8. Name
結果から言うと、千鶴の成果発表会は成功した。
緊張してがたがただったけれど、両親に千鶴自身がヴァイオリンをやりたくてやっているのだということをアピールするのには十分な演奏だった。後から聞いた話では、両親は別にわざわざ千鶴の合奏を聴かなくても、千鶴からもう一度話があれば許可するつもりだったらしい。
(まあ、でもこうやって発表会をやったのは正解だったな)
実を言えば、千鶴自身本当に自分がヴァイオリンをやって続くか、あまり自信がなかった。だからこうして1ヶ月きちんと練習して成果を出せたので、安心して自分の楽器をねだることができる。
夏は千鶴さえよければ別に楽器は買わなくてもいいと言ったが、これから長くやっていく以上、自分の相棒は選びたいという意見は湊太と一緒だった。それに、ヴァイオリンを買ってしまえば後戻りはできない。小さいころのピアノは自分のものを買う前だったのもあったが、高いお金を出して買ってしまえば簡単に投げ出すわけにはいかなくなる。
(逃げ出さないように)
千鶴もほとんど大人だ。だから苦しいことがあっても簡単に逃げてしまわないようにという、自身への戒めの意味も兼ねていた。
部屋の片隅にはついさっき買ってもらったヴァイオリンが置いてある。夏の家で見繕ってもらい、初めての初心者部員ということで普通よりもかなり値引きされた。それでも中身は千鶴がこれから一生使っていくのに問題ないレベルの楽器だという。
「がんばらなきゃ、ね」
メヌエットを弾き終わったからこれで終わりというわけではない。これからが本当のスタートになる。
千鶴は机の上に置いてあった入部届けを大事にかばんにしまいこんだ。
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メヌエットの発表から2日後の月曜日。
室内楽部で一番下手なのは間違いなく初心者の千鶴である。入部届けを朝一番に顧問の机にたたきつけて、まだ学校側で手続きが済んでいないのにもかかわらず、千鶴は部室で朝練を始めた。正直彼女自身も自分の意外な度胸に驚いている。
(まあ、人がいなければ勇気はあるってことなのかな)
部室の鍵は備え付けの暗証番号で開くボックスに入っているので、いつ来ても部室は使える。ちなみに暗証番号はかなり前に教えてもらった。
室内楽部の部室は人数の割には広めで、高価な楽器を保管する場所ということで一応他の部に比べれば厳重な警備が敷かれている。とはいえ、人数でも名声でも劣っている管弦楽部やこれまた人気の吹奏楽部に比べればお粗末なものではあるが。
「あれ、ちーちゃん。早いね」
「あ、湊太先輩おはようございます」
入ってきた湊太にすんなりと挨拶ができたのはうれしいことだった。千鶴は想像以上に室内楽部になじんでいる。それこそ、中学校時代では想像もつかないくらいに。多分この気さくで少し強引な先輩のおかげなのだろう。
「私がこの中で一番下手ですから」
どこか慣れない手つきでケースからヴァイオリンを出しながら千鶴は言った。
「ふーん、偉い偉い」
そう言いながら湊太もまた彼のヴァイオリンを出す。
「どう、マイ楽器は」
「うーん、私はまだ音の違いがわかるほどのレベルでないのでなんともいえないのですが、自分がこれからお付き合いしていく楽器なので、なんかちょっとかわいいです」
「ぷっ」
千鶴の言葉に湊太は吹き出す。
「な、何で笑うんですか!」
突然笑われた千鶴はわけがわからず、恥ずかしくなった。顔が紅潮していくのを感じる。
「や、ちーちゃん早くも立派にヴァイオリニストになったなあと思って」
「ええ!?」
「技術的には一人前というには10年早いけど、何ていうの?振る舞いっていうか気質っていうか……」
「そ、そうなんですか?」
湊太が言うことに心当たりのない千鶴は聞きかえす。
「そうだよ。だってヴァイオリンがかわいいだなんて言うのはヴァイオリニストだけでしょ」
ちなみに話しかけてみたりした?と問いかける湊太に、千鶴は素直にうなずく。
「ほら。これもヴァイオリン弾きの特徴。っていうか弦楽器にはありがちらしいけど、普通は楽器には話しかけないって、管の友達に言われた」
笑いながらヴァイオリンをわが子をかわいがるように撫でる湊太。ちなみに楽器には名前までつけているらしい。千鶴はそこまではやっていなかったので驚いたが、聞けば室内楽部のメンバーのほとんどは楽器に名前をつけてかわいがっているとか。
「ま、これから苦楽を共にするパートナーだ。って言っても俺たちただの趣味でやってるからプロほどじゃないけど。でも毎日顔を合わせるのは変わらないな」
湊太が苦笑した。彼の言い方はまるでヴァイオリンを生き物であるかのように扱っていて、千鶴はどこか変な気分になった。もちろん彼女も自身楽器を購入して1日ではあるが、すでにかわいいわが子と化している。
「ちーちゃんは上手くなるよ、きっと」
「え?」
突然の話題の転換に千鶴は首をかしげた。
「だって俺、こんな始めてすぐにヴァイオリンをかわいがる初心者初めて見た。それだけヴァイオリンが好きなんだね」
そう言われると確かにそうだな、と千鶴は思った。
彼女はヴァイオリンに助けられたと思っている。初めて室内楽の演奏を聴いたときもヴァイオリンの音に導かれたし、入部を決めたときもヴァイオリンを弾いていた、と言えるかはわからないが、とりあえずヴァイオリンと触れ合っていた。
「先輩たちみたいに上手くなれますか?」
千鶴がそう言うと湊太が笑った。
「やだな、俺たちを目標にしちゃだめだって。プロになるつもりはなくても『プロの人くらいになりたいな』くらいの勢いじゃないと」
「でも私から見たら先輩たちもプロみたいです!」
力説する千鶴がおかしかったのか、湊太がくすくすと笑った。
「ありがとう。俺これでも15年近くやってることになるからそういわれるとうれしい」
「15年、ですか」
長いですね、と千鶴。しかし湊太は首を横に振る。
「ぜんぜん。俺はヴァイオリン好きだからぜんぜん長いだなんて思わなかった」
楽しそうな湊太に、千鶴は本当に音楽が好きなんだ、と思った。
「そういえばね、文化祭のときに玄関ホールで四重奏やるんだけど、ちーちゃんも1,2曲出ない?」
湊太が思い出したように聞いた。
緑ヶ丘高校は古い史跡のような城門と塀、それから堀を持っているのとは反対に校舎は最近建て替えられているので新しい。そのためデザインもなかなか現代的で、昇降口は吹き抜けのある広いホールのようになっている。室内楽部は毎年文化祭になるとそこで四重奏を1日に何度か時間を分けてやっているらしい。
「俺はさ、音楽をいろんな人に気軽に楽しんでもらいたいんだ。まあ、部員が少ないからっていうのも実は理由に入ってるんだけど、わざわざコンサートって形にするよりも、通りがかりにちょっと足を止めて聴いてもらう程度がいいと思う」
ホールを借りたりしてコンサートを開くのもいいけれど、それはどこか音楽の本質から外れてしまうような気がする、と彼は言う。
「ありがちな話だけど、『音楽』って音を楽しむって書くじゃん。でもホールとかでやるとどうしても高尚な感じになっちゃって違う世界みたいに感じちゃうと思うんだよね。俺はポップスも好きだけど、やっぱ小さいころからやってるクラシックも好き。だからいろんな人に楽しんでもらいたい。だからロックバンドの路上ライブみたいなの、やりたいんだ」
そう言った湊太の顔はやる気に満ちていて、キラキラと輝いていた。
「ちーちゃんはまだ始めて間もないから、ファーストヴァイオリンは無理だと思うけど、セカンドヴァイオリンで弾きやすい曲を探すから一緒にやろうよ!」
「私でも、大丈夫でしょうか?」
セカンドヴァイオリンは主にハモりのパートになるとはいえ、千鶴はまだ始めて1ヶ月。文化祭まであと1ヶ月とちょっとしかない。千鶴にはそんな状態で、いろんな人の前で弾ける自信がなかった。
「大丈夫だよ!ちーちゃん音程はしっかりしてるし、難しい曲は選ばないから、一緒に楽しもうよ!」
「あ……」
『一緒に楽しもう』
それは魔法の言葉だった。
楽器を上手に演奏しようとするときっと緊張して上手くいかない。でも、音楽を楽しめるのなら失敗してもいいかも、と千鶴は思えるようになった。もちろん曲をぐちゃぐちゃにするのは論外であるが、楽しめる範囲で、気負わずにやるための魔法の言葉。
「はい、ぜひやりたいです!」
「よかった。初心者の子って初めてだから前例がなくて。でもちーちゃんにその気があるのならなんとかしてあげるから任せなさい!」
ぽん、と胸をたたく湊太に千鶴も思わず笑った。
「何がいいかなー。やってみたいのとかある?」
「えっと、よくわからないのでお任せします」
「ふむ、じゃあこっちで候補だけ挙げてみるから、ちーちゃんも決めてね」
「はい」
また忙しくなりそうな予感だったが、千鶴はうれしかった。
――早く上手くなりたい。
左手に持ったヴァイオリンを握り締めて、改めて思ったのだった。