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由紀人くんがルイさんとジムのチーフトレーナーに両脇を抱えられ退場してしまうと、残酷にも大会は何事もなかったように進行し、第四試合が始まった。私たちのいる由紀人くんの応援席の人々はお通夜にでも出席しているかのように静まり返った。
「由紀人さんの出番はもうないんですか?」
周囲の微妙な空気に気まずさを感じたのだろう、未海ちゃんが声を低めて隣から私にそう聞いてきた。私はその無知さにさすがに少しイラっとしながら、もうないよと答えた。あんな怪我をしてこれから出番もなにもないだろう。
「じゃあ私帰りますね。この後仕事があって」
そう彼女が言って席から立ち上がり、クッションらしきものをサッとトートバッグに入れたので、私は驚いた。
「メインの試合観ていかないの? これからって、この時間から売り子の仕事?」
「いえ、今日は吉祥寺でバーのアルバイトです。少し出勤時間を遅らせてもらっているんですが、そろそ
ろ行かないと」
「そうなんだ。吉祥寺? じゃあ水道橋からだね、駅まで送っていくよ」
「そんな、いいですよ」
「いや、もう夜だし、後楽園ホールの辺りって変な人けっこういるからさ。酔っ払いとか」
こんな美人が一人で夜歩いていたら間違いなく男に絡まれるだろうから、と私は思ったのだが、セクハラになりそうなので口には出さなかった。
二人で会場を出た。外はもう暗く、蒸し暑かった。夜の東京ドームシティには、やはりふらふらしている酔っ払いらしき人がそこかしこにいた。
東京ドームシティの通路を水道橋駅に向かって歩きながら、由紀人くんについて話した。
「今日は由紀人くんがあんなことになってびっくりしちゃったと思うけど、由紀人くん、いわゆるルーズ・ショルダーっていうやつなんだ」
「ルーズ・ショルダー?」
「生まれつき肩が外れやすい体質の人って意味だよ。由紀人くんはデビュー戦で右肩を亜脱臼して負けて、それから右肩に脱臼癖がついちゃったんだ。今日を含めて戦績は1勝3敗、負けたのは全部脱臼によるTKOか棄権での負け。左肩を脱臼したのは今日が初めてだと思うけど。良くなかったなあ、左肩に関しては相手の蹴りを左腕だけで受けたから、外れちゃったんだと思う。右腕を添えてガードすることができていたら、ああはならなかったんだろうけど、その右腕もそもそも外れちゃってて動かなかったわけだからね」
「そうなんですか」
「残念だよ。――素晴らしい才能がある子なんだ。大学時代からうちのジムに入ってきて、俺なんかすぐに実力的に抜かされた。アマチュアの戦績は8戦8勝7KO。大学卒業と同時にプロになって、ジムのホープだった。それが……」
私たちはドームシティを抜けてすぐの、大きな通りの上を横切る横断歩道橋を渡っていた。次々と歩行者とすれ違い、また後ろから抜かされた。見上げると夜空には灰色の雲が点々と浮いていた。私たちの正面、ビルとビルの間に、円い月が浮かんでいる。
「多分今日で引退するんじゃないかな」
私はたまらなくなってため息をついた。
「引退? そうなんですか?」
「うん。戦績的にも、脱臼癖があることを考えても、会長が引退を勧めると思う」
「なんていうか――なんとかできないんですか? 手術するとか」
「手術にも数十万かかるからね。両肩となると五十万じゃ収まらないんじゃないかな。多分彼、そのお金はないんだと思う」
「そうですか」
「……キックボクサーなんてほんの一部を除いて一生暮らせるだけの金が稼げるわけじゃない。だったら見込みのない選手には早めにセカンドキャリアに進ませるのも、周りの大人の責任だよ。俺たちのジムはダメ人間の養成所じゃないって、うちの会長口癖みたいに言ってる人なんだ。だからさ」
歩道橋の向かいからチャラチャラした若い男三人組が騒ぎながらやってきたので、私は未海ちゃんを歩道の端に誘導した。
「今日は残念な試合になっちゃって、君も微妙な気持ちになっているかも知れないけど、未海ちゃんが良ければ早めに由紀人くんにLINEして、それで今後も会ってやってくれないかな? もし由紀人くんがキックボクサー辞めることになっても。彼、落ち込んでると思うから」
未海ちゃんは一拍間を置いた。
「分かりました。私が力になれるのであれば」
良い子だ。見た目だけでなく性格も良い子だ。私は由紀人くんのために祝福してやりたくなった。
長い歩道橋を渡り切って、にぎやかで薄汚い水道橋駅前の交差点に立つと、私はもう一度夜空を見上げた。月はクリーム色にぽってり中空に浮かんで、和菓子みたいに円かった。




