第一話 「出会い」①
風が吹く。木々と草木のさざめきが、とても近い所から聞こえてきた。
(あー、涼しー……)
ぼんやりと覚醒した朝彦は、自然とのその目を開く。そうして最初に視界に入ってきたのが足の長い草と木漏れ日だと認識するまでふた呼吸。
「朝!?」
認識してがばりと起き上がるまでもう一呼吸。背中の荷物のせいで再び地面に突っ伏すことになるまでには、数秒も必要なかった。
「いてて……ここは……?」
思い切り地面に打った額を撫でながら朝彦は荷物を降ろす。周囲を見回すと、そこは明るい森の中だった。時刻は昼前か昼過ぎか、それくらいには明るい。気温は家にいた時よりは涼しいが、真冬の装備を平気で着込んでいられるほど寒くもない。五月くらいのそれが一番近いだろうか。
周囲を見回しながら、朝彦はジャケットと防寒パンツを脱ぎ始める。
「ホントに別の世界来られたのかな」
周囲は広葉樹がある程度の間を空けて生えているため、所々密集している部分を除けばほとんど鬱蒼とした様子はない。朝彦が知る日本の森とは少々雰囲気が違うが、以前見た外国の森とはどこか似通った印象を受けた。朝彦が知らないだけの日本の森、同じ世界の外国の森、もしくは異世界。大まかな選択肢だけでもこれだけある。
「とりあえず周りを見てくるか~」
長袖のシャツ、膝丈のベージュのハーフパンツ、黒いスパッツ、という身軽な格好になった朝彦は、ぐるりと肩を回し、腰のウェストポーチに手を当てた。そこにアウトドア用のナイフと神木の杖、その他の細々とした物が入っているのを確認する。次に、ポーチの逆側に提げた狩猟用のナイフを指でなぞって唸った。
「う~~~ん、人に会った時にナイフ持ってるとヤバイ奴って思われちゃいそうだけど、獣に会った時はしまってるの怖いよなぁ」
どうしようか。ナイフを指で叩いて迷っていると、突然の大声が背後から聞こえてくる。
「危ないっ!!」
切羽詰った女性の声がどんな危機を、誰に対して伝えようとしたのか。分からなかったが、朝彦は反射的に身を丸め、地面の上を転がった。すると、ちょうど朝彦が立っていた場所に何かが突進してくる。
「猪――じゃない! なんか違う!」
近くの木に激突した何かは、小柄な猪のような生き物だった。毛色は茶色で、牙もある。ただし、猪とは決定的に違う物があった。そう、額に生える角が。
「やっぱりここ異世界!? いやでもうちの国の妖にもこういうのいたしなぁ!」
驚愕していると、先程の声の主が再び叫ぶ。
「角猪だよ! ただの猪より攻撃的だから早く逃げるか木に登って!」
さも当然のように名前を出されたところ、声の主にとっては異常な存在ではないらしい。朝彦は再び突進してきた角猪の突撃をぎりぎりでかわして叫び返した。
「この猪攻撃しちゃ駄目な奴?」
問いかけに、声の主は「えっ!?」と驚いた声を出すが、すぐに引きつった声で「大丈夫」と答えてくる。
「おーっし、ならやったる! 狩猟じゃ負けねーかんな!」
ぺろりと唇を舐めると、朝彦は狩猟用のナイフさっと引き出した。
「守り給え、幸え給え」
略式の祝詞を唱えると、朝彦の神通力を通じて加護神の力の一端が発現する。ぽぅと淡い光が朝彦とナイフを包んだ。声の主が感嘆の声を上げるが、朝彦の内心は一瞬にして冷や汗で水没しそうになる。
(あ、ヤベ。神通力ほっとんど空っぽだ)
この世界に来るのに相当力を使ってしまったらしい。時間をかけてはいられない。朝彦が危機感を覚えるとほぼ同時に、角猪が三度突進してきた。
空気を読む猪だ。そんなことを思いながら朝彦は地面を蹴り、大きく空に跳び上がる。角猪はその下を通過し、後ろにあった木に激突した。朝彦は思い切り体を後ろに反らせると、方向転換しようとしている猪の後ろの首筋にナイフをつきたてる。落ちる速度と体を前に戻す勢いから、ナイフは根元まで深々と角猪に突き刺さった。
角猪が悶絶の悲鳴を上げる。まだぎりぎり空中にあった朝彦の体は膝を丸める形でそれの背中に乗った。続く痛みを振り払うように角猪が暴れる。朝彦は上手く体を動かし背中に跨る形になると、額の角を片手で握り、もう片方の手でナイフを引き抜いた。
そして、今度はそれを首の脇に突き刺す。微妙な手応えに自然と眉が寄った。筋肉が固まっている部分だったらしく、刺さりが甘い。神力で肉体能力の強化をしていなければ、刺さりすらしなかっただろう。
再度ナイフを引き抜くと、朝彦はナイフの角度を少し変え、ほとんど同じ場所を突き刺した。すると、今度こそナイフは鈍い音を立てて角猪の肉の中を突き進む。もう一度悲痛な鳴き声を上げたのを最後に、その体は地面に横倒しになった。
重めの衝撃音が消えると、すっかり返り血で血まみれになってしまった朝彦はナイフを引き抜きその場に座り込む。
「ぶはーっっ、間に合ったぁぁぁ」
角猪が倒れる直前、残っていた神通力が切れた。間に合って良かったと朝彦は心の底から安堵する。
「凄ーい……本当に倒しちゃった」
呆気に取られているような声が背後からした。先程より近い位置だ。どうやら近付いてきたらしい、と、朝彦は座ったまま笑顔で振り返る。
「君が教えてくれたからだよ。ありが……と……」
言葉尻が消えていってしまったのはきっと仕方がない。目を見開いてしまったのはきっと仕方がない。何せ、かつて見たことのないような存在がそこにいたのだから。
(めっちゃ可愛い女子キターーーーーーーッッ)
そこに立っていたのは一人の少女。年の頃は朝彦と同じくらいだろうか。顔立ちは言葉を失うほどに可愛らしい。薄茶色のロングヘアーは顔の横の髪だけ鮮やかな緑の布でまとめられており、ぱっちりとした双眸はモスグリーンをしている。身に着けているのはオレンジ色に近い茶色のスリットが入ったワンピースで、下に重ねて履いている白いスカートが風に揺られてひらひら揺れていた。
(あれ、でもこの子――)
言葉を失って見上げていると、少女は「どうしたの?」と首を傾げてきた。そんな姿も可愛いと浸っていると、少女は困ったような顔をする。
「あの……言葉は通じてたよね? もしかして見えてない?」
ひらひらと目の前で手を振られ、朝彦は慌ててナイフを地面に置いて立ち上がった。
「あっ、ご、ごめん、聞こえてるし見えてる。とんでもない美少女来たとか思ってたら言葉出てこなかった」
ぺらぺらと口にしてから朝彦は内心で「しまった」と頭を抱える。こんな風に容易く褒めるから女子に「朝彦君って軽いよね」なんて不本意極まりないことを言われてしまうのだ。折角出会えた美少女――もとい、はじめての人間に警戒心を持たれてしまうと後々やりづらい。
そんなことを思っていると、一瞬ぽかんとした少女は、ぱちぱちと瞬きをする。そして、遅れて嬉しさが来たのか、両手で頬を挟んでにへーと緩んだ笑みを浮かべた。
「えー? えへへー、美少女かー。子供の頃お父様のお客様に『可愛いお嬢さんですね』って言われたことはあるけど、同じ年頃の男の子に言われたのははじめてだなー。ありがとー」
頬を染め言葉通り嬉しそうな様子を見せる少女に、朝彦は顔を覆い天を仰いだ。警戒されなくてよかった、より、何この天使という溢れんばかりの感情でいっぱいだった。
双方がそれぞれの世界に旅立つこと数分、ようやく復活した朝彦は少女に改めて声をかける。
「俺、神凪 朝彦って言うんだけど、君は?」
名乗ると、少女は頬にあった両手を腹の前で合わせてぺこりと頭を下げた。
「失礼しました。私はジェンナ・オルコットと申します。この森を管理している家の娘です」
先程の調子と打って変わった落ち着いた態度に、朝彦も思わず居住まいを正す。しかし。
「よければジェンナって呼んでね」
再び顔を上げると少女――ジェンナはまた同じように柔らかな雰囲気に戻ったので、結局朝彦も肩の力を抜いた。
「ありがとジェンナ。俺も朝彦でいいよ」
「あ、やっぱりそっちが名前なんだね。名前の感じ的にそうかな~と思った」
ぽん、と手を叩き合わせ、ジェンナは自分の予想が当たっていたことを喜ぶ。朝彦はその言動から、まさかと思っていたことを口にした。
「あのさ、ジェンナ。超変なこと訊くけど、ここってどこかな? 日本? それともアメリカとかイギリスとか?」
猪に角が生えていたことで異世界の可能性は出たのだが、明らかに日本人の風貌でないジェンナとこうして日本語で会話が成立している。やはりただの妖で、ここは普通に朝彦がいた世界なのかもしれない。不安に思っていると、ジェンナは軽く首を振った。
「ううん、どれでもないよ。それって確か、全部異世界にある国の名前でしょ? ここはエスピリトゥ・ムンド。創霊様に創られた、世界と世界の間にある世界だよ」
異世界、創霊様、創られた、世界と世界の間。全てが術の成功を明確にする単語だ。朝彦は体の奥から弾けるような熱を感じる。ぶるりと体が震え、自然と口元が緩んだ。
「~~~~おっ」
その解放感は、堪え切れずに音となって世界に放たれる。
「おっしゃあああああああっ!! ちゃんと着いたよ爺ちゃーーーーん」
握り締めた両拳を高く高く天に突き上げ、朝彦は全身で喜びを表す。目をパッチリと開いたジェンナは、少しの間を空けくすりと笑った。
「よかった、アサヒコは迷い込んできたんじゃなくて自分から来たんだね」
でも凄い喜びよう、ジェンナがくすくすとずっと笑っているものだから、朝彦は今更恥ずかしくなりそろそろと腕を下ろす。ひとつ咳払いをし、改めて異界の少女に向き直る。
「えーっと、もしよければどっかで座って話出来たりするかな? 俺今さっき着いたばっかでこの世界のことよく知らないし、色々教えて欲しいんだけど」
誘いかけると、ジェンナは底抜けな笑顔を浮かべて両手を胸の前で握りしめた。
「うん! うん、いいよ。じゃあその血も洗わないといけないし、ちょっと遠いけど川の方に行こうか」
言い終わるが早いか、やけにご機嫌なジェンナは朝彦の荷物を持ち上げようとする。朝彦は慌ててそれを止めた。
「ストップストップ、ジェンナ、ありがたいけどそれ俺でもめっちゃ重いからさ。危ないからいいよ。俺持ってくから」
そう告げると、ジェンナはならばとばかりに先程脱いだジャケットと防寒パンツを持ち上げる。こんな可愛い女の子に汗まみれの服を持たせるなんて、と朝彦は慌てた。なお断ろうとすると
「じゃあ案内してあげなーい」
と拗ねた振りをされてしまう。朝彦は緩みそうになる表情筋を適度に引き締め、なるべく普通の笑みを浮かべた。
「じゃあ、そっちはよろしく。ところでさ」
ナイフの血を切り鞘に収めてから自分の荷物を背負い直し、朝彦は親指で倒れたままの角猪を示す。
「あれ、食べても大丈夫な奴?」




