第14話「望郷のトウカ」
2002年9月。
平城・軍本部の会議室は、静かすぎて息が詰まる場所だった。
壁には表情のない2人の指導者の肖像。
テーブルの上には、折り目正しく積まれた資料。
そして――まるで呼吸音すら咎められるような沈黙。
朴ソンミンが資料を一枚、こちらへ滑らせた。
「本日、日本の総理が平城を訪問します。主要議題は食糧支援と経済協力……そして『拉致被害者の帰国』です」
トウカは言葉を飲み込んだ。
帰国者の名簿には――
自分の名前はなかった。
ミサキの名前もなかった。
共に戦ってきた『あの子たち』の名前もなかった。
ただ歯を食いしばるしかない。
理解している、理解しているのだ。
(私たちは『知りすぎている』)
1991年からの飢饉で都市が崩壊しかけた夜。
銃声ではなく『異能』で群衆を抑えたこと。
粛清を行わずに国家を生き延びさせたのは、剣でも銃でもなく――
『異能少女小隊だったこと』
その記憶、その記録、それを知る者。
政治の論理はいつも残酷で、理屈はいつも正しい。
「無念でしょう、大佐」
朴ソンミンの声は穏やかだった。
慰めの言葉ではなく、事実の確認として。
「怒りはありません」
「嘘ですね」
「ええ、嘘よ」
ふっと自嘲の笑みが浮かぶ。
ここまで来れば、感情を否定する必要もない。
「……それで、『代わり』に提示された条件とは?」
ソンミンが次の資料を差し出す。
そこに写っていた少女は――年齢よりも幼く見え、しかし瞳だけは異様に聡かった。
李ミリ 15歳。
指導者・李イルジョンの娘。
北の大国・キエフスキー工科大学、留学中 → 飛び級により大学卒業。
政治派閥との接触を防ぐため『隔離』目的の留学(『委員長』指示)だったが、才覚のせいで早期帰国。
国内での『扱い先』が未定。
「……頭は、いいわね。とびきり」
「ええ。軍事・金融・外交・情報工学――
専門外がありません。すべて『学問として理解している』タイプです」
「危険すぎるわ」
ソンミンはうなずいた。そのうえで、淡々と事実を告げる。
「『偉大なる同志』は『隔離』の延長として、彼女を軍直轄に置きたい。だが軍は『後継者になりようがない』と拒んだ」
「党は?」
「彼女を抱えたら『派閥争いの火種』になります」
「じゃあ……どうする気?」
ソンミンの視線が、まっすぐこちらに向いた。
「――『第三極』に置く。つまりあなたのところに」
一瞬、呼吸が止まった。
侮辱でも命令でもない。もっと厄介な種類の言葉。
「見返りは?」
ソンミンは淡々と返す。
「大佐から『少将』へ。
党幹部待遇。あなたとご息女、さらに『部隊』の安全は国家が保障します。」
言葉は丁寧なのに、逃げ道はゼロだった。
それが政治のやり方。
(帰国の代わりは『権力』……皮肉ね)
「断ったら?」
ソンミンは表情も声も変えなかった。
「言わせないでください、娘さんは――別の部門に移される可能性があります」
その瞬間、空気がわずかに震えた。
怒りではない。
恐怖でもない。
――母としての『選択の重さ』。
沈黙を破ったのは、トウカ自身。
「……引き受けるわ」
ソンミンは、深く頭を下げた。
政治家の礼ではなく、『個人』の礼で。
「感謝します、大佐。……いえ。少将殿」
無言でうなずくと、会議室の扉が叩かれた。
警護兵が、少女を連れてきた。
白いコート。整った姿勢。
子どもの輪郭を残しながら、大人の思考を宿した瞳。
李ミリは静かに会釈し、席に座った。
「はじめまして。種田少将。李ミリと申します。留学帰りで、不慣れなことが多いと思いますが――
今日からよろしくお願いします」
礼儀正しい、完璧な挨拶。
だが目だけは、こう語っていた。
『私はあなたを利用し、あなたも私を利用する。それが一番合理的だから』
笑えるほど、鮮やかな『政治の目』だった。
(厄介な子ね)
それでも、笑って返す。
「こちらこそ。ミリ。
――ようこそ、『第三極』へ」
会議室の外では、日本の支援団が国旗を携えていた。
ニュースは「帰国」と「友好」を賛美する。
だが水面下では、別の『契約』が結ばれていた。
トウカは帰れなかった。
帰国者は笑顔で日本に降り立つ。
その光景をテレビ越しに見ながら、
少将の軍帽を静かに被った。
帰れない。
けれど――守るために残る。
それがこの選択の代償。
そして李ミリは、まだ何も動いていないのに
すでに『未来の中央』の匂いをまとっていた。
この国の権力図は、今日変わった。
そのことを会議室の3人は理解していた。




