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水面の家

作者: 夏華

ひと月前から、眠りが浅くなった。


 夢の中で水音がする。洗面台の蛇口を閉め忘れたような音。それも一滴、二滴というより、絶えずしとしとと流れつづける音。目覚めたあとも、その気配が耳の奥にまとわりつく。


 今朝もまた、目が覚めてすぐに耳を澄ませてしまった。だが、アパートの中には何の音もなかった。水道も止まっている。トイレも、風呂場も、異常はない。ただの夢にしては、あまりにも——濡れていた。


 首筋に触れたシーツが、わずかに冷たい。枕も、じっとりと湿っていた。





 会社を一週間休んで田舎に行くと伝えたとき、上司はあっさりと「いいリフレッシュになるね」と言った。今朝、荷造りを終えてタクシーを呼んだのは、正しい判断だったと思いたい。あのアパートの水回りには、もう耐えられなかった。


 車窓に映る景色が、少しずつ都会の輪郭を失っていく。田んぼ。雑木林。廃業したガソリンスタンド。

 車のエンジン音にまぎれて、また水音が耳の奥に戻ってくる。


「ずっと、ここにいたじゃないか」


「……?」


 ——誰の声?


 首を振って窓の外を見た。信号もない田舎道の向こう、まだ形の見えない山々のあいだから、懐かしい水の匂いがした。






 午後二時を過ぎて、車はゆるやかな坂道を登りはじめて誰もいない田舎の祖母の家に向かっていた。懐かしさとわずかな吐き気が同時に込み上げてくる。舗装はされているが、木の根に押し上げられたアスファルトはひび割れ、細い道の左右には苔の生えた石垣と、時おり水の流れる溝があった。


 昔はここにバスが通っていたらしい。そんな話を祖母がしていた気がするが、もう誰に確かめることもできない。


 家は、湖の近くにある。というより、湖が家の庭を飲み込んでいる。

 いつの間にか、水位が上がってしまったのだ。


 玄関の前まで来ると、タクシーの運転手は奇妙な沈黙を保ち、代金を受け取るとすぐにUターンして走り去っていった。

 家の中にはもちろん誰もいない。もう十年以上空き家になっているはずなのに、玄関の引き戸は驚くほど軽く開いた。


 土間の匂いが鼻をつく。古いささくれだらけの畳。干からびた線香。戸棚の汚れたガラスには、うっすらと自分の顔が映っている。いや、顔がふたつ——


 視線を逸らした。


 昔の記憶が、まるで泥水のように濁って蘇る。




 この家にいたのは、夏だった。毎年、決まって八月の最終週。

 午前中は山に入り、昼はそうめんを食べ、午後は湖で遊んだ。

 水に入るのが、楽しかったのか、怖かったのか、もうわからない。


 ただ一つだけ、確かに覚えていることがある。

 それは、水面に浮かぶ自分の顔が、笑っていなかったこと。





 二階の部屋を選び、窓を開けた。湿った風が吹き込んで、古いカビのついたカーテンをふわりと膨らませた。眼下には、静かな湖面が広がっている。

 かつては子どもの腰までしかなかった水位が、いまでは庭石をすべて沈めていた。石灯籠の頭だけが、黒い水の中からぽつりと顔を出している。


 あの水の底に、なにがあるのだろう。

 それは昔から考えていたことだった。


 午後の陽は、湖の表面をぬらぬらと照らし、まるで生きている生き物の皮膚のように波打っていた。


 かつて水辺で遊んでいたとき、誰かがいた気がする。

 近所の子どもかもしれない。だが名前も顔も、何ひとつ思い出せない。

 ただ一つ、妙に鮮明に思い出せるのは、自分と同じ顔をした子が水面からのぞいていたこと。


 寝具を干そうと布団を持ち上げると、裏に黒いシミができていた。

 湿気では説明できない、生ぬるい水気。

 窓のそばに置かれた小机の脚元には、水が溜まっていた。まるでどこかで水道が漏れているように。


 だがこの家には、もう水道が通っていないはずだった。

 背筋に汗がにじむ。


「……ただの雨漏りかもしれない」


 そう口に出してみた。だが、声は少し震えていた。

 そしてその直後、水の中から声がした。


「ねえ、覚えてる?」


 反射的に窓の方を見たが、湖には誰もいない。ただ、波ひとつない水面に、自分の顔が——二重に映っていた。





 その夜、電気も水もない家の中で、懐中電灯を頼りに床に寝転がった。布団の下には古い新聞紙を敷いた。湿気が染み上がるのを少しでも防ぐために。けれど、新聞紙はあっという間にじっとりと濡れて、紙同士がぴたりと貼りついた。


 眠れない夜だった。

 虫の声、かすかに軋む柱の音。時折、どこかで水がこぼれるような音が聞こえる。

 キッチンには水道など通っていない。屋根にタンクもない。

 それでも確かに、ぽちゃん、と水が落ちた音がした。


 次の瞬間、ぬるりとした感覚が足の甲を撫でた。

 跳ね起きてライトを足元に向ける。水——。


 いや、床は乾いていた。

 ただ、畳の隙間に細く深い裂け目のようなものが見える。


 その裂け目から、声がした。


「忘れたの?」


 声は幼く、どこか自分に似ていた。

 そのとき、ふと思い出す。





 小さな頃、この家の前の湖で一度、溺れかけたことがある。

 足を取られて、急に水の中に引きずり込まれた。

 周囲の景色が泡に変わり、息ができず、湖の底で、誰かが手を伸ばしていた。


 それは、鏡のように自分と同じ顔。

 水の中の"わたし"が、にやりと笑ってこう言った。


 ——「交代、しよ?」


 あのとき、大人たちはこう言った。「奇跡的に助かった」と。


 けれど、もしかしたら。


 わたしは、あの時入れ替わったのかもしれない。






 朝になっても、空は灰色だった。

 窓を開けると、湖の水位がまた少し上がっていた。庭の敷石はすべて沈み、玄関の三段目の段差まで水が迫っている。


 おかしい。

 昨日より明らかに水位が上がっている。雨は降っていないのに。


 ふと視線を感じて湖面を見ると、誰かが立っていた。


 ——いや、浮いていた。

 黒い影が、まっすぐこちらを見ている。水の上なのに沈まず、音も立てず、ただそこにいる。


 胸が締め付けられるように苦しくなって、思わず玄関を閉めた。だがその刹那、扉の裏側からノックの音が響いた。


 コン、コン。コン、コン……コン……。


 不規則なリズム。まるで、心臓の鼓動が外側から打たれているような音。

 喉の奥が渇いているのに、息を呑んだ瞬間、鼻に水の匂いが入り込んできた。生臭く、底冷えするような、あの匂い。


 慌ててひとつしかない風呂場を確認する。やはり、どこにも水はない。

 だが、浴槽の底にうっすらと足跡がついていた。濡れた誰かの足が、そこに立っていたような跡。


 触れてみると、そこは乾いている。

 なのに、手のひらには水がついていた。


 ふと、背後からぽたりと何かが落ちる音がして、振り返る。

 天井から、一滴の水が、畳の上に落ちていた。

 その水は広がりながら、文字のような形を描いていく。


 「かえして」


 そう、読めた気がした。













 ——何を?






 夕方になると、光が奇妙に滲んで見えた。


 部屋の中は静まり返っている。けれど、どこか遠くから、水遊びをする子どもたちの笑い声が聞こえた。はじめは気のせいかと思った。

 けれど、それは確かに近づいてきていた。


 玄関を開けると、湖が玄関のすぐ下まで来ていた。

 もうそこは「庭」ではなく、「岸」だった。


 裸足のまま、ぬるりとした水の中に足を浸ける。

 温度がない。ぬるくも冷たくもない、ただの重さだけが足首を掴んでいる。


 そのときだった。


 視界がぐにゃりと揺れて、目の前の世界がぐらついた。

 気づけば、自分は子どもの姿になっていた。


 丈の短いTシャツ。膝までのズボン。湿った空気。汗ばむ首筋。

 湖の水辺には、もうひとりの“自分”がいた。

 顔が同じ、背格好も同じ。違うのは、向こうの自分が笑っていることだけだった。


「交代しよう」

 その声に、懐かしさと恐怖が混ざった。


「あのとき代わってあげたよ。

 今度は——あなたの番だよね?」


 言い終わると同時に、水面がざぶりと揺れた。

 向こうの“自分”がこちらに歩み寄る。

 水面を、まるで地面のように踏みしめながら。


 逃げようとする身体は動かない。

 ただ、湖が、身体の底にある何かを呼び覚ましていく。


 ——わたしは、本当にあのとき助かったのか?

 ——それとも、あのまま沈んで、交代されていたのか?


 だとしたら、今までの人生は誰のものだった?


 途端、足元が崩れた。


 湖に引きずり込まれたわけではない。ただ、重力が逆になったように、空と水とが反転した。


 気がつけば、全身が水の中に沈んでいた。苦しくない。息ができる。


 それなのに、なぜか懐かしい匂いがした。

 埃と藻と、濡れた土の匂い。


 視界の向こうに、無数の“顔”が浮かんでいた。

 どれも似ている。どれも自分に似ていて、しかしどれも“自分ではない”。

 それらが声を揃えて、口を動かす。


「ありがとう」

「代わってくれてありがとう」

「ここは、やさしい場所だった」

「もう苦しまなくていいよ」

「おかえりなさい」


 恐怖は、なかった。

 ただ、ひどく長い夢から覚めたような感覚だけがあった。


 そうだ。ずっと、あの時から眠っていたのかもしれない。

 湖の底で。

 静かに、穏やかに、身代わりになったまま。


 だから今度は、戻る番なのだ。

 かつて代わってくれた“誰か”と交代する番なのだ。


 水面の上、揺れる影が見える。

 湖の岸辺に、新しい誰かが立っている。

 あの子は、きっと気づいていない。

 けれど、やがて呼ばれるだろう。


 ぽちゃん。

 静かな音がして、水の中に一滴が落ちた。






 数日後、古い家の前を通りがかった釣り人が、奇妙なことを話していた。

 誰も住んでいないはずの家の二階の窓から、誰かがこちらをじっと見下ろしていたという。


 湖の水は、いつも通り静かだった。

 ただ、朝日が差したそのとき、水面に浮かんだ影がひとつ多かったと——


 そんな噂だけが、静かに波紋のように広がっていった。

















ここまで読んでくれて、ありがとう。


ここまでの話、よくできたホラーだと思った?

それとも愚作?


でも、あなたが今、どこでこれを読んでいるか、ちょっとだけ考えてみてほしい。


夜?静かなお部屋?それとも、お風呂上がりのベッド?


スマホを握った手が少しだけ湿っていたら、背中がじんわりと濡れて服が肌にくっついていたら、それはたぶん汗じゃない。



 水だよ。


この物語の中で、「誰か」が交代した。

じゃあ、その“誰か”は今、どこへ行ったんだろう。


もしかしたら——

あなたの家のどこかに、水を伝って入り込んでいるかもしれない。



 確認してみて?


キッチンの蛇口、ちゃんと閉まってる?


お風呂場の鏡に映る「あなた」、ちゃんと笑ってる?


さっき目が合った気がしても、もう一度見てごらん?


 ……今、まばたきしたのは、どっち?


この話を読んでくれたあなたには、水の気配がまとわりついている。

あなたの家にある「水たまり」や「ぬれたもの」は、全部、向こう側への入り口になる。


 たとえば……


シャワーヘッドから一滴、水が落ちる音。


そのリズムが、心臓の音とずれてきたら、要注意。


そこに、向こう側のあなたが立っている。



これは物語ではなく、「記録」に近い。

かつて“入れ替わった人”たちの痕跡を、こうして物語にしておくことで、今この瞬間も、あなたの背後の“誰か”が、静かにこちらをのぞいている。


もし今、耳の奥に しとしと と水の音がしていたら。

それはもう、始まってる証拠。











 ねえ、あなた。

 交代の時間、覚えてる?


 そろそろ、湖に帰ってくるころじゃない?



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