも百野木は一人でいいって言ったし・・・それでその、お金が無くって─」

「あーもう黙れ。理由が理由だ、車上荒らしの事は怒ってねえよ。怒ってんのは留恵一人で行こうとしたことだ」

良は座したまま軽く前屈姿勢になり、手を組んだ。

「お前、言われるがままに百野木の所に行ってたらどうなったと思ってんだ?」

確実に無事では済むまい。ホテルで銃撃されたことを鑑みても、セイレーンの秘密を知っている私は─正確にいえば、殺されるのだろう。

「でも・・・殺されるかもしれなくても・・・行かないとお父さん達が・・・・」

バカ野郎、と良が首を掻く。

「最終的には殺されるだろうよ。だが、まずは使われるだろうな」

──使われる?一体何に。

「要は芋づる式だよ。お前の両親を人質にしたところで、それに俺を脅す効力は無い。俺にとって留恵の両親は人質としての価値は低い──もの凄く悪く言えば、『どうなろうが知ったこっちゃない』からな。そんな時、百野木はどうすると思う?」

私は思案を巡らせる。まともに思考すれば、答えは直ぐに分かった。単純な話である。

「始めに、両親を使って私を呼び出して・・・今度は私を人質に・・・?」

「御名答。百野木が殺したいのはお前だけじゃない。俺を研究センターに来させるために、留恵の両親だけでは力が足りないと感じた百野木は、留恵を人質に俺を脅すつもりだったんだろう」

まさに芋づる式だ。私の両親から、私を。そして私から良を呼び出す。最終的に全員がそろった時点で、私達は─殺されていた。

「つまりお前にその気が無くても、一人で行ってしまえば結果俺も巻き込むハメになるってことだ。分かったら研究センターなんぞ行くな」

私は無言で項垂れる。

「でも・・・そうしたらお父さんとお母さんが・・・・」

思わず嗚咽が漏れた私の背中を、良がさすってくれる。

「安心しろよ。お前の両親も殺させない」

顔を上げた私に、良は笑みを見せた。

「百野木に反撃するんだ。逆にヤツの仲間をこっち側に引き入れてやろうぜ」


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