3. Violin
千鶴の朝は早いわけでも遅いわけでもなく、ごくごく平均的な高校生の起床時間である。しかし、彼女自身、用意が異常に速い。だから気がつけばいつも登校はクラスで一番乗り、教室はがらんとしていた。
本来ならば前日にやり残した宿題、基予習を終わらせたり、特に持ち物制限がないので雑誌を持ち込んで読んでみたり、時には図書館で小説を借りたりと自由な時間を過ごすはずなのだが、この日ばかりはそうはいかなかった。
「ねー、室内楽入ってよー」
「…………」
やたらめったら尻尾を振る犬のように、愛想を振りまき、千鶴の机にまとわりつく先輩が一人。
「ほら、ヴァイオリンもキミに弾いてほしいって!」
彼は手に持ったヴァイオリンケースを持ち上げて千鶴の目の前で揺らした。
「もう、やめてくださいってば!先輩もご自分の用事があるはずでしょう?」
「いや、だから今その用事を……」
「考えさせてくださいって言ったと思いますが」
「だってやっと新しい部員が入りそうだっていうのに、ただ指くわえて待ってるなんて」
千鶴が室内楽部の見学をしてから数日。毎朝のように湊太が教室で待ち伏せ、ヴァイオリンのよさを語りつつ、しきりに入部をせかす。
初めは先輩だと思い、何も言えずにいたが、数日経った今千鶴の人見知りもなぜかこの先輩だけにはどこかへ飛んで行ってしまった。しかし、何を言っても待ち伏せ勧誘をやめる気配はない。新入生部員の話では相当しつこいらしく、その部員もまた毎日のように付きまとわれ、とうとう入部することを決めてしまったとか。
しかし、千鶴にはそんな簡単に折れるわけにはいかない理由があった。
「私、本当にまったく音楽を習ったことがないんです!」
そう、千鶴は本当に学校の授業以外で音楽に触れたことがない。学校の授業でも歌はともかく、楽器の成績はどうにもならないくらいどん底。そもそも人前で発表をすること自体が千鶴には難しいことで、練習でどんなに上手くいっても本番は必ず失敗をする。つまり、極度のあがり症。
「大丈夫だって、ほら、オケにも初心者からの子とかいっぱいいるって言うし」
「大丈夫じゃありません!そういう人も小さいころとかにピアノをやってた人ばっかりじゃないですか」
「ピアノは関係ないよ!今からでも十分間に合うって」
「私、おたまじゃくしは読めません!」
「一ヶ月で読めるようになるさ」
「リズムとかとれません」
「慣れれば大丈夫」
「あがり症です!」
「だったらなおさらやってみればいいじゃん!克服できるよ」
こんなやり取りはすでに何度かあった。
「本当に、ちゃんと答えは出すので!一人で考えさせてください」
千鶴が痺れを切らせてそう言うと、湊太は一瞬面を食らったような表情を見せた。しかしそれもすぐに好戦的な笑顔に覆い隠されていく。何と言うか、表情豊かな人物である。
「なんだ、気づいてたの、俺がキミに付きまとう理由」
「……何日も追いかけられていれば嫌でも理由を考えますよ」
湊太が千鶴も含めて入部の可能性のある新入生に付きまとう理由はおそらく結論が流れてしまうことを恐れてのことだろう。つまり、入部の勧誘を上手く流す「考えてみます」の一言で本当に勧誘に対する返事を先延ばしにして、そのままなかったことにされることを防ぐため。
「……一週間、時間をください。それまでには返事をします」
本気で入部を考えていたわけではなかったが、湊太のあまりの熱心さに千鶴もこれから真面目に考えざるを得なくなった。千鶴一応人並みに道徳をわきまえた人間、このように毎日朝早くから教室に来て、放課後も見学だの体験入部だの誘いに来てくれる彼の誠意に、いい加減な返事は返したくなかった。
とはいえ、ほんの少し気持ちが揺らいだのも事実。
(簡単に折れるわけには行かないけど……私でも楽器ができるようになる?)
それだけではない。もっと重要な、千鶴がずっと追い求めていたもの。
(部活に入れば、文ちゃん以外にもつながりができる)
大人数の部に一人で飛び込むような勇気はないが、好都合にも室内楽部は正式な部員がたった7人しかいない。そのうち3年生が5人、2年生が1人、1年生が1人。これならば千鶴がよほど嫌な人間でない限り、孤立することはない。そうでなくても、この気さくな先輩についていけば何とかなりそうな気がした。
「あの、今日体験に行ってもいいですか?」
だから勇気を出してみた。
案の定、湊太は千鶴の思いがけない発言に目を丸くする。
「もちろん!じゃあ放課後に迎えに来るよ!」
「えっと、お願いします」
わざわざ先輩に迎えに来させるのは申し訳ない気がしたが、1人であの教室に入っていくのも不安だったので、申し出をありがたく受けることにした。
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こういう用事がある日に限って時間の流れが速い。
1日の授業の疲れがたまり、集中力が切れ始める6時間目。今度は数学でなく、現代社会であったがこれまた眠気を誘うような授業で、千鶴の思考もどこか遠くへ飛んでいく。
そういえば、小さいころに一度だけ音楽を始めてみようとしたことがあった。
自分の子供にピアノを習わせることはどこにでもあるようなことだったが、千鶴にとってはかなりの苦痛だった。
なぜなら、ピアノ教室に行く際にどうしても知らない人に会ってしまうからだ。小さいころの千鶴は今の何倍も人見知りで、それこそ内気で根暗な子だった。小学校では担任がうまく対応してくれたので、中学校までに『人見知り』としてありえる範囲まで改善されたが、当時の千鶴は4歳。普通ならば元気に友達を作っている年頃だが、なぜか千鶴は1人遊びが好きで、ほかの子供を怖がったと親が言っていた。
(初めてのピアノ教室で男の子に「気持ち悪い」って言われたんだっけ)
4歳の子供には『暗い』だとかの感覚はなくとも、やはりどこかじめじめとした千鶴の雰囲気を感じ取ったのだろう。
その後しばらく両親に半ば強引にピアノ教室に通わされていたが、発表会があると知って、千鶴はどうにも我慢できなくなってしまった。それを見かねた両親は仕方がないとばかりに、ピアノをやめさせたのだった。
ちなみに習っていた期間はほんの1ヶ月ほど。今となってはまったく何の知識も音楽感覚もない。
今更、なのかもしれないが、もしかするとまだ間に合うのかもしれない。
湊太は授業が終わって数分しないうちに千鶴の教室を訪ねてきた。もちろん、鼻歌を歌いだしそうな好機嫌で。
「あのさ、神谷ちゃんはヴァイオリン弾いたことある?」
「ただ弓を弦に乗せて引いたことがあるのかとお聞きになっているのなら、ありますが」
千鶴は湊太に管弦楽部でほとんどの楽器を体験させてもらったことを話した。
「へえ、じゃあ構え方ってちょっとでも印象に残ってたりする?」
ヴァイオリンの構え方は初心者には難しい。苦労した記憶ばかり残っていた。
そんな彼女に湊太はすでに準備ができていたほかの3年生の楽器を借りて、自由に構えさせた。
もちろん1回しかヴァイオリンを構えたことがない千鶴が正確にできるはずもなく、途中で湊太に修正を入れられつつ、なんとか見た目だけを整えた。
「ふむふむ、いいんじゃない?これで写真撮ったらほとんどの人はキミが初心者だとは思わないだろうな」
前回よりは楽だと、千鶴は思った。
「へえ、初めての割にはいい姿勢」
ほかの先輩もほめるので、千鶴は嬉しさ半分照れくささ半分に、あいまいに微笑んだ。
「じゃあキラキラ星を弾いてみよう」
ヴァイオリンでの一番簡単なキラキラ星ラから始まるもの、つまり4本弦のうちの2番目に高い音の弦、A線の開放弦で始まる。ちなみに開放弦というのは弦を何も抑えない状態で鳴らす、つまり弦そのものの持つ固有振動で鳴らす方法である。
「そう、あれ、神谷ちゃん上手いよ」
普通初心者は弓を過剰に弦に押し付けるので「ギギー」と嫌な音が出てしまったり、変な風に動かすので「キィー」となったりするのだが、千鶴は割とクリアな音を響かせた。
「彼女、楽器初めてだからかもよ」
数日前に初めて室内楽部を訪れたときに相手してくれた女の先輩が言った。
彼女が言うには、かならずしもそうとは限らないものの、どちらかというと楽器の経験がまったくない方が変な癖がない、いい音を出せるようになることが多いらしい。
「んー、じゃあ次はミね。今度はE線の開放弦」
湊太が言うとおりに千鶴は弓を傾けてヴァイオリンの4本の弦でもっとも高い音を出すE線を弾く。
「その調子。次はファ。人差し指でシールが貼ってあるところを強めに押さえて弾いてみて」
多分初心者新入部員の体験のために指板(弦を押さえる場所。たいていは黒く塗装されている)貼ったのであろう、白いシールを押さえる。そのときに強めに押さえるのがコツだと、女の先輩が言った。
「あっれえ、なんか上手いよね。もしかしてオケの体験のときにやっちゃった?」
どことなく初めて弦を押されるようには見えない千鶴の様子に湊太が尋ねた。
「はい、実はキラキラ星は何度か練習させてくれました」
「あっちゃー、じゃあこのレクチャーは無駄だったわけだ」
大げさに額を押さえる湊太に、ほかの先輩がくすくすと笑う。
「あ!いいこと思いついた!」
なにか悪戯を思いついた子供のように、目を輝かせた湊太は、千鶴にそのまま楽器を構えているように言う。そしてすぐに自分のヴァイオリンを用意する。
「じゃあ言うとおりに弾いてみて」
彼はそう言うなり指の押さえ方と音程を口で言い始めた。
千鶴は幸いにも記憶力がある方だったので、言われた音程である程度はどのように押さえるべきか判断することができた。それを何度か繰り返す。ちなみに言われた音はたったの8つ。
「よし、じゃあそれをその順番で1拍ずつのばしててね」
隣の女の先輩も最初は彼が何をやり始めたのかわからない様子でみていたが、千鶴が弾く8つの音に記憶があるらしく、にやりと笑った。そして手をたたいて拍をとり始める。
千鶴は言われたとおりに弾いた。最初は1人だったので、緊張して手が震え、音も外してなんだかわからない情けない音楽になってしまったが、湊太がすぐにあわせてくると少しよくなった。
「あ……」
ファ、ミ、レ、ド、シ、ラ、シ、ド……
すべて1拍ずつ。聴いたことのあるメロディ。
パッフェルベルのカノン。
用意ができていたほかの部員もひとり、またひとりと音楽に参加していく。
もともとカノンとは輪唱のことで、この有名なカノンもまた3本のヴァイオリンが何小節かずれて次々に入ってくるという構造になっている。ヴィオラとチェロはもっぱら同じフレーズを延々と弾きつづける、ある意味退屈な曲。
実際に千鶴が弾いているのはチェロのパートだった。オクターブ違いの音でチェロと重なったのでわかったのだが、千鶴には衝撃の体験だった。
重なり合い、混ざりあってひとつの音楽を作り上げる。千鶴とほかのメンバーの音が溶け合って、支えあって、ひとつの布を織り上げるように、皆が音を紡いでいく。
これが、合奏。
「どう、いいでしょ」
いつの間にか曲は終わっていた。
千鶴の奏でた音楽はあまりにもお粗末すぎて、音楽というよりはむしろただの音だったが、ほかの人の音と重なり合ったそれは、正真正銘の音楽だった。
「はい……」
構えを解いて、手に持ったヴァイオリンはさっきよりも手になじんでいるような気がした。
すみません、作者はヴァイオリンの教育だとかそういうのはまったく素人です。
そもそも弦楽器自体ほぼ素人なので間違っている部分が多くあるかと思われます。
「あれ、ここは!」とお気づきの方がいらっしゃいましたら、こっそり教えていただけると嬉しいです。
ヴァイオリンでチェロのパートだとか、千鶴は初めてにしてはおかしいだとかというのはフィクションということで大目に見ていただけると嬉しいです^^;