第三話:事件編―二人の距離感―
季節は初夏。
セレスト王国魔導学園では、年に一度の《魔導実地演習週間》が幕を開けていた。
ルイたちは王都郊外に広がる訓練林へ赴き、班ごとに魔物討伐や救助訓練に挑むこととなる。
ギルベルト王太子も例外ではなく参加し、ルイはギルベルトに群がるΩ達からギルベルトを護る、“護衛役”として同行することになった。
「……“護衛”って、そんな堂々と。私、一応“婚約者”なのでは?」
「報酬は、上乗せする」
即答するギルベルトに、ルイは深くため息を吐きながらも渋々承諾する。
そして班分けの結果、ギルベルトとルイは二人きりのチームとなった。
「王太子の身元保護のため、同伴は信頼できる者に限る」――学園の配慮だというが、ルイにとっては厄介事でしかない。
演習初日。訓練林の奥深く、青緑の木々が鬱蒼と茂る一帯で、ルイは異常な魔力反応を察知する。
周囲に張られていた結界の一部が、まるで裂かれたかのように歪んでいた。
警戒を強めた瞬間――空間が歪み、禍々しい気配が吹き抜けた。
出現したのは、本来研究用に隔離飼育されているはずの高魔力生物。
それは夜色の霧を纏い、宙に揺らめく幻影の牙をまとっていた。獣の咆哮が木々を震わせ、空気を切り裂くような魔力の波動が広がる。
「っ、ギルベルト様、下がって!」
ルイが咄嗟に張った防御結界が、青白い光の盾となって展開する。
その直後、ギルベルトが無詠唱で攻撃魔法を発動――紫電のごとき雷光が空を裂き、真紅の火焔が閃光となって魔獣へと突き刺さった。
爆発が起こり、あたりの空気が一瞬で灼熱に染まる。大地が揺れ、火花が木々に反射して幾重にも煌めく。
しかし、高魔力生物は幻影を巧みに操り、虚像と実像を幾重にも重ねて二人の視界を攪乱する。
そして、油断を誘った一瞬の隙を突き、鋭い爪がルイの衣服を掠め――
「……ぐっ!」
衝撃で倒れ込むルイを、ギルベルトが素早く抱きとめる。
ギルベルトの双眸に、激情が宿った。
無詠唱の紫電の如き一撃が、巨大な魔獣を一瞬で貫いた。火焔が閃光のように走り、大地はその爆熱で震え、魔獣を包み込む。
ギルベルトとルイ、二人の魔力が共鳴し、辺りに甘い香気が立ち上り――バニラとライラックが混じり合い、官能的な残香を漂わせる。
空気が濃密になり、互いの存在が際立っていく。
「……っ、共鳴!? まずい……!」
ルイの表情が引き攣り、ギルベルトの呼吸が乱れる。彼の魔力が制御を失い、発情反応を起こし始めていた。
即座に、ルイは魔導語で抑制魔法を詠唱する。
「《魔なる熱、静まれ。香りの波、沈め》」
空中に複雑な魔導式が浮かび上がり、淡い青白い光が幾何学模様を描く。
ᛗᚨᚾᚨ ᚨᚱᚢ ᚾᛖᛏᛋᚢ ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᚨᚱᛖ. ᚲᚨᛟᚱᛁ ᚾᛟ ᚾᚨᛗᛁ, ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᛖ.
光を帯びた指先がギルベルトの胸元に触れた瞬間、彼の荒れた息が徐々に落ち着いていく。
「……やっぱり、君の抑制魔法は効くな」
「当たり前です。私が自分のために設計した、効果抜群の抑制魔法ですから」
息が触れ合いそうな距離。互いの体温が交錯し――その時、ルイの衣服の胸元が引き裂かれていることに気づいた。その隙間から、柔らかな肌と、淡い桃色の尖りが覗いている。
ギルベルトの視線が、そこに釘付けになった。
「……ピンク……」
「口に出すなああああ!」
羞恥と怒りに燃えたルイが、ギルベルトを力一杯突き飛ばす。
発情反応により吹き出したフェロモンは、次第に霧散していった。
事件は学院に報告され、討伐班が後処理に到着するまで、降り始めた雨を避けて、二人は森の中にひっそりと建つ避難小屋に身を寄せることとなった。
狭く軋む扉が閉まると、そこはすぐに外界と切り離された小さな密室となる。木の壁に打ちつける雨音、しっとりと湿った衣服が肌に張り付き、互いの体温が空間に溶けてゆく。魔力共鳴の余韻がなお残る空気は、甘く、熱く、息苦しいほどだった。
沈黙が、やや気まずく降り積もる。
「……君、共鳴のとき、全然動じなかったな。俺のフェロモン、かなり凄かっただろう?」
ギルベルトが肩越しに問いかける。冗談めかした声色だが、その奥にはわずかな期待と不安が混じっていた。
「私はΩですが、αとしてや、王族としてのギルベルト様に興味はありませんから。どうこうなりたいとも、思っておりません」
ルイは淡々と、そして鋭く応じた。芯のある声が、小屋の中で静かに響く。
「そうか……やっぱり君は、俺には興味がないのか」
ギルベルトは喜んでいいのか、落ち込むべきか迷うような、複雑な表情を浮かべた。
「いえ、それは少し語弊があります。私はギルベルト様の《無詠唱の攻撃魔法》にはとても興味があります。あれほどの魔力を、詠唱すらなく、瞬時に放てるとは……いったいどれほどの鍛錬を積めば、あんな“閃光”のような一撃が可能になるのか」
ルイの声が、興奮を含んで高まる。
彼の脳裏には、先ほどの戦いが鮮明に焼き付いていた――雷光のように疾く、風の如く鋭い魔力が空間を裂き、巨大な魔獣を一瞬で貫いたあの光景。
炎は奔流のように吹き荒れ、大地はその爆熱で震え、魔獣の咆哮すら呑み込まれていた。まるで神話の一幕のように、ただ美しく、そして恐ろしい力だった。
「はっ?」
ギルベルトが思わず間の抜けた声を洩らす。
「ギルベルト様が常に戦闘魔法科でトップの成績を収めていることは存じ上げていましたが……まさか、これほどとは」
悔しげに唸るルイに、ギルベルトは目を瞬かせる。
「……君は俺の成績がトップなのは、王族だからだとは思わないのか?」
「思いませんよ、そんな馬鹿らしいこと。ギルベルト様は、生まれつき無詠唱で攻撃魔法が使えたわけではないのでしょう?」
問いかけるルイに、ギルベルトは静かに頷く。
「ですよね?ならば、それはギルベルト様の血の滲むような努力の賜物です。努力できる方がトップの成績を取るのは、当然のことです。ちなみに、私が魔導制御科で成績トップなのも、私が“天才”であり、努力を惜しまないからです」
「ふふっ……自分で言うのか?」
「ええ。誰も言わないので、自分で言います」
ルイの真顔に、ギルベルトはあきれたように目を細める。
けれど、その唇の端は嬉しそうにゆるんだ。
「あ~……久々にこんなに笑った」
「そうですか?ギルベルト様は、いつも笑っている印象ですけどね。そこもまた、私が興味を持っている点です。私だったら、あなたのようにΩに迫られたら、笑ってなどいられませんし、とっくに誰かと“事故”で番っているでしょう。その忍耐力、尊敬に値しますよ」
「……誉めてくれているのかな?」
「貶し半分です」
ルイが顔をしかめて返すと、ギルベルトは苦笑しつつ、視線を外さなかった。
「それでも、嬉しいよ。俺が誰とも番わずにいられたのは……周囲の助けがあったからだ。ルイ、君にも助けられてばかりだ。……以前も、合宿で俺を助けてくれたことがあっただろ?覚えているか?」
「……覚えてませんよ、そんなこと」
ルイは視線をそらし、自然とギルベルトと距離を取る。だが、ギルベルトの眼差しは彼を捕らえて離さなかった。
そのとき、ルイの肩がふるりと震えた。裂けた上に湿った衣服の冷たさが肌を刺すのだろう。冷えた空気が小屋の中に滲み込んでいる。
気づいたギルベルトは、黙って自分の乾きつつある上着を脱ぎ、彼の肩にふわりと掛けた。
「君の格好は目に毒だし、濡れた服のままだと冷える。……これを、使ってくれ」
驚いたようにルイは目を見張ったが、断る前にギルベルトの手が柔らかく彼の肩を押し、上着の裾を整えてしまった。
王族のものらしく丁寧に仕立てられたその上着には、ほのかに甘く、温かい香りが染みついている。
――バニラ。けれど、ただの香水や洗剤の香りではない。もっと深く、体温に馴染んで、肌の奥に沁み渡るような甘さ。
それがルイの鼻先をくすぐり、思考の底をゆっくりと蕩けさせていく。
目を伏せ、微かに息を吐く。まるでそれが、自分の皮膚に直接溶け込んでいくような錯覚――理性を侵さぬ程度に心地よい。跳ね除ける口実も、今は見つけられなかった。
(……ギルベルト様のフェロモン……)
はっきりと意識した瞬間、胸が不思議と騒ぎ出した。熱ではない、発情でもない。
けれどそれは、魔力とは異なるかすかな共鳴のようで――静かに、ひたひたと、己の奥に染みていく気がした。
「……ありがとう、ございます」
思わず洩れた言葉は、かすかに震えていた。だがギルベルトは何も言わず、そっと彼の黒髪に目をやると、小さく笑っただけだった。
――事件は、《研究用魔獣の暴走》として処理された。
管理担当者の前で、ルイは冷ややかに笑みを浮かべた。
「王太子殿下に何かあったら、あなた方に責任が取れるとでも?今回、何事もなかったのは、ひとえにギルベルト殿下の勤勉さと、私の勤勉さのおかげです。でなければ死人が出ていましたよ。さて――あなた方はこの件の“落とし前”を、どうつけるつもりですか?」
冷酷で、どこか美しさすら滲む笑みは、悪役令息そのもの。ぞっとするほどの冷気が周囲に漂い、関係者たちは震え上がる。
(((ひぃっ、あれが噂の“悪役令息”……!)))
ただ一人、ギルベルトだけがその姿を楽しげに見つめていた。
「ギルベルト殿下、どうか……彼らをお助けくださいませ……!」
学園長の懇願に、ギルベルトは柔らかな微笑を浮かべる。
「ルイ。その辺にしてやってくれ。……なあに、彼らも王太子とその婚約者を危険に晒した以上、それなりの罰は覚悟しているだろう」
その笑顔があまりに自然で穏やかなぶん、周囲は余計に震え上がった。
(((ひぇ~っ!やぶへびっ!!)))
この事件をきっかけに、ルイとギルベルトの関係に、特に王宮関係者たちが強い興味を抱くようになる。
それもそのはず――二人の魔力が“自然に共鳴”し、さらにギルベルトが“発情しかけた”という報告がなされたからだ。
自然な魔力の共鳴と、それに伴うバース性の発情反応は、“運命の番”など相性極めて良好な関係者同士でしか起こりえない。
ルイ自身は、本来なら王族との深入りを避けたいと考えていた。だが、ギルベルトとの思わぬ魔力の共鳴、繰り返される身体的接触――そのひとつひとつが、彼の心を静かに、しかし確かに波立たせていた。
「……まあ、ギルベルト殿下に“運命の番”が現れれば、私の辺境送りも夢じゃないか」
そう呟いた背後から、ギルベルトの低く落ち着いた声が届く。
「俺は、君の“追放”は当分先だと嬉しいけど」
「……っ、勝手なことを……!」
ルイは咄嗟に言い返すが、ギルベルトのその言葉に、どうしようもなく胸が疼いていた。