1-5
そうこうしているうちに前座の二試合が消化され、由紀人くんの出場する第三試合が始まった。試合前、リングに上がってくる由紀人くんを、未海ちゃんはそのこげ茶色の瞳を見開いて、じっと見つめていた。由紀人くんは自信をみなぎらせてリングロープをまたいでリングに入った。やや傲岸に片手を挙げ、観客のまばらな拍手に応えた。
由紀人くんは色白で、体の肉付きのバランスが良く、綺麗に割れた腹筋と盛り上がった大胸筋が、男の私から見ても艶めかしかった。ミディアムヘアーの茶髪にゆるくパーマをかけて前髪に動きをつけ、その前髪の下の大きな瞳は自信ありげに対戦相手を見据えていた。
(相変わらず絵になるな)
私は格闘技をかじっている者として若干嫉妬を覚えた。
両者、リング中央に呼ばれて握手をさせられ、コーナーに戻った。
「由紀人!」
「由紀人! いけ!」
私たちの周りに固まっている由紀人くんの応援団から発破がかかる。由紀人くんは応援団の方を向いた。瞬間、(私の見間違えでなければ)未海ちゃんに視線を送り、少しだけグローブを挙げ、笑顔を向けた。――ゴングが鳴った。
由紀人くんはリング外に向いていた体を反転させ、サウスポー・スタイルに構えて対戦相手に向かっていった。
相手は背が低く、ガードを高く上げてスタンスを広くとったので、恐らくパンチ中心のインファイトをしかけてくる選手だと私は予想した。
予想通り、相手選手は軽くステップを踏んで素早く由紀人くんに接近してきた。近づくと、思い切りよくステップしてコンビネーション・ブローを出した。由紀人くんはそれをグローブでガードした。
相手は由紀人くんが反撃してこないのを見て、そのまま二度目、三度目の攻撃――シンプルなワンツー――を繰り出してきた。由紀人くんは二度目の攻撃をかわすと、三度目のワンツーに応じて、カウンターの左ミドルキックを放った。
バチンッ
由紀人くんの左脚が滑らかに宙に弧を描き、痛々しい破裂音を会場に響かせた。その脛が、相手の右わき腹にめり込んだ。
由紀人くんが左脚を引くと、一瞬相手は動きを止め、それから右わき腹を左手で押さえて片膝をついた。
あまりに早いダウンに、観客からワッと歓声が上がった。
「よしっ!」
私は思わずガッツポーズした。レフェリーのカウントが始まるなか、
「え? これで終わりですか?」
未海ちゃんが隣から聞いてきた。
「いや、運よくレバー……肝臓に入ったけど、多分立ってくるんじゃないかな」
私はリングを見たまま解説した。
予想通り、相手選手は苦悶しながらもカウント8で立ち上がった。しかしレバーのダメージはすぐ回復するものではない。
試合が再開すると、由紀人くんは一気に攻勢に出た。キックとパンチを絡めたコンビネーションを放ち、そのまま相手をコーナーまで追いつめて、左右のパンチを連打した。
(勝った)
私は思った。――その時。由紀人くんは連打の一つとして右フックを放ったのだが、その右拳の位置がやや低く、相手の顔ではなく肩に当たった。由紀人くんの右腕が変な方向に曲がった。
次の瞬間由紀人くんは攻撃を止め、右肩を左手のグローブで押さえた。体を180度回転させ、相手に背を向けた。九死に一生を得た相手は由紀人くんを追い、後頭部にパンチを見舞おうとした。
「ストッ、ストップ!」
レフェリーが割り込み、相手選手に後頭部攻撃の反則注意を与え、さらに由紀人くんが右肩を押さえて痛みをこらえ続けているのを見て、
「ダウン! ワン、ツー……」
カウントを取り始めた。
「え? え? どうなったんですか?」
未海ちゃんが私に焦って尋ねた。私は、
「うん、多分肩外れたね。右のパンチ、変な角度で相手の体に当たったから」
「由紀人さん負けちゃうんですか?」
「どうだろう、あ」
由紀人くんはカウント8で右肩から左手を離し、健気に左手でファイティングポーズをとったのである。
試合は再開された。しかし明らかに由紀人くんの様子はおかしかった。前手である右手はだらんと垂れ下がり、ジャブさえ打たない。チャンスと見てかさにかかって突進してくる相手を、前蹴りと左ミドルでどうにか食い止めるという苦しい戦況になった。
恐れていたことがまた起きてしまった、と私は悔しさで胸がいっぱいになった。しかしこの試合が決まってからここまでの、数か月間の彼の厳しい練習と減量とを思うと、なんとかして勝たせてやりたかった。事実、私の周囲の同じジムの仲間たちからは、熱心な声援が飛び続けていたのである。
「由紀人! がんばれ!」
「まだいけるぞ!」
すると由紀人くんはもう右手の攻撃は完全に捨てて、彼の最も得意とする左ミドルをやたらめったら連発し始めた。運のよいことに相手はそれを脛でカットするのではなく、腕のガードで受けた。練習で散々由紀人くんと闘ってきた私は知っていた。彼の左ミドルキックの威力は、何度も受けさせると相手の腕のガードを壊し、潰してしまうほどのものであることを。
(もしガードが壊れて、相手のガードが上がらなくなったところに、左ハイキックを決められれば)
奇跡的な勝利を得られるかも知れない。私は一筋の光が射してきたのを感じた。
しかし試合は予想外の展開を見せた。もう何発目になるかという由紀人くんの左ミドルが空振りすると、いい加減焦れた相手がやけくそに右ミドルを返してきた。由紀人くんは左腕をたたんでそれを受けた――、今度は左肩が外れてしまったのである。
哀れな由紀人くんは左腕もだらりと下げた。下げて、とにかくステップを踏んで相手から逃げ始めた。ステップを踏むたび、垂れ下がった両腕がぶらんぶらん気持ち悪く揺れた。ぶらんぶらんぶらんぶらん。客席の一部から失笑が起きた。相手は前進し、由紀人くんをロープ側に追いつめ、パンチの連打を繰り出そうとした。
レフェリーが割って入り、由紀人くんの体を抱いた。気づけば由紀人くんの陣営から、タオルが投げ込まれていた。由紀人くんはそのままぐったりと体の力を抜き、レフェリーの腕にもたれかかった。
私は一部始終を見届けると、隣の未海ちゃんの顔を恐る恐る見た。未海ちゃんは呆然としてリングを見下ろしていた。何も言わなかった。私もかける言葉が無かった。しかし彼女がどこか恍惚とした表情をしているように見えたのだが――、それはもちろん私の勘違いだったろう。




