第16話「赤城ミサキ」
「助かったわ、ミサキ」
母は玄関を開けるなり、「ただいま」より先にそう言った。
「ミリ同志、あのままだったら処刑台にまっしぐらだっただろうね」
上着を脱ぎながら、さらっと恐ろしいことを言う。
李ミリ同志。偉大なる指導者、李イルジョン委員長の末娘。
わたしの『催眠』で見た彼女の心は――はっきり、『後継者』を狙っていた。
イルジョン委員長は必要なら冷酷になれる人だ。為政者には必要な資質だと、わたしも思う。だからこの国に混乱をもたらすなら、実の娘だって『粛清』しただろう。
「それでミリ同志は?」
「お父さんが使ってた家、というか研究所を使うことにしてる」
父は七年前に肺の病で亡くなった。
もっと言えば父と母の新婚当初に住んでいた場所で、今は『異能研究』の拠点。必要なら思い出の場所も他人に差し出す。
母だって、立派に為政者だ。
♦︎♦︎♦︎
翌日。
「よろしくお願いします。ミリ同志。案内役の赤城ミサキ少尉です」
玄関で敬礼すると、李ミリ同志はじっとわたしの顔を見つめた。
「ミサキ少尉。あなた、トウカ少将のご息女よね?なぜ名字が違うの?」
その『首をかしげる』感じで、ようやく合点がいった。
「ああ、この国では結婚しても名字はそのままですよね? 両親とも日本人ですから、本来ならどちらかの姓に変えるところですが……この国で生きると決めたので、こちらの慣習にならったと聞いています」
「……なるほど。もう一つ、いいかしら?」
「どうぞ」
「あなた、本当に二十歳? わたくしには小学生にしか見えないのだけれど?」
(来た)
心の中でため息をつく。
慣れているとはいえ、毎回、胸のどこかに小さな針が刺さる。
「それはミリ同志が『困難の行軍』を知らないからです」
できるだけ真面目な声で返す。
「わたしは、この身体が『不適当』だと思ったことは一度もありません」
『困難の行軍』――1991年のソ連崩壊から始まった飢饉。配給は減少し、やがて止まった。
あの数年、各地の暴動を『抑える』ために飛び回った。
その結果が、この身長と、この体型。
ミリ同志はくすくすと笑った。
「合格よ。あなたのプロパガンダとして、正しいわ」
「……知ってたんですね」
わたしがそう言うと、ミリ同志はあっさりうなずいた。
「ええ。あなたの身体が『異能』のせいで成長が止まったこと。ここにある資料は、全部目を通したから」
さらっと、とんでもないことを言う。
この研究所にある資料は、父が残した旧日本軍の文書とそれを元にした研究書類、母が戦いの中で集めた実戦記録、異能少女ごとのプロファイル……ざっと百冊は超えている。
それを一晩で、らしい。
(本当に……とんでもない人が来た)
「じゃあ、行きましょうか。まずは中を案内するわ」
母の思い出があちこちに残る廊下を歩きながら、わたしたちは研究所の中を巡った。
♦︎♦︎♦︎
一通り案内が終わる頃には、ミリ同志の「頭の中の地図」は完全に出来上がっているように見えた。
司令室、資料室、訓練場、簡易ラボ、発電設備、非常食庫。
「よく、この設備と人員で『困難の行軍』を乗り切れたわね」
何気なさそうに言われて、心臓が一瞬だけ縮む。
(ああ、やっぱりそこを見るか)
異能少女隊、そして黄州周辺。
『困難の行軍』の最中、この地区だけは餓死者がほとんど出なかった。
それは偶然でも奇跡でもなく――
「……ミリ同志。南の首都、南城市には行ったことありますか?」
わたしは質問を質問で返した。
「いいえ、リスクが高すぎるもの。でも、南側の資本主義は、なかなかに興味深いわ」
「そうですか。――じゃあ、今から行きませんか?」
ミリ同志の瞳が、わずかに輝いた。
好奇心の色。危険な色でもある。
「理由を聞いても?」
「わたしが、『どうやってここだけを飢えさせなかったか』を見てもらうためです」
少しだけ間を置いてから付け加える。
「条件はひとつ。今日見ることは、ここだけの秘密にしてください」
ミリ同志は、ほんの短い沈黙のあと、にっこりと笑った。
「交渉成立ね、ミサキ少尉」
早速準備に取り掛かる。父の研究部屋の古びたインクジェットプリンターが、文句を言うような音を立てている。
「……それ、本当に現役なの?」
ミリ同志が珍しそうに覗き込む。
「はい。十年前からの相棒ですから」
プリンターから出てくるのは、十ドル札の『ようなもの』
デザインはそれなり。
色味は、ギリギリ。
紙質は、正直アウト。
「ひどい出来ね」
率直な感想が飛んできた。
「でしょう? でも『ある条件』を満たすと、これで十分なんです」
わたしはプリントしたばかりの『十ドル札』を何枚か財布に入れ、代わりに軍から支給された公式身分証をポケットの奥にしまった。
「行きましょう、ミリ同志」
「どこへ?」
「決まってます。『半島南側の国』へです」
廊下から靴を履いて庭に出る。手には1本のホウキ。
「二人乗り、可能なの?」
「母がお手本でしたから。慣れています」
ミリ同志を後ろに乗せ、わたしたちは静かに大空へ浮かび上がる。
♦︎♦︎♦︎
半島南側の国、首都・南城市。近保国際空港。
午後3時過ぎ、空港の雑踏はわたし達をどこにでもいる女の子にする。
「ここからが本番です」
両替カウンターの列に並ぶ。
窓口には、眠たそうな顔をした若い行員がいる。
「ミリ同志、よく見ていてください」
わたしは、自分の財布から『粗雑な』十ドル札を数枚取り出し、カウンターに滑らせた。
行員が札を手に取った、その瞬間――
(大丈夫、大丈夫。あなたの今日の仕事は、もう終わったも同然。面倒なことは全部“いつも通り”でいい)
視線を合わせ、わたしはほんの少しだけ『感情のボリューム』をいじる。
疑念と警戒を、退屈と安心に変える。
「異常を探そう」という意識を、「早く終わってほしい」に。
十秒もかからない。
行員は、マニュアル通りの動作をしながら、何も疑わずに札をカウントする。
そして――
「テン・ダラー……オーケー」
カウンターの奥から、本物の南側通貨が戻ってきた。
「……簡単、でしょう?」
カウンターを離れながら、小声で言う。
ミリ同志は、わたしの横顔をまじまじと見つめていた。
「あなた、やっぱり天才ね」
「えへへ……母には怒られたんですけどね。最初にやった時」
十歳の頃。
飢えた異能少女たちと、病棟の子どもたちをどうしても助けたくて、わたしはこの“インチキ”を思いついた。
古いプリンターでドル札を印刷し、空港で両替。
得たお金で缶詰や粉ミルクを買い込み、黄州まで持ち帰った。
「農村から回してもらったのよ」と嘘をついたけれど、母はすぐに気づいた。
こっぴどく怒られて、二度と勝手にやるなと言われた。
その数ヶ月後、朴ソンミン少将(当時は少尉だったっけ)に呼び出されるまでは。
「あなたのその『発想』は、国家レベルに拡張できる」と言われた。
それが、『困難の行軍』を越えるための国策のおおもとになった。
でも――
「わたしがやったのは、ここ。黄州の周りだけです。南側の空港で両替して、食べ物を買って、子どもたちに渡した。それだけ」
ミリ同志は、少しだけ目を細めた。
「でも、その『原理』を見つけたのはあなた。朴少将はそれを『国家に転用』しただけよ」
「……そうかもしれません」
わたしは曖昧に笑った。
「じゃあ、せっかく南城市に来たんですから。少し、遊びませんか?」
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南城市の繁華街は、夜でも明るかった。
ショッピングモール。
大通り沿いのファッションビル。
通りすがりの屋台から漂ってくる甘い匂い。
「……モスコーより、雑ね。でも『生きている』」
ミリ同志の感想は、一言で本質を突いていた。わたしたちは、両替したお金でいくつかの店を回った。
• ミリ同志用の、目立たないジャケットとスニーカー。
• わたし用の、年相応に見えるワンピース(と言っても、どう見ても“小学生サイズ”だが)。
• 研究所で皆と分けるためのチョコレートとクッキー。
「これ、おいしいです!」
焼きたてのホットクを食べながらそう言うと、ミリ同志はくすっと笑った。
「危険だわ。こんなものが毎日手に入る世界なら、革命なんて起きない」
「そうでしょうか?」
「ええ。『満腹な人間』は、自分で考えるのをやめるもの。――飢えすぎても、考える前に死ぬけれど」
その言い方が妙に大人で、でもどこか同じ年頃の女の子っぽくて、わたしは少しだけ安心した。
「ミサキ」
帰り道、橋の上で足を止めながら、ミリ同志が言った。
「あなたは、『国』を救おうとしたの?」
「いいえ」
即答だった。
「わたしは、『自分の手の届く範囲』だけを守りました。母と、仲間と、黄州の子どもたちだけです」
それが、十歳のときに選べた範囲の限界だった。
ミリ同志は、夜景を見下ろしながらぽつりと言う。
「わたくしはずっと、『国をどう動かすか』ばかり考えてきた。制度、法律、権力、情報……でも、あなたのやり方はもっと原始的で、もっとまっすぐね」
「褒めてるんですか?」
「もちろん」
ミリ同志は、初めて『同年代』の顔で笑った。
「ミサキ少尉。いや、ミサキ。友達になってくれる?」
夜の南城市の風が、少しだけ優しくなった気がした。
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帰りのホウキは、行きよりも軽く感じた。
国境を越え、黄州の灯りが見えたところで、ミリ同志がぽつりと呟く。
「ミサキ。わたくしは『この国』を掌握するわ。そのためにあなたが必要なの。わたくしの『右腕』になってくれない?」
知ってる。だってわたしは『異能少女』。
あなたが考えた瞬間にわたしには『わかる』。
「条件があるの。ミリ同志」
「ミリでいいわ。2人の時は。それで何?」
すっと息を吸う。覚悟を決める。
「母さんを。いえ、この国内にいる『異能少女』達を日本に帰して。成功報酬で構わない」
それは今の『この国』の決定・判断に逆らう行為。バレたら良くて除隊、悪ければ処刑。
「……10年、20年かかっても実現させるわ」
ぽっかりと浮かんだ月だけがわたし達の『約束の証人』だった。




