第一話:事件編─仮初めの婚約と、夜会の罠─
「まずは、婚約発表も兼ねて、明日の『春の夜会』に同席してくれ。学園貴族主催の催しだ」
ギルベルトが軽く口にしたその提案に、ルイは眉一つ動かさずに応じた。
(『春の夜会』か。婚約発表の定番の場だな……)
「報酬は上乗せでお願いします。夜会は……退屈なので」
冷静沈着を信条とする王太子ギルベルトであっても、ルイの即物的な交渉姿勢にはわずかに圧倒されたようで、口元が引きつった。
「……さすが、金に忠実だな。では、金貨三十枚を上乗せしよう」
こうして二人は“婚約者”として、貴族子弟が集う夜会に赴くこととなった。
夜会の会場は香の煙がゆらぎ、魔石灯に照らされた金糸のカーテンが揺れる豪奢な空間。そこは当然、王太子に近づこうとするΩたちのフェロモンと視線で溢れていた。
そして、その中にはギルベルトに熱を上げていることで有名な公爵令嬢──ルシアナの姿もあった。
「まあ、王太子殿下。まさかこの方が、噂の……ふふっ、冗談がお好きなのですね?」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべながら、ルイを舐めるように値踏みする。
だが、ルイはルシアナの敵意をたたえた美貌に、あくまで不遜な笑みで応じた。
「冗談ではありません。殿下の番候補、ルイ・レインハルトと申します。以後、お見知りおきを」
堂々たる牽制。空気が一瞬にして緊張を孕む。
婚約発表の挨拶回りを終えた夜会終盤──ルイは立食用の小さな軽食を無造作に口に運びながら、心底退屈そうにため息をついていた。
そのとき、気を利かせたボーイがナフキンを差し出す。
だが、ルイの視線がナフキンに刻まれた微細な光の刺繍に吸い寄せられた。
「……これは刺繍魔法?しかも……発情誘導系……随分と粗悪な作りですね」
ルイは吐き捨てるように呟いた。
控室の扉を閉めるなり、緑の瞳が鋭く細められる。唇は淡く呪文を紡ぎはじめ、その細い指先に銀の魔力が絡みついた。
ナフキンの縁に隠されていた繊細な縫い目をなぞるように、ルイは魔力を流し込む。
すると縫い糸がほどけるようにほどけ、その内に潜ませてあった呪符の断片が、一枚、また一枚と剥がれていった。
――次の瞬間。
ふわり、と控室の空気が震える。淡くきらめく光の粒が舞い、まるで夜空に灯された蛍火のように漂ったかと思えば──
空中に、ルーン文字が浮かび上がった。
ᚷᚨᚾᚷᛖᚱ ᚨᛗᚨᚾᛞᚨ ᛋᛟᚾᚷᚾᛖ
(Ganger Amanda Songne――「発情を促す歌」)
それは柔らかな紫光を放ちながら、一定の間隔で淡く脈動していた。脈打つたびに、ほんのわずかに空気が甘くなる。
けれどもそれは、花の香りのような心地よさではない。
もっと……くどく、粘つくような香気。まるで過剰に熟れた果実のような、不自然な甘さだった。
「お粗末にもほどがあります……構文も稚拙。素人の細工ですか。まったく……」
ルイは半眼でルーンを見上げ、指をひと振りする。
すると銀の閃光が走り、ルーンは光の霧となった。
「……本物の“誘い”っていうのは、もっと繊細で優雅であるべきです」
ぽつりと零れたその言葉に、誰も気づく者はいなかった。
しかし、霧が消え行く瞬間、周囲の空気が鋭く冷えるような変化を見せた。
魔力干渉による空間歪曲── 一種の結界が形成されつつあった。
「最後まで無粋ですね。こんなもので私を陥れられると思ったのですか……甘いッ!」
その声と同時に、術式が弾けるように消えた──だが、完全には防げなかった。
ギルベルトが慌てて駆けつけたときには、ルイは床に膝をつき、額から汗を流しながら術式の解析を続けていた。
「ルイっ!……大丈夫かッ!?」
「私、『悪役令息』ですので。こういう罠は、もう見飽きています」
口調は平静だが、顔色は青白く、冷や汗が伝っている。
──刺繍魔法に仕込まれていた毒素が、わずかとはいえ血中に侵入していたのだ。
「……君が俺の依頼を遂行してくれているなら、俺も君の力になろう」
ギルベルトはそう言って静かに手を差し伸べた。
「まさか、刺繍魔法とは……。夜会に仕掛けるには、あまりに大胆ですね」
ルイはギルベルトの支えを借りながらも、淡々と分析結果を魔力結晶に転写していた。
その視線は冷ややかだが、内心の苛立ちは明白だった。
「ギルベルト様、以前から……こういった、発情を狙う計略が仕掛けられていたのでは?」
「俺は王太子でαだぞ。狙われるのは……日常だ」
「だからといって、公の場で発情誘導などという卑劣な行為が許されるわけではありません。婚約者(仮)までもが、巻き込まれて良い理由にはならない」
ギルベルトがふと黙り込む。
ルイの怒りは、自分が狙われたことに対する怒りのはずだ。
──なのに、なぜかギルベルトを案じるような温度が混ざっているようで、不思議だった。
「……ルイ。君が崩れていたのを見た時、正直、焦ったよ」
「ほう。悪役の私が、そう簡単にやられるとでも?私が、αに比べれば能力が低いΩだからですか?」
「……いや、Ωかどうかは関係ない。君は優秀だ。何でも上手くやれる。……だからこそ、君に何かあったら……困る」
「……なるほど、雇い主の責任感ですか」
皮肉と静けさの混じる空気。
そのなかでルイは、ギルベルトが自分を決して“Ω”という属性だけで扱っていないと、ふと気づいた。
「ではこの事件──依頼として正式に処理します。犯人の特定、術式の解析、今後の護衛強化。すべて追加料金になりますので、よろしくお願いします」
「君のその図太いところ……好きだよ」
「告白なら、契約終了後にしてください」
「告白じゃない。称賛だ」
軽口を交わしながらも、ルイの瞳にはほんの一瞬、かすかな笑みが浮かんだ。
調査の結果、ルシアナ嬢が“発情誘導刺繍”を仕掛けた主犯であることが判明した。
さらに、仕込まれていたのは単なる発情誘導魔法ではなく、ギルベルトとルイの魔力を強制共鳴させ、“拒絶反応”を引き起こす術式であったことも判明した。
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《“拒絶反応”とは》
魔力体質が異なる者同士の魔力が、術式や意図的な干渉によって共鳴・混濁した際に発生する“魔力排斥現象”を指す。
具体的には、共鳴した者同士が近くに居ると、体内の魔力回路が異物を拒み、以下のような症状を引き起こす:
・魔力暴走による頭痛、吐血、意識混濁
・自律神経の破綻
・重篤な場合、魔力障害によって一時的な魔法不全状態に陥る
とくに、αとΩの魔力を対象とする場合、その性質の違いゆえに影響は深刻であり、術式に意図的に細工がされていた場合、最悪の場合“命に関わる”。
この術式は東方バルマール地方に起源を持ち、「花鎖の糸」と呼ばれる魔力糸によって形成される。
……希に、恋仲のαとΩを引き裂くために使われる。
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「こんなにも公然と王太子とその婚約者を狙うなんて……大胆すぎますね。ギルベルト様、愛されてますね。彼女、ヤンデレですか?」
「君の毒舌、本当に俺のメンタルに刺さるな……」
後日、王宮に呼び出されたルイは、魔導監察官たちの前でも一切怯むことなく証言した。
「使用された呪符は東方バルマール産。通称“花鎖の糸”。術式の跡が、彼女を指し示しました」
証拠を揃え、魔法で解析し、冷静に語るその姿は、悪役令息どころか、一流の法魔導士そのものだった。
事件は終息した。
ルシアナ嬢は表向きには「療養」の名目で王都を離れた。
ルイの「報酬」は当然ながら、割増で請求された。
「では、契約続行でよろしいですね?」
「……ああ。君は有能だし、気を使わなくていい。隣に居ると落ち着く」
「皮肉ですか? それとも褒めてます?」
「褒めている。“君は私の盾だ”と、言っておくよ」
その言葉に、ルイは眉をひそめ、そして小さく笑った。
──本気か冗談かはともかく。この王太子、やはり厄介だ。
(早く辺境に引きこもって、魔法研究に専念したいのに……)
そんなことを考えながらも、ルイはポケットに忍ばせた“感情抑制魔法札”を、そっと握りしめた。