4-3
「話は終わったかな?」
そこでようやく柔道家が厳かに口を開いた。
「じゃあ、闘おうか」
そう言うと、車椅子の足を載せる部分から畳に足を下ろした。両手をアームサポート部分に置いて体を支えながら、ゆっくり立ち上がった。
「ふおおおおっ……」
柔道家は声を絞り出しつつ、曲がっていた背中を時間をかけてまっすぐに伸ばした。伸ばしきると、由紀人くんに向かって、
「さあ闘おう。彼女を賭けて」
と言った。
「そんな、できません」
由紀人くんが拒否した。
「なんでここまでして闘わなきゃならないんですか? あなたも格闘家なら分かるでしょう、こんなことのために僕たちは格闘技をしているわけじゃないって。弱い自分を強くするために格闘技はあるのであって、こんなわけの分からない私闘をするためじゃない」
「話はそれだけか? なら闘おう。俺はこの闘いに勝ったら、未海ちゃんに思いっきり口でしてもらうんだ。会社を辞めて嫁には出ていかれる、ぎっくり腰で風俗にも行けない。こんな俺に未海ちゃんは闘いに勝ったら私がしてあげるって言ってくれたんだ。こんな優しい子他にいるか? 俺はそのためだったら誰とだって闘ってみせる」
(だめだこいつ)
由紀人くんがそう思うのと、柔道家が「さあっ」と気合を一閃し、顔の前に両手を上げて構えたのが同時だった。
「いや、ちょっと」
由紀人くんがひるむのにも構わず、柔道家はずんずん由紀人くんに向かって歩き始めた。
(……強い!)
由紀人くんは柔道家の発する圧力を全身で感じた。その体の大きさ、みなぎる闘気、プレッシャー。対峙しただけで強さが如実に感じ取れた。以前キックボクシングジムでスパーリングをさせてもらった、ミドル級元日本チャンピオンのキックボクサーから受けた圧力と似ていた。
(まずい)
もう相手はあと一歩で間合いに入ろうとしている。由紀人くんは身の危険を覚えた。
「シッ」
無意識に、今まで最も練習をしてきた攻撃――ワンツー――を、口から息を吐きながら放っていた。
右ジャブが浅い手ごたえで柔道家の鼻柱を捉え、渾身の左ストレートが顔面に当たる、と思われた瞬間だった。
柔道家が伸びきった由紀人くんの左腕を捕って、くるりと背を向けた。
一本背負いを食らったのだと分かったのは、投げ飛ばされた後のことだった。視界が縦に回転し、天井の照明の明るさが目ににじんだ。
どんっ、と鈍い音がして由紀人くんは畳に背を打ちつけられた。その時には投げられた衝撃で左肩が完全脱臼していた。
「ぎゃあああっ」
由紀人くんは投げられた痛みではなく脱臼の激しい痛みで叫んだ。畳の上を転げるように痛がり、柔道家を見た。柔道家はすぐそこで畳の上に四つん這いになっていた。
「おっほおおう、おっほ、おっほおおう」
柔道家はそう声を漏らして、投げで再発したぎっくり腰の痛みに耐えていた。その体は小刻みに震え、口にはなんのためかよく分からない笑みが浮かんでいた。
「きゃっははははっ」
痛みに悶絶する二人の脇で、すっかり満足した未海ちゃんがけたたましく笑い声をあげた。
――終。




