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2-2

 由紀人くんは呆然と未海ちゃんの顔を見つめていた。未海ちゃんは煙を吐いてまた由紀人くんの顔を見ると、


「ふふ」


と、妖しい自虐に満ちた笑い声をあげた。そうして、まだ長い煙草を灰皿に押し付けて消してしまった。


「私、前職が事務員だったって話しましたよね?」


「うん。税理士事務所の事務員さん――税理士補士? してたって」


「ほじょ。税理士補助、です。秋田の高校を出て、伯父にコネがあった新宿の税理士法人に入れてもらったんです。アパートは西荻窪の安い物件を伯父が探してくれました。でも――想像ができるかも知れないけど、十八でたった一人東京に出て、なんの経験もなく事務所で働くのは本当に大変でした。簿記二級の資格取得も働きながらしなきゃならなくて、ストレスでひどい便秘になりました。それで日常的に下剤を使うようになったんですね。


 下剤を使うと、要するに出る時は下痢になるじゃないですか。それが悪かったんです。気づけば便の細菌がさっき言ったお尻のくぼみに入っちゃったみたいで、膿んで。


 その時の辛さ分かります? とても長時間座って事務仕事なんてできない。熱も出るし、それまで無欠勤だった仕事も休まなきゃならなくなった。それまで私、できないなりに一生懸命仕事を覚えて、自分で言うのもなんだけどけっこう上司や所長の信頼は得ていたんです。彼氏もできて……年上の先輩税理士さんから告白されて付き合って、将来この人と結婚するんだろうなって思っていたんです。


 それが――それが、仕事を休んで鎮痛剤飲んで何日かぶりに事務所に行って、でもやっぱり辛くてまた何日か休んでって何度か繰り返すうちに、だんだん職場の先輩たちがよそよそしくなっていくのが分かってきたんです。そのうえネットで調べる限りどうも自分の病気は痔瘻の前段階らしい、と知って。私、二十歳だったんですよ? 肛門科に行ってお医者さんに痔になったみたいですって告白するなんて、とても耐えられなかった。それでもどうしようもないくらい辛いから、病院に行って、膿瘍を切開してもらったら、一時的に楽にはなった。だけど、運悪くお尻にトンネルができて――痔瘻になった」


 未海ちゃんは淡々としゃべり続けていた。そうしてまた煙草に火を点けた。


(今さっき長い煙草を消したばかりなのに)


由紀人くんはその無駄を不審に思ったが、何も言えなかった。


 煙草を吸い、煙を吐くと――


「痔瘻は手術しか治療法がありません。私は所長に診断書を見せて、休職を願い出ました。『痔瘻。』所長は診断書を見て、新種の昆虫の名前を読まされたかのように呟きました。私は顔から火が出るかと思いました。


 とにかくそれで入院、手術して二週間の休職後、私は事務所に復職しました。そうしたらそれからたった四カ月後くらいに、痔瘻が再発したんです」


 未海ちゃんはそこで話を切って、相手の反応をうかがった。由紀人くんはひたすら困惑して、黙っていた。


「私はまた『診断名 痔瘻』と書かれた診断書を所長に見せました。所長は今度は眉根に皺を寄せて――回りくどい言い方で私に自主退職を勧めました。


 私は三十万円の退職金をもらって、退職しました。一度目の手術の時は優しくしてくれた彼氏――先輩税理士――も、だんだん連絡をして来なくなって、退職後しばらくして私は振られました。


 私は再手術を受けてなんとか痔瘻を治し、もう座り仕事はうんざりだったので、時給が高いビールの売り子のアルバイトを始めました。売り子はプロ野球のシーズン中しかできませんから、オフシーズンとジャイアンツの遠征中は吉祥寺でバーのアルバイトをすることにしました。どちらも座らずに済む仕事だったからです。


 ふふ。うんざりしたでしょう? でもまだこの話にはおまけがあるんです。そんな生活を始めて二年足らずで、気をつけていたのにまた私の痔瘻は――再発したんです。お医者さんは、肛門陰窩の一つが、膿みやすくなってしまっている可能性が高いと診断しました。それが今年の春のことでした。もう私は手術はしないつもりです。再発の可能性がほとんどない術式もあるとお医者さんには勧められましたが、私の場合その術式では括約筋を切除しなければならなくて、肛門の機能に影響が出てしまうそうなので、それはしたくありません。仕事も――時々休んじゃうけど――今のところなんとかできているし。


 吉祥寺のバーで深夜働くと、自分の住んでいる西荻窪まで、いつも歩いて帰るんです。終電は無くなっているし、タクシー代は払う余裕がないし。時々帰り道男の人にナンパされます。そういう男の人から逃げた後、私、ああ自分の人生これから先良いことないんだろうなって思うんです。ずっと痔瘻に悩まされて、西荻窪の安アパートに住んで、ドーナツクッションを持ち歩かないと外出できなくて、好きな男の人ができたら痔瘻を隠すためになるべく座らないでデートしなきゃいけないんだって。ふふ」


 未海ちゃんはまたほとんど吸っていない煙草を、灰皿にぎゅっぎゅっと押しつけた。


「ごめんなさい、こんな話。あなたとお付き合いしたのは、脱臼癖で苦しんで、キックボクシングを続けるかどうか悩んでいる由紀人さんだったら、私の苦しみが分かってくれるかも知れないと思ったからなんです。……今日は帰ります」


 未海ちゃんはそう言うと、トートバッグを持ち、立ち上がって、ドーナツクッションをバッグに入れた。そのまま振り返らずに部屋を出て行った。その背に由紀人くんは声をかけることができなかった。


 彼女の吸った二本の煙草の匂いが残った。

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