第1話「プロローグ:朴ソンギュ」
あけましておめでとうございます。
新年は新章スタートからです。
本年もどうぞよろしくお願いします。
1974年暮れ。石川県、能登半島。
小さな漁港に古びた木造船が滑り込む。日付けが変わろうかという深夜に周囲に人影はおろか、近くの民家にも照明はついていない。吐く息は白く風に流される。雪は音を立てずに落ち、海は月の光すら拒むように黒かった。
そこに1台のトラックが止まった。
「朴ソンギュさん?」
「煙草あるか?」
朴と呼ばれた中年の男性はトラックから降りた青年の問いに答えず、そう言った。
黙って言われた通り胸ポケットから煙草とマッチを取り出して渡す。朴は折からの強風でマッチを1本無駄にして、煙草に火をつけた。
「・・・うまいな。これが日本の煙草か。『セブンスター』」
「助手席に作業着があるので着替えてください。それから出発して翌朝には駅に着きます」
ゆっくりと煙草を吸い終えた朴は言われた通りに着替えて助手席に乗り込む。暗闇の中、テールライトだけが漁港から遠ざかっていく。
♦︎♦︎♦︎
1時間程、トラックを走らせたところでパトカーに止められた。
「歳末防犯運動で検問をしています。運転手さん、免許証を拝見します」
若い警官が丁寧に言ってきた。朴はこういうところで日本は違うと思う。本国なら、もっと警官は高圧的に話してくるだろう。「はいはい」と慣れた様子で青年も財布から免許証を取り出した。
「助手席の方もお願いします」
(まずい!)
感情を抑える。気取られてはならない。財布を探す素振りをする。背中に薄く汗が滲む。こんなはずではない。日本の警官は穏やかすぎて逆に恐ろしい、と朴は思った。
「あ、先輩。メシの時に『払っておけ』って、僕が持ったままでした」
そう言って青年が別の財布を取り出した。そこから免許証を取り出して警官に渡す。
何とか検問を突破して、少し走った頃。
「助かった。さっきの免許証は?」
「オヤジの店、大阪の鶴橋で焼肉屋をやっているんですが、そこで卒中で倒れた客の忘れ物を失敬しました。本人は植物状態ですから、アシはつきません」
林章三、42歳。免許証に書かれた情報を暗記する。確かにあるとないでは大違いだろう。
「改めて、ありがとう」
「構いませんよ。それが僕ら『土台人』の仕事ですし。強制連行されたお兄さんを探しに、筑豊炭田に行くんですよね?」
嘘だった。朴に強制連行された兄などいない。だが、そう伝えた方が『土台人』を利用する上で都合が良かった。ただし、『人探し』という部分は間違っていない。朴ソンギュは半島北側の国の工作員だった。
♦︎♦︎♦︎
翌朝、京都駅で朴はトラックを降りた。車の去った後に残る排気ガスの匂いだけが、夜の仕事が現実だったことを証明していた。
駅構内は活気に満ちていた。
修学旅行らしき中学生が笑い、赤いマフラーの少女が父親の手を引きながら走っていく。
朴の視線が、一瞬、その少女を追う。
年齢は――十三、十四か。
すぐに目を逸らす。
任務はまだ先だ。
今の彼には、ただ「観察」だけが許されている。




