第13話「1995年の別れ」
1995年2月。
黄州郊外の病院の窓から見える畑は、今年も雪に覆われていた。土の気配はどこにもなく、冷たい白がすべてを押しつぶしている。小麦も粟も育たない光景は、もう見慣れてしまった。
「……今年も足りないわね」
独り言のようにつぶやいても、返事はない。
ベッドに寝ているのは自分ではなく、赤城タケシだった。
「……寒く……ないか」
息が漏れるような声。
肺はもう、まともに働いていない。咳をすれば血がにじむようになって半年。
「私は寒くない。タケシさんこそ喋らなくていいのよ」
言い終える前にまた咳が続き、苦しさに顔がゆがむ。それでも、ほんの少しだけ笑おうとした。
「まだ……間に合うって……思うんだ」
「何に?」
「全部だよ。翻訳も……日本のことも……君のことも」
笑みになりきれない笑み。
それが余計に胸に刺さった。
すべての始まりは二十数年前――1971年。
赤城タケシが『異能少女ノ研究・概論』を半島語へ翻訳したこと。
そのせいで、『102招待所』は『異能研究所』に格上げされ、少女たちの『拉致』が『国家事業』になった。
タケシが一番よく知っている。
「……俺が訳さなきゃ……」
「誰かが訳していたわ。あなたじゃなくても」
きっぱりと言うと、タケシは弱く首を振った。
「でも……俺じゃなければ……トウカ……君は……門司で……別の人生だった」
言葉が咳に飲まれ、血が滲む。
トウカはそっと背中を支える。骨が薄くて、痛いほどわかる。
「新聞で『死亡扱い』にされた日から、私はもう戻れなかったの。翻訳がなくても、きっと私は連れてこられた。だったら、ここで生きてる子たちを『守る方』を選ぶしかない」
「守るために……悪に……?」
「そうよ。あなたを責める人間の代わりに、私が悪になる」
赦しであり、決意の告白でもあった。
タケシは目を閉じ、息を整える。
「……ミサキは?」
「今日は学校。あとで来る」
娘の名前を聞くと、空気がほんの少し柔らかくなる。ミサキは14歳になった。幼い身体のまま成長が止まってしまったのは、『幼少期から異能を使い続けた副作用』と推測されている。
だが心は大人びていて、『催眠』の異能を持つ。
怒りも恐怖も、絶望も別の感情に変える。
飢えた市民たちが暴動を起こすたび、ミサキの力は使われた。
遠くで軍靴の音が聞こえ、ノックもそこそこに扉が開いた。
朴ソンミンが入ってきた。若いのに、軍服の肩章がまぶしい。昇進の速度が、彼がどの階梯にいるかを物語っていた。
「赤城先生のご容体は伺っています」
礼儀正しいが感情は控えめ。
タケシは苦笑し、かすれ声で言う。
「政治家みたいな言い方だ」
「上に行くには必要です。……本題に入ります」
ソンミンの視線がタケシからトウカに移る。
「先生の翻訳と助言がなければ、この国の“異能戦力”は維持できませんでした。91年の食糧危機、都市暴動、本来なら大規模粛清に発展していたところを、異能少女たちが防ぎました」
「きれいな言い方ね」
トウカが遮る。
怒りでもなく無関心でもなく、ただ事実を告げる口調だった。
「私たちは、怒りと恐怖を『鎮めただけ』。銃声が鳴らない代わりに、不満は地面の下に溜まってる」
ソンミンはわずかに目を伏せる。
「それでも——地面の上の血を広げずに済んでいる」
その一言に、軍人と個人の両方の本音が含まれていた。
「個人としては……先生と少佐が、この国で最も多くの命を救っていると思っています」
タケシは驚き、声も返せない。
自分を許せていなかった男に、それは過ぎた言葉だった。
♦︎♦︎♦︎
赤城タケシの葬儀は雪の中で行われた。
国旗で覆われた棺、整列する軍人、異能少女たち、医師や看護師たち。銃声の代わりに拍手だけが響く。
ミサキは一番前で泣きじゃくり、袖を掴んでくる。
「お母さん……泣いていい?」
「泣きたいなら泣きなさい」
そう言ったのに、泣けたのは娘だけだった。
トウカは涙を拭きながら、泣かなかった。
(崩れたら、終わる)
棺が遠ざかっていくとき、小さく胸の中だけで呟いた。
(ごめんね。あなたが生きている間に、何も終わらせられなかった)
数日後、黄州郊外。
工場地帯の暴動鎮圧の依頼。
配給削減に怒った工員たちが数百人規模で集まっている。
トラックの荷台で、トウカとミサキは並んで座っていた。
「今日の人たち……『怒ってる』?」
「怒ってる。寒いし、怖いし、お腹も空いてる」
「……私、やる」
「無理だと思ったらすぐ言うこと」
トラックが止まる。怒号。金属音。兵士たちが銃を構えている。
一発でも撃てば、もう止まらない。
トウカは空に浮き、ミサキを抱き寄せて囁く。
「合図したら、目を開けて」
ホウキに跨った影が、怒りの渦の上に立つ。
群衆の視線が一斉に向き、暴力の熱が集中する。
(ごめんなさい)
誰にでも、誰にも、心の中でだけ謝る。
「ミサキ」
「うん——『鎮静』」
かすかな声。それだけで十分だった。
群衆が、怒りが、熱が解けていく。
銃声は鳴らず、都市は救われた。
だが、救われたのは『今日』だけだ。
ミサキが肩で息をしながら問う。
「……助かった?」
「ええ。今夜は」
「お母さん……悪い顔してる?」
「してるかもね。でも、それで守れる人がいるなら……それでいい」
抱き寄せたまま高度を上げると、雪に覆われた畑が広がっていた。
白の下には、見えないまま芽が眠っている。
(タケシさん)
胸の奥で呼びかける。
(あなたの罪も、私の罪も、雪の下に埋める。
いつか、この国が解ける日が来るまで)
『帰る』という言葉を口に出すのは、もうやめた。言った瞬間に、守れるものを失う気がしたからだ。
ミサキの温い身体を抱いたまま、母は夜の空を渡った。
雪は静かに降り続けていた。
――その下に、春を待つ種が確かに眠っていることを、誰も知らないまま。




