第五話:事件編―指先が触れるたびに深まる無自覚恋愛―
夏の風が学園の回廊をすり抜けるたび、微かに揺れる空気の層に、淡い魔力の芳香が漂った。白い石畳に残るのは、魔法陣の名残と、誰かの熱を帯びた気配。
「……またか」
回廊に立つルイは、学園の医療室へ運び込まれたΩの生徒を見下ろし、わずかに眉をひそめて呟いた。声音には呆れと苛立ちが混じっている。
生徒の顔は紅潮し、魔力の流れは荒れた波のように乱れきっていた。全身に宿る魔素が焦点を失い、身体の周囲に熱の残滓を帯びている。
「また、発情誘発の刺繍魔法か……。今回も服の裏地に、粗雑な刺繍がされているんだろうな」
「また、Ωを狙った事件か?」
その時、ルイの背後に低く響く声が届いた。自身の教室にいたはずのギルベルトが、いつの間にかそこに居た。
その声に、近くにいた生徒たちが体を震わせる。高位αの持つフェロモン──甘く濃密な芳香が空気を変えたのだ。
「……ギルベルト様、私が調査します。あなたは下手に動かないで」
「なぜ?」
「あなたみたいなフェロモン垂れ流しのαが現れたら、被害者たちが燃え上がってしまいます。発情的な意味で」
「……うっ、それは……否定できない……」
実際、この事件の被害者は全員、αの強いフェロモンに惹かれやすい体質を持つΩだった。
ルイは被害にあった彼らに、抑制魔法を施した。
しかし、ルイが施した“抑制魔法”と、今回Ω達が被害にあった刺繍魔法の組み合わせには、思わぬ“副作用”があって……。
治療を終えた生徒たちの何人かが、こう呟いた。
『悪役顔の彼の抑制魔法……すごく、気持ちよかった……』
──ルイの抑制魔法は、発情を“心地よく”中和する魔力構造を持っていたのだ。
その副作用に苦言を言ったのは、他でもないギルベルトだった。
「ルー。君が抑制魔法を施す必要なんてないだろう。なぜ誰かの依頼があるわけでもないのに、そんなことを……君は、優しすぎる」
夕暮れ時の学園寮。ルイの私室で。
手を洗っていたルイの背中に向かって、ギルベルトは拗ねたような声音で問いかけた。
ルイは濡れた指先をタオルで拭いながら、面倒くさそうに答える。
「優しい?そんなこと言われたことありませんが?知っているでしょう。私が学園内で『守銭奴』の『悪役令息』と呼ばれていることを。──今回のことも、方々に恩を売って、学園から研究費を巻き上げるためですよ」
「そんな魂胆が……でも俺は嫌いじゃないよ、君のそういう計算高いところも、君の悪役顔も」
「……気持ち悪いこと言わないでください」
「照れるなって。ほら、耳、赤くなってるぞ」
ギルベルトがルイの背後からそっと手を伸ばし、赤くなった耳に触れようとした、その瞬間。
ルイがばっと振り返る。
「……触るな」
「触ってほしい?」
「……ちが……っ」
ぴと、と触れたギルベルトの指先に、ルイの魔力が微かに応えた。
二人の魔素がふわりと共鳴し合い、空間に淡い光の粒が生まれる。バニラの甘さとライラックの静謐さが混じり合い、部屋の空気を染めた。
二人の視線が重なる。気づけば、互いの距離はわずか数センチ。
「……また、共鳴か……」
「最近、多いな。少し、指先が触れただけなのに……」
ギルベルトの指先が耳から、ルイの顎の下をなぞるように滑る。唇までの距離は、あとわずか──
「触れたついでに、キスしていいか?」
「ダメに決まってる……!」
そう言ったはずなのに、ルイの背がギルベルトの腕に引き寄せられる。熱を孕んだ吐息が頬を撫で、唇が触れそうで──
「ッ、やめろ……抑制魔法が、切れてしまう……っ!」
ルイの魔力が跳ね、銀の粒子が弾けるように部屋を包み込む。窓ガラスが震える音が、静かな夜に鳴った。
──翌日。
学園の廊下を歩いていたルイが、ふと足を止める。
「ルー。どうした?」
隣に歩いていたギルベルトが振り返る。
教室の扉。その木目に沿って、淡く光る銀糸の刺繍が施されていた。繊細な曲線が魔力を帯びて脈動し、魔導制御科の目にしか見えぬ罠の構成が浮かび上がる。
「……発情誘発の刺繍魔法。私の研究と似てる。でも、これは粗雑だな」
「またΩが標的か?」
「これはΩと言うより……私のフェロモンに反応する設計のようですね」
ルイが解除魔法を放つと、刺繍は淡い光を放って弾け、無音のまま消えた。
──だが次の瞬間、教室の中から悲鳴が上がる。
「Ωの男子が、発情魔法にやられてる!」
ルイが駆け込むと、中にいたのは魔導制御科のΩ生徒。膝をついて喘ぎながら、魔力を暴発させかけていた。
発情を強いられると、多くの者は魔力の制御を失う。
ルイは手早くその生徒に、抑制魔法を掛けた。
ギルベルトは離れた位置で鼻を覆っている。漏れ出るΩのフェロモンに近寄れないようだった。
「……これは、間違いなく私の研究の応用」
ルイの視線が鋭くなる。
「私の研究データが……盗まれた?」
──その夜。
ルイは自室にて、一人で考え事をしていた。今日の事件のことだ。しかし気分転換に外に出ようと、部屋の扉を開けた。その瞬間、そこに立っていたのは──ギルベルトだった。
「今夜は、君の部屋に泊まる」
「は……?」
「君ひとりでは危ない。君が有能なのは知ってるが、誰かが狙ってる。君自身を」
「私を……?」
「君だけが、俺に効く抑制魔法を作れる人だからだ。誰かが、それを盗もうとしてるんだ」
突飛もないことを口にするギルベルトだったが、──その目には、根拠のない言葉を超える真剣さが宿っていた。
ルイは引いてくれそうもないギルベルトに、そっと溜め息を吐く。
「……わかりました。でも、距離はとってください」
「わかってる」
そう言ったはずのギルベルトは、寝床を並べたあと、なぜかルイの指先を握ってきた。
「ちょっと……」
「共鳴したら、すまない。でも俺は、君に触れていたいんだ。でないと、落ち着かない」
囁くような声に、またあのバニラの香りが混ざる。ルイの心臓が、はっきりと跳ねた。
──その夜。二人の間には何も起こらなかった。
けれど、眠りにつくまでのあいだ、二人の手は、ずっと離れなかった。