6. Minuet
千鶴の仮の楽器は夏のすばやい行動により、初めて練習した日から数日もせずに届いた。
「すみません、お手数をおかけしてしまって」
「いんや、いいんだよ。親も室内楽に初心者の子が入ったって聞いて喜んでたから」
夏がにっこりと答えた。
「え、でもお忙しいんですよね。本当にありがとうございます」
「んー?忙しくない忙しくない。むしろ暇人」
その反応に千鶴は首をかしげる。プロの音楽家なのに暇人はないだろう。もしそうであるならば、あまりうまくいっていないのかもしれない。
「でも、コンサートをやるときは教えてください!きっと行きますから!」
「コンサート?」
千鶴の言葉に教室が水を打ったかのように静まり返る。
千鶴はあせった。何か言ってはならないことを言ってしまったのだろうか。
「え、ちょっと待って。ウチの親、何してると思ってる?」
夏が尋ねた。千鶴はきょとんとした顔で答える。
「え、あの、プロの音楽家って……」
さっきの反応のせいで自信がなくなってしまった千鶴の言葉はデクレッシェンドでして最後には消えてしまった。湊太が笑いをこらえているのが見える。
「あのね、千鶴ちゃん」
「ぷくくく……」
「ウチの親はそんな大したもんじゃな」
「あっはっはっはははは!!」
「煩いんじゃあ!」
言葉をさえぎって爆笑した湊太に夏の鉄拳が炸裂。ごつんっとまるで石で殴ったかのような音をたてて、湊太はダウンした。その光景があまりに恐ろしかったので千鶴は目をそらして見てしまったものを記憶から抹消した。一撃で高校生男子をダウンさせてしまう部長、恐るべし。
「ウチの親はただの楽器売り。この馬鹿がこの間言ってたプロっていうのは、楽器選びのプロってこと。主に外国製の楽器を輸入して売っているから、少なくとも楽器を見る目は並じゃないはずだよ」
気を取り直してそう言った夏の言葉に、ほかの部員もうなずく。
「私の楽器も先輩の家で買ったの」
香が自慢げにヴァイオリンを掲げる。つややかなあめ色が傾いてきた太陽の光に照らされてきらきらと輝く。きれいな楽器だ、と千鶴は思った。
「無料で貸し出す以上売り物になるようなあまり高いものはだめだったんだけど、これぐらいの方が初心者にはいいと思うって親が言ってたし、この楽器は扱いやすいはず」
ヴァイオリンを机において、ケースを開けた夏が言った。
「さ、これはしばらくちーちゃんが自由に使っていいから、しっかり練習がんばろうね!」
「はい!」
部活のメンバーに慣れてきて、人見知りが姿を隠した千鶴は元気に答えた。と、そこでふとあることに気がついた。
「あの、夏先輩。その『ちーちゃん』っていうのは私、ですか?」
「ああ!」
思い出したようにポンッと手をたたいた彼女は屈託なく笑った。
「いいでしょ、『ちーちゃん』ってナイスネーミング!ちなみに同じ1年の香は『こーちゃん』で、2年の真葵は『まっきー』なの!」
真葵と言われて、2年生のチェロの先輩が小さく手を振る。フルネームは常磐真葵と言うらしい。フルネームついでに真葵が、湊太は中崎湊太で、香は日向菊香とであると教えてくれた。
「あ、そういえば肩当の角度は大丈夫?」
「はい、一応……」
湊太も自分の練習があって、いつも千鶴に付きっ切りというわけには行かない。数日前の初めての練習のときに、楽器を構えたときに肩当の角度を一番最初に合わせた。それ以降は香に教えてもらっていたのだが、初めてのときに駆け足でやったので、数日間やって「やっぱりずれている」ということもありえる、ということでもう一度確認したのだ。
「じゃあそれはいいとして……一番最初にやる曲は何がいい?」
「え?」
「ほら、一番最初に一緒に合わせる曲」
千鶴は1ヶ月間でほかの部員と簡単な合奏をして親に聞かせようと考えている。その曲は何がいいか、と湊太が尋ねている。
「すみません、私クラシックには疎くて何がいいのかわからないので先輩の方で見繕っていただけるとありがたいのですが……」
そう言うと湊太がうーんと考え込んだ。
「ペツォールトのメヌエットト長調なんかどう?」
「メヌエット?」
突然出された曲名に千鶴は頭の上にはてなマークを浮かべる。
「有名な曲で……ちょっと待って」
香がヴァイオリンの調弦をしながら答えた。そのすばやさに千鶴は舌を巻く。
弦楽器は気温や湿度などの条件によって弦がゆるんだりきつくなったり、音程がずれてしまう。だから練習を始める前にはまず糸巻きをまわして音を合わせる。最近では初心者だけでなく一部経験者も自動で音程のずれを測るチューナーという機械を使う人が多いが、香や湊太は耳と複数の弦を同時に弾いたときの和音で合わせてしまう。慣れないうちはなかなか正確に合わせられないが、彼らのような経験者は楽器を構え、音を出しながら片手で調節する。
(かっこいいな……私もできるようになるのかな)
すべての弦の音を合わせるまでに2、30分を要する千鶴からすれば、それは神業のようだった。
と、ふいに香のヴァイオリンが音を紡ぎはじめる。三拍子の軽やかなリズムで聴いたことのあるメロディが零れ落ちた。
ぺツォールト、メヌエットト長調。
このころバッハは1人目の妻を亡くし、知人の音楽家の娘で宮廷歌手であったアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。このメヌエットはそのとき彼女に捧げた音楽帳『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』に収録されたものである。しかし実はこのメヌエットはバッハの友人ペツォールトが作曲したもので、バッハが名前を伏せて書き入れたものであったということが近年判明した。
その後20世紀後半にアメリカのシンガーソングライターのデニー・ランデルとサンディ・リンザーが歌詞をつけ、4拍子に編曲した『ラヴァーズ・コンチェルト』としても人々に親しまれている。
「これなら家にもあるし、がんばればそこそこ形になると思うよ」
「はい!私もこれがいいです。有名で親もよく知っていると思いますし」
こうして、千鶴の始めての曲はメヌエットに決定したわけではあるが、彼女はまだ音階ができない。時間に余裕もないのにまだまだ長い道のりである。
「じゃあ、今日から音階に入ってみよう」
「はい!ってこんなに!?」
音階練習用の楽譜をどっさり手渡され、千鶴が目を白黒させた。
「今はまだ全部できなくてもいいけど、これから全部できるようにしなきゃいけないから、なくさないようにね。あ、あと俺の母親が今週の土曜日に教えに来たいっていうんだけど、都合は大丈夫?」
「え、先輩のお母さんが、ですか?」
もしかして、と千鶴が思っていると、その表情から言いたいことを読み取った湊太がうなずいた。
「そう、俺の家、ヴァイオリン教室。任せてよ、この部に来てくれたからには優待してあげる」
「しっかりかじりついておきなよ、ヴァイオリンのレッスンがタダで受けられるんだから」
湊太に続いて、夏も不敵に笑った。