第15話「李ミリ」
2002年8月末。
北の大国・首都モスコー。
大統領府の応接室は、静かすぎるほどの静寂だった。
金色の燭台、赤い絨毯、壁一面の油絵。
それらが威圧のためであることを、李ミリは一瞬で理解した。
「大統領。学生のわたくしをこのような場にお招きいただき、恐悦至極です」
ウーチン大統領は笑った。
ソ連時代にKGVで名を馳せた男の笑みは、常人なら背筋が凍る。
「あなたにはその『価値』がある。朕の目が節穴でなければ、だが」
二人きりの晩餐会が始まる。
軍も官僚も排され、通訳すらいない。
『密談』という名の歓迎だ。
メインディッシュが半分ほど減った頃、ミリが口を開く。
「ところで大統領。この国は我が国の『次の指導者』を長男で決定している節がありますが――忠告を一つ。彼はじきに失脚します」
ウーチンの眉がわずかに上がる。
「どのような根拠で?あなたの兄上も、優秀だと聞いている」
ミリはナプキンで口元を拭き、微笑んだ。
「『わたくしが』そうするのです、大統領。昨年、日本で何があったかはご存じでしょう?」
ウーチンの目に思考の光が走る。
長男・李ナムジョンが偽造パスポートで日本に拘束、送還されたあの事件。
それが『切り札のタネ』であることを、ミリはあっさりと明かした。
「やはり朕の目は確かだった。李ミリ殿、亡命してこちらに力を貸してほしい!」
テーブルがわずかに揺れた。
大統領が“本気”で興奮した時の仕草だ。
ミリは笑う。
無邪気さでも拒絶でもなく、『対等の者の微笑』で。
「その言葉は聞かなかったことにしておきます、大統領。
――ああ、それともうひとつ『お土産』がございます」
ちょうどそこでデザートが運ばれ、会話が中断される。
ウーチンは給仕を目で追い払う。
「すまない。それで――もうひとつとは?」
ミリは紅茶を一口飲んでから言った。
「この国は『傀儡政権』を作るのです。現在の『首相』を『大統領』に据えて。憲法を改正し、前大統領一家に『不逮捕特権』でも与えれば、誰も反対できません。その上であなたが再度大統領になる……」
表情は穏やか。声量も淡い。
しかし内容は――国家システムの設計そのもの。
ウーチンは確信した。
この少女は政変を『暴力』ではなく『構造』で成すタイプだ。
♦︎♦︎♦︎
1ヶ月後、半島北側の国、首都・平城。
「お父様、お兄様、ただいま戻りました」
帰国の挨拶を父親、李イルジョンにする。
ミリにとって忌々しい事に1番上の兄、ナムジョンも父の隣にいた。
「ミリ、よく戻った。『北の大国』でも優秀だったと聞く。もうすぐこのナムジョンを後継者指名するつもりだ。妹として、ナムジョンを支えるように」
一瞬の間。だが最敬礼と共にミリは言う。
「……仰せのままに」
それを聞いた父親は初めて笑顔になった。
(わたくしだって貴方の子供なのに、『後継者候補』にもならないのね……)
そう思いながらも、顔には出さない。
「それから、これからの事だが……ナムジョン、朴少将を呼んでくれ」
言われて兄は面会室から出ていく。
「馬鹿な事をする。お前のした事は、ナムジョンではなく、国に泥を塗ったのだ!」
静かに、しかし確かに父、いやこの国の独裁者である李イルジョンは怒っている。しっかりと『偽造パスポート事件』の黒幕はミリだと見抜かれていた。
(なるほど、この国の諜報機関も捨てたものではないわね)
静かに頭を下げてそう思う。
「まあ、過ぎた事は仕方ない。お前には『異能少女部隊』に行ってもらう」
李ミリにとって、それが父親の最後の言葉だった。
♦︎♦︎♦︎
翌日。
半島中央放送が日本の首相の来訪を繰り返し報じている。
朴ソンミン少将は35歳、父親が中将だったとはいえ、現在は何の後ろ盾も持たない『己の実力で出世』したタイプだ。今のこの国でそれは珍しい。昨日、出会った時の印象も先程のやりとりも『使える』と思った。
少し待つと警護兵に呼ばれ、会議室に入る。中には朴少将ともう1人女性がいた。
「はじめまして。種田少将。李ミリと申します。留学帰りで、不慣れなことが多いと思いますが――今日からよろしくお願いします」
(資料だと42歳のはず。思っていたよりずっと若く見える)
見た目はまだ20代に見える。少なくとも隣の朴少将より年上には思えない。そんな彼女が口を開く。
「第102独立部隊、異能少女隊、司令の種田トウカ大佐……少将です。よろしくね」
資料との乖離を感じる。1985年、日本海にて日本側の『魔法少女』と会戦。引き分けている。さらには朴少将の立案で1991年から反乱の鎮圧に数多く出撃した数少ない『実戦経験』のある兵士。だがその顔に浮かぶのは『知性』なのだ。資料によれば日本の中学校卒業間際に『拉致』されているはずなのだ。
「個人的な荷物は明日には届きます。それでは向かいましょうか」
廊下を歩き、屋上のヘリポートに出る。
夜風がまだ夏の熱を少しだけ残していた。
警護兵が「ホウキ」を持ってくる。
1本だけ。
軍の判断なのか、偶然なのか――わざと試されているのか。
トウカは当然のように言った。
「乗りなさい。落としたりしないから」
ミリは無言で後ろに跨る。
ホウキが浮き、滑るように空へ。
軍本部のコンクリートの屋上が足元から遠ざかっていく。
風の中、ミリが背中越しに言った。
「朴少将は、信頼できる方なのですか?」
「ええ。だからこそ、全部は聞かせない」
即答。迷いゼロ。
その事実こそ答えだった。
しばらく沈黙が続く。
平城の夜景が下に広がり、遠くに国旗の灯り。外は静かなのに、内部はいま巨大な取引が動いている。
トウカが口を開いた。
「日本にはこういう言葉があるの。
――『軽い神輿ほど担ぎやすい』」
背中のミリが、わずかに息を止めた。
揺れのリズムが一拍だけ変わる。
しかしすぐに戻り、穏やかな声が返ってくる。
「それをわたくしに言ったのは、あなたが初めてよ」
ミリの声は淡々としていた。そして一呼吸置いて続ける。
「確かにわたくしは『神輿』には向いていません。ただ担ぐだけではなく、揺らし、導き、回す方が得意。……そう気づいたのです」
「じゃあ、『誰を』乗せるの?」
その問答は、銃撃より鋭かった。
ミリはためらわなかった。
「少なくとも『長男』ではありません。あの見た目ですから」
2人の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
ホウキは高度を下げ、建物の屋根へと滑り込む。異能少女隊・司令部――つまりトウカの家。
着地の直前、トウカが囁いた。
「ミリ同志。覚えておいて。『担ぐ側』は常に危険よ。神輿より先に撃たれる」
ミリは微笑む。
「承知しています。この国は長い間、『撃つ側』しかいなかったのですから」
ホウキが降り立つ。
風が止まり、静寂が落ちる。
建物の灯りが二人の影を伸ばす。
ミリはここで――初めて心の底から確信した。
(この国の『中心』は、前に立つ人物ではなく
背後で運ぶ手を持つ者が握るのだ)
そしてその第一歩として、
彼女は扉を開けて、『第三極』の中へ入っていく。




