第4話「覚醒」
1976年5月。
雪はようやく溶け、山の斜面に濡れた土がのぞき始めていた。
ここへ連れて来られて、半年が過ぎた。
『102招待所』は今日も静かだった。
病院のように清潔で、ホテルのように整っていて、でもどこか『生きていない建物』の匂いがする。
部屋の机の上に、赤城さんが新聞の束を置いた。
「今日届いたやつだ。練習に使え」
……『今日届いた』といっても、日付はまちまちだ。
三月。
四月。
そしてその中に――
明らかに紙質の違う、一枚。
ざらつき、端が湿気で波打っている。
無意識に指先でつまんだ。
―1976年 1月4日
(……なんで?)
日本の新聞が、この国にすぐ届くはずがない。工作員から中継役へ渡され、いくつもの机を回され、「必要な紙」だけが月に1・2度ここへ来る。
本来こんな古い記事は途中で廃棄されるはずだ。混ざるのは、どう考えてもおかしい。
「赤城さん……これ……」
赤城さんの手が、ほんの少しだけ止まった。
「……どこかで紛れ込んだんだろう。古いもんだ。気にするな」
その『気にするな』という声が、逆に胸をざわつかせた。私はページを開いた。
そして、息が止まった。
『山口県警下関署は本日早朝、発見された運動靴が失踪少女の物と確認したと発表した』
鼓動が耳の奥で大きく鳴る。
『先月18日、公民館で目撃されて以降、行方不明となっていた種田トウカちゃん(15) の名前がかかと部分に記されており、なんらかの原因で海に転落した可能性が……』
紙面の文字がゆがんだ。
(……私……『死んだこと』になってる?)
涙が紙に落ちる。
赤城さんはそっと新聞を取り上げた。その指が、わずかに震えていた。
「……見せるつもりはなかったんだ。本当に『混ざってた』んだ」
胸の奥に、冷たい水がゆっくり満ちていく。
家族も。
友だちも。
学校も。
食堂も。
妹のフウカでさえ――
みんな、私が海で死んだと思っている。
「……帰りたい……」
やっとのことで出た言葉。
その瞬間、
胸の真ん中で何かが『熱』に変わった。
帰らなければ。私は生きている。
必ず、生きて帰る。
この感情は静かで、深くて、そして――
確かな『目覚め』だった。
♦︎♦︎♦︎
翌日、職員が淡々と告げた。
「今日は外出の許可が出ています。必要物資の購入を認めます」
外出。
半年閉じ込められて、初めてのことだった。
赤城さんが待っていた。一応、監視役ということらしい。
「……行こうか、トウカ」
その声だけで、胸が少し軽くなるのを感じた。
外に出ると、空気が違った。
冷たいけれど、生きている風。車の音。
店のざわめき。食堂から漂う油の匂い。
半年ぶりの『町の音』は、それだけで泣きそうだった。
「まず服だな。トウカのは、冬物しかない」
案内されたのは小さな百貨店のような店。
並んでいる服は日本より少し古いデザイン。
けれど……可愛かった。
「これ、着てみてもいいですか……?」
「いいよ。好きなのを選べ」
二着のワンピース。濃紺のスカート。
少し淡いクリーム色のブラウス。
試着室で鏡を見た瞬間、『普通の女の子』だったころの自分を思い出して、胸が痛くなった。
「似合う」
赤城さんは本当に自然に言った。
その一言で、半年分の孤独が少し溶けた。
下着も買い、文具売り場でノートと鉛筆を選んだ。
「字が、もうこっちの中学生と変わらんね」
「赤城さんが教えてくれたからです」
なんだかデートみたいで、自分でも戸惑うほどに胸が熱くなる。
♦︎♦︎♦︎
昼食は、町の小さな食堂に入った。
湯気が立ちこめ、
赤い唐辛子と肉の匂いが混ざっている。
私は卵入りの優しいスープ、
赤城さんは辛そうな麺料理を頼んだ。
「うまいだろ?」
「……はい。なんか……ほっとします」
外食なんて半年ぶり。
隣に赤城さんがいるだけで、
私は『収容された少女』ではなく
『普通の15歳の女の子』になれた気がした。
♦︎♦︎♦︎
招待所へ戻る途中、川沿いの土手を歩いた。
雪解けで水かさが増え、白い流木がゆっくり流れている。
「……あれ?」
川底で、
何かが“光って”いた。
気づけば土手を降り、冷たい水の中へ手を伸ばしていた。
小さな濃紺の結晶。
拾った瞬間――
胸の奥が、ドクッと脈を打った。
足が、地面から離れた。
「ト、トウカ!? 危ない、離れろ!」
赤城さんに掴まれ、私は反射的にその腕を握った。
そして二人の身体ごと――
空に浮いた。
三メートル。
五メートル。
八メートル。
十メートル。
川が遠い。
風が強い。
重力がなくなる。
「と、トウカ……集中しろ!制御するんだ!」
赤城さんの声で我に返り、ゆっくりと地面に着地させる。
息が荒い。
けれど怖くはなかった。
むしろ、
胸の奥の熱がまだ震えていた。
(……これ……知ってる……?
なんで? なんで、こんな……)
赤城さんはしばらく黙り、
やがて絞り出すように言った。
「……ここに来た『理由』は……
言葉や翻訳のためだけじゃなかったのかもしれないな」
♦︎♦︎♦︎
その夜。
何か作業をする音が廊下まで聞こえた。
少しして赤城さんが戻り、布袋をそっと渡してきた。
「……できた」
中には、昼間拾った結晶に紐を通したペンダント。
粗いけれど、誰よりも丁寧に作られていた。
「どうして……?」
赤城さんは深く息を吸い、言った。
「時が来たら……これを持って、一緒に日本へ帰ろう」
涙が止まらなかった。
新聞に“死んだ”と書かれた日。
外へ出た日。
服を選んだ日。
食堂で温かいスープを飲んだ日。
魔導石を拾った日。
空を飛んだ日。
そして――
『帰国の約束』をした日。
私はペンダントを胸に強く握った。
(帰る。絶対に帰る。)
その祈りに応えるように、
胸の奥の結晶が、
かすかに――震えた。
同じ頃、半島北側の国、首都『平城』市街、
通称「39号館」。
「所長、黄州郡の『102招待所』から報告です。昨年、拉致した少女が『異能』を開花させました」
「本当か?朴に知らせろ。2階級特進だと!もう5人程、資格者を探してこっちに送れと!」
興奮した様子の所長が言った。
この年から日本各地で少女の失踪が相次いだ。




