1. Orchestra Club
高校生活が始まって、あっという間に1週間が経ってしまった。
今のところ特に困ったことはなく、千鶴は新しい友達――桜田文と行動をともにしている。
「おはよう、千鶴!」
「お、おはよう、文ちゃん」
何気ない朝の挨拶も、千鶴にとってはずっとあこがれているものだった。
中学校時代はこんな風に親しげな挨拶なんてしたことがない。一応挨拶はしていたが、せいぜい『おはようございます』と形式だけのよそよそしいものに過ぎなかった。
「数学の予習、やった?」
文が尋ねた。
「う、うん。一応やってきたけど、難しくてよくわからなかった」
緑ヶ崎高校では宿題のようなものはほとんど出されない。その代わりに『予習』という名目の宿題があり、やるやらないは個人の判断に任されるが、授業中に抜き打ちで当てられ、黒板で問題を解いたりさせられることがあるのでやらないと万が一のときに困ってしまう。ちなみに当たる順番は本当に抜き打ちらしく、ランダム。
「だよねえ。あーどうしよ、当たったら」
高校に入ってから1週間ではまだクラスメイトの様子がつかめない。皆自分より頭がよさそうに見えて、いざというときに恥をかくのは嫌だ、と文は言っていた。もちろん千鶴も馬鹿だと思われて見下されるのはごめんであるため、一生懸命予習をする。
「文、私が教えようかあ?」
「え、マジ!?っていうかあんたすごくない!?」
近くにいた女子生徒が文に話しかけた。
桜田文という人物は非常に気さくで人懐っこい性格をしている。だから1週間のうちにクラスのほとんどの女子と、半分以上の男子を会話をし、メールアドレスを交換しているという。
千鶴は相変わらずの性格で、なかなか自分からは話しかけることができずに、友達は文1人。
「実はさあ、私3年にお姉ちゃんがいるんだ。だから教えてもらったの!」
楽しそうに文と会話をするのは確か久遠ゆか。色素の薄いセミロングのストレートヘアーとぱっちりした目がチャーミングな子である。
「あ、よかったら神谷さんもどう?」
「え、あ、は、はい!」
突然自分に話を振られて、千鶴は思わずどもってしまった。
「ありがとうございます」
「いいえ」
よかった。そう思いながら千鶴はありがたく数学の問題の解答を自分のノートに写していく。久遠のノートはかなり美しい。いや、彼女だけに限らず、緑ヶ崎の生徒のノートは男女限らずにかなりきれいなのだと文が言っていたのを思い出した。
「あの、助かりました」
写し終えて久遠に手渡すと、にこりと微笑まれた。
ああ、ようやく自分は念願だった学校生活を手に入れたのだ、と千鶴は幸せをかみしめる。仲のいい友達と挨拶を交わし、できなかった宿題をお互いに写しあう。中学校では考えられないような生活だった。
「で、だ。あんたは結局どうするの」
何を、とは言わずとも文の言うことはわかっていた。
「まだ、決めてない。私楽器も絵もできないし、運動もだめだし……やるなら茶道とか写真とか不定期活動のところかなあ、って思ってるんだけど」
しかし、やはり一人で知らない人の中にはいっていくのは不安。いっそ何も入らないでいてもいいのかも、と千鶴は思い始めている。
「そっかー、茶道ねえ」
そういうなり文は黙ってしまった。
「あ、文ちゃんはやっぱり管弦楽?」
「うん?」
沈黙がいやだったので今度は自分から話しかけてみる。
「うん、ちょうどヴィオラ人不足らしいし」
早速入部届けを書いたという彼女はきらきらと輝くような表情をしていた。
「でも初心者でも大歓迎だってさ。どう?ヴァイオリンでも」
「ええっ!ヴァイオリン……?」
聞いた話ではものすごく難しいらしい。何せまともな音が出るようになるまで気が遠くなるような時間がかかるとか。一般的にピアノが一番難しい楽器だと言われているようだが、ヴァイオリンにはそれとはまた違うタイプの難しさがある。
「でも初心者から始める人もたくさんいるって先輩が言ってたよ」
表情をこわばらせる千鶴に文はそうだなあ、と考え込む。
「じゃあ管はどう?管なら専門に習ってた人もいないし、大半は中学校からで、高校からの初心者もすぐに上達するし。フルートなんか千鶴に合ってそう」
「そ、そうだなあ」
いまいちいい返事を返せない千鶴に痺れを切らしたのか、文がぽんっと手をたたく。
「今日一緒に見学に行こうよ!楽器体験させてくれるよ」
-
そういうわけで放課後。
管弦楽部は緑ヶ崎高校の音楽系の部活内でもっとも大人数を抱える部である。そのため練習に使用する教室の数もかなり多く、楽器別に分かれていて複雑。
「こんにちはー!」
元気よく挨拶しつついくつかの教室を案内する文の背後でおどおどしながら千鶴は見学していた。
「文ちゃんのクラスの子?」
「はい、見学に連れてきました」
「あれ、じゃあなんかの楽器の経験者とか?」
「いえ。初心者です」
先輩らしき人物と文がそんな会話を交わすのを横目で見つつ、練習風景をぼうっと眺める。
この教室はどうやら小型の弦楽器――ヴァイオリンと中にヴィオラもいるのだろうか――の練習場所らしい。部員一人一人が譜面台の楽譜を熱心に弾きこんでいる。
「何か楽器の希望は?」
「へ!?」
突然話しかけられ、千鶴は文字の通り飛び上がる。
「弦は自信ないみたいなので管なんかどうかな、って思ったんですけど」
答えない千鶴の代わりに文が口を開く。
「そっか。でもせっかくだからヴァイオリンとかヴィオラの体験もしてみようか」
にっこりと笑い、先輩が近くの部員に声をかける。話の途中で部員がちらちらとこちらを見てきたので、千鶴は思わず縮こまった。
「名前は?」
「は、はい!神谷千鶴です!」
「オッケ、千鶴ちゃん」
「ははははい!!」
緊張でがちがちの千鶴を見て、ヴァイオリンを持った部員が苦笑する。
「そんな緊張しなくても、私も1年生。おととい入部したて」
「そ、そうなんですか」
その言葉に千鶴は少し安心する。
「じゃあこの楽器をこうやって肩に乗せてあごで挟んでみて」
ヴァイオリンを手渡され、千鶴は言われるままにあごに挟んだ。
「あ、そうじゃなくって……頭は寝かせちゃだめ」
うまく固定できないので少し頭を斜めにすると、部員の少女が注意した。
テレビで見るヴァイオリン奏者は頭を寝かせるように弾いているのを覚えていたが、どうやらそれは違うらしい。
「ああいうのは見た目っていうか……パフォーマンスみたいなもので、初心者はきっちり基本の通りにやらないと後で変な癖がついちゃうから」
そういって、彼女は丁寧に指導をしてくれた。
-
あれだけの楽器を一度に体験しつくすことができるはずもなく、ヴァイオリンとヴィオラを体験した千鶴は文とヴァイオリンの部員の少女に誘われるままに一緒に下校する。
「千鶴、上手いんじゃない?本当に何にも楽器やったことないの?」
「うん、本当にやってない」
「やっぱ文もそう思う?あのさ、千鶴ちゃん絶対弦やった方がいいって!」
文とヴァイオリンの少女からおだてられ、千鶴は少し嬉しくなる。だけど、自分ではどうも上手だとは思えなかった。千鶴の感覚では、上手く挟めないヴァイオリンを無理やり肩に乗せ、あとはなんとか手で支えつつ、なれない弓をぎこぎこ。
経験者たちの中であの悲惨な音を響かせたことはかなり恥ずかしかった。やはり弦楽器は難しい。
「あ、そういえば駅前にクレープ屋さんがあるの、知ってる?」
「え!うそ、知らなかった」
「これから3人で行かない!?私前から行ってみたかったの」
文が思い出したように提案する。
「行く行く!やっぱ部活の後は甘いものに限りますなあ」
「私もいっくーー!」
「うわ、久遠」
ヴァイオリンの少女はノリノリだった。
どこから現れたのか、久遠も返事をする。
「千鶴は?」
「あ……」
千鶴の家は厳しい。
両親の高校はお堅い都会の名門校で、金持ちの子女も数多く通っていたらしい。そんな学校に通う生徒が放課後に寄り道などするはずもなく、千鶴の両親もまたドラマで寄り道をする高校生を見ると「理解できない」と言っていた。もちろん子供だけで買い物などもってのほか、千鶴は小さいころからお小遣いすらもらったことがない。
「ご、ごめん。私は行けないや」
「そう?じゃあまた今度」
残念そうに文が言う。
「行こ、文」
「うん。じゃあ、また明日ね、千鶴!」
千鶴は遠ざかっていく3人を見送った。
(いいなあ。私も行きたかった)
「ねえ、あの千鶴って子、なんか付き合いづらくない?」
「そうだよねえ、私もそれ思った!なんか丁寧すぎてこっちが申し訳なくなっちゃう」
「そうそう!なんか怯えられてる?っていうか」
もちろん、久遠とヴァイオリンの少女がそんな話で盛り上がっていたことは千鶴の知ることではなかった。
文は何も言わなかった。その代わり、ヴァイオリン少女に話を振る。
「それより次の発表会の曲決まった?」
「うげ、その話だと私が入れない!」
――高校生活はまだ始まったばかり。