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鍵の付いた箱

 私達の世界は「そこ」だけではなくて、どこまでも広がっている。宇宙に出て冷たさに疲れたら、宇宙船に戻って休息をする。宇宙服を着こんで再チャレンジしたら、冷たいだけじゃない美しい宇宙の別の側面に感動できる。世界は輝いていて、命は煌めいている。海で生きるべきなのに陸に居続けないよう、陸で生きるべきなのに海を彷徨わないように、迷路は上からは見通せないけれど、扉の鍵はきっと、あなたを愛する人が渡してくれる。あなたにもきっと鍵の付いた箱が訪れる。要るのは鍵を開ける勇気だけ。

 窓際の一番後ろの席で、生物の授業を受けていた。それは茜も憶えている。ただ何故かそこからの記憶が曖昧だった。気付いた時には保健室で、幾何学模様の黄ばんだ天井を見つめていた。「軽い貧血だろう」と言われ、教室に戻ろうとすると、呼吸が速くなり苦しくなる。胸が苦しいからなのかもしれないが、涙が溢れる。心が泣いているように茜には思えた。

 高校二年のクラス替えがあり、二か月が経ち、新しいクラスメートにも慣れてきたところだった。自分の発言に時々グループの皆が無言になることは分かっていた。一生懸命違和感のない雑談を探し、可もなく不可もない身だしなみを心がけてきたつもりだった。

 でも六月のある日、風邪で一日休んで復帰した時に決定的な一打に見舞われた。一昨日まで放課の度に集まり談笑した仲の良いグループの全員が、自分と目を合わせず、話しかけても反応しないのである。原因が分からない、誰にも相談出来ないまま一か月程経ち、茜が学校で発言することはほぼなくなっていた。

 「お母さんがいてくれたらな。」と、黒板上のDNA塩基配列を見ながら、音のない涙を流した。何不自由なく育ててくれる父の明人は、家事に仕事にと懸命で多忙を極めている。多感な年頃の女の子の事情を、話すにはハードルが高かった。明人は厳しい人ではないが、寡黙で素朴で感情の起伏が少ない人だった。忙しい父に迷惑をかけたくない気持ちが先立って、針の筵の様な環境の中で、自身の心の痛みに気付かないふりをした。その傷の鬱積が体の全細胞に満ち満ちて、足が教室に戻ることを拒否している。茜は白いベッドに腰かけた先の足が、震えることで教えてくれる訓示を感じた。大切な自分を守る為に、ここにいてはいけないのだと。

 父には保健室の夏子先生から連絡してもらい、しばらく休みを取ることにした。茜の尋常ではない震えを危機的状況と感じた夏子は、茜の父親に対する説得に尽力した。電話口で夏子と話す明人は呆然自失の様子であったが、夏子の丁寧な説明に段々我を取り戻し、そういえば最近元気がなかったと、それに気づかなかったことを茜に謝った。

 いじめがあったかどうか。何か月も考査されていくのであるが、結論から言って彼女は通信制高校に入るのでそれはもう考えなくて良かった。いや、欠席し始めた当初は、脳内がその色だけに染まっていたかもしれない。だが、その被った濁流の中に居続けなくても良いように、その濁流が重力に反して彼女を再び包み込み溺れさせることがないようにと、交わされた物がある。

 それは分厚い本の形をしていたが、厚紙で出来た箱で、簡易的な南京錠が付いていた。日記など、人に見られたくないものを、保管できる鍵付きの箱である。A4サイズほどで小さくはない。無地のパステル色でピンクだった。

 最初に宅配便を知らせるチャイムに応答したのは茜だった。明人はわざと出なかったかもしれない。茜は連日自室か居間でネットゲームをする毎日だったので、自身を鏡に映すことすら忘れていたから、鳴り続けるチャイムに明人が対応しないことにやや不機嫌になった。

 しかし、受け取った宅配便の差出人に微笑した。大好きな祖母、深雪からであった。

 段ボール箱を開けると、段ボール箱より一回り小さい、鍵付きの箱と手紙が現れた。ピンクの箱に付属する金色の南京錠が可愛らしく揺れていた。箱の表紙部分には、画家である祖母の達筆で、「日報MisshonPossible」と書かれている。白のアクリル絵の具で書かれた字の存在感は圧倒的で、茜の暗闇に一滴の何かが落ちた。一滴は波紋となり広がっていく。

 手紙は汎用的なベージュの縦書きに、水性インクの手書きだった。年賀状以来の祖母の字だ。祖母深雪は、祖父が長く闘病したのに寄り添い、看取り、五年前に東京を離れ北海道の可愛らしいコテージで一人暮らしをしている。四季折々の姿を見せる庭で絵を描く。茜は毎年夏休みを利用して、一人飛行機に乗り、深雪の元へ遊びに行っているので、彼女の凛とした筆さばき、その時大地を踏みしめる仁王立ちの背中の威風堂々を熟知している。今年古希であるが、もっと若々しく見える。白髪が混じった低めのポニーテールは、白馬の尾の様に優美だ。

「茜へ。今、おうちで過ごしていることをお父さんから聞きました。それでね、私は一策講じてみることにしました。あなたに毎日「任務」を与え、日報を返してもらう事です。日報というのは、レストランが一日の売り上げがいくらで、来客数が何人だったとか、その日の天気を報告するようなものよ。茜は毎日、私が送る簡単なミッションをやり遂げ、その成果をメールで、画像やテキストで送って下さい。毎日宅配便や課題の送付メールが届くので(天候不良の配達遅延や体調不良は、後日まとめてこなしまとめて送る事)、毎日鍵を開け、問題や課題をこなすこと。きちんとこなさなければ、今年の北海道旅行はなしになってしまいますよ?これは、お願いではなく、任務ですから、必ず毎日やり遂げること。いいですね?深雪おばあちゃんより」

 封筒には南京錠の鍵が入っていた。親指程のサイズの小さな金色だ。無くさないようにと、狐の頭の付いたキーホルダーがついていた。妙にリアルな質感で、毛の感触も滑らかな頭部は、鍵を守る門番の様である。

 茜は久しぶりにスマートフォンを手から離し、ダイニングテーブルに箱を置いて鍵を開けた。正直なところ勉強はもう面倒だと思っていたが、北海道の旅行は大事だ。今、それの為に生きていると言っても過言ではない程、彼女の支えだった。ホストの祖母の許可がなければ不可能な未来の旅は、鍵を回す大いなる理由だった。

 南京錠を取り、蓋を開けると、無数の枯れ葉が透明な袋に入っていた。その下にB5サイズのイーゼルと、接着剤、アクリル絵の具のセットに大小の真新しい筆が二本である。

 メモに「DAY1 落ち葉を貼り絵の具を用い、森の奥に住む魔女が喜ぶような素晴らしい絵を完成させよ!」

 「えええ…!」茜はてっきり高校二年生にふさわしい問題集が現れると予想していたので、これから自分が取り組む課題に目が点になった。それと同時に、祖母らしさと、最近忘れていた温かい何かを感じたのである。ポリエチレンの袋を開けると、多種多様な枯れ葉の匂いがした。北海道の大地の息吹だ。

 去年の夏に祖母の元を訪れた時の、庭は緑でしかなったが、彼女は芸術家である。秋になれば秋を楽しみ、思い出を残すのだろう。その思い出の御裾分けで、茜は今から自分が、なかったものを在るものに変えていく高揚感に心が躍った。魔女が喜ぶ…というテーマだ。何がいいだろう。クッキーを頬張りながらも味が分からぬ程、想像力を張り巡らせた。彼女の脳内を先ほどまで占めていたクラスメイト達の無表情は霧のように消え去り、林檎とか、カラスとか、ハロウィンのような世界が広がっていた。

 午前中から取り組み六時間程かけて出来た絵は、明人が感嘆の声をあげるほど素晴らしい出来栄えだった。アクリル絵の具でグラデーションの夜空を作り、丁寧に星を一つ一つ表現し、枯れ葉を館や木々に模して貼り付けた。葉の陰影を上手く利用して立体的である。何より、枯れ葉の持つ自然の発色や芳香が、この絵を良い物にしていた。茜は出来上がった絵と共にある充実感に、忘れていた情熱の扉が開くのを感じた。

 祖母に出来た絵を撮って送ると長い沈黙の後「excellent!」という台詞と共に、笑顔のアスキーアートが返ってきた。長い沈黙の間、評価が気になって仕方なかったが、一言だけでも不満はなかった。それは何より、自分という第一の観覧者が、絵を良いと認めていたからだ。きちんと描いた、満足出来た、その心だけで、茜はその夜、長く忘れていた熟睡に身を投じることが出来たのである。

 明日のミッションはどんな絵がテーマだろう、と思い浮かべながら入眠したが、翌日着いた次の任務は全然別の課題だったのである。

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