5. Lesson
ヴァイオリン(弦楽器)経験者以外にはわかりにくい用語が使用されています。
それについては
http://www2.yamaha.co.jp/u/naruhodo/14violin/violin1.html
を参考にしていただけるとわかりやすいかと思われます。
(大変申し訳ないのですが、携帯をご使用の方は見られないかもしれません)
作者の表現力不足をお詫びするとともに、これからしっかりと文章で表現できるように努力しますので、どうか暖かく見守っていただけるとうれしいです。
「1ヶ月で先輩たちと合奏できるようになりたいんです!」
弱気そうな千鶴の口から飛び出した言葉に、部員たちが言葉を失う。そんな中、一番最初に立ち直ったのは湊太だった。
「1ヶ月、か。理由を聞いてみてもいいかな?」
突然の千鶴の言葉の理由を知りたい部員の思いを代表した質問だった。
「私、小さいころにピアノをやろうとしたことがあるんです。でも練習も大変だし、ほかの、ほかの子が怖くて1ヶ月でやめました。両親はそのときのことがあるから反対しているんです」
こんな風に親しくない人の前でべらべらと話すのは初めてだったので、千鶴の心臓はばっくんばっくん派手な音をたてていた。
「もし私が1ヶ月、ちゃんと練習して大丈夫だってことを証明できれば親も反対できません」
ここまで言って、千鶴はふと自分が言っていることはとんでもない無茶なことであることに気がついた。ついさっき、弦楽器は1、2年でもようやく交響曲をギリギリ通せるレベルにしかならないと聞いたばかり、ましてや1ヶ月でまともな演奏ができるはずもない。
そう考えると、頭に血が上って啖呵を切ってしまったことを後悔した。
しかし湊太も夏も面白そうな表情をしている。
「言ったね?」
夏がにやりと笑った。
「は、はい」
千鶴は勢いがすっかり衰えてしまった声で答えた。
湊太が挑戦的な笑みを浮かべる。
「夏、急いで楽器の調達。俺は今日から千鶴ちゃんをみるから」
「はいはい、って何であんたが仕切るってるのさ!部長はわ・た・し!」
そう言うなり夏は携帯をつかんで廊下へ出て行った。
「今日は俺の楽器でいいか。別室行こう。あ、香も一緒に来て!」
湊太は千鶴の手首をつかんで、そのままずるずると廊下へと引っ張った。香と呼ばれた少女もこくん、とうなずいてヴァイオリンケースを持って廊下に出る。
「あ、あの!」
「うん?」
千鶴はやる気に満ちた、楽しそうな表情の湊太に声をかけた。
「自分で言っといてなんなんですけど、本当にできるんでしょうか」
「何言ってるの」
湊太が笑った。
「できなくてもやるんだよ!人間不可能はないって!そのかわり、きっちりしごくよ」
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千鶴のヴァイオリンレッスンはまず構え方の練習から始まった。
今まで体験でヴァイオリンを構えたが、それは簡易的なもので多少の型崩れは許されていた。しかし、実際にこれからヴァイオリンを習うとなった以上、基礎を疎かにするわけにはいかない。
「く、苦しいです……」
ヴァイオリンを構えるとき、手で支えているように思っている人も多いだろう。しかし、実際は肩とあごだけでしっかりと支え、両手を離した状態を維持することが基本である。手はただのおまけで、高い音を出すとき、弦を押さえるために指板を上下に動かすことがある。そのときに自由に動かせなくてはいけない。
「これ、曲によっては30分ずっと一度もおろさないことだってあるんだよ」
「さ、30分!?」
隣で同じようにヴァイオリンを構える香はまだまだ余裕な表情を見せていた。
その視線に気がついた香がくすり、と笑う。
「私は小学校高学年まで5、6年間習ってたから」
香は、本当はもうやめて二度とヴァイオリンを持つつもりはなかったんだけど、と言うと湊太をちらりと見た。その視線に彼はエヘヘ、と笑う。
「だってもったいないでしょ、せっかく弾けるのに」
「オケじゃないからまあいっか、と思って。でも案外ブランクは大きいかも」
弦に弓を乗せて引いた音はこわばっている。とは言っても、初心者の千鶴にはそんなことわかるはずもなく、香の言葉にあいまいにうなずくことしかできなかった。
「さあさあ、キミは自分のことに集中しようねー」
逸れかけた千鶴の意識を自分のヴァイオリンに戻すべく、湊太が声をかけた。
「弓の持ち方はこう。結構特殊だから初心者が一番最初にぶちあたる壁なんだけど、正しい持ち方をマスターしないと変な癖がついちゃって後が大変だからね」
湊太はまず千鶴に親指を中にして右手を握らせた。それをそのまま力を抜いて、ヴァイオリンの弓を手に差し込む。そのときに親指を弓のU字になっている部分にかけて、軽く曲げるように指示した。
「小指に力が入っちゃだめ。小指抜きでも弓を支えられるような状態が正しい持ち方」
千鶴の小指が弓を支えるためにピンと伸びてしまっていることに気がついて、湊太が修正する。
「うん、だいたいそんな感じ。わすれないでね」
次はいよいよ音を出す。
ヴァイオリンの弓を置く位置は指板と駒の間の部分で、指板に近づくほど音は小さくなり、駒に近づくほど大きくなる。初心者にありがちなのは、弾いているうちに弓が指板の上までずれていき、黒く塗装された指板の上に白い松脂の粉がついてしまうこと。ちなみに指板の上を弾くのはルール違反である。
「弓を元から先まで引くときに、弾いている位置が変わらないことがきれいな音を出すコツ」
そう言って湊太は千鶴からヴァイオリンを受け取るとお手本に弓を何往復か引いた。その弓の位置はほとんど変わらない。
「じゃあやってみて」
今度は千鶴がやってみた。
弓の根元から先までしっかり使うことは難しい。何せ弓も慣れない人から見れば結構長く、先まで腕を伸ばせないのだ。
千鶴は一生懸命弓を何往復かさせたが、キリキリといやな音が出る。
「鏡の前でやるといいよ。最初は誰でも位置がずれる。最初から最後まで同じ場所で弾けるようになると入門編は卒業かな」
湊太は軽々とやってみせたが、本当に難しい。彼が言うように、千鶴も弓がだんだんずれていき、気がついた時には指板の上を弾いて、指板はいつの間にか松脂の粉で白くなっていた。
「手首は柔らかく。ほら、よくピアノとかで『指は鋼鉄のように、手首は真綿のように』って言うでしょ、あれと一緒」
隣で見ていた香がアドバイスをする。言われていることはわかっても、それができるのとはまた別物なのである。
「そんなキミにはこれをあげよう!」
困った千鶴をみて、湊太が十円玉を取り出した。
千鶴にヴァイオリンを下ろさせると、弓を平行に構えるように言う。そして弓を持った右手の甲に十円玉を乗せる。いったい何をしようとしているのだろうか。
「この十円玉を落とさないように弓を上下に動かしてみて」
言われたとおりに弓を上下に持ち上げたり下ろしたりする。
十円玉は千鶴が弓を顔の高さに持ち上げるまでに甲高い音を立てて床に落ちた。
「手首を使えば十円玉は落ちない」
湊太は今度は十円玉を香の右手の甲に乗せた。
「すごい!」
香は千鶴がやったのと同じように弓を上下に動かす。十円玉はまるで彼女の手の甲に接着されているかのように、びくりともしない。
「はい、じゃあこれが宿題。弓があれば一番なんだけど、しばらくは弓の代わりに30cmものさしとかでやってもいいんじゃないかな」
「は、はい」
湊太は千鶴に毎日この練習を欠かさずやるように言いつけた。
「さて、今日はこれぐらいでいいかな。しばらくは今日と同じメニューをやるからな」
「ありがとうございました」
湊太は千鶴からヴァイオリンを受け取ると、布で丁寧に拭いていく。
「松脂とか手の脂とかがつくからちゃんと拭かないと楽器が傷むんだ。あと弓も使った後は緩めておかないと毛が伸びちゃうし」
そう言いながら湊太は弓の一番下の部分にあるねじを緩めて、松脂を払い落とす。
演奏中では弓の毛もピンと張られているので白い幅広の紐のように見えるが、実際は1本1本毛でできていて、緩めたときにやっとそれがわかる。ちなみにその毛は切れることもしばしば、長期間毛を変えないとだんだんいい音が出なくなってしまう。
「それが結構高くてねー。俺の家は普通の庶民だから結構大変」
クラシックはセレブの趣味とはよく言うが、本当にお金がかかる。小さいときからヴァイオリンを習う場合には子供用のサイズのヴァイオリンを買わなければいけないし、成長につれてどんどん大きさを変えていかなければならない。ヴァイオリン教室の謝礼も馬鹿にならないし、故障があった場合の修理費だとか維持費もかかる。
「あー、大変大変」
まるで家計のやりくりをする主婦のような物言いに、香がぷっと吹き出した。それにつられて千鶴もくすくすを笑いを漏らす。
「や、冗談じゃないからね!?」
そうやって真面目の表情で言った湊太に、2人の笑いはますますつぼに入っていったのだった。