そこは人の道。そっちじゃないよ。
頭のてっぺんから意識が広がっていく。次は左目。右目。
ああ、よく見える。以前よりもはっきりと。
初めて開けた視界の先には何もなかった。
何も、というと語弊があるかもしれない。
無次元に世界にいるわけではないと思う。
地面はある。灰色で固められている。それは上も下も横も同様だ。
コンクリート。それを作ったのは人だ。
そうだと理解できる俺は、おそらく人と呼ばれる者になったんだ。
慣れてきたところで両腕を上げて視界に入れてみた。
一、二、三、四、五。
五つに別れたその先には平べったく長い爪がある。
綺麗な指だ。以前よりも指の本数も多くて、意識すればどうにだって動くし、なんて使い勝手がいいんだ。
下を見ると両足があった。手を同じように五本指。
大きな指から小さな指までを順に動かした。面白い。
左足から前に進む。次は右足。
足の裏にひやりとコンクリートの冷たさが広がった。
コンクリートが温まるくらいには俺はそこに佇んでいたらしい。
楽しくなってきて、だんだんを速度を上げていく。
以前のように早く走ることはできないけれど、それでも風を切るくらいには走れる。
走ることってやっぱり気持ちいいもんだ。
息が上がってきたところで、ようやく気づいた。
コンクリートの世界はどこまで行っても同じだ。
出口はあるんだろうか。
この心臓の高まりはどうしたものだろう。
こんな距離を走るくらいで、心臓が勢いよく脈うっている。
さすがにそのまま走ってはいられなくなって、よろよろと壁に座り込んだ。
息遣いが聞こえる。耳は二つある。横に付いていることを除けば以前と同じだ。
低い声が漏れた。俺はやっぱりオスのままらしい。
息を吐く。息を吸う。
二つの音が嫌に耳に響く。
脳にまで響いて来て、ガンガンと鈍痛を伴ってきた。
体を丸めて、俺は曖昧な恐怖に震えた。
「こらこら。だめじゃないか。」
優しい声が聞こえた。
どこかで聞いたような気がする。
いきなり現れたということに少しも驚かないで、俺は埋もれていた顔を上げた。
そこはもう灰色の世界ではなくて、白いばかりの世界だった。
出口はきっとないだろう。
「審議の最中に抜け出すなんて、どうしてじっとしてられなかったんだい?」
はたと気づく。
そういえば、この声の主の姿が見当たらない。
優しい声だけが、この白い世界に響いていた。
「あの場所は君の通る道じゃなかったんだよ。あの子のところにもう一度行きたいんだろ?あの場所からじゃ君は帰れないさ、険しい道のりだからね。」
ぼんやりと声を聞いていた。僕はもう、そこには存在はしていなかった。
僕は。…ああ、暖かい。まるでこの白い世界に溶け込んでるみたいだ。
「大丈夫。今度は出口が見えてくるはずさ。君だけの通り道だから。」
音が聞こえる。小さな音だけど、確かに聞こえた。
トク、トク、トク。
その音が聞こえてくるところが、出口なのかな。
(違うよ、入口さ)
「お母さん!この子犬、ポンタの小さい頃にそっくりよ!」
「あらほんと!美紀に会いたくて、もう一度生まれ変わってきたのかしらね。」
終
自分でもよくわからない世界になりました。