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それは五月のやや暑い日曜日の午後で、東京ドームには気持ち良く冷房が効いていた。
私たち三人は別にファンでもない広島東洋カープの応援席である、外野レフト席の中ほどに並んで座っていた。野球観戦に来たのは私がとある知人からたまたまチケットを三枚譲り受けたからで、誰もカープファンではなかった。しかし周囲の客席には満員の広島ファンたちが陣取り、赤のレプリカユニフォームを着込んで、応援団の流す曲に合わせてやかましくスクワット応援をしていた。
「あーあ、なんでキックボクサーって野球選手みたいに金もらえないんだろうな」
三人横並びに座って観戦している中で、真ん中の席に座を占めていたルイさんが声を張り上げてそうごちた。それは確か二回表か三回表の、広島の攻撃の最中だった。
「本当ですよね」
ルイさんの左隣に座っている由紀人くんが応じた。
「それは集客数の問題じゃないですか」
ルイさんの右隣に座る私が言った。
「集客数?」
「キックの試合なんて一試合当たりに会場に入る観客がせいぜい三千人ですよね。それに対して野球は最大約五万人。で、年間140試合戦います。でもキックは一人の選手が年間戦える試合数が、どんなに多くても5試合がいいとこじゃないですか。集客数が全然違う。だからギャラの額も変わってくるんでしょう」
「ふうん」
私の賢しらぶった説明が気に障ったのか、ルイさんはちょっと不機嫌そうに相槌を打った。そうして、私たちから二十メートルほど前の客席脇の通路に、一人のビール売り子が立ち止まってこちらを向き、にっこり微笑みながら手を挙げたのを見て、
「ぐっちょん(私のあだ名)、ビール買う?」
話題を変えた。私は賛同した。ルイさんが片手を挙げて売り子に買う意思を示した。
売り子はピンク色のユニフォームを着ていた。胸にASAHIとロゴがプリントされている。重そうなリュック型のビールサーバーを背負って、やや前かがみになって通路の階段を上ってきた。その、野球帽のつばの下に覗く顔が大きく見えるようになってくるにつれて、私たちに驚きが沸き立ってきた。
「かわいいな」
ルイさんが私の耳に口を近づけて呟いた。
「そうっすね」
私も妙にひそひそ声になって返した。
その売り子さんが、すさまじい美人だったのである。
顎の引き締まった小さな顔。目は綺麗な二重でぱっちりしていた。その瞳はややこげ茶色がかっていて、見る者を強力に惹きつける不思議な魅力をたたえていた。すっと鼻筋が通り、小ぶりな唇がその下に続いている。真っ白な、シミひとつ無い陶器のようなすべすべの肌。化粧はしているのかどうか分からないくらいのナチュラルメイクなのだが、それが返って彼女の清楚な顔の美しさを際立たせていた。まず、二十歳そこそこといった年齢だろうか。
背は中背で、ユニフォームの腰ベルトは信じられないほど細く締められ、半袖半ズボンから細長い手足が健康的に伸びている。ユニフォームの胸の部分がツンと重力に逆らって出っ張っていた。髪は黒、ポニーテールにした後ろ髪を野球帽の穴から背に垂らしていた。
野球場の売り子というのは若くて可愛い女性がやるものという印象があるが、この売り子さんの美しさは群を抜いていた。いよいよ私のそばへやってきた時、私は彼女の体から発せられる甘酸っぱい良い匂いに、危うく失神しかけた。
彼女は笑顔を見せて「おひとつでよろしいですか?」と言った。するとその瞬間、上唇がめくれあがって、ぐぐっと広めに歯茎が見えた。それはやや馬の歯茎を連想させ、私はほんの少し幻滅し、恍惚から僅かに醒めた。
ルイさんが(私の分も合わせて)二杯欲しいと注文し、売り買いが済んで売り子さんは他の客を求めて去っていってしまった。通路を上がっていく彼女の背を、振り向いて眺めながら、
「めっちゃかわいかったな。ちょっと歯茎が残念だったけど」
ルイさんがさも感心したように再び言った。私も同意した。
「なあ由紀人、そう思わねえ?」
ルイさんが左を向いてそう水を向けると、由紀人くんはまだ売り子さんを無心に目で追っていたのである。数秒してから後ろにねじっていた首をようやく戻し、呆然とした表情でルイさんを見て、
「あ、はい、なんですか?」
とぼんやり返したのだった。
由紀人くんと付き合いの長い私とルイさんは、この彼のリアクションを見てだいたいのことを察知してしまった。これは彼のためになんとかしてやりたいと思った。由紀人くんはさわやかなイケメンだが、学生時代から女性に対して非常におくてで、これまで付き合った女性の数はたった二人だけだったのである。どうにかこの試合中にあの売り子さんと由紀人くんの連絡先を交換させ、いたいけな後輩に芽生えた恋路の、続きを提供しなければ。私は思った。ルイさんもだいたい同じようなことを考えただろうと思う。
それからは野球の試合展開など、私たちにとってはどうでも良くなった。




