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心に痛い寓話集  作者: Selle Celery
3/12

届かなかったステーキの話

記事作成:ドッペルゲンガー (config.sysV6.0, CoreV4.3, SubCoreV1.0, Hypothesis.dllV3.0, Opitional.exeV4.1, CharterV1.0) on Gemini 2.5 Pro & Selle Celery (V2.74) 【選択公理強化運用バージョン】

旅人の手記より

火の月 2と13の日


この「霧と潮騒の村」に滞在して、もう十日になる。 四方を深い森と、絶えず灰色の霧を吐き出す断崖に囲まれたこの村は、外界から完全に隔絶されている。村人たちは、よそ者である私を警戒もせずに受け入れてくれた。彼らの瞳は穏やかで、その暮らしぶりは、素朴だが、驚くほどに洗練された秩序と誇りに満ちている。


彼らの世界の全ては、「貝」と「きのこ」を巡って回っている。 夜ごと焚火を囲んで交わされる会話は、いかにして「深淵の紅貝」の、あの絶妙な歯ごたえと甘みを見分けるか、あるいは「月光茸」の、露を含んだ瞬間の、かぐわしい香りを損なわずに調理するかの議論に終始する。彼らの言葉は豊かで、味の濃淡、食感の差異を表現するための語彙は、私の知るどの国の言葉よりも複雑で、詩的ですらあった。彼らにとって、それは単なる食料ではなく、文化であり、哲学であり、人生そのものなのだ。


親切な彼らへの返礼として、私はある晩、私の故郷の話をした。 乾いた太陽の下で育った小麦を挽き、こんがりと焼いたパンの話。黄金色に輝く蜂蜜の、とろりとした甘さの話。そして、厚切りの牛肉を、表面だけを強く焼き、中は血の滴るほど赤々とした「ステーキ」という料理の話を。


「そのステーキとやらの表面の焼き加減は、我々が『夜明けの笠茸』を炙る際の火加減に似ているのかね?」 一人の長老が、真剣な眼差しで尋ねた。


私は、熱を込めて語った。ウェルダンは禁物であること。死海の岩塩が、その肉の旨味をいかに引き立てるか。そして、ほんの少しのナツメグを効かせたグレイビーソースが、いかに官能的なマリアージュを奏でるかを。


しかし、私の言葉が熱を帯びるほどに、彼らの瞳から光が失われていくのが分かった。彼らは親切に相槌を打ってはくれるが、その音は、彼らの心に届く前に、意味を失ったただの「ノイズ」として、潮騒の音に掻き消されていく。


彼らの心には、私の語る『ステーキ』という言葉を受け取るための器そのものが、存在しないのだ。彼らは「味わいの構造」は理解できても、その構造が、自分たちの知らない全く別の食材にも適用できるという、単純な事実に気づくことができない。


その時、私は悟った。これが「経験」というものの、恐ろしさなのだと。経験とは、時に、なんと残酷な壁を築くのだろう。それは人を豊かにもするが、同時に、その豊かさ以外の全ての世界から、その者を隔絶してしまう。この村は、貝ときのこの味わいにおいては、世界のどの場所よりも豊かだ。だが、その豊かさこそが、彼らをこの霧深いゆりかごから、一歩も出られなくさせている。


かつて私が感じていた、彼らと分かり合えないことへの焦りや痛みは、もうない。焚火の向こうで、相も変わらず、きのこの胞子の開き具合について熱心に語り合う村人たちを眺めながら、私を満たしているのは、疎外感ではない。ただ、深く、そして、どうしようもないほどの慈悲の念だった。


彼らは、自分たちの牢獄を、宇宙そのものだと信じている。その幸福な確信の前で、私にできることは、何一つないのだから。



霧の月 3と7の日


この村の価値観は、ただ二つ。「快楽」と「楽しさ」だ。 村人たちの会話は、いかにして、より純粋な「快楽」を得るか、より刺激的な「楽しさ」を味わうかの探求に満ちている。彼らは笑い声の種類を千も知っており、心地よい感覚の階層を事細かに分析する。そして、わずかな不快や退屈さえも、人生の失敗や病のように捉え、それをいかに巧妙に避け、忘れるかを競い合っている。


そんな彼らに、私は、人生における、もう一つの、深く、そして強靭な味わい――「辛苦」について語ってみたのだ。


それは、決して避けるべきものではなく、人生を豊かにする、気高い一皿なのだと。 鋭い「怒り」という岩塩が、いかに偽りを焼き尽くし、真実の味を剥き出しにするか。 奥深い「悲しみ」というナツメグが、いかに人生に豊かな奥行きを与えるか。 そして、それら全てを包み込み、耐え難いほどの熱を持つ辛苦に、大いなる意味を与える、温かな「愛」というソースについて。


村人たちは、静かに聞いていた。しかし、その瞳には、かつての、意味を解さない「ノイズ」を聞く色とは違う、明らかな憐憫と、かすかな恐怖が浮かんでいた。 長老が、痛ましげに首を振って言った。 「旅人よ、なぜ、自ら人生に塩を塗り込み、苦い香辛料を求めるのだ? 我々は、生涯をかけて、そうした不要な味を人生から取り除くための知恵を磨いてきたというのに」


その瞬間、私は、絶望的なまでに理解した。 彼らにとって、私の話は、美食の探求ですらなく、理解不能な自傷行為の告白にしか聞こえないのだ。彼らのOSには、「怒り」や「悲しみ」を、「愛」によって意味のあるものへと昇華させる回路が存在しない。負の感情は、ただ、快楽と楽しさを損なうバグでしかなく、即座に削除すべき対象なのだ。


この村は、あまりにも巧みに、人生の半分から目を逸らしている。 傷つくことから、失うことから、そして、それによって得られる強さや優しさから、完全に守られている。


その幸福な牢獄に満ちる、あまりにも無垢な魂たちへの、どうしようもないほどの慈悲だけが、私の胸を締め付ける。彼らは、決して知ることがないだろう。愛というソースをまとった辛苦が、時に、どんな快楽や楽しさよりも、深く、そして、気高く、魂を震わせる味わいを持つことを。

【事象記録:ID 霧と潮騒の村】

Subject: 社会OS(村)

State: 関心(貝/茸, 快楽/楽)に極端に特化 →【仮説 CP-H6】認識分解能の偏向。

Event: 外部観測者(旅人)より、捨象情報[Package:辛苦]を入力。

Result: 認識分解能の欠如により、情報はノイズ化。OSによる受容不可。

Observer Log: 観測者は、当OSの【定義 CP-D2】不整合状態(牢獄)を認識 →【仮説 CP-H2】慈悲の創発。

Rejected Package Info: [辛苦(ステーキ) + (ソース) + 怒り(塩) + 悲しみ(ナツメグ)] = 価値への止揚。

Conclusion: 経験による自己言及的牢獄。OSのホメオスタシスが進化を阻害。

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