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第二話:お世話編─穏やかな(?)日常─

『春の夜会』のあった週末、学園は休日を迎えていた。

 ルイ・レインハルトは、王太子殿下の婚約者として、王宮の奥にある静かな離宮を訪れていた。


 しかし、それはあくまで“表向きの話”である。実際のところ――


「……休日くらい、契約外でもよかったのでは?」


 げんなりとした顔でルイがぼやく。

 その頬には、疲労と諦念がほんのりと滲んでいた。


 ギルベルトは、そんな彼を見て愉しげに唇を弧にし、人差し指を左右に揺らす。まるで、「甘いな」と嗜めるように。


「君が休日に寮や研究室に引きこもっていたら、婚約が疑われるだろう?それに、ここにいる間は王宮の書庫の魔法書が見放題だ。君にとっても、悪い話じゃないと思うけれど?」


「……ぅっ……それは……否定できませんが……で、今日はどんな“お世話”をご所望で?」


 ため息を吐きながらも、ルイは両腕を組み、腰に重心を置いて仁王立ちする。

 その佇まいは、まるで“監査官”――いや、“怒れる小動物”のようで、どこか滑稽だった。


 彼がこの離宮を訪れるのは、婚約者としてというよりも、ギルベルトとの契約に基づく“お世話係”としての役目を果たすためだ。


 ソファに身を預けたギルベルトは、陽の光を浴びて金髪を揺らし、にこやかな微笑を浮かべる。


「髪が跳ねてしまってね。整えてくれると嬉しい。それと……シャツのボタンがうまく留められないんだ」


「……子どもか」


 ぼやきつつも、ルイは卓上に並べられたブラシと魔導整髪液を手に取り、不器用な王太子の身支度を整えるべく動き出す。

 それはもはや婚約者ではなく、忠実なる侍女のような役割だった。


 手際よく髪を整え、整髪液が淡く香る。その指先は冷静で、だがどこか躊躇いが混じっていた。

 やがて、首元のボタンへと指を伸ばした、その時――


 ギルベルトが不意に身を乗り出した。


「わっ!」


 バランスを崩し、ルイの体がそのままギルベルトの膝へと倒れ込む。

 その瞬間、距離が一気に消え、唇と唇が触れ合いそうなほど、顔が近づいた。


 一瞬の沈黙。

 頬に触れるのはギルベルトの吐息。香るのは、濃厚な――バニラ。


「……顔、近いね。わざとか?」


「わざとじゃない。事故です……ッ」


 ムッとした表情でルイが顔を背けるが、耳がほんのり朱に染まっていた。

 ギルベルトはその変化に気づいているのかいないのか、にやりと笑う。


「じゃあ……ラッキーだ」


「……不愉快ですッ」


 素早く距離を取るルイ。その背には、まるで火が点いたような照れ隠しの気配。


 一方、ギルベルトはどこまでも自然体で、むしろ楽しんでいるようだった。

 ルイが眉間に皺を寄せ、ふと鼻を鳴らす。


「しかし、ギルベルト様……バニラアイスを垂れ流したようなフェロモンの香りですね。抑制魔法をかけましょう」


「……垂れ流した、って……それ、不敬な表現じゃない?そんなにひどいか?」


「不快ではありませんが……だからこそ、余計に腹が立ちます」


「君のライラックの香りも、なかなか強いよ?」


「……え?」


 ルイは小さく目を瞬いた。


(ライラックの匂い?……おかしいな、今朝も抑制魔法を掛けてきたはずなのに……)


 Ωに性分化して以来、毎日欠かさずかけている抑制魔法。その効果には絶対の自信があった。

 ギルベルトに匂いを指摘されたのは、これが初めてではないが、他の者に指摘されたことは一度たりともない。


 少しだけ顔を曇らせたルイは、すぐさま魔力を集中させ、指先を光らせる。


 まずは、ギルベルトの胸元にその指先をかざし、彼の香気の高ぶりを鎮めるべく、ルイは小さく息を吸い込んだ。


「《魔なる熱、静まれ。香りの波、沈め》」


 その言葉とともに、空中に青白い光の紋が浮かび上がる。


ᛗᚨᚾᚨ ᚨᚱᚢ ᚾᛖᛏᛋᚢ ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᚨᚱᛖ. ᚲᚨᛟᚱᛁ ᚾᛟ ᚾᚨᛗᛁ, ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᛖ.


 ルーンで刻まれた詠唱が淡い風のように舞い、ギルベルトの胸元へと吸い込まれてゆく。

 青白い光が彼の肌を撫で、熱を沈めるようにゆるやかに広がった。


 続けて、ルイは自らの胸にも手を当て、もう一度、静かに言葉を紡ぐ。


「《我が血に宿る香気よ、鎮まれ。影に沈め》」


ᚹᚨᚷᚨ ᚲᚺᛁ ᚾᛁ ᛃᚨᛞᛟᚱᚢ ᚲᚨᛟᚱᛁ ᛃᛟ, ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᚨᚱᛖ. ᚲᚨᚷᛖ ᚾᛁ ᛋᚺᛁᛉᚢᛗᛖ.


 今度は、指先から静かな金の光が溢れ出し、詠唱のルーンが旋律のように宙を舞う。

 影がすうっと沈むように、己の内に渦巻いていた香気のざわめきが次第に鎮まり、空気は清らかな静寂を取り戻していった。


 魔法が施された瞬間、ギルベルトのバニラの香りは少し薄れたが、完全には消えない。


(やはり……この人、抑制魔法の効きが悪い体質なのだな)


 ルイは心中で小さく嘆息しつつ、自身の魔法の限界を受け入れる。


 その後も、“お世話”の仕事は続いた。魔法具の選定、書類の整理――


 合間には書庫で魔法書を読みながら、新しい魔法をギルベルトと共に試す。

 そのひとときは、思いのほか穏やかで、どこかくすぐったい時間だった。


 だが――そんな穏やかな時間なのに、なぜかギルベルトのシャツのボタンがよく外れた。

 ギルベルトの肌が覗くたび、ルイの動きは一瞬止まる。

 しかも、絶妙なタイミングで扉が開き、侍従の冷ややかな視線がルイに突き刺さるのだ。


 さらには、刺繍魔法の試作品が暴走し、ギルベルトのシャツがうっすらと透けて見えるという事件まで勃発した。


「……ギルベルト様。まさか、いかがわしい魔法を掛けられているのでは?」


「それは困る。助けてくれ」


「……自分がどれだけ手間のかかる存在か、自覚していますか?」


 ルイが呆れ顔で問いかけると、ギルベルトは至極朗らかに微笑んだ。


「だからこそ、君を雇ったんだよ、ルー」


 その軽々しい呼び名に、ルイの眉がぴくりと跳ねる。


「誰がそんなふざけた呼び方を許しましたか?早死にしますよ、王太子殿下」


「ルー、“悪役顔”で睨んでも、怖くないよ」


「やめろッ!!」


 騒がしいやりとりの最中、ふと、ギルベルトの声が落ち着いたトーンを帯びた。


「……やっぱり、君が傍にいると安心する。変だね。さっき掛けてくれた抑制魔法のせいだろうか」


 その言葉に、ルイはすぐには答えられなかった。

 ルイの胸の奥は不思議なざわつきに包まれていた――これは、ただの“契約”のはずなのに。

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