第四話:回想編―名もなき夜の、救いの手―
一年前。
季節は、新緑の初夏。セレスト王国魔導学園では、長期休暇中の恒例行事――「魔導適応訓練合宿」が、ナイトレイン辺境伯領の訓練施設で催された。
ギルベルト・アスレイル王太子は、戦闘魔法科の代表として参加していた。
完璧な王太子の名にふさわしく、装備は白銀に輝き、軍服姿ですら一枚の絵のように映える。誰もが見惚れるその姿の裏に、ただ一人、本人だけが感じ取る違和感があった。
――合宿地に到着してすぐのこと。宿泊棟で手違いが起こり、Ωとαの配置が乱れていたのだ。
宿泊区画では、Ωたちがどこか落ち着かず、ざわざわとした空気が漂っていた。すれ違いざま、ちらちらとギルベルトを盗み見る視線が熱を帯びている。
(……またか。抑制剤も、抑制魔法も効きづらい体質というだけで……まるで、自分が餌にでもなったみたいだ)
その居心地の悪さを振り払うように名簿に目を走らせたとき、ある見知った名前が目に入った。
――ルイ・レインハルト。
一学年下の魔導制御科の成績トップ。貧乏侯爵家の嫡男で、学園では何かと頼られる便利屋的存在。
だが何より目を引くのは、彼の持つ「悪役顔」だった。妖しくも整った容貌は、まるで悪いことを企んでいそうな雰囲気すら纏っており、よくも悪くも学園内で有名だった。
そのルイ・レインハルトが、なぜか今回の合宿に「補助教官枠」で同行していた。
「……なぜ、あいつが?」
ギルベルトが訝しげに眉をひそめたその瞬間、バニラの香りに紛れるように、ふと鼻先に甘いライラックの香りが届いた。
合宿三日目。
夜の魔力安定性試験を終え、ギルベルトは一人、大浴場へと向かっていた。
広々とした浴場には数人の気配があったが、湯けむりに包まれた空間の静けさに、ようやく肩の力を抜く。温水に体を沈め、目を閉じた――そのとき。
背後から不穏な魔力の波動。
振り返る間もなく、鼻を衝くような甘く粘つく匂いが襲いかかる。
「発情誘導魔法に……フェロモン……!? まさかっ……!」
(Ωに囲まれている――だと!?)
浴場の蒸気の中、意識がふらついた。そのとき――大浴場の蒸気の中、意識を飛ばしかけたギルベルトに、いきなり冷水の魔法弾が飛んできた。
「風呂場で気絶するなんて、変態王太子の称号でも狙ってるんですか?」
その皮肉な声――どこかで聞いた覚えがある。耳に届いた瞬間、ギルベルトの鼻先に、あのライラックの香りがかすめた。
「……ルイ・レインハルト?」
細身の身体にタオル一枚。濡れた前髪の向こうから、鮮やかな緑の瞳が鋭く光を放っていた。
「動かないでください。あなたを襲おうとしたΩたちは眠らせました。でも、あなたのフェロモンがこれ以上拡散すると厄介です。抑制魔法をかけます」
「なぜ君が、こんなところに……?」
「補助教官として雇われていますので。こういう仕事も範疇です」
ルイの声は淡々としていたが、その指先はわずかに震えていた。フェロモンが渦巻く中、彼は冷静に詠唱を開始する。
「《魔なる熱、静まれ。香りの波、沈め》」
静かな声が空間に響くと同時に、青白い魔法陣が空中に浮かび上がる。
ᛗᚨᚾᚨ ᚨᚱᚢ ᚾᛖᛏᛋᚢ ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᚨᚱᛖ. ᚲᚨᛟᚱᛁ ᚾᛟ ᚾᚨᛗᛁ, ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᛖ.
淡く光る指先が、ギルベルトの胸元にそっと触れた。
冷たく、それでいて震えるその指先に、ギルベルトの意識が少しずつクリアになっていく。
(この状況で、抑制魔法を的確に唱えるとは……普通のΩなら、すでに発情して襲ってきてもおかしくないはずなのに)
ルイは眉一つ動かさず、まるで研究者のように、正確に魔力を制御していた。
「……さすが、噂通りだ。君の魔法は、完璧だな」
思わず漏れたその言葉に、ルイは一瞬まばたきをした後、頬をわずかに染め、そっけなく言い放った。
「べ、別に。仕事ですから」
(それだけで済む話じゃないのに――)
その夜、ギルベルトは初めて「誰かの手」を夢に見た。冷たく、それでいて確かに優しい手。仄かに香るライラックの香りと共に。
翌朝、訓練所にて。
「昨晩は助かった。礼を言う」
「……あれは依頼の一環です。報酬は学園から受け取りますので」
「謝礼ありきか……実に君らしいな」
思わず笑みがこぼれる。自分のような高位αに媚びず、群がりもせず、むしろ真正面から冷静に見据えてくるΩなど、これまで出会ったことがなかった。
「なぁ、ルイ」
「なんですか、王太子殿下」
「君のフェロモン……妙に安心する香りがする。例えるなら――そう、ライラックのような」
「は、はあ!?な、何言ってるんですか王太子殿下!発情しかけていたからって、人のフェロモンを気安く嗅がないでください!変態ですか!」
ルイが赤くなり、ぶんと顔を背けた。その反応があまりに新鮮で、ギルベルトは胸の奥にかすかな疼きを感じたことに気づかなかった。
(……安心する、清廉な香り。どうしてこんなに落ち着くんだろう)
彼はまだ知らない。あの夜、夢で見た「誰かの手」が、初めて芽生えた恋の輪郭を持っていたことを。
合宿終了後――
学園の一室。山積みの資料を前に、ルイはぼやいていた。
「……あの合宿以来、なぜか王太子に妙に目をつけられてしまった……。いや、依頼が来るのはありがたいけど。あれ、別に私の手柄ってほどじゃ……いや、助けたけどさ……」
一方その頃、別室で書類を眺めていたギルベルトは、ふと呟いた。
「……あの夢に出てきた香りは、間違いなくルイ・レインハルトだった。俺を救ってくれた、あの手が、香りが……どうも胸に引っ掛かる」
――こうして、ふたりのすれ違う想いは、やがて「契約婚約」へと繋がっていく。
(恋のはじまりを、本人たちはまだ知らない)