第六話:事件編―悪役令息、助けられる―
学園の廊下には、ほのかに甘い香が漂っていた。だがその香気は、どこか異様に濃密で、喉の奥を微かにざらつかせるような、不自然な甘さを帯びている。まるで、それだけで発情を促すかのような——。
「また、Ω狙いの刺繍魔法か……誰が、こんな場所に仕込んだ?」
学園の回廊を歩いていたルイ・レインハルトは、静かに眉間に皺を刻み、深いため息とともに呟いた。冷たい眼差しが、廊下の絨毯の端を射抜く。
黒衣の裾がひるがえり、手を軽く翳すと、魔力の波紋が空気に広がる。柔らかな紫光が走り、絨毯の一角がふわりと浮き上がった。
その裏に、魔力で縫い込まれた刺繍魔法が浮かび上がる。
《ᚱᛟᛗᚨᚾᚲᛁᛖᛊ》
淡い青白い光で織られたルーン文字が、滑らかな糸のように這うように並んでいた。特定の対象を呪縛するような、まるで生き物のような輝き。
中心に描かれていたのは、Ωを象徴する古い錬金術記号。細く刻まれた《ᛗᛟᛋᛏᚨᚾᚲᛁᚾᚷ》(発情促進)のルーンが光を帯び、蠢くように脈打っている。
「……これは、魅了系の改造型。対象指定、Ω。発動条件は——」
瞬間、視界がにじんだ。
(……っ、これ、……私が対象……?)
咄嗟に周囲を見回す。誰もいない。それが、今は唯一の救いだった。しかし、魔法の干渉はすでに彼の精神と肉体を蝕み始めていた。
背筋を走る鋭い寒気。眩暈に似た感覚が頭を揺らし、額には冷たい汗が滲む。膝が震え、重力が足元を引きずり込むようだ。股の間が不自然に湿り、身体が熱を持ち始める。
——魅了魔法と、発情促進の複合。悪質極まりない組み合わせ。
(こんな術式、普通の学生には無理だ。恐らく……医療・刺繍魔法工芸科の、それも成績優秀者。Ωを嫌悪してる誰かの仕業)
しかし、論理よりも先に意識が暗転しそうになる。懸命に意識を繋ぎ、自作の抑制魔法を詠唱しようとする。だが、指が震え、魔力の流れが乱れ、制御不能になる。
「くっ……っ!」
そのとき——
「ルイ——!」
風のように駆け込む足音。次の瞬間、甘くやわらかなバニラの香りが、意識の隙間に滑り込んできた。温かな体温が背中から抱きしめるように覆いかぶさる。
「……ギル、ベルト様……?」
思考が霧のように霞む中、ルイはその名を呟いていた。気がつけば、王太子ギルベルト・アスレイルが彼をしっかりと抱きかかえ、その身を守るように広範囲の魔法結界を展開していた。
結界は青白く煌めき、《ᛋᚨᛊᛏᛖᚱ》(遮断)という高位ルーンが空中に瞬いた。ギルベルトの結界が、刺繍魔法の干渉を鋭く断ち切っていく。
ルイの足がふわりと浮く。抱き上げられたのだと理解したのは、自分の顔がギルベルトの広い胸元に埋められていたことに気づいた瞬間だった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ、ルイ。俺がいる」
低く、けれど優しく囁かれたその声に、何かが胸の奥で揺れた。凍りついた心に温かな手を添えられたようだった。
刺繍魔法の効果は、ギルベルトの強力な遮断術式によって無効化されていく。鼓動が徐々に落ち着き、呼吸が戻る。
「……なんで、ここに」
「君の匂いが……強くなった気がしたんだ。だから、学園内を探して……そしたら、君が倒れかけていたから……」
「私は別に……大丈夫……だったのに……」
「嘘をつけ。全然“大丈夫”じゃなかった」
ギルベルトの声が、わずかに震えていた。
それは怒りではなく——焦燥。そして、恐怖に似たものだった。
「君が、あんな魔法にかけられるなんて……っ。俺が、もっと早く気づいていれば……!」
気づけば、ルイは無意識にギルベルトのシャツを握りしめていた。力のこもった指先に、自分でも驚く。熱を宿したギルベルトの体温が伝わってきて、心臓が一際大きく跳ねた。
発情しかけたルイの傍に居れば、ギルベルトも辛いはずだ。なのに――
(……ああ、これは)
濃密なバニラの香りが、また体を熱くする。けれど、その熱はもう恐ろしいものではなかった。むしろ、ギルベルトの匂いに包まれていることに、心から安堵していた。
ギルベルトが助けに来てくれた。名前を呼んでくれた。そのことが——嬉しかった。
(ギルベルト様の腕の中……あったかいな)
その瞬間、ルイははっきりと悟ってしまった。
——自分は雇われの婚約者なのに、この王太子に惹かれ始めている、と。
それも、αだからでも、王族だからでもない。ただ『ギルベルト』という存在そのものに、だ。
◆◆◆
その夕方。
ルイはひとり、魔導制御棟の研究室に戻っていた。照明の魔法灯が静かに揺れ、硝子窓の外は淡い茜色に染まっている。
目の前には、自作の抑制魔法の魔法陣。いつもなら三つ以上の改良案が頭を駆けめぐるはずなのに、今日はまるで集中できない。
浮かぶのは、ギルベルトの手。あの低く優しい声。包み込むような体温——そして。
(……ギルベルト様に、もう一度触れたい)
そんな、らしくもない願いが、ルイの胸の奥を微かに甘く軋ませた。