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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

心中日和

ミーンミーンミーンミンミン


ああ、暑い。ジリジリと照りつける日差しに舌打ちをした。田んぼや畑しか無いわけではなく、しかし地方都市とも言えない、日本の随所にあるような地方の街。別に家族のことは嫌いではないけれど、高校を卒業して、なりゆきで東京の大学に進んでしまえば、帰ることは無くなった。面倒だし、やることもたくさんあったから。そのまま東京で就職、幼なじみが結婚したときに帰ったっきり、それからも気づけばもう五年経っていた。


「ただいまー」


そう声をかけてガラガラと扉を開ける。久々に帰ってきた実家は何も変わっていなくて、玄関の靴箱の上の雑貨までもが記憶と同じであった。


「あら、おかえりー」


母の間の抜けた声が帰ってくる。これも変わらない。そのまま靴を脱いで、洗面所で手を洗う。お土産を母に渡す。家の近くにあるちょっといい和菓子屋のどら焼き。引っ越した当初にハマって母によく話していたものだ。

二階の私の部屋はそのままにしてある、と先に連絡をもらっていたので自分の部屋に荷物を置くことにする。


その部屋は、リビングよりもさらに変わっていなかった。ベッドは母が整えてくれていたらしい、綺麗なままである。旅行鞄を置いて、そのままベッドに腰掛ける。外を歩いてきたズボンだし、汗もかいたままだ。汚いし行儀も悪いが最低限手は洗ったし、疲れてしまったのだからよしとする。なんとなく目線を正面の机に飾られている写真に合わせてぼんやりとした。写真のなかには、高校生の私と一緒に同い年の少女が写っている。少女は私に抱きついていて、こちらとは視線が交わることはなかった。無意識に、はあ、と溜息が漏れる。理由は、長旅の疲労でもあったが、それが最も大きな理由ではなかった。

私は、幼なじみの彼女の葬式のために、ここに戻ってきたのだった。




「海に行こう。」


学校の教室、二人。私は椅子に座って、真知は向かいの机に体重を預けて。先程までの静寂は、唐突に破られた。


「いやなんで今。冬じゃん。」


今日は高校の卒業式、の次の日であった。来た理由は真知の忘れ物。昨日はクラス全員で、慌ただしく騒がしくお別れをしたので、二人で学校に別れを告げていた。卒業式の次の日。まあつまり、決して海に行くような季節ではない。


「優依ちゃんがいなくなっちゃうから。思い出作り……的な?別に泳ぐ気なんてないよ。だから今でいいの。」


彼女がそう言って立ち上がった弾みで机がずれた。それを直してから私の前に立つ。


「ほら、帰るよ。」


差し出された、その手を取った。真知はそのまま私を引っ張って立たせる。忘れ物を取りに来ただけなので何も持っていない。身軽な体で手を引かれて廊下を走った。

どうせ家の方向が同じなので、並んで帰路に着く。しかし、彼女の忘れ物だ。私が行く必要はなかったのではないか。昨日、もうこの光景を見るのも最後になるのか、となんとなしの感傷に浸ったことがアホらしく思えるな。


「じゃあ、2時に優依ちゃん家に迎えに行くわ。昼ごはん食べてから行こ。ちゃんと用意しとくんだぞー!」

「マジで行くつもりなんだ。まあいいけど。」


真知と私の家との別れ道でそんな会話をしてしまったので、家に帰ってから母に昼ごはんを頼み、自室で用意をすることにした。冬の海に行くって、何が必要なのだろうか。とりあえず財布と携帯電話をショルダーバッグに突っ込む。ここから海に行くならバスと電車の乗り継ぎになるので、交通IC。暇つぶしに文庫本でも入れておくか。あとは家を出る前にペットボトルのお茶でも入れておこう。

母が作ってくれたのは焼きうどんであった。真知と出かける旨を伝えれば、思い出を作っておきなさい、と快く了承された。真知と全くもって同じことを言う。私が思っている以上に私がこの町を出て行く、ということは周りの人にとって大きいことなのかもしれない。


「優依。真知ちゃん来たわよー!」


約束通り、14時ちょうどに真知は私の家に来た。一階にいる母からの声が聞こえる。ダウンと荷物を入れたショルダーバッグを引っ掴んで、下の階の冷蔵庫に入れていたペットボトルを持って玄関に向かう。


「はやくはやく!」


寒いからと母は外ではなく玄関で真知を待たせていたらしく、靴を履いたまま彼女は玄関に立っていた。海まで歩くだろうしスニーカーがいいだろう。そんなことを考えながら私も靴を履く。


「そういや、どうやって行くのよ。」


そもそもどこの海に行くのかも聞いていなかった。幼い頃行った海水浴は母の地元出会ったので、家の近くでは無い。


「調べたらね、電車とバスを乗り継げば意外と近いみたいだよ?夕飯の前には帰れるくらい。」

「へー。」

「興味無さそうすぎて笑えるわ。ま、3000円持ってたら帰って来れると思う。」


聞く限り、所持金的には大丈夫。定期の他に財布も持ってるし。無くなったらチャージだな。

私たちの家から一番近いバス停は14時12分に駅行きのバスが出る。きっとそれに乗るのだろう。遊びにく時に毎回使う方向だ。

バスは2分遅れて、14時14分にやってきた。後ろの方の2人席が空いていたので、並んで座ることにする。先にバスに乗った私が窓側に座った。

窓の外を眺めれば、歩いたり、自転車に乗っているときよりも早く、しかし家の車に乗っている時よりのったりと風景が流れていた。バス特有の高さもまた、その風景が醸し出す不思議な感覚のひとつの要素だと思う。

バスに乗っている間は真知と特に喋ることもない。バスや電車に乗っていると、友人も一緒に乗っていたとしてもなんとなく口を開きづらいのはなぜだろうか。バスは電車とは違い、車なので、酔わないために本を読むのはしないことにしている。そのため風景をぼんやりと眺めていた。畑や田んぼが少なくなり、一軒家に侵食されてしまえば、駅はもうすぐだ。



「おー、海!」


駅から2本ほど電車を乗り継ぎ、真知が調べておいていたところには何の間違いもなく着いた。改札を出ると、正面の下り坂が見え、突き当たりの海が見える。夏のような彩度の高い、青い空と海、というよりかは、冬の白っぽい空に、灰色がかった海ではあったが、それでも私も久しぶりに見た海にテンションが上がったのは事実だ。


「よし!寒いし走ろう!優依ちゃん!」

「えっ!は!?」


真知は私の手をとって走り出す。当然引っ張られる形になり、転ぶまいと私も走る羽目になった。私が走り出したことがわかったのか、真知がすぐに手を離したので転びこそしなかったが、突然のことだったので足はもつれそうになる。

下り坂だ。海から強い向い風が来ているにも関わらず、重力にしたがってどんどん加速していく。3月の平日、それもお昼すぎに人は外に出ておらず、建物だけが横をすり抜けて流れていくのが横目で見える。

駅から出たところでは激しかった傾斜は、海に近づくにつれて緩やかになって、最後には無くなった。慣性の勢いにしたがってそこでも少し走ったが、私も真知もだんだん減速してついに止まった。

肩で息をしながら、受験勉強で体力が落ちたことを感じる。あと走ったので体が熱い。さっきまで来ていたダウンを脱ぐ。ひんやりとした風が気持ちよかった。


「ふっ、優依ちゃん、髪、やっばいことになってる。」

「いや、それ真知もだから。てか真知が走らせたからでしょうが!」


あははっ、とお互いに笑い声が漏れる。振り向いた真知は髪がぐしゃぐしゃになっていた。彼女の言うところによると、私も同様らしい。

一通り笑い終わると、汗が冷めていてたのか、海の近くの風が私たちの体を冷やしていた。先程脱いでしまったダウンを着込む。


「あ、こっから降りれる。優依ちゃーん!行こ!」


私より前を歩いていた真知は、砂浜へ降りる階段を見つけたらしい。少し前で手招きをしていた。彼女は既に上着を気直している。


「おお…海だ……砂浜ふかふか。」

「靴の中に砂が入りそう。」

「それは言わない約束でしょ!」


先程坂の上から見えていたように、海は灰青で重ったるい様相だった。砂浜に足が沈み込み、アスファルトと比べれば踏みしめにくい。冬の海には誰もおらず、私たちのふたりじめであった。


波打ち際によると、波が一定の間隔で寄せては返す。春や秋であれば、靴下と靴を脱いで足を浸すくらいはしようと思うのだが、真冬の今はそんなことをする気にもなれなかったので、なにをするでもなく、波を見つめた。波が寄せてくる場所は基本的にどのくらい、というのがあるのだが、偶にそれを通り越すことがあった。砂がこちらに来てはあちらに帰っていくことを、人間の目で判別できるほどの石の動きで知ることができる。


古代ギリシアの思想家に、川に水が流れるのは一瞬のことなので、絶対に今と同じ川になることはない、というようなことを唱えた人がいたことを思い出す。川ではないが、海も同じだ。私が今見ている、一つ一つの波は、今後絶対に、同じになることは無い。時間も同じように止まることなく流れていく。私が育った町を離れるまでの時間が、刻一刻と短くなっていることを実感させられた。それは、真知との時間が着実に無くなっていることも示していた。


「なーに黄昏てんの!」


いきなり背中に衝撃が来て、よろついた。後ろを見れば、考えを巡らせていた当事者が笑っている。手になにかを握っているようで、固くグーの形にしていた。


「いや、別に……海だなぁって。」

「どういう感想よ。そりゃあ海だからね。」

「それ、なにを持ってるの?」


そう問えば、彼女は嬉しそうに手を差し出した。


「シーグラス!」


彼女の手に青や緑の縁が丸くなったガラスが数個乗っていた。

水の侵食作用によって角がとれ、表面も削られて、くもりガラスのような見た目のそれらは、とても綺麗だった。


「かわいい…!」

「でしょ?海は泳げなくてもこういう楽しみもあるからいいよね。優依ちゃんも探そうよ。ここに来た記念に。」

「いいねぇ、記念。可愛いし。」

「よし!じゃあ探そう。」


二人して砂浜を歩く。本気で探している訳ではなく、私にとってはシーグラスは二人で歩く口実に過ぎなかったのだけれど。

大人になったときに、私はきっと、この瞳に映るシーンを何度も何度も思い出す。そんな気がした。きっと今の高校生の私が、小学生の時にしていた習い事に行く道を通ったときだとか、使っていた連絡帳が掘り出されたときだとかの感情と似たものを感じるのだ。そして、そうであって欲しいと思う。

潮のほんのり香る冷たい風、踏みしめる砂浜のやわらかさ、永遠に続くかのような波のたてる音、真っ青で綺麗とは言えない空の色、私の前方を歩く真知の後ろ姿。全て覚えておけるように、黙ってそれらを刻み込む。


「お、あった。」


真知の声でそれまでの静寂は途端に破られた。彼女は真面目に探していたらしい。

彼女の手の中で光るガラスの小片は白んだ水色だった。まるで今日の空を写し取ったようだ、という一節が思い浮かぶ。


「綺麗じゃん。」

「でしょ?優依ちゃんも探した探した!ほら、これもあげるから。」


彼女の言葉に私もシーグラスを探すことにした。先程差し出されたものはポケットに突っ込む。


「よし!勝負しよう!どっちが綺麗なのをみつけられるか!」

「勝負って……小学生じゃないんだから。」

「ほー、まあさっき探してなかった優依ちゃんと違って?私はコツとかもわかってますし?負けるのが嫌なら辞退してくれてもまわないんだよ、私は。」

「……言うねぇ。」


普段だったらどんな煽りだよ、とあしらって流すものに乗ってしまうぐらいには、私もテンションが上がっていたし、それと同時に幼い頃を懐かしんでいる気持ちもあった。どうもセンチメンタルでいけない。


結局どんなところに流れ着くか、どうやって探すか、を私よりわかっていた真知が大量のシーグラスを持ってきて終わった。どうやってかき集めたのよそれ。


「ふっふっふ。優勝景品として私は優依ちゃんの戦利品をひとつ奪って持って帰ってやるからね。」

「何そのキャラ。どれでもあげるよ。全部海に置いて帰るつもりだし。」


そう言うと真知はもったいないだとか言いながら、私の拾ったシーグラス、彼女流に言えば戦利品、を物色し始めた。その間私はポケットに手を入れて、先程彼女がくれたシーグラスと指先で遊ぶ。

最終的に真知が選んだのは、3センチ程のシーグラスで、緑色のものだった。それをいとも大切そうにティッシュにくるんで鞄に入れる。


「4時半からフェリーでるって。乗ろうよ。」

「ああ、いいね。どこからでるの?」


私がそう問いかけると、彼女はすぐに笑みを浮かべて西を指さす。そちらは船が乗り付けやすいように、砂浜ではなくコンクリートで埋められていた。時間の余裕があるのでゆっくりと歩く。先程までは話していて意識しなかった波の音や、それによって砂浜の砂が動かされて堆積する音がかすかに聞こえた。ふと真知の方を見ると、彼女は手に緑色のシーグラスを持って、空に透かすのに夢中だった。なんとなしに私も真似をしてみようと、彼女が拾ってきてくれた水色を透かす。半透明の水色はまろやかに、そして明るく光った。


フェリーは予想していた通り閑散としていて、私たちと1組の恋人がいるだけだった。彼らは中のソファに座り、お互いしか見えないようだったので、気まずくなった私たちは甲板に向かう。どうせ海を見るのだ。ガラス越しより外に出た方が綺麗だろう。


「いや寒っぶ!!」


海に出てしまえば、遮るものはなく、冷たい風が吹きすさぶ。髪は砂浜にいる時から乱れていたのでこの際気にしないとして、寒い、はちゃめちゃに寒い。耳がジンジンと痛む。


「おー!白波だ!」

「なんで真知はそんな平気なの……。」

「寒いくらいで楽しまないなんてもったいないじゃん!」


真知はそういうと私の手を引いて端に連れていく。下を覗き込むと波とフェリーの作る流れがぶつかり、白く泡立っていた。泡自体はすぐに消えるのに、波が切れ間なくやってくるのでまたすぐに新しい白ができる。そうして常に白い泡は私の視界にいるのだった。

でも寒いことに変わりはないな、なんて思っていると不意に頬に温もりを感じる。横にたっていた真知が私の頬にカイロを自慢気に当てていたのだった。


「ふふっ。暖かいでしょ。」

「……カイロ、持ってたのね。」


カイロが当てられたのは頬なのに、さっきまで冷えて痛いほどだった耳も、いまでは気にならないほど暖まるように感じる。


「カイロ、私もう1個持ってるし、結衣ちゃんにあげる。」


そう言われたのでありがたく受け取り、両手で挟むように持つ。手袋はつけているものの冷えていた指先にじんわりと暖かさが染みた。

それから他愛のないことをひとつふたつ話していれば、気付いた時にはフェリーは引き返す道に入ったようで、コンクリートが大きくなっていく。陸にいない20分はゆったりと過ぎ去った。


「帰ろうか。」


フェリーから降りて、真知に声をかける。そろそろ17時になる。ここから家まではそこそこに遠く、あまりに遅くなれば両親に心配されるし、夕飯は食べそびれるだろう。

真知はそうだね、と返事をして砂浜を踏みしめ始めた。来た時よりも心なしか緩慢な歩みに見えるのは、この時間が続いて欲しいと彼女にも思っていて欲しい私が見ているからなのだろうか。

日が傾きつつあり、見事に夕日だ。空が赤く染まれば、海もそれを映し出して赤く波打つ。ついに砂浜から上がる階段を登り始めると数段先を登っていた彼女が止まり、振り返る。

どうしたの、と聞こうとした途端、耳馴染みのある音楽が流れた。遠き山に日はおちて。17時の、夕暮れの音楽。帰らなくては。瞬時に幼いときから刷り込まれた思考に達する。この音楽が聞こえたら、楽しい遊びの時間は終わり。家に帰って、ご飯を食べて、次の日には学校に行く、現実世界に戻らなくてはならないのだ。それがいまこの時にも等しく訪れた。


「帰ろうか。」

「……そうだねぇ。」


そのまま無言で駅まで坂を登り、電車の中でも一言も話さなかった。







私が真知に最後に会ったのは彼女の結婚式であったが、どうしたって私の中の真知は学生の時の印象が強い。特にこの海に行った時のことが強く刻み込まれていた。

言ってしまえば、高校を卒業してからほぼ実家に帰らなかった私にとって、真知はいつまでも18歳のままなのだ。私の知らないコミュニティに属し、私の知らない人と結婚した彼女は私の知らない人のようだった。だから真知が死んだ、ということも上手く理解できていない。昨日まで会っていた人が死んだならいざ知らず、私はもう彼女と5年も会っていないのだから。葬式の前日となっても、真知は私に会っていないし連絡もしていないだけで、普通に生活をしているのだと思ってしまう。


いつまでもベッドの上にいる訳にも行かないので、立ち上がって持ってきた荷物を整理することにする。鞄を開けて喪服を取り出し、備え付けのクローゼットにかかっているハンガーにかけ、着替えや洗顔料などが入っているか確認する。どう明後日には帰るのだ。出して散らかす理由もない。

その日の夕飯は私の好物ばかりが並んでいて、いつまでも母は母なのだと笑ってしまった。



喪服にパールのネックレス。同じく黒い鞄には財布や無地のハンカチといったものを詰める。葬式場は市内だったので、隣の家に住んでいる弟家族と車で近くまで向かうことにした。乗り込んだ実家の車は蒸し暑く、母が父に文句を言い、それを弟が諌めていた。このようなことは昔から弟の方が得意であったので任せて私は窓の外を見やる。昨日来た時は暑く、歩くことに必死で分からなかったが、家々は意外に変わっていた。当たり前だ。前回帰ってから5年、家を出てからなら10年以上経っている。変わらない方がおかしいだろう。私の中の記憶が更新されてゆく。それがどうしようもなく嫌で、窓に向いていた目を逸らした。


お経を聞きつつ焼香をする。血縁ではない私の席はもちろん最前列ではなく、しかし友人の枠では最も彼女に近い席をおばさんが用意してくれていた。

前に出て、香をつまむ。棺の中にいる真知は、記憶の中の彼女とは髪型も顔立ちも随分と変わっていて、しかし明確に真知であるとわかった。

私が列を止める訳にも行かないので、合掌を終えるとすぐに彼女の家族に向けて一礼する。私が席に戻っても列はなかなか途切れない。子供の関係でたくさん知り合いができた、と数年前に連絡をとった時に言っていたことを思い出す。社交的で友人のたくさんいた彼女らしい。

それでも式は滞り無く進み、最後に参列者が真知に花を渡す。黄色い花が彼女を彩り、埋めてゆく。私も花を受け取って、棺の前で立ち止まった。どこに置くべきか迷ったすえに、結局耳の下に差し込んだ。周りが黄色の花の中、私がおばさんから渡されたのは白い花だったから、やけに目立ってまるでピアスのようだった。


火葬場の一室で終わるのを待つ。血縁者と、ほんの少しの友人のみがそこにいた。親戚同士で静かに談笑しているなかで、私は話す人もおらず、ただ椅子に座ってぼんやりと目の前の茶を眺めていた。

真知が死んだ、ということを、周りの人の言動がものがたっている。彼女はもうここ半年は病に犯され入院していた。火葬場にまでくる人は私以外もれなくその姿を見ていたから、実感が湧くのだろうか。私だけが元気な彼女しか知らず、薄布に隔てられたようだ。

火葬場の職員が呼びに来た。火葬が終わったらしい。出てきた彼女は、灰になった部分もあるからかバラバラで、理科室の骨格標本のように一目見て人間とわかる骨ではなかった。それらを一つずつ骨壺に収めていく。歯、足、腕、腰、と収められていく。当たり前のことなのだが、私は真知の骨を初めて見る。この骨に、肉が着いて、皮に包まれて彼女は存在していた。私が知っているのはそれだけだった。喉の骨は彼女の結婚相手と、母親がいれた。この骨は、喉に住む仏様なのだと、職員が話してくれる。その骨を守るかのように、頭蓋骨がドーム状に重ねられた。骨壺自体が幾重にも包まれる。159cmの女性は、小さな白い器に収まってしまった。私の生きる世界における真知の体積は、数時間前よりもずっと小さくなったのだった。


食事を終え、家族と共に家に帰った私は、昨日と同じようにお風呂に入って眠った。夢は見なかった。見たとしても、覚えていなかった。


夜が遅かったからか、起きたのは12時25分で、しかし下に降りても母はそのことを咎めなかった。着替えてからそのまま母と話して、一緒に焼きうどんを作る。

食べ終わった食器は母が洗ってくれると言うので、それに甘えて縁側に座り、庭を眺めた。東京で庭付きの家に住めるわけもなく、久々の眺めだった。昨日何も変わっていないと思った我が家は、植物が成長していたし、グリーンカーテンがゴーヤではなくアサガオになっていた。それが五年分の変化だった。

あまりに暑いので自室に戻る。今日の夜6時半の新幹線に乗って帰るつもりなので、荷物を片付ける。散らかしていなかったので、昨日の喪服ぐらいしか詰める物はない。もうすぐにでも出ていける状態2なってしまい、することがない。ふと時計をみると14時半ちょうどだ。あ、そうだ。海に行かなくちゃ。不意にそんなに考えが頭をよぎる。バスは一時間おきだから、15時14分に出る。今から両親と弟家族に挨拶しても充分間に合う。私の足は下の階にいるはずの母へ向かった。





海は暑かった。真知と来た時は3月だったが、今は9月。まだ暑さは残っており、遮るもののない浜辺は日差しが直接当たる。日傘を刺していても砂浜に反射して暑そうだ。水色に白い雲が浮かびあがり、太陽は眩しい。あの時のように砂浜に降りる気には慣れず、コンクリートの周りをゆっくり歩く。

そういえば、少し前に読んだ友人の遺骨を持って逃避行するマンガは、最後海に来ていた。主人公とその親友の、最初で最後の逃避行で、そして、それは主人公にとっては駆け落ちだった。家庭内の暴力を受けていた親友を救いたかったのに救えなかった主人公の、自己満足にしかならない旅は、海という行き止まりをもって終わり、彼女はその足で立ち上がる。海はそんな場所だった。

もっとも、真知は物語の主人公の親友とは違う。真知は家族や友人に愛され、懸命に生きようとし、病気でそれが叶わなかった。真知の結婚相手も、まだ幼い娘も、両親も友人も、みんなみんな彼女のことを愛していて、その死を悼んだ。彼女はきっと幸せだった。幸せだったのだ。私には漫画の主人公のように、真知の遺骨を持ち去る正当性はなく、だから一人分の荷物の入った旅行鞄だけを持っている。それは幸せなことで、喜ばしいことなのに、私はその主人公が羨ましくてたまらない。

私は心の隅で、真知の不幸を願っていた。私がいない時は不幸でいて欲しかったと、私が幸せの理由でありたかったのだと叫んでいた。ぶっ壊れていたのは私だけで、真知はずっと綺麗なままだった。思い出の中の真知も、剥き出しになった白い骨も等しく美しい。

9月の海と3月の海はあまりにも違うのに、流れる水はいつだって同じであることはないから、かえって同じに見えてしまった。同じ場所なのに、真知はいなくて、真知であったものすら私のそばにはなくて、代わりに喪失感が寄り添った。この喪失感だけが、10年前、真知が私のそばにいたことを証明していた。

10年前、私はきっと真知のいちばん近くにいた。近くにいるには理由が必要だった。『幼なじみ』は大人になってもいちばん近くにいる理由にしては弱かった。

真知はいない。どこにもいない。近くにいないどころか、世界に存在すらしなくなった。真知だったものとして残ったのは、小さな壺に詰まった白い物体。私の手には物理的なものはなにひとつなく、ただ記憶だけがあった。


唐突に、それは耳に飛び込んできた。なんどもなんども聞いたメロディはスピーカーのチープな音で、遠き山に日は落ちて、と歌った。

海がぼやけて、空との境界が分からなくなった。なんだこれ、と考えて、私の涙のせいなことに気づく。

真知は死んだ。それでも世界は回っていく。時間は過ぎていく。私はこれから家に帰って、明日はなにも考えずに休んで、明後日から仕事に戻っていく。真知はいない世界が当たり前になっていく。きっと、三週間も経たずに彼女のことを思い出さない日の方が多くなるだろう。数ヶ月に一度、一人で晩酌をしている時なんかに思い出すだけの、なんでもない日常を過ごしていくのだ。


真知。どうだったの。苦しかった?痛かった?私は苦しいよ。だって、どこにも真知がいないから。そしてそれが、私の中でも当たり前になっていくことがわかってるから。

私が真知の幸せの理由になりたかったのは、私の幸せの理由が真知だったからだ。でも、あなたがいなくても、ご飯は美味しくて、音楽は心を震わせて、夜は眠れる。そうやって小さな幸せを、私はこれからも感じていく。ごめん。あなたのいない世界で、私はこれからも生きていく。あなたの記憶と一緒に、生きていく。


ボー。遠くで船が帰ってきた音がした。ああ、帰らなくては。ゆったりとした足どりで駅までの坂を登る。坂の上の駅から、振り向いて海を眺めた。もう一生、ここに来ることはない。でも、それでいい。私の中でこの海が、真知との海のままでいさせるためだ。

改札を抜ければ、ちょうど電車が来たところだ。私が電車に飛び乗ってすぐ、ドアはしまって、電車は動き出した。車窓に映る風景が加速していくのを尻目に、私は目を閉じる。

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