事の始まり
その日は普段と異なっていた。
時間通りに起きる事が出来なかった。
お陰で十分な朝食もとれず、腹二分目の状態で登校するはめになった。
「まずいな……急がないと完全遅刻だ」
季節は夏、既に高く昇った太陽の光を浴びて、
本能の赴くまま鳴く蝉の声を背に、一人の男─田中誠一郎─が自転車を走らせていた。
胸元を横切る様に一筋の黒いラインが引かれた白のTシャツ、
ベージュのハーフズボンそして紺の野球帽を被り、軽快車を走らせる。
その姿は何処にでも居る一般大学生だった。
見事に鍛え上げられた肉体を除いて。
「よし……!この坂を下ればもう直ぐ駅前だ!」
前傾姿勢を取り、ブレーキレバーに指をそえ、ペダルに力を込める。
傾斜はさほど無いものの、長々と続く下り坂を一気に駆け下りる。
意識が前方に集中し周りの風景が後ろに流れていく。
「うっ……汗が……!」
左目の痛みに意識が前方から逸れ、左手をハンドル離した瞬間ガクンと前輪が沈み、
誠一郎は空へと投げ出された。
「ちょ……なんで段差が……!?」
何者かに背負い投げをされた格好で宙を飛ぶ。
ゆっくりと周りの景色が回転するのが見えた。
(これが走馬灯ってやつ……?)
周りの景色の速度が加速し、黒々としたアスファルトへ吸い込まれていく。
後頭部から首へ、そして背中を経由して腰、踵が次に最後に膝。
誠一郎はアスファルトに飲み込まれるようにその姿を消した。
※※※※※
「…………?」
誠一郎は待てどもやってこない体への衝撃に、恐る恐る右目を開けた。
右目に映るのはアスファルトに無残に転がる自分の姿──ではなく、青い海と白い砂浜。
続いて左目も開く。
やはり目の前には青い海と白い砂浜が広がっていた。
「……どう、なってんだ?」
帽子を脱ぎ、短く刈上げた坊主頭を撫でながら、誠一郎はゆっくりと腰を起こす。
「怪我は……無いみたいだな」
軽くニ、三度スクワットし、自分の体を確かめる。
「打撲や捻った感じも無しと……」
軽く自分の頬を叩き、両目を瞬かせる。
「痛みは感じるし、何度瞬きしても目の前の海はアスファルトに変わらないと」
両手を頭の上で組み、背伸びをする。
「ふっ……知っているぞ。これはあれだ、異世界なんちゃらだな」
『慌てふためかないのはありがたいが、冷静すぎるってのも寂しいもんだな』
「なん……!?」
不意に頭に響く声に誠一郎は思わずファイティングポーズを取った。
前方には青々とした海、視線だけで左右を確認する。
(誰も居ない……か)
白い砂浜に前転し、即座に後方を低い体勢で確認する。
(後ろも無しと……)
誠一郎はすっと立ち上がり、姿の無い声の主に警戒体勢を取る。
「お前は……誰だ?」
『私の名はフォン。神だ』
「低めの声からして男か……チェンジだ!」
『何を言っているのか分からないが諦めろ。というか、驚かないのだな』
「そうでもないさ。心の臓はドキドキ言ってるし、初めての事だらけだしな。だけど、喚いたって何も変わらない事だけは分かる」
神、それも姿の見えない相手では分が悪い。
そう感じた誠一郎は警戒を解き、砂浜に胡坐を組んで座る。
「それで、神様が俺に何の用なんだ?まさかうっかり俺のこの世界に放り込んじゃってごめんね、とかいうお約束じゃないよな?」
誠一郎の問いに、フォンと名のった神からの返答は無かった。
「……図星かよ……」
『済まない』
短く切りそろえられた坊主頭を掻きながら、誠一郎は考える。
異世界に飛ばされた。それも神の手違いで。
なんというかお約束過ぎてぐうの音も出ない。朝食がおざなりだったので腹の音が代わりに出そうだ。
「元の世界には帰れるのか?」
『それは私の提案に対する君の返答次第だ』
「俺の返答次第?どういうことなんだ?」
フォンは咳払いを一つし、二つの提案を示した。
一つはこの世界で生きていく事。その場合、異世界へ飛ばしてしまった謝罪としてこの世界で有効な願いを一つだけ叶えてくれる。
ただし、元の世界には何があっても戻る事は出来ない。
次に元の世界へ戻る事。この場合、俺はアスファルトに直撃する直前から始まるらしい。
運が悪ければそのまま昇天する可能性がある。
「なんだよ……一つしか道がねーじゃんかよ」
元の世界には戻りたい。しかし、戻って死んでしまえば意味が無い。
『私の不手際とはいえ、本当に申し訳ない』
「いや……まぁ、その……なぁ?」
相手が不遜な、もしくは高圧な態度を取ってくれれば、誠一郎も反発する形で憤慨する事も出来ただろう。
しかし、こうも下手に出られてしまうと、理不尽に対する怒りの矛先が路頭に迷ってしまう。
「はぁ……いいよ、この世界で生きてみるよ」
『そうか、では一つだけ願いを叶えて進ぜよう。何なりと言ってくれ』
「それじゃあ、何者にも屈しない強靭な肉体を」
『今でも十分素晴らしい体躯だと思うのだが……』
「元居た世界ならな。この世界では通用するか分からないだろ?」
『なるほど、承知した』
少し目を閉じていろとフォンの声に従い、誠一郎は静かに両目を閉じる。
暫くすると体の芯から温まる─まるで温泉に入った様な─それは徐々に体中に広がり、
やがてゆっくりと消えていった。
『願いは無事叶えられた。後、この世界で意思疎通ができるよう言語能力も強化しておいた』
「良いのか?叶えてくれる願いは一つだけなんだろ?」
『私なりの謝罪の気持ちだ。受け取ってくれ』
「そっか、あんたが良い神様で良かったよ」
『そう言ってもらえると助かる』
ゆっくりと腰を起こし、腕を回す。
心なしか体が軽く感じ、気を良くした誠一郎は垂直に飛び上がる。
その跳躍は優に二メートルを超え、誠一郎は目を白黒させた。
「その…なんだ、行き過ぎな気がしなくも無いな!」
『じきに慣れる』
そうだと良いな。と誠一郎は砂浜に落ちた野球帽を被りなおす。
『そろそろ私は行かねばならぬ。君には大した手助けもしてやれないが、達者で暮らしてくれ』
「ああ、なんとか達者で暮らしてみるよ」
誠一郎は白い雲を抱えた青い空に親指を立てた。
その顔に憂いは無く、これから始まる第二の人生への好奇心で満たされていた。