第3話「102招待所」
窓の外には、低い山と田んぼが広がっている。
……たぶん、そうなのだと思う。
『たぶん』としか言えないのは、
一面が雪で覆われていて、土地の形がぼやけて見えるからだ。
ここに来て、一週間が過ぎていた。
時計がないせいで、一日が三日にも、一時間にも感じられる。
寝ても、起きても、同じ景色だった。
部屋は綺麗だ。
白い壁紙に、木目調の家具。
ベッドは硬いけれどシーツは清潔で、どこか『ビジネスホテル』の部屋に似ている。
ただ、窓は少ししか開かず、廊下はやけに静かで、どこにも時計がなかった。
「……ここ、どこなんだろう」
呟いても、答えてくれる人はいない。
食事は毎日決まった時間に運ばれてくる。
時計はなくても、窓から見える木の影が少し窓にかかる頃――それがだいたいの時間の目安になる、と小倉で理科を教えているお父さんに教わった。
トレイは金属製で、スープとパンのようなものが乗っていた。味は薄いけれど、病院食よりは少しだけ温かみがある。
部屋の隅には、白い陶器の簡易トイレが置かれていた。
病院で使うような、車輪つきのものだ。
強制感はあまりないのに、『ここが家ではない』ことを嫌でも思い出させる。
隣の部屋から、ときどき人の気配がする。
笑い声ではなく、話し声でもなく、何かをこらえるような、静かな呼吸の音だけ。
♦︎♦︎♦︎
その日の午後、扉についている小窓がノックされた。
「入るよ」
日本語だった。
日本語を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと熱くなった。ほっとしたのか、涙が出そうになる。
私は反射的に身を縮める。
扉が開き、男性が入ってきた。
古いコートに、痩せた顔。
でも表情は柔らかく、怒っている様子はなかった。
「君が……種田トウカさんだね?」
「……はい」
男は静かにうなずいた。
「俺は赤城タケシ。今日から、君に半島語を教えるようにと言われてる」
「……教えるって……」
「ここで暮らしていくには必要なんだ。職員とも、他の子とも、言葉が通じないと辛いだろう?」
そう言って男は紙袋を床に置く。
中にはクッキーと、温かい紅茶の入った魔法瓶。
「日本の子には、このくらいが口に合うだろうと思ってね」
優しいとも違うが、丁寧だった。
私は、怖さと安心がごちゃまぜになったような声で聞いた。
「赤城さん……どうして日本語を?」
赤城は少しだけ目をそらした。
「……昔、飛行機をハイジャックして、ここへ来たんだ」
「……ひこうき……?」
「“のと号”。羽田発・板付空港行き。
君も……小さいころ、見たことないかな。
テレビのニュースで何度も流れていた」
その瞬間、胸の奥で、小さな映像が浮かんだ。
──10歳のとき。
家に新品のカラーテレビが来たばかりで、
家族が「大変な事件だ」と騒いでいた。
飛行機の映像が繰り返し流れていた。
名前も顔も覚えていない。
ただ、家族が『同じ福岡県で』と言っていたのを思い出す。
「……あれ、赤城さん……だったんですか……?」
赤城さんは無理に笑わず、ただ静かに言った。
「そう。その時に仲間とここへ来て……いろいろあって、今はこうしてる」
『いろいろ』
それ以上は聞けなかった。
赤城さんは部屋の中を見回し、
「ここは半島北側の国。『102招待所』って呼ばれてる。帰国できない人が、しばらく滞在する施設だ」
『滞在』
ホテルみたいな言い方なのに、
扉の外には鍵の音がする。
「……帰れるんですか」
私がそう聞くと、赤城さんは少しだけ目を伏せ、ゆっくり言った。
「……帰れるさ。ただ、そのためには言葉を覚えて、ここの決まりや考え方に慣れないといけない。『協力的だ』と思われれば──道は、なくはない。」
その「帰れるさ」という言葉が、
なぜか逆に、胸の真ん中で重く沈んだ。
嘘なのか、本当なのか。
私は判断できなかった。
でも、赤城さんの声は驚くほど穏やかで、
その優しさが逆に、胸を締めつけた。
「明日から授業を始めよう。今は俺しか日本語を話せる人間がいないからね」
扉に向かいかけて、赤城さんは振り返った。
「……トウカ。いい名前だ」
扉が閉まる。
部屋に戻った静けさは、病院の消灯後のようで、でもどこかホテルの深夜のようでもあった。
窓の外では雪が降り続けている。
(……帰りたい……)
でも、この綺麗すぎる部屋も、静かすぎる廊下も、どこか『実験場』みたいな匂いがして、
ここが帰れない場所なのだと
じわじわと理解させてくるのだった。




